しかし、何分フランシスは二歳年下であり、当時の大学の入批判的であったのは、その家庭の影響もあったであろう。 学資格はラテン語の読み書きができるということが主眼であ フランシスは兄と共に一五七五年十一一月、ケンブリッジ大 ったから、フランシスが、どのくらいラテン語ができるかが 学を去り、翌七六年六月、兄と共に、ロンドンの「グレイ法 題となった。そこでエリザベス女王自身が試験官の役を買っ 学院」 (Gray's lnn) に入学した。時にフランシス十五歳で て出て、フランシス少年を召し試してみたところ、立派な成あった。兄弟は法曹家の子弟たる故をもってグレイ法学院の 績で女王の試験に。 ( スしたのである。かくて一五七三年の「先輩」 ( Ancien ( s ) という称号を許されている。フランシスは 春、フランシスは満十一一年三カ月の年齢で、ケンプリッジのその後、グレイ法学院に在籍し、二十年後には、父のニコラス トリニティ・カレジに兄と共に入学したのである。 がそうであったようにその「学院長」 (The lnn's Treasurer) キリシ 当時の大学の教課内容はまだ貧弱なものであった。・ となった。政治的失脚後も、彼はその死に至るまでグレイ法 ア以来の学芸が主たる内容をなし、論理学、形而上学、自然学院に在籍したのである。 学、倫理学、政治学が教えられ、アリストテレスは権威であ フランシスは、グレイ法学院に入学して三カ月後、父の曽 った。しかし少年フランシスは、この学問の権威に対してす旋で駐仏イギリス大使。 ( ウレット (Sir Amias paulet) の随 でに反抗を企てた。一五七二年十一月にカンオペイア座に新員の一人にえらばれ、一五七六年秋九月一一十五日カレ ! に上 星が現われ七四年三月消え去ったが、それはアリストテレス陸している。それは、聖、、 ( ーソロミューの大虐殺事件後、四 により変化不可能といわれた星座域であったから、少年フラ年目であった。フランスの社会・政界は混乱を極めていた。 アンリ・ドウ・ナヴァラがユグノ・ ンシスにとっては、この一事だけでも、アリストテレスの権国内は宗教戦争で相争い、 威は失墜するに十分であった。伝来の学間は、論議論争には ーの先頭に立ち、ギーズ公がス。ヘインや法王と結んでカトリ イクの先頭に立っていた。国王アンリ三世〔在位 1574 ~ 89 〕は 役立つが、人間生活の福祉に対してはなんら生むところがな いというのが、その意見であった。しかし、当時の伝統的学疲れて無力であり、ただ名のみの王であった。フランスにお 問に対する反抗は、いうまでもなくフランシスがはじめてでけるこの内乱抗争は、その後、ギーズ公とアンリ三世がそれ ぞれ凶刃に倒れたのち、アンリ・ドウ・ナヴァラが自ら進ん ない。すでにヘンリイ八世の時代にトーマス・モアや、その でカトリイクに改宗し、九三年ロマ教皇の允許をうけて位 オランダの友人工ラスムスは、スコラ哲学及びアリストテレ スに反対し、またフランシスの父ニコラス・べ ーコンも当時式をあげ、ここにヴァロア朝にかわってブル、ポン朝が始まっ の大学に支配的であったアリストテレス的学風に反対の意見たことをもって終結を見た。 を懐いていた。ケンブリッジにおける教育法にフランシスが 少年フランシスは、ほ、ほ二カ年半フランスにあってこれ
457 解説 ーコンは、当代の名門の子弟の一 かくてフランシス・べ イタリア語から英訳し上梓しており、またスイスの熱烈なカ ルヴィン主義の戦士テオドール・べザ (Theodore Beza. 1519 として生を享け、教養ある家庭に育ち、清教主義の雰囲気の なかで成長した。幼時は、父の領地なるハートフォドシアア ~ 1608 ) からは、その瞑想録を贈られたりしている。彼女は のゴオランべリイ (Gorhambery. Hertfordshire) において ギリシア、ラテンの古典に通じ、フランス語・イタリア語に 堪能であり、カルヴィ = ズムを愛し、極端と愚劣を嫌い二過ごされるほかは、多く口ンドンのストランド〔浜町〕にあっ ーレイ郎 た両親の邸宅ヨーク・ハウスで過ごされた。ヨークハウスか 人の息子を熱愛した。彼女の姉ミルドレッドよ、 : らは、手人れの行きとどいた邸園をへだててテームズ河一帯 ウィリアム・セシル (Lord Burghley, Sir 舅「 illiam Cecil, ートセシル (Robert が見渡せた。そこからは、ポートに乗ったり、あるいは緑の芝 1520 ~ 1598 ) の夫人であり、その子がハ Cecil, 1563 ~ 1612 ) である。・ハ ーレイ卿はエリザベス女王側地を通って、ホワイトホール王宮に出かけることもできた。 近の重臣であり、慎重熟慮をもって四十年間女王に仕え、エ幼少時のフランシスは、父に伴われて、しばしば宮廷に伺候 リザベスのイングランドを偉大ならしめた当代の指導的政治した。フランシスは虚弱な体質であったが、好学的であり、 家であった。 才気英発の少年であった。エリザベス女王は、この早熟な少 三年に目をとめて好んで引見せられ、たわむれて「私の小掌書 卿」 ()y youung Lord Keeper) とよんだ。かって女王が 【彼の年齢を間われたとき「陛下の幸ある治政よりも一一年だけ 年少」である旨を答えて、廷臣たる才を立派にあらわし、女 ン コ王を喜ばしたというのは、有名な話である。フランシス少年 は、父ニコラス卿の鍾愛の子であった。父は、自分の後継者 べ ~ のとしてフランシスに将来を最も期待していた様子がみえる。 〔一時女王がこの少年を「小掌書卿」と称んだのは、このことを女 少王の方でも認めていたことを物語るものであろう。 兄のアンソニイが満十四歳の誕生日を迎え、ケイフリッジ 大学に入学する年齢となったとき、この二人は仲のよい兄弟 であり一緒に育ったので、弟のフランシスも足と共にケンプ リッジに入学するのが最も良いと判断せられたのであるが、
460 らの社会的混乱から起こる様々な害悪を実地に見聞した。宗があったといわれている。第一は、独り閑瑕にあって自らの 教的・政治的・軍事的に社会が一一派に分れて抗争し、陰謀は哲学上の計画を進めること、第二は、弁護士職を得て官職に 相継ぎ、法官の売買によって法は地に墜ち、財政は荒廃し、 就き、高位顕官に昇進すること、第三は、議員として活動す 人民は重税に苦しみ「国土は荒れるにまかされている。それること、である。第一の点に関しては、エリザベス女王並び は少年の心に深い印象を与えた。 にその宰相ーレイ卿から何の援助も期待できなかった。実 一五七九年二月二十日、彼の父ニコラス・べ ーコンは急逝際的政治家の眼から見れば、べ ーコンの哲学的計画なるもの し、その死の報は。 ( リにあったフランシスの許に至った。彼は夢想家の閑文字と見えたであろう。第二の高位顕官に昇進 は、にわかにパリをたち、三月英国に帰来した。フランシスすることも、彼の議員としての活動が、女王の不興を買う始 は十八歳であった。 末となり、結局、エリザベス女王の宮廷において、べー 父ニコラスは落ちついた人柄であったが、あまり落ちつき は、うだつのあがらぬことになっている。が、とにかく、べ すぎて、ゆっくり構えているうちに、その鍾愛の末子フラン ーコンの議員としての活動は、一五八四年以来、彼が政治的 シスのために備えてやることができないままに急逝してしま致命傷をうけて引退するに至るまで、即ち、一六二一年に至 る三十七年間にわたっている。彼の議会における活動と才能 った。結局、彼には父の個人的遺産のうちの僅かな分け前 とには注目すべきものがあり、弁舌・文章ともに優れていた 五分の一が与えられたにすぎず、かくて、彼は、豊かな才能 と大きな野心と、言うに足りぬ遺産とをもって、世に立ち向ことが認められている。事実、彼が最初に有名になったの かわねばならぬことになった。 は、議員としての名声であった。 父のニコラスは冗談を愛好する人だったが、フランシスは 2 精神の形成 この性質を少々過度にうけつぎ、その冗談には辛辣、剃刀の ごときものがあったと指摘せられている。べン・ジョンスン 彼は官職を得て収人の途を講ずる必要に迫られた。彼はイ が、べ ーコンの死後証言したところによれば、この種の冗談 父スーレイ卿に期待したが、しかし、フランシスが期待した をつつしんだ場合には、べ ーコンの弁舌は、立派な批評的な ような香ばしい成果は得られなかった。 一五八四年、二十一二歳のフランシス青年は、。ハーレイ卿のものだったし、何びとも、彼以上に適切に印象的に、重みを 斡旋もあって、下院 (The House of Commons) に議席をもって語ったものは、ついぞなかった。彼の弁舌には、何の 空虚も無駄もなかった。聴衆は、わき目もふらずに彼に注目 得、以来、議員として活動することになった。 フランシス・べ ーコンの生涯にわたる活動には三つの側面し、彼は聴衆を支配する。聴衆のおそれるところは、彼の演
456 また十四世紀以降イタリアにはじまったルネサンスのヒュー マニズム運動は、この十六世紀にはフランスおよびイギリス に展開せられた。中世ヨーロッパの精神的統一体のなかか ら、ようやく近代西欧諸国の原型が専制君主国家の形で打ち 出されてきた時代であり、都市国家経済の段階から王室国家 経済の段階へ発展してきた時代である。十六世紀初頭以来の ポルトガルの繁栄と、この世紀の中葉以降におけるスペイン・ の強盛とは、西欧の国際貿易の活動場面が北海及び地中海か ら大西洋海域に、その中心を移すに至ったことを物語ってい 1 生い立ち る。近代自然科学は、十六世紀にはなおその端初過程にあっ た。それが全貌をあらわすのはべ ーコンの後半生以降の十七 フランシス・べ ーコン (Francis Bacon, 1561 ~ 1626 ) は、 = リザベス朝の第三年、一五六一年一月二十一一日、時の国璽世紀である。 コン印 フランシス・べ ーコンの父サー ニコラス・べ コンは、 尚書卿・枢密顧問官・大法官であったニコラス・べー エリザベス朝における最初の国璽尚書卿であり、時の名望家 (Sir NichoIas Bacon, 1509 ~ 1579 ) の末子として、ロンドン の一人であった。彼は素直な裏表のないサッパ した性格・ にあった邸ヨークハウスにおいて生を享けた。この年はコペ で、冗談を好み、おちついた人柄であった。その最初の結婚 ルニクスの没後十八年、ルッターの没後十五年である。この によって六人の子があり、二度目の結婚によってアンソニイ 年カルヴァンは五十三歳、カルダーノは六十歳、テレジオは 五十四歳、モンテーニュは二十九歳、ブルーノは十四歳であ ( Anthony , 1558 ~ 1601 ) とフランシスの二児を得た。フラン る。ガリレイはべ ーコンの生後三年目に生れ、カン。ハネエラ シスはアンソニイの二歳年下である。この二度目の夫人、ア は七年後に、ケ。フラーは十年後に、デカルトは三十五年後ンソニイとフランシスとの母アン (Anne) は、エドワ に、生れている。以上、当代におけるヨーロツ。 ( の知性たち六世の師傅アンソニイ・コーク (Anthony Cooke) の娘で の同時代的一覧表の一端であるが、これによっても、当代のあった。その生い立ちから、しつかりした教養を身につけた 精神史上のべ ーコンの位置を、ほぼ思い描くことができょ強い性格の女性であったといわれている。彼女は二十一歳の ときに、イタリアの福音主義的宗教改革者ベルナルディノ・ 十六世紀の西ヨーロツ。ハは宗教改革運動の時代であった。 オキーノ師 (Bernardino Ochino. 1487 ~ 1564 ) の説教集を フランシス・べ】 解説 コ 生 山涯 と 本目 正
467 解説 Devereux, EarI of Essex, 1566 ~ 1601 ) は、エリザベスの the Star Chamber) に将来なり得るという権利を得た。こ の職は年収一六〇〇ポンドであるが、しかしそれは空甯があ宮廷にあって、べ ーコンの精神とその抱負とを、高く評価し た唯一の人物であった。工セックスはフランシス・べー ったときの話で、べ ーコンの場合には、その後一一十年も席が よりも六歳若く、エリザベスよりも三十四歳も若かった。工 空かず、彼が俸給にありついたのは、やっと二十四年後とい リーダー セックスの母方の祖母は、エリザベスの母方の最も近い従姉 うみじめさであった。この年、彼はグレイ法学院から「講師」 バリスター (Reader) の称号を得ている。これは「弁護士」の位置にあ妹で、エリザベスとは仲がよかった。またエセックスの母の る者が更に研究して法学を教える資格があると認められた場二度目の夫は、エリザベスが愛した寵臣レスター伯爵ロ・ ( ート・ダドレイ (Robert Dadley, Earl of Leicester, 1532 ~ 合に授けられる称号である。がとにかくべー コンには金がな かった。それで好きな実験もやることができず、研究をすす 88 ) であった。二十一歳のエセックスが、その継父レスター 伯の死後、エリザベスの公然の寵臣となったのは、エリザベ めるもなかった。 スが五十五歳のときである。それまでエリザベスは、長身で レイ卿は、甥のフランシス・べ コンに対して決して 冷たくはなかった。彼は甥のために努力したが、決定するの美男のレスター伯を愛していたのである。工セックスは・ ( レイ卿の後見の下に育ち、十七歳のとき、継父レスター伯に は女王エリザベスの手のうちに在った。エリザベスはたしか に教養はあったが、しかしその学間・芸術に対する保護奨励従いオランダに従軍したのが初陣であった。その後、八八年 は、決して彼女の本性的傾向からではなかった。彼女は教養には対スペイン戦に参加し、九一年には、四万の兵をひきい てノルマンディに遠征した。若々しい力にあふれたこの貴公 を重んじたにしても、それは国家や教会の公の事柄に直接か かわる法律上ならびに神学上の教養においてである。哲学的子は、優雅な騎士的風貌をもち、冒険的な名誉心と火のよう いまやーレイ卿セシ 問題に関しては彼女は関心がなかった。むしろ軽視し信頼せな情熱をもっていた。工セックスは、 ル父子一派と、宮廷の勢力を争うことになった。フランシ ず、それに携わることは無用のことであると彼女には思われ ーコンがエセックスに近づいたのは、このような状況 た。彼女ははるかに実際的にイギリスの統治を考えた。 / 彼女ス・べ においてである。 の側近の重臣・ハーレイ卿セシルやウォルシンガムも、彼女と 同様、実際家肌の政治家であった。 一五九三年の議会におけるフランシス・べーコンの演説 一五九一一年兄アンソニイが大陸旅行から帰ってきたとき、 は、エリザベス女王のはげしい不興を買った。たまたま「検 彼は弟のフランシスが、・ハ ーレイ卿に頼ることをやめ、〒セッ事総長」 (Attorney General) の席が空き、べー コンは蠍 ~ 心 クスに近づいていることを知った。工セックス伯爵 (Robert にこれを求め、エセックスも大いに斡旋したが、女王の容れ
461 解説 ~ 訳が終りはしよ、 オしかということであったとある。またウォ られており、教皇とスペインとは、メアリー・ステュアート ルター ス ・ローリイがかって語ったところでは、サルスペリイの王位継承を求めていた。スコットランド女王メアリー・ , 日ロく ート・セシル卿はすぐれた雄弁家だが筆が立たぬ。ノ テュアートの曾祖父は、エリザベス女王の祖父ヘンリイ七世 ーザンプトン伯ヘンリー ・ホワード卿は名文家だが口下手にあたり、もしエリザベスが庶子とせられるなら、メアリ ・フランシス・べ ーコンは、筆も口も達人 、、こ。しかるにサ ・ステアートこそは、最も近い王位継承者であった。メ ーコンの才人振りをしのばせる だったという。頭脳明敏なべ アリーは、スコットランド王ジェイムス五世とマリイ・ド・ 話である。 ギーズとの間に生れ、フランス王フランソワ二世〔在位 1559 当代におけるイギリス政界の重要間題は、女王と英国プロ ~ 60 〕の未亡人であった。スコットランドに帰国後、結婚間 テスタンティズムとに関わる問題であった。一五七〇年以題に失敗して王位を追われ、一五六八年以来、のがれてエリ 来、エリザベス女王は、ロマ教皇。ヒウス五世によって破門せ ザベス女王の許にあったが、陰謀の巣窟であった。一五八四 年十一月の議会に先立つ一年間に、エリザベス女王暗殺の陰 謀が三度も発覚した。この年の十月、有志は集まって、メア リー・ステアートの断罪を求めた。エリザベス女王の生命 は、このとき、英国の利害と自由とに深く結ばれ、。フロテス タントの信仰と結びつけられていた。ローマ・カトリイクの : 朝を 4 物ン徒であるということは、ほとんど謀反人ということと同義で 【あった。女王は深く国教統一の強化を決意し、このため、過 ぐる一五八三年、ケン、、フリッジ・トリニティ・カレジの学長ジ ~ スョン・ホワイトギフトをカンタベリイの大監督に任命し、旧 コ教弾圧を強行せしめた。この人物は誠実な善意ある人であっ たが、狭量な人物で、国教による宗教統一の確立を、自己の 唯一の目的として尽瘁した。・この大監督の手きびしさには、 ーレイ卿も、諫止せんがために立ったほど さすが穏かな・ハ であった。青年フランシス・べーコンはこの当時「エリザベ ス女王に献ぐる進言」なる一文を草している。その執筆の 0
の広大、そしてまたご著書のけだかくてさまざまであること 2 などで、ソロモンの再現であらせられます〔一献詞二、 この王の示された模範になお一つ加えていただいて、自然誌 と実験誌ーーー真実で正確な ( 書物による学問をぬきにして ) 、 そして哲学を建設する基礎となる、つまり、わたくしがその箇 戸本訳書一三〇、二七舛ページ以 " 〕で述べまする , ーー・が編集さ れ完成されるようにご配慮いただきたいのであります。そし てついに、この世の多くの時代を経たのち、哲学と諸学はもは や空中に浮遊することなく、さまざまな経験とよく吟味され 検討された経験との堅実な基礎のうえに立つようにいたした 「ノヴム・オルガヌム」 いのであります。わたくしは、機関〔 〕を提 ( 新しい「機関」 ) のこと 供いたしましたが、材料は事物自体から集められねばならぬ のであります。 全能な神がとこしえに陛下をつつがなくお守りくださいま 亠 , ように。 もっとも恵み深い陛下の もっとも従順でもっとも忠実なしもべ ヴェルラムのフランシス 大法官
468 た。しかし工セックスのあまりに熱むな推挙はかえっ て女王の心証を害し女王を怒らせた。べ ーコンの願い は容れられなかった。 それはべ ーコンにとって不運な年月であった。彼の あらゆる願望は打ち砕かれた。最後に、一女性に対す 公 ムる愛すらも、彼には拒けられた。この場合の敵手はま ンたしてもかのエドワード・コークであった。 / 彼の求め ーレイ卿の長男トーマス・セシルの娘で、 ッた女生よ、く ウィリアム ・ハットンに嫁し、未亡人となっていたエ リザベス ・ハットンである。彼女は若く、しかも美し い富裕な未亡人であった。またしてもエセックスはべ ーコンのために援助の手を差しのべ、彼女の両親トー マス・セシル夫妻に手紙を書き、もし自分が自分の妹 るところとならなかった。べ ーコンの竸争相手は、彼より九を結婚させるとしたら、自分の友なるフランシス・べー 歳年上のエドワード・コーク ((Edward Coke, 1552 ~ 1634 ) よりも好ましい夫はないであろうとのべた。しかし若い未亡 であった。コークは、当代イギリス第一流の法学者と認めら人はべ ーコンを拒絶した。彼女は貧しい弁護士べーコンより れ、当時、「検事次長」 (Solicitor General) の位置にあり、 も、富める検事総長コークを夫として選んだ。一五九七年べ ーコンの論敵であった。べ 議会においても有力な人物で、べ ーコン三十六歳の時のことである。 ーコンが女王の不興を買っていなかったにしても、この勝負 べ ーコンは、ただ富める女性をもとめたにすぎぬといわれ ーコンを熱心に支持したの はべーコンの負けであった。べ ているが、詳しいことは不明である。しかし、べー は、エセックスただひとりにすぎなかった。 当時、財政に苦しんでいたことは事実である。年も一二十歳を はるかに越し、訴訟の依頼人もなく官職もなく、しかも大き ーコンはしりぞけられ、一五九四年、検事次長コークが な負債を負って利子を払い、そうしてさらに新たな負債を背 検事総長に任命せられた。そこで検事次長の甯が空いた。べ 負いこんでいた。親族の者からは、ほとんど援助を期待でき ーレイ卿父子もべー ーコンは、この位置を求めた。今度は・ハ なかった。負債は殖え、彼はユダア人の金貸や質屋に走っ ーコンを推挙し コンを推し、エセックスはふたたび熱心にべ べ 第 第
466 ートの断罪請求案を提出している。この年彼はグレイ法学院 の「上席員」 (Bencher) となり、正規の「弁護士」 (Barrister) の資格を得ている。翌八七年一一月八日、メアリー・ステュア ートの死刑は執行せられた。やがて延期されていた議会は再 び招集され、スペインに対し、ネーダーランドを援助するた ーコンはその際の委員の一人 世めの補助金が議決せられた。べ スであった。ス。ヘインとの戦端は開始せられ、一五八八年の アルマーダ 〉、、毎みザ夏、スペインの無敵艦隊は潰えた。この年の十一月十一一日、 エリザベス治下の第七議会が招集され、スペインの新しい攻 ーコンはその法案の委員と 撃に備えて防衛費が議せられ、べ なり報告者となった。フランスではこの年、ギーズ公アンリ が暗殺され、翌八九年には国王アンリ三世が暗殺されてヴァ ロア朝が断絶している。 3 失意と不遇 事物との正しい結婚である。この結婚から、勇ましい諸々の 講員としてようやく認められてきたが、この時代ごろ、べ・ 発明という子供たちが生れ、往古のヘラクレスのごとく、地 ーコンはいつも恵まれず、不幸であった。彼の生涯のはじめ 上から災厄や苦悩を一掃し去るのである。ついでべーコンは アリストテレス以来の哲学者たちのすべてに手きびしい攻撃の四十五年間というもの、彼はほとんどいつも借金し、金に . を加え、イドラを排除することをもって始めるべきである苦しんでいた。兄アンソニイには援助を頼むわけにはゆかな と警告して文を終わっている。以上が「時の生産的誕生」と題かった。というのは、アンソニイ自身が、七九年から九二年 まで大陸に旅行し金が必要だったからである。一五八〇年か する断簡の内容であって、それは彼の「大革新」 (Magna コンは白父ーレイ ら八八年にわたり、フランシス・べー lnstauratio) の最初の萌芽であり、ほぼ彼の二十五歳ごろ やウォルシンガムやレスターなどに色々頼んでいるが、しか このような形をとっていたと推察せられるものである。 翌一五八六年十月二十九日に招集せられたエリザベス治下し、香ばしい成果は得られすにいる。やっと八九年になって クラーク ザ・スター・チャムパ ・ステュア 伯父ーレイのとりなしで、星法院議院の書記 (Clerk of の第六議会にべーコンは他の議員と共に、メアリー
ぎつぎにそれ自身を訂正してゆく望みはまったくなかったの でーーというのは、精神がむそうさにだらしなくうけいれ、 おさめ、たくわえる、事物についての第一次的諸概念 ( そこ から他のすべての概念がおこる ) は、誤り、混乱し、事物か ら軽率にひき出されたものであり、第一一次的以下の諸概念も またそれにおとらず勝手気ままで、気まぐれなものであるか らーーわれわれが自然の探究について用いている人間の方法 全体はうまくつくり上げられ、たてられていずに、いわばし りつばな大建築であることを免れな つかりした基礎のない、 ヴェルラムのフランシスはこう思索した。そし 、 0 というのは、人びとは、精神の見かけだけの力に驚嘆 てそれを知ることが現代のものにも後代のものに し、それをほめたたえて、 ( 精神がそれに適当な援助が ' 与え もたいせつであると考えた方法を心中に定めた。 られ、そしてそれ自身も、無力でありながら事物に対して威 張らずに、事物に従順であるなら ) じっさいにふるうことも 人間の知性がわれとわが身を苦しめ、正しい助け ( 人間が 自由にかりうる ) をまじめにうまくかりず、そのために事物できる、精神のほんものの力を見のがし失ってしまうからで ある。それゆえ、つぎのただ一つのことーーすなわち、仕事 についてのさまざまな無知がおこり、事物についての無知か のちに述べるこよってはじめからやりな ら無数の損害が生ずることはたしかであると信じたので、わをい 0 そうよい方策〔正しい帰納法〕冫 のちに ( 本訳書一一二〇ペ 1 おし、そして正しい基礎からきすきあげて、学問と技術と人 たくしは、あの精神と事物との交わり〔 ジ ) 「精神と宇宙との結婚」 といわれている。事物の本性がそのあるがままに知性の認識となること。そのよ 間のあらゆる知識との全般的革新を行なうことーーー以外に道 うな完全な認識を、人間は堕罪前にもっていたが、堕罪とともに失ったと信・せら 明れた。本訳書二 声 はなかったのである。ところで、このような企ては、とりか 〕 ( それに比べられるものが地上に、あるいは少な 名くともこの地に属するものにほとんどみられない ) を完全かるさいには、さいげんがなく、また人間の力をこえるよう しかしじっさいにとりかかってみ にみえるかもしれないが に、あるいは少なくともいっそうよく回復することができな 鞏いかどうか、全力をつくして試みねばならぬと考えた。さ ると、健全で穏当であるーーこれまでなされたものよりもす て、これまで行なわれてきた誤りや、今後いつまでも行なわっとそうであるーーことがわかるであろう。というのは、こ れるであろう誤りが、 ( 精神が放っておかれるとき ) 知性自の道はある目標に到達するが、しかし諸学に関してすでに行 なわれているものにおいては、いわば旋回とたえまのない動 身の力によって、あるいは論理学の援助と支持によって、つ 大革新 〔著者の声明〕