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検索対象: 世界の大思想5 モンテーニュ 随想録<エセー><下>
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1. 世界の大思想5 モンテーニュ 随想録<エセー><下>

かる罪なき行為もいっそう完全に申し分なくおこなわれたで事情はたえず流転し変化する。私は自分の一生のうちでいく あろうと判断するからであり、われわれも同じようにおこな たびか重大な失敗にぶつかったが、それは私がよい考えを欠 いたいと思うであろうからである。私がいま老年になって私 いたからではなく、幸運を欠いたからである。われわれの取 の若いときのふるまいを反省してみるとき、私は、自分がおり扱う事物には、、 しろいろ秘密の、予見されえない部分があ およそ自分なりに秩序をもって身を処したと思う。それは私 る。ことに、人間の本性のうちには、暗黙の、表面に現われ の抵抗がなしうるすべてである。自慢するわけではないが、 ない状態、ときにはその本人にさえも知られない状態があっ 同じような事情にあうならば、私はいつでもそうするであろて、これが突然の機会に出現し、めざめる。私の知恵がそれ う。私を染めているのは、しみではなくて、むしろ全般的なを洞察し予見することができなかったときにも、私はそのこ 染色である。私は表面的な、いい加減な、儀礼的な後悔を知とに関して私の知恵を不満に思うことはない。知恵の役目は らない。真の後悔は、私がそれを後悔と呼ぶまえに、あらゆその限界のなかにとどまっている。出来事が私を打ち負かし る面で私を責めるものでなければならない。それは、神が私たのである。 (=) もし出来事が、私の拒否した決心の方に を見るのと同じように深く全面的に、私の内臓をかきむしり 幸いするならば、救いようがない。私は私自身を非難しな 苦しめるものでなければならない。 い。私は、私の運を責めるが、私のしわざを責めはしない。 これは後悔と呼ばれるものではない。 仕事に関しては、私はやりかたがうまくないので、多くの 幸運を取り逃がした。それにしても、私の思慮は、そのとき フォキオンはアテナイ人たちに或る勧告を与えたが、この そのときの事情に応じて、適切な選びかたをした。私の思慮勧告は聞きいれられなかった。それにもかかわらず、事態 の特徴は、いつでも、最も容易で確実な方を選ぶということ は、彼の意見に反して、かえって繁栄に向かった。或る人が である。私は、私の過去の思案においては、われながら、自彼に言った。「どうだ、フォキオン、君は事態がこんなにう 分の規則にしたがって、そのときそのときの事態に賢明に対まく運んで満足しているか ? フォキオンは答えた。「こう 処してきたつもりである。いまから千年たった後にも、私なったことについては、私も満足している。けれども、私 は、ああいう勧告をしたことについて後悔してはいない。」 は、同じような機会には同じようにするであろう。私は事態 がいまどうであるかを言っているのでなく、私がそれにつし 私は、友人たちから意見を求められると、自由に、はっきり て考慮をめぐらしていたときに事態がどうであったかを言っ 言ってやる。私は、世間の人々が誰でもするように、「事態 ているのである。 はあぶないものであるから、私の考えとは反対になるかも知 @) あらゆる思慮の力は、時を得るか否かにある。機会やれない。そうなると、人々は私が意見を述べたことについて

2. 世界の大思想5 モンテーニュ 随想録<エセー><下>

私をとがめるかも知れないーなどと言って立ちどまることをであるから、むしろそうあってほしいと思っている。私を放 っておいてくれれば、それが私の主義にかなっている。私の しない。そんなことは私にはどうでもいい。なぜなら、まち がっているのは彼らの方であろうし、私は彼らに対してこの主義は、私のうちに安住し、引き籠ることである。他人の間 題にわずらわされず、それの気づかいから解放されること 務めを拒否してはならなかったからである。 は、私にとってうれしいことである。 (o) 私は、私の過失や不運について、私より以外の他人を (=) 何ごとにせよ、それが過ぎ去ったあとは、それがどう 責めてはならないと思っている。なぜなら、事実、私は他人 の意見を、儀礼的な敬意によって以外には、めったに役立てあろうと、私はあまり悔やまない。なぜなら、「それはそう ないからである。ただし、学問的な知識や、事実の認識を私 なるべきであった」というこの考えが、私を気苦労から解放 が必要とするばあいは別である。けれども、私の判断しか用してくれるからである。すべての事柄は、宇宙の大きな流れ のなかにあり、ストア的な諸原因の連鎖のなかにある。過去 いる必要のない事物においては、他人の理由は私を支えるこ も将来もふくめて、事物の全秩序がくつがえらないかぎり、 とには役立つかも知れないが、私の考えをひるがえさせるに はあまり役立たない。私は他人の理由を、すべてありがたくあなたの空想は、願望によっても想像によっても、それらの - つつしんで聞く。けれども、思い出すかぎりでは、今日まで事物をたたの一点も動かすことができない。 私は私の理由しか信じたことがない。私の思うに、他人の理 さらに、私は、年齢がもたらすこの付随的な後悔を嫌う。 由は、私の意志を迷わせる蠅やアトムでしかない。私はあま昔、「年齢のおかげで肉欲から解放されたことを、年齢に感 り私の意見を重んじないが、さりとて他人の意見もあまり重謝する」と言った人があるが、この人は、私とは異なる意見 んじない。運命は私にそれだけの報いを与えてくれる。私はをもっていた。私は、それがいかなる利益を与えてくれる (o) 《不能が 他人の意見を受けいれないが、それ以上に、私は他人に意見せよ、不能に対して感謝する気にはなれない。 を押しつけない。私が他人から意見を求められることはめつ最も善きもののうちにかそえられることほど、神意がみずか 0 クイン たになしが、それにもまして、私の意見が信じられることは らの業に逆らうことは、ほかに見られないであろう》 ( テ アヌス「弁論家の 録めったにない。また、公私いずれの企てにせよ、私の意見に ) (=) われわれの欲望は、老年になると、稀 教育』五の一二 想 れである。深い飽満があとでわれわれをとらえる。そのなか よって立て直されたり、引き戻されたりしたためしはない。 に、私は良心らしいものを何も見ない。悲嘆と衰弱は、われ 随たまたま私の意見に引きつけられた人たちでさえ、すぐに自 われのうえに、弛んだ炎症的な徳を印する。われわれはそう 分からまったく別の考えに引きずられてしまうのであった。 いう自然的な変質に何もかも持っていかれて、それによって 私は、私の権威の権利と同様、私の休息の権利を欲する人間

3. 世界の大思想5 モンテーニュ 随想録<エセー><下>

とができない。けれども、そのときでも、もし誰かが私に身とっては、もしそれが疝痛の三度の発作と引き換えであるな 体のぐあいはどうかとたずねるならば、私は、。 ヘリクレスのらば、あまりにも高価につく。願わくは、健康を与えたま ように「これを見てくれれば、おわかりだろう」と言って、 ~ ドラクマの膏薬を塗りたくった私の手を見せるかも知れな われわれの医学を愛する人たちは、やはりそれ相当に、十 。それは、ひどい病気の明白なしるしであろう。そのとき分な、大きい、強い理由をもっているかも知れない。私は、 は、私の判断力もひどく狂っていることだろう。もし焦燥と私の意見に反対する意見を、決して憎みはしない。私は、私 恐怖がそれほど私をうち負かすならば、人はそこからして、 の意見と他人の意見との不一致を見て驚いたりしない。私 私の霊魂にもひどい熱が出ているのだと結論することができ は、私と考えや党派を異にするからといって、自分がそれら よう。 の人々の社会に対して相容れないなどとは思わない。それど ころか、むしろ反対に、多種多様こそは自然が従っていく最 私は自分でも十分にわかっていないこの立場を一生懸命に 弁護してきたが、それは、私が私の祖先から受けついだこのも一般的な様相であるから、 (O) しかも、身体におけるよ りも精神においていっそう一般的な様相であるから ( という 傾向、つまりわれわれの医学の薬や治療を嫌うこの自然的な っそう多く のも精神の方が、い っそう柔軟な実体であり、 傾向を、少しでも支持し強化して、これがたんに愚かで向こ の形体を受けいれやすい実体であるからである ) 、 (<) われ う見すな傾向ではなく、もう少し形態をもった傾向であるこ っそう稀れで われの気分や意図の一致を見ることの方が、い とを示すためであった。また、病気に苦しめられながらも、 私が人の勧めや脅しに反抗して聞きいれないのを見ている人ある、と私は思っている。世に、同じ意見が二つとあったた たちから、これをたんなる頑固と考えられたくないからであめしはない。同じ毛、あるいは同じ穀粒が、二つとないのと 同様である。われわれの意見の最も普遍的な性質は、多種多 る。あるいは誰か意地の悪い人が、これを一種の名誉欲と判 断するおそれがあるからである。わが家の庭作りや驢馬曳き様ということである。 にもできそうな行為から名誉を得ようなどとするのは、何と いう立派な望みであろう ? たしかに、私は、健康という堅 固で、肉も髄もある快楽を、名誉という想像的で霊的で空気 のような快楽と取り換えるほど、それほど空しく膨れあがっ た心をもってはいない。名誉は、たといエモンの四人息子の 名誉のようなものであっても、私のような気分をもつ人間に

4. 世界の大思想5 モンテーニュ 随想録<エセー><下>

190 はなく、むしろ反対に、所有しているということそのことあいでも個人のばあいでも、最も誤った意見をはぐくむ母親 が、自分の持っているもの支配しているものに対する、軽蔑は、人間が自分についてあまりに良すぎる意見をもっことで を生むのである。遠い昔の国家や風俗は私を喜ばす。ラテンあるように思われる。水星の周転円のうえにまたがる人々、 語は、その威厳によって私を欺き、それに属する真価より以 (o) 遠く天のかなたを眺める人々は、 (<) 私に、歯を抜か 上にすぐれたものだと私に思わせる。その点で、私も子供やれるときのような思いをさせる。事実、私のやっている研究 俗衆と同しだということに私は気づいている。私の隣人の暮の主題は人間であるが、この研究のうちには、あまりに極端 らし向きや、家や、馬は、同じ価値のものであっても、それな意見の相違があり、重なりあった諸困難のかくも深い迷路 があり、知恵の学校においてすらかくも多くの相違と不確実 が私のものでないというだけの理由で、私のものよりもよく 見える。わけても、私は私のことに関してきわめて無知であがあることを知ったならば、あなたがたはこう考えるかも知 というのも、それらの人々は、彼ら自身につい る。私は、人々がそれぞれ自己についていだいている自信とれない。 ても、たえず彼らの眼の前にあり彼らのうちにある彼ら自身 見込みに感心する。ところが私には、私が知ることのできる の状態についても、その認識を決定することができなかった もの、私が責任をもって為しうるものが、ほとんど何もな からである。また、彼らは、彼ら自身の動かしているもの 、。私にはあらかじめ目録に記載された私の手段は一つもな 。事が終ったあとで、はじめて知らされるだけである。私が、どうして動くのかを知らないし、彼ら自身の取りあっか っているバネを、われわれにどう説明するべきかを知らない 自身についても、他のすべての事物についてと同様、私はあ みちひ どうして私は、ナイル河の潮の満干の原因 やふやである。そういうわけで、何か或る仕事がうまく成功からである。 に関する彼らの説明を、信じる気になれようか ? 聖書にも すると、私はそれを私のカよりもむしろ偶然のせいにする。 けねん 言うように、事物を認識しようとする欲求は、人間に苦役と というのも、私は何ごとをも、運まかせに、懸念しながら企 てるからである。同様に、 (<) 私は、おおまかにこう考えして与えられたものである。 けれども、私個人のことに戻るならば、誰でも私ほどに自 ている。古代の人々が人間全般についてもっていたすべての 意見のうちで、私が好んで受けいれ、最も愛着を感じる意見己を低く見つもることはきわめて困難であろうと思う。それ どころか、誰でも、私が自分で私を見つもっているよりも低 は、われわれを最も軽蔑し、卑下し、無視する意見である。 く、この私を見つもることはきわめて困難であろうと思う。 哲学は、それがわれわれの自惚れと虚栄を攻撃するときほ ど、それが率直に自己の不決断、無力、無知を認めるときほ (o) 私は自分を普通の部類の人間たと思っている。ただ、 自分をそう思っている点が、皆とちがうだけである。私は、 ど、有利な勝負をすることはないように思われる。一般のば

5. 世界の大思想5 モンテーニュ 随想録<エセー><下>

とがらの決定と選択を運命と偶然にゆだねる習慣について、 ネット』一三五 われわれに伝えている実例、《籤がマッテアに当たったので〉 使徒行伝、 という実例を見るにつけても、私はわれわれの人 私は一つの意見を支持することはできるが、一つの意見を ( 一の二亠 / 選択することはできない。 間的な無力を痛感せずにはいられない。 (O) 人間的理性は、 ーしすれの側に傾くにせよ、 ( ) 人間的な事物においてよ、 : 両刃の、危険な剣である。理性の最も親密な友であるソクラ われわれをその方へ確信させる真実らしい理由がいくらでも テスの手中にあってさえ、それはいかに多くの先端をもっ棒 出てくるものであるから、 (O) ( 哲学者クリュシッポスは言であったことであろう。 った。「私は、わが師ゼノンおよびクレアンテスから、ただ (<) そういうわけで、私は人に追随することしかできな その意見だけしか学ぼうと思わない。なぜなら、証拠や理由 。私は、命令したり い。私は容易に群衆にひきずられていく に関しては、自分でいくらでも提供することができるからで 指導したりすることを企てるほど、自分の力に自信をもって しすれの側にくみするにしても、自分 ある。し ( ) 私は、、・ いない。他の人々によって示される道を歩む方が、私にとっ をそこに維持するに十分な真実らしい理由を、いつでも自分て気が楽である。もし不確実な選択によって危険をおかさな に提供することができる。それゆえ、私は疑いと選択の自由ければならないならば、私は、私などとちがって、自分の意 とを私のうちにとどめておいて、いよいよ機会が私をせき立見にもっと確信をもち責任をもっている人の下に、つきした てるまで待つ。そして、いざというときがきても、私は、こ がっていく方がいいと思う。 (=) 私の意見は、その根底が いていのばあい、人の言うように、羽毛を風に飛ばせ、運命滑っていくように思われる。けれども、私は変化に対しては のなすがままに身をまかせる。いいかえれば、ごく些細な傾あまり容易に応じない。というのも、私は、反対側の意見に 向と事情が、私を運び去る。 も、同じような弱さを認めるからである。 (O) 《すぐに賛同 を与える習慣は、それ自身、危険であり不安定であるように 精神が疑いのなかにあるときには、ごくわすかの重みが、精思われる。》 ( ミカ』二の一一 I) ( ) ことに、政治上の問題には、 テレンテイウス『アンドロ 録 神を一方または他方へ傾かせる。 ) 動揺と異議に向かって開かれた広野がある。 ス島の娘』一の六の三二 おもり それゆえ、二つの皿に等しい錘をのせるならば、秤はどちら 私の判断の不安定は、たいていの出来事においてどちらの くじさいころ の側も、下りもせす上りもしない。 四の一四 0 ) 的側へも等しく揺れ動くので、私はいっそ籤と骰子の決定にゆ だねたくなる。そして、神的な歴史そのものが、疑わしいこ

6. 世界の大思想5 モンテーニュ 随想録<エセー><下>

ところのことである。彼はつねに、われわれに対して、二重の・ほった者は、しばしば、自分のいさおし以上に名誉を得る に、曖昧に、遠まわしに語り、われわれを満足させずに、むことになる。なぜなら、彼はおしまいから二番目の者の肩り こくわずかしか出ていないからである。 しろわれわれに関心を持たせ、われわれを気がかりにさせうえに、。 ーし力にしばしば、おそらくは愚かにも、私の本 る。精神の動きは、不規則で、不断で、模範をもたず、目的 (=) 私よ、、、 をもたない。精神のもろもろの創意は、たがいに熱しあい をひきのばして、自己について語ったことであろう ? た力いに継承しあい、たがいに生みあう。 愚かにも、というのは、同じように自己を語っている他の本 について、私が次のように言ったことを、ここに思い出さな そういうわけで、流れる小川のなかでは、たえずあとからあければならないという理由だけからしても、言えることであ とから水が流動し、順々に、永遠の運びによって、或る水が る。「自分の著作にあれほど頻繁に色目をつかうのは、その 他の水につづき、或る水が他の水からのがれる。あの水はこ 人の心が、それに対する愛でふるえている証拠である。彼が の水に押しやられ、この水は他の水に追い越される。いつで 手荒い軽蔑的な態度で自分の著作を打っときも、それは母親 Ⅱよ、つも同じでも、水はいっ も、水は水のなかを行き、 としての愛情から気どってそうしているにすぎない。」これ も異なる水である。 作集」・一一四 ) は、アリストテレスの次のような考えに従ったまでである。 われわれは、事物を解釈するよりも、解釈を解することに忙「自慢するのも、みずから卑下するのも、しばしば、同じ傲 しい。どんな主題に関する書物よりも、書物に関する書物の慢さから生まれるものである。」事実、私はこう言って弁解 したいのだが、皆が認めてくれるかどうかわからない。「私 方が多い。われわれはたがいに注釈しあうことしかしない。 は、その点で、他の人たちよりもいっそう多く自由を持って (o) 注釈書は犇めきあっているが、著者の方は、きわめて いるはずである。というのも、私は、幸いに、自分について 稀少である。 われわれの時代における主要な、最も有名な知識は、学者も、私の著作についても、私のその他の行為についてと同様 たちを解釈する知識ではあるまいか ? それが、すべての研に書くからであり、私の主題は自己のうちに返ってくるから 究の共通の、最終の目的ではあるまいか ? である。」 つぎき われわれの意見は、次から次へと接木される。第一の意見 (=) 私はドイツで、ルターが自分の学説の疑義について、 彼が聖書についてひきおこしたと同様の、むしろそれ以上 は、第二の意見に対して台木として役立ち、第二の意見は、 の、分裂と論争を残したのを見た。われわれの論争はことば 第三の意見に対して台木として役立つ。われわれはこうして 段々に梯子をのぼっていく。そういうわけで、いちばん高くの論争である。私は問う。「自然とは何か ? 快楽とは何か、

7. 世界の大思想5 モンテーニュ 随想録<エセー><下>

552 れらの人々とちがって、私の知らないことを知らないと告白女に言い寄ったスキュタイ人に向かって、こう答えたからで するのを、恥すかしいと思わない。〉 ( キケ。「ツスクル )(=) 何ある。「そのことなら、び 0 こが最もうまくやる。」この女天 を言っても人から信じられる立場に私が置かれていたなら下の国では、女たちは、男の支配をのがれるために、子供の ば、私はこんなに大胆には語らないであろう。だから、私のときから男たちの腕や、脚や、そのほか女よりもすぐれてい 勧告をあまりに苛酷で性急であるといって嘆いた或る貴族に る部分を不具にして、こちら側でわれわれが女にやらせてい 対して、私はこう答えた。「あなたが目隠しをされて一方のるような仕事だけに、男たちを使った。私ならばこう言った 側に傾いて行きそうなので、私は、できるだけ配慮してあなであろう。「びつこの女の調子外れな運動が、あのいとなみ に何か新しい快さをもたらし、彼女を味わってみる男たちに たに他方の側を見せようとしているのです。それはあなたの 判断を明らかにするためであって、それを東縛するためでは 何らかの甘い刺激を与えるのではなかろうか ? 」けれども、 ありません。神はあなたの心をとらえており、あなたに選択私はさきごろ、古代の哲学でさえも、それについてこう断定 ふと・も・ら を許すでしよう。」私は、かくも重大なことがらを私の意見がしているのを知った。「びつこの女の脚や腿は、その不完 左右するというようなことを望むほど、思いあがってはいな全のゆえに、しかるべき栄養を受けないので、その上部にあ い。私の運命は、私の意見を、それほど有力で高貴な結論に る生殖器の方がいっそう充実し、ままます栄養がよく旺盛に 向かわせなかった。なるほど、私はたくさんの癖をもってい なってくる。」あるいはまたこう言っている。「この欠陥が連 るばかりでなく、たくさんの意見をももっている。それらの動をさまたげるので、そういう欠陥のある人たちは、その精 意見は、もし私に息子があったら、息子にはそれを嫌わせた力を分散させず、ヴェヌスの戯れにいっそう完全にはいるこ はたおり いと思うものばかりである。どうしたことか、最も真実な意 とができる。」ギリシア人が機織女を、ほかの女よりも熱が 見は、つねに必すしも人間にとって最もふさわしい意見では こもっているといって軽蔑するのも、同じ理由からである。 ない。それほど、人間は野蛮な性質をもっている。 彼女たちの仕事は坐職であって、あまり身体の運動をさせな そのとおりかどうかは別として、イタリアでは、ことわざ いからだというのである。こんなふうにしていけば、われわ に「びつこの女と寝たことのない者は、ヴェヌスを、その完れが理屈をつけることのできないものとしては何があろう ? 全な魅力において知っていない」といわれる。これは、偶然機織女たちについては、私はこうも言いうるであろう。「彼 かあるいは何か特殊な出来事が、ずっと以前に、 このことば女たちは、坐ったまま、仕事で揺さぶられるので、ちょうど を国民のあいだに流布させたもので、女についてと同様、男貴婦人が馬車の動揺と振動から受けるのと同じような刺激を についてもあてはまる。なぜなら、アマゾン族の女王は、彼受けることになる。」

8. 世界の大思想5 モンテーニュ 随想録<エセー><下>

決して些細なものではない。それらの不快は、連続的であ (=) 私の父は、自分の生まれたモンターニュに建築をする 貯り、とりかえしがっかない。 ことにそれらが、連続的な、切ことを好んだ。この家事の管理においては、私は、父の模範 り離されない家事の面倒から生じるときには、なおさらであとその規則に従おうと思う。そして私の後継者にも、できる る。 だけそうさせようと思う。もし私として父のためにもっとよ (=) 私が家事を遠くから大まかに見るとき、私は、自分が いことができるならば、私はそうするであろう。私は、父の それについてあまり正確な記憶をもっていないせいかも知れ意志がいまなお働いて、私によって実行されていることを光 ないカ、いままでのところでは、どうやら私の計算や見込み栄に思う。願わくは、あんなに善良な父に報いることができ より以上に繁昌していることがわかる。私は普通より以上に るような生活の設計を、私は私の手から一つも洩らさないよ 利益をあげているように思われる。この繁栄は私の予想を裏うにしたいものである。私が古い城壁の一部を完成し、建て 切るものである。けれども、私が仕事の内部にはいっていっ かたの悪い建物の一部を修理させたのは、私の満足のためと て、それらの細部の動きを見ると、 いうよりも、むしろ父の意志に添うためであった。 ( ) 私 は、父が家のなかに、手をつけたばかりで残していった立派 そのとき私の霊魂はさまざまな心配事に分散する。 な計画を、ひきつづいて完成させなかった私の怠慢を残念に ヴェルギリウス「ア工 思っている。私はこの家系の最後の所有者として最後の仕上 ネイス』五の七二〇 げをすることになるおそれがあるので、なおさら残念である。 無数のことが、私にとって不満になり、心配になる。それら (=) 事実、私個人の傾向からいえば、人があんなに魅力が をすっかり棄て去ることは私にとってきわめて容易であるあるというこの建築の楽しみも、狩猟も、庭造りも、隠退生 活のそのほかの楽しみも、私をあまり楽しませることができ が、心を労せずにそれにたずさわることは、なかなかむずか しい。何を見てもそのすべてがあなたの煩いになり気がか ない。それは、私にとって不快な意見と同様、私がかかわり りになるというような状態にあることは、哀れなことでああいたくないものである。私は逞しい博学な意見を持とうと る。私にとっては、他人の家の快楽の方がいっそう愉快に享は思わない。むしろ生活に適応した安易な意見を持ちたいと 受することができるし、いっそう自然的な味わいをそこにも思う。 (o) 意見は、それが有益で快いものであるならば、 っことができるように思われる。 (o) ディオゲネスも、私それだけで十分に真実であり健全である。 と同じ意見で、どういう種類の葡萄酒がいちばんうまいと思 (=) 私が自分から家事に無能であると言うのを聞いた人々 うかときかれて、「よその家の酒」と答えた。 は、私の耳にこんな風にささやく。「それは軽蔑しているか

9. 世界の大思想5 モンテーニュ 随想録<エセー><下>

れのうちにはいってくるのではない。われわれはそのことを 哲学者たち自身のあいだに見られる無限に混乱した意見 十分に知っている。というのも、もし事物がそのままはいつや、事物の認識におけるあの果てしない全般的な論争は、し てくるならば、われわれは誰でも同じように事物を受けとる ばらく措くとしよう。事実、これはきわめて真実な前提であ るが、何ごとにつけても、人間たちのあいだには、特に天分 はずだからである。葡萄酒は、病人のロにも、健康な人のロ にも、同じ味がすることであろう。指にひびが切れている者のすぐれた有能な学者たちのあいだには、意見の一致がな も、指がかじかんでいる者も、木や鉄にさわれば、ほかの人 。天がわれわれの頭上にあるということについてさえも、 が感じるのと同じ硬さを感じることであろう。それゆえ、外意見の一致がない。な。せなら、すべてを疑う人たちは、疑う 界の諸対象は、われわれの一存に依存する。それらの対象ということそのことをも、疑う。われわれが何ごとかを理解 は、われわれの好むがままに、われわれのうちに宿る。とこ しうるということを否定する人たちは、「天がわれわれの頭 ろで、もしわれわれの方で、或る事物を何らの変質なしに受上にある」ということもわれわれには理解しえないと言う。 けとるならば、そして、もし人間的な把握力が、真理をわれしかも、この二つの意見は、数において、比較にならないほ われの手段によってとらえるほど十分に有能であり確実であど有力である。 るならば、これらの手段は万人に共通であるから、この真理 この無限の多様性と分裂のほかに、われわれの判断がわれ は、一人の手から他人の手へ伝わっていいはずである。まわれ自身に与える混乱によっても、また各人が自己のうちに た、これほどたくさんにある事物のうちの、少なくとも一つ感じる不確実によっても、われわれの判断がきわめて不安定 ぐらいは、普遍的な同意によって万人に信じられる事物があな状態にあることが容易にわかる。われわれは事物につい ってもいいはずである。けれども、われわれのあいだには、 て、いかにさまざまに判断することであろう ? われわれは 異論の生しないような命題、異論の生じそうにもない命題われわれの考えを、いかにたびたび変えることであろう ? は、一つも見られない。 このことは、まさに、われわれの自今日私が主張していること信じていることを、私は、私の全 然的な判断が、把握の対象を十分明瞭に把握していないとい 信念をもって、主張し信じている。私のすべての道具、私の 録うことの証拠である。事実、私の判断は、自分を、私の友人すべての手段は、この意見をつかみ、できるかぎりのカでこ の判断に受けいれさせることができない。 これは、私が、私れを私に保証してくれる。私はいかなる真理をも、私がいま のうちにもすべての人間のうちにも存する一つの自然的能力そうしているより以上にカづよく抱擁することも保持するこ によってではなく、それとは別の何らかの手段によって対象ともできないであろう。私は全面的にそれを信じている。私 を把握したことの証拠である。 は心からそれを信じている。けれども、私は、一度ならず、

10. 世界の大思想5 モンテーニュ 随想録<エセー><下>

186 してその義務を守らせることに役立つならば、 (=) もし民混入していて、それが国民に義務を守らせる手綱として役立 衆がそのために徳にめざめさせられるならば、もし王侯たち っていないところはない。たいていの国家が、それそれ、超 が、人々がトラヤヌスの記憶を讃え、ネロのそれを憎むのを自然的な奇蹟にみちた空想的な起原と始まりをもっているの ごくあくにん 見て、心を打たれるならば、もし王侯たちが、この極悪人の は、そのためである。雑種的な宗教に信用を与え、分別ある しまではそのつもり 名が昔はあれほど恐れられていたのに、、 人たちにまでこれを支持させたのは、それである。また、ヌ ならば学童からさえも自由に呪われ侮辱されるのを見て、心 マとセルトリウスがその人民たちをいっそう深く信じさせよ を動かされるならば、 (d) この誤った意見も、思いきってうとして、彼らに馬鹿げた考えを吹きこんだのも、そのため 大きくひろがるがいし 。そして、人々はできるだけこの意見である。前者はニンフのエゲリアが、後者は白い鹿が、お伺 をわれわれのあいだで育むがいい いを立てた意見を、神々のもとから運んで来てくれるという ( ) 。フラトンは、彼の市民たちを有徳にするためにあらゆのである。 る事物を用い、また、民衆のよい評判や尊敬を軽視しないこ ( ) また、ヌマは自分の法律に、この女神の加護という名 とを彼らにすすめている。彼は言う。「何らかの神的な霊感 目で権威をもたせたが、く / クトリア人およびベルシア人の立 によって、悪人でさえ、しばしば、ことばについても意見に 法者ゾロアスターは、オロマシス神の名のもとに、自分の法 ついても、善と悪とを正しく識別しうることがある。」この律に権威をもたせた。 = ジ。フト人の立法者トリスメギストス 人と、その師は、人間的な力が欠けているあらゆるばあい は、メルクリウス神を、スキュタイ人の立法者ザモルクシス に、神的な働きと啓示を持ち出すことにおいて、驚異的で大は、ヴェスタ神を、カルキス人の立法者カロンダスは、サッ 胆な作者であった。《あたかも、悲劇詩人たちが、自分の作 ルヌス神を、カンディア人の立法者ミノスは、ユビテル神 品の結末をどうつけていいかわからないとき、神に頼りたのを、ラケダイモン人の立法者リクルゴスは、アポロン神 むように。》 ( キケ。「神《の を、アテナイ人の立法者ドラコンとソロンは、ミネルヴァ神 おそらく、そのために、ティモンは。フラトンを悪く言って の名のもとに、法律に権威をもたせた。だから、あらゆる国 「奇蹟つくりの大家」と呼んだのであろう。 家は、或る神をその頭にいただいている。他の国々の権威は 人間は、その能力不足のゆえに、良い貨幣で十分に満足す虚偽であるが、モーセがエジプトから脱出したユダヤ民族に ることができないのであるから、悪い貨幣を用いるのもやむ対して立てた権威は、真の権威である。 をえない。 この方法はすべての立法者たちによって用いられ ノ丱カ一一一口うよ、つ ( ) ペドイン人の宗教は、ジョアンヴィレ卩・、 た。いかなる国家にも、空虚な儀礼や虚偽の意見がいくらか に、何よりも、こういう教えであった。「彼らのうちその君