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検索対象: 世界の大思想6 ベーコン
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1. 世界の大思想6 ベーコン

271 一般の人びとや君主から与えられるのである。なおそのうえ未成熟な精神のしるしであ 0 て、そのような企てははじめは このような進歩はただ人びとから報酬や恩典を与えられ有望なようにみえても、だんだんむずかしくなって、最後に . は混乱におちいると考える。ところで、このような考えはま ないだけではなく、一般の賞賛さえも得ることができない。 というのは、そのような進歩は大多数の人びとの理解をこえじめで判断力のすぐれた人びとにとかくおこるものであるか るところにあって、世論の強風のために圧倒され消し去られら、われわれはもっとも善いもの、もっとも美しいものへの・ やすいからである。したがって、尊重されていなかったとこ愛のとりことな「て、判断の厳格さをゆるめたり加減したり・ ろのものがうまく成功しなくても、すこしもおどろくにはあしないようによく注意しなければならない。そしてどんな希・ 望の光がかがやき、どこからそれがさしこんでくるかを注音 たらない。 ぶかく調べなければならない。そして希望のかすかな光には 目もくれないで、それよりももっと堅実であるようにみえる ものを徹底的に吟味して熟考してみなければならない。なお しかしながら、諸学の進歩と諸学における新しい仕事や領 域の開発とにと「ても「とも大きな障害は、人びとが絶望しそのうえに、原則的に疑「てみて、人事について好ましくな アリ , トテレ , 「弁〕社会生活の知恵をよび い面をも考えてみる〔論 て不可能だと考えることに認められる。というのは、思慮ぶ おこし、それに助言を求めなければならない。そういうわけ かくて厳格に考える人びとは、自然の暗くてあきらかにしが たいこと、生命の短いこと、感官の欺きやすいこと、判断力で、ここに希望についても語らなければならなくな「たので の弱いこと、実験の困難なことなどを考えてみて、学問の進あ「て、それというのは、とくに、わたくしはいたずらに約・ 東をこととするものでなく、また人びとの判断に圧力を加え 1 歩などにまったく不信をいだくのがつねであるからである。 そういうわけで、そのような人びとは、諸学には、時間が経たりわなをかけたりするものでなく、人びとが自発的に進む ム 過し時代が変わるとともに潮の干満のようなものがあり、諸ようにいわば手をと「て導くものであるからである。とこる で、人びとを個々の事例に、そしてとくにわたくしの発見表 学はある時代には成長して花咲くけれども他の時代にはしぼ ( その一部分はわたくしの革新の第二部爵の一一西に属す んで落花するーーーしかもある段階と状態に到達したのちに るが、しかしその大部分は第四部〔ド関」応の当に属 ヴは、もはやそれ以上進むことができないような仕方でーーと する ) において分類され整理された事例ーーそれはただの希 考えるのである。 そういうわけで、だれかもっと偉大なことを信じたり約東望ではなくて、いわば希望する事物自体であるからーーに導 いて行くとき、それは希望を鼓吹するのにもっとも有効な方 したりするひとがあっても、さきの人びとは、それは無力で

2. 世界の大思想6 ベーコン

ことが不可能であって、人間の理解力をこえているという説 - ( ただし、それを徴証とよぶことが適当と仮定してのこ 〕それはまた、学聞 とである。というのは、それはむしろ証言であり、しかもすがおこ「たもとである。〔本物書八八。〈ージ べての証言のうちもっとも有力であるからである。 ) その徴の行動的・作業的部門において、たとえば、太陽の熱と火の 熱とはまったく種類を異にしているーーすなわち、人びと 証というのは、人びとが現在追従している創始者たち自身の は、火の作用によって、自然界においておこるものに似た結 告白である。すなわち、事物についてじつに強い確信をもっ と - 果をおこさせ生することができると考えてはならない て断定を下す人びとでさえも、ときとして、反省してみて、 。、 0 一・八八、本 自然の徴で細であることや、事物の本性の不分明なことや、 いう説などがおこったもとである〔 〕それはま 訳書二六七ページ た、人間のする仕事はただ合成だけであって、混合はただ自 人間の知力の弱いことについて悲嘆の声をあげるようになる ことがある。ところで、それらの人びとがただそう嘆くだけ然だけができる仕事である・・ーーすなわち、人間は技術によっ であるなら、臆病な人びとは〔それを聞いて〕探究を進めるてある自然的物体を生み出したり変化させたりすることを期 という説がおこったもとである。そう ことをはばまれるかもしれないが、もっとはつらっと自信を待してはならない こよって人びとはとか いうわけであるから、このような徴証ー もった精神の人びとはかえってそのために鼓舞され刺激され てさらに前進して行くであろう。ところが、それらの人びと く用心して、ただ絶望しているだけではなくいわば絶望に身 はただ自分自身についてそう告白する〔嘆く〕だけでは満足をまかせている学説に自分の運命と労力をかかわらせなくな せすに、かれら自身にとって、あるいはかれらの師にとってるであろう。 知られず手のつけられぬものは何でも可能性の限界外にある 七六 と主張し、あたかもかれらの技術の権威によってのように、 なおまた、むかしの哲学者のあいだに大きな意見の相違が それらは知られることもなされることも不可能だと断定する のであって、かれらはこのうえなく高慢で嫉妬ぶかく、自分あり、そして学派そのものもひじように多種多様であったと いう徴証もまた見のがしてはならないのであって、このこと 3 の発見の無力を棚に上げて、自然そのものを誹謗し、他のす べての人びとをも絶望におとしいれるのである。そしてそれは、哲学の同一の対象 ( すなわち事物の本性 ) がちりちりば ム ヴ は、公然とアカタレプシアを唱えて、人間を永遠の暗黒におらばらにされて、あのようにとりとめもないさまざまな誤り としいれた新アカデミア派〔ハ「一一「い凸がおこ「たもとでとな「たとき、感官から知性〈の道がまだよく固められてい ある。それはまた、形相すなわち事物の真の種差 ( これこそなかったことを十分に示すものである。そしてこのごろは、 一・五。一い凸 ) は発見される原理自体と哲学体系全体についての意見の相違と学説の差共 まさに純粋活動の法則である〔訳

3. 世界の大思想6 ベーコン

266 技術があらゆる民族と時代において、またあらゆる宗教におれてはいない文句にしてしまうのがつねであって、学問全体 いてさえも、何ごとかをなしえ、あるいは欺くことができたを包容するかのようにみせかけもせず、またそのように公言 もしなかった。しかしながら、現在のような状態では、もうず のは、ある特定の限られた種類の問題に対してだけであった ということにとくに注意しなければならない。そういうわけっと以前に完成して、もはや手を加える余地のないものとし であるから、それらのものはとり上げずにおく。しかしそれて伝えられているものについて、人びとがもはやそれ以上の はとにかく、豊富だという考えが窮乏を招いた原因であってものを求めなくても、すこしもおどろくにはあたらない。 、。ニ献詞一四 も、すこしもおどろくにはあたらなし本訓書六五ペ 1 ジ 八七 八六 なおそのうえに、むかしからある学説は、新しい説を唱え なおまた、学説と技術に対する人びとの感嘆は、それ自体た人びとの虚妄と軽薄のために、その評価と信用を大いに増 し加えられたのであって、このことはとくに自然哲学の行動 としては単純で子どもじみたものであるが、学間をとり扱い 伝えてきた人びとの奸計と策略によって増し加えられた。す的作業的部門において事実である。すなわち、あるいは軽信 なわち、それらの人びとは学問を、ひどくはでに飾りたてて から、あるいは欺瞞から、人類にとてもせおいきれぬほど多 出し、あたかも学問がそのすべての部分を通じて完成し完結 くの約東をした饒舌家や空想家がいたのであって、かれらは しているかのようにつくりあげ、いわば装うて、人びとの目生命の延長、老衰の防止、苦痛の軽減、生得的欠陥の矯正、 にみせるのである。すなわち、その方法と部門を考えてみる感官の惑わし、感情の抑制と刺激、知的能力の啓発と高揚、 なら、それらの学問はその対象となりうるすべてのものを包実体の変化、運動の任意の強化と増大、空気の圧搾と変化、天 括し包容しているようにみえるであろう。そしてそれらの部体の影響力の引出しと利用、将来の事物の予一言、遠い過去の 門は、からつ。ほで、あき箱のようなものにすぎないのに、し事物の再現、かくれた事物の開示などといった多くのものを かし世間一般の知性には完全な学問の形式と計画のようにみ約東したり誇示したりしているが、しかしこのようなおおま かな約東をする人びとについては、つぎのような判断を下し えるのである。 ところが、真理の最初のそして最古の探究者たちはもっとてもたいした誤りはないであろう。すなわち、哲学の学説に 誠実に、またもっと幸運に、かれらが事物の考察から集め、利おけるこれらの人びとの虚妄と真の技術との相違は、歴史の 用するために貯えようと考えた認識をアフォリズム〔七・七、・本記述におけるカイサルやアレクサンドロス大王の事蹟とガリ 訳書一二 アのア「ディス〔に普及した、中の同名の騎士物語の主人公 〕こ、すなわち短くて断片的な、体系式に整然とつなが 八べージ冫

4. 世界の大思想6 ベーコン

して、その任務の遂行にその全精力をそそぎ、生涯をささげでなかったのである。すなわち、現に、書物だけではなく、 るようなものでなければならないのであって、それゆえに、 天体儀や地球儀や天体観測儀や地図などといったものも、天 実務から、あるいは実務につくことから期待されてよい、ふ文学や宇宙誌の補助品として、備えられている。また、現に、・ つうの、あるいは相当の出世につりあうだけのものでなけれ医学のために設立されたある研究所は、あらゆる種類の薬草・ ばならない。したがって、諸学を栄えさそうと思うなら、ダを栽培する農園施設を併置し、また解剖のために死体を自山 ビデの軍律、「戦いに下っていったもののわけ前と、荷物の に使っている。しかしながら、こうしたことは、ごく少数の かたわらにとどまっていたもののわけ前とを同様にしなけれ場合に限られている。一般に、実験のためにある程度の費川 さもをひきあてなければ、自然の秘密をあかすのに、これという 「サ、記上」〕を守らなければならない。 ばならない」〔三〇の二四 なければ、荷物の扱いがおろそかになるであろう。したがっ 進歩はほとんどみられないであろう。その実験が、ウルカヌ 空飛ぶ術を発明したといわれる名工匠で、イ て、諸学を講する人びとは、じつは、専門の活動的実務に従スあるいはダイダルス〔 カルスーーー本訳書一二ページ注参照ー・ーの父 事する人びとがそこから補給をうける、諸学の糧食倉庫を守すなわち熔鉱炉あるいは機械に関するものであろうと、ある・ るものであり、それゆえに実務家と等しい報酬をうけなけれ いはその他いかなる種類のものであろうと、それは問うとこ ばならない。そうでなくて、諸学の親たちがもっともひょわろではない。 こういう次第で、国務大臣や君主のスパイが情・ な人びとであったり、あるいは栄養がわるかったりすると、 報収集のための請求書を提出するように、自然の秘密をさぐ、 「こ馬がひょわに生まれて、親のひょわさを再現する。」 り情報を集めるものには、その請求書を提出することを、許 ウエルギリウス「農 さなければならない。そうでないと、消息に十分通ずること 耕詩」三の一二八 はできないであろう。 一〇わたくしは、また別の欠陥を指摘しようと思うが 一一そして、アレクサンドロスは、アリストテレスが自 これを説明するには、ある錬金術師の話をたとえにかりる必 巻要がある。かれは、人びとに、書物を売りはらって、熔鉱炉然誌を編纂することができるようにと、財宝を気前よくはず 第をつくれ、ミネルウアやムサイ〔文学 哲学と〕は石女だから、これんで、猟師や捕鳥者や漁師などの給与にあてさせた〔 ~ 鯑 ' 歩を見すて、そのもとを去り、も「ばらウルカヌス〔 仕事の神 火と鍛冶〕こ 「 3 〕が、そうとすれば、自然の学間に労苦するほどの人びと 二の献詞によれば、諸学の迷宮において進んで行くべき道を開く人びと たよれと要求するのである。ところで、たしかに、多くの学 ただ事実を収集するのではなく、自然にはたらきかけ、自然を変える人びと とくに自然哲学と医学との、深くて、みのりの豊かな、 は、なおさらそのような待遇をうけるのに値するのである。 効験のある研究には、書物だけが道具なのではないのであっ 一二わたくしが指摘するもう一つの欠陥は、大学の管理 て、書物以外の道具を供給することにも、人びとはやぶさか者たちが諮間することを、君主や高官たちが視察することを

5. 世界の大思想6 ベーコン

20S なると、論争とやかましくほえる議論がおこり、ただそれだ いな、それだけではなく、最初に考え出されたときに、もっ けに終わ「てしま「て、それが成果を生む代わりをするのでとも盛んであ「て、のちに衰えるこ】とさえもある。氛 ある。なおまた、この種の諸学がまったく死んだものでなか というのは、人びとがまったく自主性を失って、た 訳書二五〕 ったなら、もう何百年ものあいだいつもそうであったこと だひとりのものの意見に ( ちょうどローマの徒歩登院の元老 監察官によって議員名簿に登録されず、自分の投票 も、すなわち、諸学がほとんど不動でその場所にいつまでも院議員〔 〕のように ) 賛 権をもたずに、たた他人の説に賛意を表するたけの とどまっていて、人類にふさわしいような成長をきたさない 同するだけになってしまうと、人びとは諸学そのものを拡大 というようなこともなかったであろうと思われる。じっさせずに、ただある創始者たちを飾りたて、とり巻くという奴 、その停滞はまったくひどいものであって、なんども、た隷的な仕事をつとめるだけであるからである。なおまた、諸 だ、同じことが主張されるだけではなく、同じことがくりか学はしだいに成長をつづけてきて、やっと成人なみになり、 えし問題とされて、間題は論争によって解決されずに、かえそしてついに ( その定められた成長の過程を終えたかのよう って固められ煽られるほどである。そして学説の伝達と継承に ) 少数の創始者たちの成果のうちに安定した場所を占めた とのすべては、ただ師匠と弟子とを示して見せるだけであっ のであって、もはやそれよりもよいものが発見されることが て、発見者とすでに発見されたものに何かこれというものをできないのであるから、すでに発見されたものを飾りたてあ つけ加えるひととを示して見せはしないのである。ところ がめるほかはないなどと異論を唱えるものがあってはならな が、機械的技術においては、それと反対のことがおこってい もちろん、このようであったら願わしいことだろう。し るのがみられる。すなわち、それらの技術は、さながら生命 かし、そのように諸学に自立性をなくさせることは、少数の の気息とでもいったものにあすかるように、日々成長し、完人びとの自信と他の人びとの無気力と怠慢からおこったのだ 成されてゆくのであり、そして最初に考え出されたときに というほうがいっそう正しくまた真実である。すなわち、諸 は、たいてい粗雑で、のろくさく、ぶかっこうにみえるが、 学が部分的に多分熱心に研究されとり扱われたのち、たまた しかしのちには新しい性能といっそう便利な構造をもつよう ま、その精神が大胆で、その方法が簡便なために世に迎えら になるのであって、それらの技術がその完成の頂上に到達すれもてはやされるある学者〔ア テ幻ス〕があらわれたのであ「 るよりもさきに、人びとの熱意と欲望はもうそれに対してな て、この学者は、みかけだけは学問をうちたてたようであり くなって、リ 男のものに向かうほどである。ところが、それと ながら、じっさいは先人の努力を台なしにしてしまったので 反対に、哲学と知性の諸学は、さながら立像のようにあがめある。しかし、そういうことも後代の人びとにとっては好ま られまつられるだけであって、おし進められることはない。 しいことであったのであって、それというのは、仕事がらく

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このことの必要性は、論理学にひじように大きな役割を認めり、そして人びとがその仕事に素手でとりかかるなら、正気 た人びともまた気づいたにちがいない。そしてそのことによの見物人で、これをじつにはなはだしい狂気のさただといわ って、それらの人びとが知性のために援助を求め、精神の生ないものがあるだろうか。また、職人の数をふやし、こうし て仕事をなしとげることができると信するなら、なおさら狂 具的で自発的な活動を疑わしいものと考えたことはあきらか 気のさただといわないであろうか。また、いわば選択を加え である。しかしこの救済策も、もう窮迫した事態には手おく て、弱いものを除ぎ、ただ元気で強いものだけを使い、こう れであって、精神は生活の日々の慣習のために、正しくない 教説や学説のとりことなり、このうえなく虚妄なイドラにとすればとにかくその望みを達成することができると期待する なら、なおいっそう気が狂っているといわないであろうか。 りかこまれている。したがって、かの論理学という学問は、 なおそのうえに、それだけでは満足せすに、競技術の助けを その警戒はもう手おくれ ( さきにいったとおり ) であって、 も借りようと考えたあげく、その術によって手と腕と筋肉を 事態をたてなおすことができずに、真理をあきらかにするよ りも、むしろ誤りを固めるのに役だつだけであった。事態を十分に練り鍛えたすべての人びとをよび集めるなら、いわば 計画的に思慮ぶかく発狂しようと骨おっているのだと、これ 健全にし、安全にするためには、精神の仕事全体をもう一度 やりなおさせ、そして精神を、そもそものはじめから、けつをみるひとは叫ばないであろうか。しかもなお、人びとは、 して放っておかすに、たえす指導を加えて、その仕事をいわ知力の多数と協同とによって、あるいは知力の優秀と鋭敏と によって偉大な成果を期待したり、あるいはまた論理学 ( 一 ば機械によ「てのように行なわせる〔一・一ニニ、本〕ほかよ ない。じっさい、人びとがその知的な仕事をほとんど精神の種の竸技術と考えられることができよう ) によって知性の筋 力だけで企てることをためらわなかったと同じように、機械肉を鍛えるときには、さきの例と同じような気違いじみた努 を必要とする仕事をも、道具の力と助けをかりすに、ただ素力と無益な協力とによって知的な仕事をしているのであっ て、かれらはひじように熱心に努力しながら、しかもなおあ 手でしはじめたなら、たとえ懸命の努力をいっしょになって いかわらすただ知性だけで事に当たろうとしている ( 正しく しても、かれらが企てなしとげることのできるものはごくわ ずかであったろう。さて、このたとえ話しをしばらくつづけ判断するなら、そう思われる ) のである。ところが、人間の て、この例を、いわばかがみとして、考えてみよう。すなわ手でなされるすべての大きな仕事においては、道具と機械な しに、各個人の力を集中することも、万人の力を糾合するこ 、こういうことをとり上げてみよう ( そうしていいなら ) とも不可能であることはまったくあきらかである。 と思うのであるが、あるじつに大きな方尖塔を戦勝ゃあるい はその種の祝事に光彩をそえるために運ばねばならなくな そういうわけで、うえに前提として述べたことから、わた

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279 ことがだれの念願にもほとんど思いうかばず、不可能なもの 一〇八 としてまったく問題にもされなかったようなものであるとい ところで、過去の誤りにわかれを告げ、あるいはそれを是うこともまた希望をいだかせるのである。すなわち、人びと 正して、絶望をなくならせ、希望をいだかせることについて は新しい事物について占うさいに、古くから知られている事 はすでにうえに述べておいたが、つぎに、希望をいだかせる物の例によって考えて、それによる色めがねをかけて想像す ものに、なおどんなものがあるかを考えてみなければならな るのがつねであるが、そのようなものの考え方はひじように ところで、すぐに思いつくことであるが、多くの有用な誤っているのである。というのは、自然の源泉からおこるも 発見がいわば偶然にふとした機会から、それを求めすに別の ののうち多くのものは定まった水路を流れないからである。 ことをしていた人びとによってなされたのなら、それらの たとえば、大砲の発明されるまえに、それがどんな結果を生 人びとがそれを求めそれにつとめるーーしかも衝動的にあるするものであるかを説明して、城壁やもっとも堅固な堡塁を いは漫然とではなく、一定の方法と順序に従ってーーーとき、 もひじように遠いところからゆり動かしてうち倒すことので それよりもずっと多くのものが発見されるにちがいないとい きるような発明がみつかったというひとがあったなら、人び うことはだれも疑わないところである。というのは、あるひとは投石機やその他の機械の力をおもりと車輪といったよう とがとくに骨おってさがし求めているときに見つからなかっ な突進と衝撃のしかけによって増大する方法についてじつに たものに偶然出くわすというようなことも一度や二度はある多くのさまざまなことを考えたであろうが、しかしあのよう けれども、全般的にはそういえないことはまったく疑う余地 にとっぜんはげしく膨脹して爆発する火の爆風についてはほ がないからである。したがって、これまで発見のきっかけと とんど何もだれの想像や空想にも思いうかばなかったであろ 第なっていた偶然や動物の本能といったようなものからより う。すなわち、それに類似のものは手近にみられずに、地震 も、人間の理性と勤勉と一定の方向と意図的な努力から、・ずや雷電がそうだと考えられたかもしれないが、それらは自然 「と多くのい 0 そうよいものがい「そう短い期間に発見されの驚異であ「て人間の模倣できぬものとして人びとによ「て ・オるという希望がもてるわけである。 ただちにしりそけられたであろう。〔 本訳書七五ペ 1 ジ ム 同じように、絹糸が発見されるまえに、亜麻や羊毛よりも 一〇九 ずっと細くありながら、しかもそれらよりずっと強く、また美 なおそのうえに、すでに発見されたもののうちあるもの しく、柔らかくあるような、衣服にも調度にも使える一種の は、それが発見されるまでは、それについて何か考えてみる糸が発見されたというひとがあったなら、人びとはすぐにあ

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227 むかしのソフィストに対する憎しみからそうしたのであろう と、あるいは心の迷いのためにそうしたのであろうと、ある いはまた豊富な学識のためにそうしたのであろうと、とにか く、その説についてけっして軽視されるべきでない理由をあ げているのであるが、しかしかれらは、その説を正しい原理 からひき出したのではなく、またある種の執意と気どりのた めに、まったく極端に走ったのであった。しかしながら、もっ と古い時代のギリシア人〔 0 一・六三、七・一、本訳書九〇、二四七、一一 五三ペ〕は、 ( かれらの著作はなくなっているが ) いっそう思 慮ぶかく、断定の高慢とアカタレ。フシアの絶望との中間の立 場を守った。そして探究がむすかしく、対象がはっきりとら えられないことについてしばしば嘆きかっ訴え、さながら馬 がくつわをかむようなこともあったが、しかも研究の対象を 追求し、自然の世界に没入することをやめずに、この問題 ( すなわち、何かが知られうるか ) は、義論によってではな く、経験によって決定すべきだと考えた ( ように思われる ) 。 自然について、すでに探究しつくしたかのように、語るこ 独断派の人びと、一 . ・〕は、単なる確信しかし、かれらもまた、ただ知性の力だけにたよ「て、規則 言とをあえてした人びと〔六 からそうしたのであろうと、あるいは野心的に、学者ぶってを用いることはなく、熱心な思索と精神のたえまのない活動 スそうしたのであろうと、哲学と諸学にこのうえなく大きな損と行使によって万事を解決しようとした。 さて、わたくしの方法は、実行することは困難であるけれ ル害を与えたのであった。というのは、それらの人びとは、世 ども、説明することは容易である。すなわち、それは確実性の 人の信用を得ただけ、それだけ研究を抑止し中断させること ヴを助長し、自分の能力によって利益を与えた以上に他人の能階段をつくる方法であって、感覚の権能を、それにある種の制 限を加えて認めるが、しかし感覚につづいておこる精神のは 力をそこない空しくすることによって害をなしたのであるか らである。他方、これと反対の道を進んで、まったく何も知たらきは大部分しりぞけて、感官の知覚から出立する新しく 懐疑派の人びと、ま、 て確実な道を精神のために開く方法である。〔「大革新」の区分、 られることはできないと主張した人びと〔 前注の箇所参照〕ー ノヴム・オルガヌム 大革新の第二部 ノヴム・オルガヌム〔新機関〕、また自然の解 明についての正しい指標と題される

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衆が、あるいはもっとも賢明な者でさえもが、大衆の気に入に立っていては、残るくまなき発見を行なうことはできない るために、進んで認めようとするのは、実質と深みのあるも が、それと同じように、同一の学問の水平面に立っているは のよりも、通俗的で表面的なものではないかのような考え方 かりで、高級の学間にまで上ってゆかないならば、どのよう・ であるが、こうした考えのまちがっているわけをいうと、時な学間にせよ、その深遠なところをきわめることが不可能で は川や流れに似た性質をも 0 ているようで、それは、軽い、空あるからである。〔 本訳書九七ページ」 気のつまったものは運んできてくれるが、重い、なかみのつ 五・六もう一つのあやまちは、人間の精神と知性に対す ま「たものは沈めてしまうというのが真相なのである。气 0 る過度の尊敬と一種の崇拝からおこったものであるが、この」 七一・七七、本訳書二五四、ノ 二五八。へ 1 ジ、五三 あやまちゅえに、人びとは、自然の考察と経験の観察をすっ 五・四さきに述べたすべてのものとはちがった性質の、 かりやめてしまって、勝手なりくつをこね、根も葉もないこ・ もう一つのあやまちは、まだその時機でもないのに、無理やとを考えて、ころげまわったのである。これらの自分勝手な りに、知識をでき上った学問や体系式の書にまとめてしまう 思いにふける人びとは、そうはいうものの、ふつう、もっと ことであるが、そうされると、諸学は、もう少ししか、ある も崇高で、神のような哲学者と考えられているが、ヘラクレ いは少しも進歩しないものである。ところで、若い人びと イトスはかれらに正当な非難をあびせて、「人びとは、真理 ~ は、その手足の形がしゃんと定まり、からだっきも十分に整をかれら自身の小さい世界に求めて、大きい共通の世界に求・ と、っている。すなわ うと、そのうえ身長を増すことがめ「たとないように、知識めなか 0 た」〔「教師連 0 論駁 , 七 0 一 = 一 = 一し もアフォリズムや所見であるあいだは、発達をつづけるけれち、人びとは一字一字をひろいながら、少しずつ、神のみわ ども、一度きちんとした体系式の書に収められると、さらに ざをしるしている書物〔凹を判じとることをさげすみ、それ 磨きをかけられ、光らされ、実際の用にうまくあうようにさ とは反対に、たえず冥想し精神をゆり動かして、かれら自身、 れることはあるだろうが、しかしもはやそのかさとなかみをの霊をせきたて、いわばよび出して、それに予言をさせ、神 増すことはないのである。 託を告げさせるのであるが、そのためにかれらがまどわされ 。 0 一・八ニ、本 五・五いまあげたものからおこるもう一つのあやまち るのも当然なのである〔 訳書二六二ページ は、個々の技術と学問がいろいろ専門に分かれたのち、人び 五・七これといくらか関係のあるもう一つのあやまち とは、事物の普遍的認識あるいは「第一哲学」〔 は、人びとがいつもきまって、かれらの冥想したあげくの考・ 三、本訳書八一 凵を〕を顧みなくな「たことであるが、これはすべての進歩えと学説を、かれらがも 0 とも感心した考え方やも 0 ともよ をとどめはばまずにはおかない。というのは、平地や水平面 く研究した学問の色に染まらせ、他のいっさいのものにも、

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られていたために、すぐれていたことが個々の事例にみられ欠を補って、それらの人びとは、宗教と正義と名誉と善行な るからである。たとえば、ネ口が未成年であったあした、。 : - へどの平地を歩むには完璧であり、それらの道を油断なく進ん でゆくなら、そのほかに、さきにいったようなものはほとん ダントのセネ力が国政を握っていた、いまもほめそやされて いる、ネロ帝即位後最初の五年間のローマの国家がそうであど必要としないのであって、それはちょうど、健全なあるい は栄養のよい身体が医薬を必要としないのと同じであるから ナタキト。「編年史、一三また、小ゴルディアヌス〔皇帝・ = である。また、一個人の生涯の経験も、一個人の生涯のかす ・またのちにはミシテウスが国政をつかさど 0 。二凹四年死が未成年で かすのできごとに対して範例や前例を提供することはできな - 。へダントのミシテウスが国政を握っているのを国民が得心し いのである。というのは、息子よりも孫とか後裔とかのほう - てやんやの喝采をしていた、十年間あるいは十幾年間もそう が先祖に似ていることがときどきあるように、現在のできご であった。また、それ以前に、アレクサンデル・セウエルス とが後代やつい最近のものによりも昔の範例のほうに似てい 、が未成年であ。たあいだ、婦人たち〔霧〕が統治し て、それをまた教師たちゃ助言者たちが援助していたのでそることがしばしばあるからである。最後に、一個人の財力が ういえるのだが、。。 ( タントとたいしてかわらぬ人びとが国政公庫とたち打ちできないように、一個人の知恵は学問に匹敵 しえないのである。 を握っていて、同じように幸福であった時代もそうであっ しっとはなく精神をそそのかし ニ・四つぎに、学問は、、 た。いな、ローマの教皇の政治、たとえば、いすれも就任の て堕落させるとか、政治と支配に対して気乗りうすにさせる ときはただペダント的な托鉢僧だと考えられていた。ヒウス五 とか、誤っていわれている一々のことについていえば、たと 世や現代のセクストウス五世の統治をよく調べてみるなら、 そのような教皇のほうが、王侯の邸宅に育てられ政務の処理えそのようなことがあるとしても、しかもなお、学問は気乗 をおそわってから教皇の位に上ったものよりも、偉大な事業りうすや優柔不断のもととなるよりも、むしろどの場合にも というの 、、まんとうに国家本位にどしどし事を運ぶことがわ強い医薬と治療となることを忘れてはならない。 巻を行なし。 第かるであろう。というのは、学問をしこまれた人びとは、便は、学問はひとめにつかぬはたらきによって、人びとを去就 に迷わせ不決断にさせるとしても、他方、はっきりした教則 歩法と臨機応変の策ーーそれらを、イタリア人は「国家理由」 のラジオニ・ディ・スタト、フ 、つ、いかなる根拠にもとづいて決断 によって、人びとに、し ランス語ではレーゾン・デタ 〕とよんでおり、さきに名をあげてお すべきか、いな、どうしたら、決断するまで、ものごとを宙 いたビウス五世は、このことばがロにされるのをじっと聞い ぶらりにしておいて損害をこうむらないかを教えるからであ てはおれす、それを宗教にそむき善行にそむく策略だといっ る。また、学問は人びとを規則にこだわって一歩もあとへひ 、しかし他方、その たのである・・ーー・に欠けるかもしれないが