296 の長い交際は、何かこのような成果なしには、無事にすごさ れないものである。私は、長いあいだ年月と交際している人 おくりもの 第三十七章子供と父親の相似について たちに年月がもたらす多くの贈物のなかから、年月が私にと ってもう少し受けいれやすいものを選んでくれたらよかった のにと思う。なぜなら、年月は、私が子供のときから最も恐 (d) かくも種々雑多な断片のこの東は、私が退屈でどうに もしようがないときにしか手をつけないし、自宅以外のとこれていたものを、何もことさら私のために選んでくれなくて ろでは手をつけない、というようなしかたで作られたものでもよさそうなものだからである。これこそは、まさに、老年 ある。したがって、これはさまざまな休止や間隔をおいて出のあらゆる出来事のうちで、私が最も恐れていたものであっ 来あがったものである。いろいろな機会が、ときには何カ月 た。私はいくたびか自分でひそかにこう考えた。「私はあま も、私をほかのことにびきとどめる。そればかりでなく、私 りに先まで来すぎた。こんな長い道中をしていると、しまい には何か不快な出来事にまきこまれるにちがいない。」かね は、最初の考えを第二の考えによって訂正するようなことを くつかの語を訂正することはあてから私は十分感じてもいたし、ロにも出していた。「もう しない。 ( ) たしかに、い るかも知れない。けれども、それは多様にするためであつ出発の時が来ている。外科医が四肢のどれかを切断しなけれ て、除くためではない。 ( ) 私は、私の気分の経過を示し ばならないときの原則にしたがって、生命も、元気で健康な たい。そして、おのおのの部分をその誕生において見てもら うちに切断しなければならない。 (o) 頃を見はからって生 いたい。もっと早く始めていたならば、そして私の変化のあ命を返上しない者には、自然はひどい高利を支払わせるのが とを見ることができたならば、面白かっただろうと思う。私つねである。」 (<) けれども、それは空しい口上であった。 したく のロ述を筆記する役目をしていた一人の召使は、このなかか 私は、そのときの支度ができているどころか、むしろ、この ぶんどり ら好き勝手に選んだ幾つかの断章を盗んで、大きな分捕をし不快な状態に置かれて十八カ月かそこらのあいだに、すでに たつもりでいた。彼もそれでたいして得をしないであろう これと慣れあうことをお・ほえてしまった。私はすでに疝痛の が、私もたいして損をしない。そう思って、私は自分を慰め生活と妥協している。私はそこに、私の慰めになるもの、希 ている。 望の種になるものを見いだしている。それほどまでに、人間 たんでき 私は、私が書き始めてから、七つか八つ、年をとった。そはその悲惨な存在に耽溺してしまうものである。どんなに辛 のあいだに、新しいいくらかの獲物がなかったわけではな い状態でも、そこで生きながらえるために、人間にとって受 せんつう こんい い。私はこの年月のおかげで、疝痛と懇意になった。年月とけいれられないような状態はない。
かる罪なき行為もいっそう完全に申し分なくおこなわれたで事情はたえず流転し変化する。私は自分の一生のうちでいく あろうと判断するからであり、われわれも同じようにおこな たびか重大な失敗にぶつかったが、それは私がよい考えを欠 いたいと思うであろうからである。私がいま老年になって私 いたからではなく、幸運を欠いたからである。われわれの取 の若いときのふるまいを反省してみるとき、私は、自分がおり扱う事物には、、 しろいろ秘密の、予見されえない部分があ およそ自分なりに秩序をもって身を処したと思う。それは私 る。ことに、人間の本性のうちには、暗黙の、表面に現われ の抵抗がなしうるすべてである。自慢するわけではないが、 ない状態、ときにはその本人にさえも知られない状態があっ 同じような事情にあうならば、私はいつでもそうするであろて、これが突然の機会に出現し、めざめる。私の知恵がそれ う。私を染めているのは、しみではなくて、むしろ全般的なを洞察し予見することができなかったときにも、私はそのこ 染色である。私は表面的な、いい加減な、儀礼的な後悔を知とに関して私の知恵を不満に思うことはない。知恵の役目は らない。真の後悔は、私がそれを後悔と呼ぶまえに、あらゆその限界のなかにとどまっている。出来事が私を打ち負かし る面で私を責めるものでなければならない。それは、神が私たのである。 (=) もし出来事が、私の拒否した決心の方に を見るのと同じように深く全面的に、私の内臓をかきむしり 幸いするならば、救いようがない。私は私自身を非難しな 苦しめるものでなければならない。 い。私は、私の運を責めるが、私のしわざを責めはしない。 これは後悔と呼ばれるものではない。 仕事に関しては、私はやりかたがうまくないので、多くの 幸運を取り逃がした。それにしても、私の思慮は、そのとき フォキオンはアテナイ人たちに或る勧告を与えたが、この そのときの事情に応じて、適切な選びかたをした。私の思慮勧告は聞きいれられなかった。それにもかかわらず、事態 の特徴は、いつでも、最も容易で確実な方を選ぶということ は、彼の意見に反して、かえって繁栄に向かった。或る人が である。私は、私の過去の思案においては、われながら、自彼に言った。「どうだ、フォキオン、君は事態がこんなにう 分の規則にしたがって、そのときそのときの事態に賢明に対まく運んで満足しているか ? フォキオンは答えた。「こう 処してきたつもりである。いまから千年たった後にも、私なったことについては、私も満足している。けれども、私 は、ああいう勧告をしたことについて後悔してはいない。」 は、同じような機会には同じようにするであろう。私は事態 がいまどうであるかを言っているのでなく、私がそれにつし 私は、友人たちから意見を求められると、自由に、はっきり て考慮をめぐらしていたときに事態がどうであったかを言っ 言ってやる。私は、世間の人々が誰でもするように、「事態 ているのである。 はあぶないものであるから、私の考えとは反対になるかも知 @) あらゆる思慮の力は、時を得るか否かにある。機会やれない。そうなると、人々は私が意見を述べたことについて
無学だからといって、一物まで役に立たないことがあろう (<) われわれをわれわれの行為や行動によって評価するな デこ八の一七 ) らば、学者たちのあいだにおけるよりも、むしろ無学な人た ちのあいだに、い っそう多くのすぐれた者が見いだされるで また、恥辱と貧困があまり苦にならない、などと思 0 た人があろう。それは、あらゆる種類の徳においてすぐれた者とい あるだろうか ? う意味である。私からみると、学問が栄えてみずから減亡し しっそう大き たローマにおけるよりも、古代ローマの方に、、 あなたはおそらく病気や老衰をまぬがれるでしよう。悲しみ な価値があったように思う。爾余の点ではすべて同じである や憂いを知らすにすむでしよう。そして長寿と好運にめぐま にしても、少なくとも、正直と潔白とは、古代ローマの側に れるでしよう。 あるといえよう。なぜなら、この二つは、単純さと不思議に よく合致するからである。 現代においても、私は、大学の学長たちよりもいっそう賢明 けれども、この議論はこれくらいにしておこう。というの で幸福な何百という職人や百姓たちに会ったが、私も彼らに も、この議論は私のたどろうと思うよりももっと遠くまで、 こと あやかりたいと思う。学問は、私の考えでは、人生に必要な 私を引きずっていきそうだからである。ただ、もう一言、 もろもろの事物のあいだで、たとえば、名誉、家柄、高位、 「正しい人間をつくるのは、謙虚と服従のみである」と私は ( ) あるいはたかだか美貌、富、 ( ) その他なるほど人生 に役立つが、ただ遠くから、本性によ 0 てよりもむしろ想像言「ておきたい。各人の義務の認識を、各人の判断にまかせ によ「て役立つようないろいろな特性と、同じ程度の位置をてはならない。義務は、これを各人に命じるべきであ 0 て、 各人の理性にその選択をまかせてはならない。そうでないな 占めるものである。 (o) われわれの共同体において、われわれの必要とする生らば、われわれの理性や意見は無能であり無限に多様である から、エビクロスの言うように、われわれは、ついにはわれ 活上の義務、規則、法則は、鶴や蟻が彼らの共同体において 必要とするそれらのものと、ほとんど変りがない。それにもわれをたがいに共食いさせるようなもろもろの義務を、つく かかわらず、われわれが見るところでは、彼らは教育も受けりあげることになる。神がかって人間に与えた最初のおきて は、絶対服従のおきてであった。それは、人間に認識や議論 ないのに、きわめて秩序正しく行動している。もし人間が賢 の余地を与えないほど、簡単明瞭な命令であった。 (O) と 明であるならば、人間は、おのおのの事物の真価を、自分の いうものも、服従することは、天にいます恵みふかい至高の 生活にとって何が最も有益であり適当であるかにしたがって 存在を認知する理性的な霊魂の主要な義務であるからであ 判断することであろう。 もっ
掟によって許されているよりもいささか華美な飾りをつけてなたの治療のお供をしましよう。この恐れを棄ててくださ いたので、それを人から咎められたとき、こう答えた。「そ い。私たちをこの苦しみから解放してくれるこの旅路には、 れは、私がもはや新しい友愛を求めていないからです。私に 喜びしかないと思ってください。さあ、いっしょに幸福に出 は再婚の意志がないからです。」 かけましよう。」そう言って夫の勇気をふるい立たせたうえ われわれの習慣にまったく反するのもよくないから、私は で、彼女は自分の家の海に面した窓から、共に身を投げる決 心をした。そして、夫の生蔔こ ここに、夫の死をめぐってその親切と愛情のかぎりをつくし 目冫いだいていた貞淑で熱烈な愛 た三人の妻を選び出した。それにしても、これは、ほかの例情を終りまでもちつづけるために、彼女は、やはり夫が自分 とはいささか違う例であり、あまりに切実なので、結果的に の両腕に抱かれたまま死ぬことを欲した。けれども、腕が夫 は大胆にも生命を引き出すほどの例である。 を放したり、一一人のからみあった抱擁が墜落と恐怖のために 弛んだりする心配があったので、彼女は、自分と夫を胸体の ( ) 小。フリニウスは、イタリアにある彼の家の近くに、恥 しゅよう ずかしい局部にできた腫瘍のために非常に苦しんでいる一人ところでかたく縛りつけた。こうして、彼女は夫の生命の体 息のために自分の生命を棄てた。 の隣人をもっていた。この人の妻は、夫がかくも長いあいだ これは身分の低い女であった。こういう身分の人たちのあ 衰弱しているのを見て、「どうか私にあなたの病状をゆっく したに、たぐいまれな善良さの現われを見ることはめすらし りくわしく見させてください。それについて治る望みがある かどうか、誰よりも率直に私が教えてあげましよう」と頼ん だ。彼女は、夫の許しを得て綿密に病状を調べたすえ、とう 正義が地上から立 ~ り去るとき、最後の足跡をとどめたのは、 てい治る見こみがないこと、夫が期待しなければならないの 彼らのうちにである。 は苦痛な衰弱した生命を長く引きずっていくことだけだとい ( 耕詩二の四七三 ) うことを知った。そこで、彼女は最も確実な最上の療法とし て、自殺することを夫にすすめた。そして、夫がそんな荒療他の二人は高貴で富裕な女である。そういう女たちのばあい 治にいささかためらうのを見ると、こう言った。「あなたが には、徳の実例は稀れにしか宿らない。 悩んでいる苦痛が、あなたと同じく私を苦しめていないと思 執政官の地位にあったカエキンナ・パェッスの妻アリア ってはいけません。この苦しみからのがれるために、私があは、ネロの時代に徳の評判が高かったトラセア・パェッスの なたにすすめたこの療法を、私自身がいやがるなどと思って妻になったもう一人のアリアの母であり、この婿を介してフ はいけません。私は、あなたの病気のお供をしたように、あアンニアの祖母に当る人であるが、これらの夫や妻たちの名
る方がましだと思うくらいである。 とおって豪華に運ばれて行くのを見て、こう言った。「私に はこういうものが欲しくないのはどういうわけだろう ? 」 私はもはや大きな変化に順応することができないし、新た ( =) メトロドロスは、日に十一一オンスだけの食糧で生活し な慣れない生活に飛びこむこともできない。増加の方向へ向 た。ェビクロスはそれ以下で生活した。メトロクレスは、冬 かってすら、不可能である。もはや別の人間になるには遅す ぎる。また、何か大きな幸運が今になって私の手にはいって は羊たちとともに眠り、夏は神殿の廻廊で眠った。 (O) 《自 も、私がそれを享受しえたであろう時期にそれが来てくれな 然は、自分の必要とするものを、十分に提供する。》つ事 かったことを、私は悔やむであろう。 九 ) クレアンテスは、自分の手で生活したが、「クレアンテス は、自分でそうしようと思えば、もう一人のクレアンテスを 養うことができる」と言って自慢した。 幸運が来ても、それを享受することができないならば、何に なろう ? ・ (=) われわれの存在を保っために自然が厳密に、根原的 ( 」一の五の一二 に、われわれに要求するものは、あまりに僅かであるから ( 実際、それがいかに僅かであるか、いかに安くわれわれの同様に、何か内面的な獲得についても、私はやはり悔やむで 生命が維持されうるかということは、それがあまりに小さい っそ紳士になら あろう。そんなに遅く紳士になるよりも、い ので運命の攻撃や打撃からも免れているほどだと言うよりほ ない方がましである。もはや余生も乏しくなってから、生き かに、言いあらわしようがない ) 、われわれはもう少し何か る道を学び得ても、何になろう ? 私は去って行く人間なの を余分に分配しよう。われわれは、われわれ各自の習慣や境である。世間と交わるための思慮として私の学びえたもの 遇などをも、自然と呼ぶことにしよう。この標準で、われわを、私は、あとから来る人に快く譲ることにしよう。食事の れを評価し、われわれを取り扱おう。われわれの所有、われあとの胡椒である。自分でどうしようもない幸福など、私に はどうしようもない。もはや頭をもたない者にとって、学問 われの勘定を、そこまで拡げよう。なぜなら、そのくらいの ところまでならば、われわれとしてもいくらか弁解ができる が何になろう ? 運命がわれわれに贈り物をくれるのはいい ように思われるからである。習慣は第二の自然であり、やは が、その時期を失したためにわれわれをくやしがらせるの は、運命の侮辱であり、不親切である。もう私を導いてくれ り同様に強力なものである。 ( ) 私の習慣に欠けているも 、、。私はもう歩けないのだ。人間の能力がもってい なくてしし のを、私は、私に欠けているものと考える。 ( =) だから、 私がかくも長いあいだ暮してきたこの状態がひどく縮小される多くの特質のうちで、忍耐があればわれわれには十分であ 削減されるようなことがあれば、私はいっそう生命を奪われる。肺の腐った歌手に、すぐれた高音の能力を与えるがい
う ? われわれの諸感覚そのものが、たがいに妨げあってい るではないか ? 或る画面は、眼には盛りあがって見える (=) 同様に、食物は全身に分配されて消失し、別の性質の が、手で触れると平らに感じる。われわれの嗅覚には快い じゃこう ものを生みだす。 ( 一→一の七 IO 三 が、われわれの味覚には不快を与える麝香を、われわれは快 いと言うべきか、否か ? 身体の或る部分には効能がある こうやく (<) 樹木の根が吸いあげる液は、幹となり、葉となり、果 が、他の部分には害になる薬草や膏薬がある。蜂蜜は味覚に 実となる。空気は一つでしかないが、喇叭に吹きこまれる は快いが、視覚には不快である。紋章の術語で「終りのない と、無数の異なる音になる。私はききたい。同様に、これら 矢羽根」と呼ばれている羽根状に刻んだ指輪の幅は、どんな の事物にさまざまな性質を与えるのは、われわれの感覚であ この指輪を指にはめ 眼でもこれを識別することができない。 ろうか ? それとも、事物がそれらの性質をそのままもって てぐるぐる廻してみると、どんな眼でも、指輪が一方ではだ いるのだろうか ? この疑問に関して、われわれは事物の真 んだん広くなり、他方では細く狭くなっていくような錯覚に の本質をいかに解決することができようか ? さらに、病気 とらわれないではいられない。けれども、手で触れてみるや夢想や睡眠などの出来事は、事物を、健康な人や賢明な人 と、指輪はどこでも同じ幅を保っているように思われる。 やめざめている人たちにあらわれるのとは違ったしかたで、 (=) 昔、自分の快楽を助長するために、物を大きく写し出われわれにあらわれさせるから、われわれの正常な状態、わ すように出来ている鏡を用いて、これから働かそうとする自れわれの自然的な気分も、狂った気分がそうするように、自 いちもっ 分の一物が、眼で見て大きくなるのを楽しんだ人たちがある分の状態に応じて、事物に一つの存在を与え、事物を自分に が、彼らは二つの感覚のうちどちらに勝を得させたのか ? 適合させることになる、というのが真実に近いのではないだ 自分の一物を思いどおりに太く大きく見せてくれる視覚に対 ろうか ? われわれの健康も、病気と同様に、自分の顔を事 してか、それとも、それを小さく貧弱に感じさせる触覚に対物に与えることがある、というのが真実に近いのではないだ 録してか ? ろうか ? (o) 節制家だからといって、どうして、不節制 想 (<) 事物はただ一つしか性質をもたないのに、われわれの家と同様に、自分に相応した形を事物に与え、同様に、自分 随感覚が、事物にこれらさまざまな性質を貸し与えているのだ の性格を事物に刻みつけないなどと言えようか ? ろうか ? たとえば、われわれの食べるパンにしてもそうで 酒嫌いは、酒にまずさを負わせ、健康な人はこれに風味を ある。それはただパンでしかない。しかしわれわれの摂取負わせ、渇いた人はこれにうまさを負わせる。 なす。
われに世界の審判者になることを教えたのは、彼らである。 間のうちには原理などありえない。爾余のものは、初めも、 真中も、終りも、夢と煙でしかない。前提によって戦う人た「人間的理性は、天空の内外にあるすべてのものの総監督で ちに対しては、反対に、われわれがいま論している同じ公理あり、すべてを抱擁し、すべてをなしうるものであり、これ を前提としなければならない。なぜなら、人間的な前提や命を手段としてのみすべてが認識される」というこの空想をわ 題は、理性がそれらに差別を与えないかぎり、いずれも同等れわれにいだかせたのは、彼らである。 さきのような答えは、アリストテレスの教えも知らず、自 の権威をもっからである。それゆえ、すべての前提や命題を 秤にかけなければならない。 然学の名さえ知らずに、平穏無事な長寿の幸福を享受してい まず第一に一般的な前提を。ついでわれわれに圧力を加える食人種のあいだでならば、ふさわしいであろう。この答え は、おそらく、哲学者たちが自分たちの理性や創意から借り る前提を。 (o) 確実性の印象は、極端な愚昧と不確実のた てくるであろうすべての答えよりも、 いっそうすぐれた、い しかな証拠である。プラトンのいうところのフイロドクソス っそう堅固な答えであろう。この答えならば、われわれとと 自説を固 ) ほど、愚かで、哲学者の名に値いしないものはな 執する人 。 (<) 火は熱いかどうか、雪は白いかどうか、われわれもに、すべての動物、自然的法則から単純な命令を受けてい るすべての生物に、通用するであろう。けれども、哲学者た の認識のうちに何か硬いものもしくは軟かいものがあるかど ちはそれを放棄した。もはや彼らは私に向かってこう言って うか、われわれはそれを知らなければならない。 はならない。「それは真実である。なぜなら、あなたがそれ では、昔の話にあるような答えはどうだろう ? たとえ ば、熱を疑った者に対しては、火のなかに飛びこんでみるがを見、あなたがそう感じているのだから。」哲学者たちは、 しいと言ったり、氷の冷たさを否定した者に対しては、氷の私が感じていると思っていることを私が真に感じているかど とうだ こどよかにはいってみるがいいと一一 = ロったりするのは、。 うかを、私に言わなければならない。もし私がそれを感じて ろう ? そういう答えは、哲学的職業にはなはだふさわしく いるならば、つぎに、なぜ私はそれを感じるのか、いかにし ない。もし哲学者たちが、われわれをわれわれの自然的状態て、何を私が感じるのか、それを彼らは私に言わなければな に放任し、外部のあらわれを、それがわれわれの感覚をとおらない。熱さ、冷たさについては、その名、その起原、それ してわれわれに示されるままに、受けとらせていたのなら に関連する一切のこと、その能動的な性質、その受動的な性 ば、また、われわれを、生まれながらの状態によって調節さ質を、彼らは私に言わなければならない。そうでないなら ば、彼らは私の前で自分の職業を棄てなければならない。 れる単純な欲望のままに放任していたのならば、彼らがそう いう言いかたをするのは当然かも知れない。けれども、われ いうのも、理性の道によってでなければ何ごとをも容認しな
を開き五スーの日当で身をもって彼を掩護する五十人の哀れについては、 (O) それを裸にして、ただそれだけとして考 えてみると、 (<) 私は、それの果実と享受を、気まぐれな なエ兵より以上に、何をするであろうか ? 意見の空虚さをとおしてしか感じないことを知っている。ま (=) 騒がしいローマの意見に従「てはならない。その秤のして私が死んでしまえば、私はそれをもうそれほどに感じな 指針の誤りを正そうとしてはならない。お前自身のほかにお いであろう。むしろ反対に、私は、ときとしてそれに付随的 。ヘルシウス 前を求めてはならない。 にともなう真の利益の享受までも、きれいに失うであろう。 (<) 私はもはや私の評判をとらえるよすがももたないであ (<) われわれは、われわれの名をひろめ、多くの人々のロ ろうし、評判が私に触れ私に到達する道も、とだえてしまう にの・ほせることを、われわれの名を偉大にすることだと考え であろう。事実、私の名が評判を得ることを期待したところ ている。われわれは、われわれの名が人々からよい評判を得 で、第一、私は、十分に私のものだといえる名をもっていな ることを欲しており、名の増大によってわれわれの名が得を い。私がもっている二つの名のうち、一つは、私の一族全体 することを欲している。そういう欲望ならば、まだしも許さ に共通の名である。それどころか、他の多くの一族にも共通 れていい 。けれども、この病気が度を越すと、多くの人々 リにもモンペリエにも、モンターニ の名である。現に、。、 いかなるしかたによってでも、自分の名を人々のロにの ・ほせたいと思うようになる。トログス・。ホンペイウスは、〈を名のる一族がある。ブルター = とサントンジ、には、 ラ・モンターニュと名のる別の一族がある。綴りを一つ変え ロストラッスについて、ティッス・リヴィウスは、マンリウ ス・カ。ヒトリヌスについて、こう言 0 ている。「彼はよい評ただけで、おたがいの系統がこんがらがり、私が彼らの栄光 にあすかったり、もしかすると、彼らが私の恥辱にあずかっ 判よりも、むしろ大きな評判を欲していた。」この悪徳はあ たりすることになるであろう。しかも、私の一族はかってエ りふれたものである。われわれは、人がわれわれについてい イクエムを名のっていた。これはイギリスで著名な一家とも かに語るかということよりも、人が語ってくれることをいっ = ル ) について そう願「ている。われわれにと 0 ては、われわれの名が人々関係のある名である。私のもう一つの名 ( 松す は、誰でも名づけたいと思えば名づけることができる。そう の口からロへと伝えられるならば、どんな風に伝わろうと、 想 それで十分である。名を知られるということは、いわば自分なると、私はおそらく私のかわりに、一人の人足に名誉を与 の生命と自分の持続を他人の手に託することである。私自身えることになろう。さらに、私が私を示すための特別のしる しをもっているにしても、私がもはや存在しなくなったら、 と思っている。 としては、私は私のうちにしか存在しない、 このしるしは何を示すことができよう ? しるしは、無を示 また、私の友人たちの認識のうちに宿るもう一つの私の生命
念し、没頭するのは、そこである。そればかりでなく、私それをいっそう強調してこう言った。《何の不自由もない豊 は、わが国の風習よりも価値の低い風習には、ほとんど出会かな生活のなかにいて、知るに値いするすべてのものをゆっ ったことがなかったように思う。私はあまり出すぎたことは くり観察し研究することのできる境遇に置かれている一人の 言うまい。なぜなら、私は、わが家の風見車を見失うほどの賢者を想像してみるがいい。こんなに恵まれた境遇のなかに 旅をしたとはいえないからである。 いても、もし彼が誰冫 こも会うことができないほどの孤独に定 。キケロ「義 さらに、あなたが途中で出会う偶然の道連れは、愉快よりめられているならば、彼は生命を棄てるであろう》 ( 務につ もむしろ不快を与えるものである。私は彼らと仲良しになら (l) 天に昇「て、これらの偉大で神的な天体のあいだを逍 なし。いまでは老年が私をわがままにし、私を世間一般の風遙するにしても、道連れがなければつまらないだろう、と言 習からいくらか遠ざけているので、なおさらのことである。 ったアルキュタスの意見は、わが意を得ている。 あなたが相手のために迷惑するか、相手があなたのために迷 けれども、退屈なつまらない人間と道連れになるくらいな 惑するか、どちらかである。どちらにしても、不都合であらば、やはり独りの方がましである。アリスティッポスは、 いたるところで、異邦人として生活することを好んだ。 り、重荷である。けれども、私にとっては、あとのばあいの 方がいっそう辛く思われる。もし誰か判断がしつかりしてい もし連命が私に、自分の好きなように一生をすごすことを許 て、あなたと性格が合うような紳士がいて、喜んであなたの ヴェルギリウス『ア工 してくれるならば。 ネイス』四の三四〇 道連れになってくれるならば、それはめったにない幸運であ り、測り知れない慰めである。私は、私のすべての旅におい 私は、鞍のうえに尻をのせて、一生をすごすことを選ぶであ て、そのような道連れには、一度も出会わなかった。けれど ろう。 も、そういう道連れは、家を出るときから、選んで獲得して おかなければならない。どんな楽しみでも、これを分かちあ あじき うのでなければ、私にとって味気ないものである。何か愉快 録 な思いが心に浮かぶたびに、私は、それを生み出したのが自 想 分だけで、これを分かちあう相手がいないのを、残念に思わ ないことはない。 (o) 《もし私が、自分だけでしまっておい g て、誰にもそれを伝えるなという条件で、知恵を与えられる もう一人は、 。セネ『書 ) ならば、私はそれを断るだろう》 ( 簡 太陽の熱が焼けつくような国、雲や霧氷におおわれた国をお ホラテイウス「オ とすれることを喜びとして。 ド」三の三の五四 「あなたはもっと安易な気ばらしをもたないのか ? 何があ なたに不足しているというのか ? あなたの家は、健康ない い空気のところにあり、設備も十分にととのい、広さも十分 すぎるくらいではないか ? (o) 国王陛下でさえ、豪華な
552 れらの人々とちがって、私の知らないことを知らないと告白女に言い寄ったスキュタイ人に向かって、こう答えたからで するのを、恥すかしいと思わない。〉 ( キケ。「ツスクル )(=) 何ある。「そのことなら、び 0 こが最もうまくやる。」この女天 を言っても人から信じられる立場に私が置かれていたなら下の国では、女たちは、男の支配をのがれるために、子供の ば、私はこんなに大胆には語らないであろう。だから、私のときから男たちの腕や、脚や、そのほか女よりもすぐれてい 勧告をあまりに苛酷で性急であるといって嘆いた或る貴族に る部分を不具にして、こちら側でわれわれが女にやらせてい 対して、私はこう答えた。「あなたが目隠しをされて一方のるような仕事だけに、男たちを使った。私ならばこう言った 側に傾いて行きそうなので、私は、できるだけ配慮してあなであろう。「びつこの女の調子外れな運動が、あのいとなみ に何か新しい快さをもたらし、彼女を味わってみる男たちに たに他方の側を見せようとしているのです。それはあなたの 判断を明らかにするためであって、それを東縛するためでは 何らかの甘い刺激を与えるのではなかろうか ? 」けれども、 ありません。神はあなたの心をとらえており、あなたに選択私はさきごろ、古代の哲学でさえも、それについてこう断定 ふと・も・ら を許すでしよう。」私は、かくも重大なことがらを私の意見がしているのを知った。「びつこの女の脚や腿は、その不完 左右するというようなことを望むほど、思いあがってはいな全のゆえに、しかるべき栄養を受けないので、その上部にあ い。私の運命は、私の意見を、それほど有力で高貴な結論に る生殖器の方がいっそう充実し、ままます栄養がよく旺盛に 向かわせなかった。なるほど、私はたくさんの癖をもってい なってくる。」あるいはまたこう言っている。「この欠陥が連 るばかりでなく、たくさんの意見をももっている。それらの動をさまたげるので、そういう欠陥のある人たちは、その精 意見は、もし私に息子があったら、息子にはそれを嫌わせた力を分散させず、ヴェヌスの戯れにいっそう完全にはいるこ はたおり いと思うものばかりである。どうしたことか、最も真実な意 とができる。」ギリシア人が機織女を、ほかの女よりも熱が 見は、つねに必すしも人間にとって最もふさわしい意見では こもっているといって軽蔑するのも、同じ理由からである。 ない。それほど、人間は野蛮な性質をもっている。 彼女たちの仕事は坐職であって、あまり身体の運動をさせな そのとおりかどうかは別として、イタリアでは、ことわざ いからだというのである。こんなふうにしていけば、われわ に「びつこの女と寝たことのない者は、ヴェヌスを、その完れが理屈をつけることのできないものとしては何があろう ? 全な魅力において知っていない」といわれる。これは、偶然機織女たちについては、私はこうも言いうるであろう。「彼 かあるいは何か特殊な出来事が、ずっと以前に、 このことば女たちは、坐ったまま、仕事で揺さぶられるので、ちょうど を国民のあいだに流布させたもので、女についてと同様、男貴婦人が馬車の動揺と振動から受けるのと同じような刺激を についてもあてはまる。なぜなら、アマゾン族の女王は、彼受けることになる。」