感官 - みる会図書館


検索対象: 世界の大思想6 ベーコン
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1. 世界の大思想6 ベーコン

241 そう深く探究せずに、、、 たくさんある ) の本性もほとんど知られていない。というの 〕やしい消減的なものにたすさわってい 齠自然的原囚を信ずるし るとみられたくないという僣越と傲慢からして、経験の光をは、感官は、助けられないと、弱くて誤りやすく、また感官 しりぞけ、世人の思わくをおそれて、通説に反するものをしを拡大したり鋭敏にしたりする道具もたいして役だたず、い りぞけるなど、要するに、じつにさまざまな、ときとして気「そう正しい自然の解明はみな、事例と適切で妥当な実験に よってなしとげられのであって、そのさい、感官はただ実験 づかれない仕方で、感情が知性をしめらし色づけるのである。 について判断するだけで、実験が自然と事物自体について判 。「大革新」の区分、 五〇 断するからである〔 本訳書二一九ページ しかしながら、人間の知性のもっとも大きな障害と錯誤は 五一 感官の愚鈍と無力と欺瞞からおこるのであって、そのため 人間の知性は、その固有の本性からして、ひき離されたも に、感官は、たといそのほうが重要なものであっても、それ 変化する質料からひき離され、恒〕のほうにひ 0 ばられて、変化す を直接刺激しないものよりも、それを刺激するものを重んすの繼 るのである。したがって、考察はほとんど視覚とともに終始るものを恒常不変であると考えがちである。しかし、自然を して、見えないものはほんのわすかしか、あるいはま「たくそのようにひき離す〔躓きよりも、自然を分解する〔要こ ほうがよいのであって、このことは、他の学派よりも自然をふ 観察されないのである。したがってまた、触知される物体の かくきわめたデモクリトスの学派がなしたところである。 うちに閉じこめられた精気の作用もまったくかくれていて、 人間によ「てとらえられない。〔け・〈ての実体のうちには、生物にも無われわれが考察せねばならぬのは、むしろ質料、すなわち質 たとえば、カシの 実からカシの木が 巻だそ 0 作用 = 0 みあらわれる精気 ( 液体また l) なおまた、粗大な物体料の構造とその構造の変化であり、純粋活動〔 成るように、可能的なものから現実的なものが成る運動 ( アリストテレス 第 〕とそ のいわゆる「キネシス」 ) であって、質料的実体の構造の愛化にともなうもの の諸部分におけるいっそう微細な構造の変化 ( それはふつう ム の活動ないし運動の法則である。というのは、形相の ) とよばれているが、じっさいは微分子間に 変化〔いわる「性〕 原子論者の考えたように、物体の変化は、 な、質料からひき離され〕は人間の精神がこしらえたものであるか 〕である〔 徴分子の配列の変化である。、 0 ニ・六、 励おこる移動わる「場 この意味の形相こ オ本訳書三〇 1 コンが探究 〕 ) もま「たく知られない。しかしそれにもかかわらである。も 0 とも、かの活動の法則を形相〔そ、・〈 の目標と ム 〕とよぼうとするなら話は別である〔訳 らず、わたくしがうえにあげた二つのものが探究されて、正したもの 体をあきらかにされないかぎり、自然界において何も大きな 成果をあげることはできない。なおまた、ふつうの空気と空 気よりも稀薄であるすべての物体 ( そのようなものもじつに それゆえ、わたくしが種族のイドラとよぶものはうえにあ

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る。つぎに、感官が対象をとらえる場合にも、その捕捉はた持し尊重するのだと考える。そして以上述べたところのこと いして信頼のおけるものではないのであって、それというのが、わたくしが自然の光そのもののために、またそれをとも してさしこまさせるために用意することであって、人間の知 は、感官の証言と告知はいつも人間に合うようになされて、 宀于宙に合うようになされるのではなく、したがって感官は事性が平らで、空白な書板のようであるなら、もはやそのほか に何も必要としないであろう。しかし、人間の精神は、おど 物の基準であると主張することはまったく大きなまちがいで ろくべきほどひどくとりつかれているので、事物の光を正し あるからである。〔一・四一、本〕 くうけとれるような純粋で平らな面がないのであるから、 こういうわけで、わたくしは、これらの困難に対処するた わば必然性にせまられて、わたくしは、このような事態に対 めに、多くの忠実な奉仕をして、感官のために補助手段をい たるところに求めてもちきたり、その欠けているところに補しても救済策を求めねばならぬと考えるのである。 さて、精神がとりつかれているイドラ うものを与え、その不安定なところに調整を加えようとし 〔訳書一一九ページ以下、 た。とい 0 ても、わたくしは、器具によ「てよりも、むしろ・三八以下お本〕は、外来的なものか、生具的なものかであ 実験によってこれを企てるのである。というのは、実験の微る。そのうち、外来的なものは、哲学者たちの学説と学派か ら、あるいは証明のまちがった法則から人間の精神にはいっ に入り細にわたることは、感官ーーー・精巧な器具の助けをかり てくる。他方、生具的なものは、知性そのものに固有のもの る場合でさえもーー自体のそうであるよりもずっとまさって いるからである。 ( わたくしがここに実験というのは、問題であって、知性は感官よりもずっと誤りにおちいりやすいも になっているものを目指してうまくたくみに考案されしくまのと非難されている。というのは、人間はどれほど自分自身 れた実験である。 ) したがって、わたくしは、感官の直接的が気にいって、人間の精神に驚嘆しそれをほとんど崇拝する ばかりであっても、平らでない鏡が光を、それ自身の形と切 な固有の知覚をたいして重くみずに、感官はただ実験につい てのみ判断して、実験が事物について判断するように事態を断面とによ「てゆがめるように、精神もまた、事物から感官 。 Z 0 一・五 0 、本 分処理する〔 〕それゆえ、わたくしは、感官 ( 狂を通じて印象をうけるとき、それ自身の概念を分離し混合す 訳書二四一ページ の気であることを欲しないかぎり、自然に関するすべての認識るさいに、けっして忠実でない仕方で、事物の本性に自分の 革はそこから求められなければならない ) の信心深い祭司とし本性をはめこみまじえ加えることはまったくたしかであるか 大 らである。 て、いわば感官のお告げのけっして未熟ではない解明者とし 「外来的なもの」、 さてイドラのうち、最初の二つの種類のもの〔 てふるまったと考える。そして他の人びとがただ口さきだけ すなわち、哲学 でそうするのに反して、わたくしは、じ 0 さいに、感官を支者たの学説と証明のまちが 0 〕はぬきとることが困難であるが、最

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げたようなものである。それらのイドラは、人間の精神の実売りわたしてしまって、それをほとんど役にたたない論争的 自然の不均一なものをとらえず、〕、先入見なものにしてしま「た。また、錬金術師の連中も、少数の炉 体が均一であることから〔多種多様なものを均一的に考える をいだくことから、狭小であることから、たえず動いておちによる実験から空想的でただ少数の対象にのみかかわる哲学 つかないことから、感情がしみこむことから、感官が無力でをつくりあげた。冝 3 二わサー・オヴ・ラフ ( 不老不死齠 あることから、あるいは印象をうける仕方から 3 相的なものに 研究した〕なおまたギルベルトウス〔わ一・五・七、ニ八・五、 料的なもの 磁石の研究に刻苦精励したのち、それからただちに、かれ自 〕おこるのである。 の考際を怠る 身がとくにたいせつだと考える対象にうまく合致するような 哲学をつくりあげた。 洞窟のイドラは、各人の、精神と身体との、固有な本性か 五五 らおこるものであって、なおそのうえに、教育と習慣と偶然 。以下、五八まで洞の 哲学と諸学とに関する精神のもっとも大きな、いわば根本 〕この種のイドラ からおこることもある〔 イドラについて述べる は多種多様であるけれども、ここには、もっとも警戒を必要的な区別はこうである。すなわち、ある精神は事物の差異を とするもの、すなわち、知性を汚してその純粋性をなくする を認めることにいっそう向いているということである のにもっとも強い力をふるうものをあげよう。 カ , ト「純粋理性批判」、先験的弁証論の付録、純粋理念の統整〕すなわち 五四 堅実で鋭敏な精神はじっと考察しつづけ、ゆっくり考えて、 どんな徴細な差異にも目をとめるが、高所にたってあちらこ 人びとはある特定の学間や研究にひどく愛着するのであっ て、それというのは、人びとが自分自身それらの創始者と発ちら見渡す精神は事物のもっともかすかで一般的な類似を認 明者であると信するからであり、あるいはそれらに最大の努めて、それをいっしょにするのである。しかし両方の精神と 力を傾注したからであり、あるいはそれらにもっともよく習も、一方は事物の微妙な = = アンスをも、また他方は影をも 熟しているからである。ところで、このような人びとは、哲とらえようとして、極端に走りがちである。 学と一般的な研究をやりはじめると、そのまえからいたいて いる空想によってそれらのものをゆがめいためてしまう。そ してこのことは、アリストテレスにおいてとくにあきらかに ある精神は古いものに感嘆し、またある精神はむやみに新 しいものを愛好してそれにだきつくが、しかしうまく中庸を 認められるのであって、かれはその自然哲学をその論理学に

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363 ノヴム・※ルガム第 2 巻 れるのであって、それというのは、この実験はこれら少数のないためか、〔六〕対象の刺激が感官によって耐えられない 発見をしただけであって、それらと同じく探究に値する、他ためか、〔七〕対象があらかじめ感官を満たし占有していて、 の多数のことがらはまだこの方法によっては発見されていな新しい運動の余地がないためかである。そしてこれらのこと いからである。 は主として視覚にかかわり、ついで触覚にかかわるのであ 〔三〕第三類のものには、測地竿、観測儀などといったよう る。というのは、これら二つの感覚は、広い範囲にわたっ なものがある。これらは視覚の力を強めないで、その誤りをて、〔感覚に〕共通の対象について告知するのに反して、他 正し直すものである。その他の感官をその直接的で個別的な の三つの感覚は、直接に、〔それぞれに〕固有の対象につい 作用において助ける事例がほかにあっても、それらの事例て告知する以外は、ほとんど報告しないからである。 は、すでに与えられている告知以上に何ものをも加えないよ 〔一〕第一類のものにおいては、〔感覚されえないものを〕感 うなものであるなら、当面の問題とは何のかかわりもないわ覚されうるものとするためには、遠距離のゆえに認知しえな けである。それゆえ、わたくしはそのような事例には言及し いものに、もっと遠方からでも感官を喚起し刺激しうる他の なかったのである。 ものがつけ加えられ、あるいはその代わりをせねばならぬの であって、たとえば、のろし、ベルなどといったものによる 四〇 報知の場合がそうである。 特権的事例の一つとして、・第十七に「召喚的事例」をあげ 〔二〕第二類のものにおいては、〔感覚されえないものが〕 感覚されうるものとされるのは、中間の物体の介在のために よう。この名称は法廷から借用したものであって、それとい うのは、この事例は、以前に現われなかったものが現われる内部にかくれていて、容易にあきらかにされえないものが、 ように召喚するからである。これをわたくしは、「喚起的事その表面にある、あるいはその内部から現われ出るものによ 例」ともよぶことにしている。これは感覚されえないものを って、感覚されうるものとされる場合であって、たとえば、 感覚されうるものとする事例である。 人間の身体の状態が脈膊、尿などといったものによって感覚 されうるものとされる場合がそうである。 さて、事物が感官によってとらえられないのは、〔一〕対 象が遠距離にあるためか、〔一一〕中間の物体によって感覚が 〔三、四〕しかしながら、第三類と第四類とのものにおいて 遮断されるためか、〔三〕対象が感官に印象を与えるだけの は、感覚されえないものを感覚されうるものとすることは、 力をもたないためか、〔四〕感官を刺激するだけの量が対象じつに多くの対象とかかわりをもっているのであって、事物 の探究のさいに、あらゆる方面において試みられなければ に欠けているためか、〔五〕感官に作用するに十分な時間が

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361 は、感覚されえないものを感覚されうるものとする。第三の のことをつけ加えることができる。すなわち、〔物体から〕 分離した非物体的なものや実体が存在するということの証明ものは、その終末または完結においてでなければ ( たいてい の場合は ) 感知されないような事物と運動の連続的過程ない 自撚哲〕にと「ても実行可能で は、感覚に従「て哲学するもの〔学 し系列を示してみせる。第四のものは、感官がまったく頼り あるということである。というのは、物体から発出する自然 にならない場合に、何かその代わりのものを与える。第五の 的な性能と作用がある時間とある場所に、まったく物体なし に存続しうるということは、その性能と作用が起源においてものは、感官の注意と観察をよびおこして、それと同時に事 も非物体的実体から発出しうるものであるということとほと物の徴で細であることに限界を設ける。つぎに、これらの一 んどちがわないゆえである。それというのも、自然的作用をつ一つについて語らなければならない。 維持し伝達するために要する物体的本性は、それをひきおこ し生み出すために要する物体的本性におとらないように思わ れるゆえである。 特権的事例の一つとして、第十六に「戸口の事例」ないし 「門の事例」をあげよう。というのは、わたくしは、感官の 直接的作用を助ける事例をこの名でよぶからである。さて、 つぎに五組の事例があって、これらをわたくしは、「ラン 告知に関するかぎり、すべての感覚のうち、視覚がもっとも 。フの事例」ないし「最初の告知の事例」という一つの一般的主要な地位を占めることはあきらかであるから、主として視 名称でよぶことにしている。これらは感官を補助する事例で ところで、こ 覚のために補助が求められなければならない。 巻 。うえにあげた事例が知性を補助する事例であるのに対して、 〕と、うの場合の補助は三通りであるように思われる。すなわち、 つぎにあげる五つの事例は感官の欠陥を補助する事例であるし 第 みえないものを〔一〕知覚できるようにするものか、〔二〕遠 のは、自然の解明はすべて感官から始まり、感官の知覚か 距離から知覚できるようにするものか、〔三〕いっそう精密 スら、まっすぐな、不変の、よく整備された道を通って、知性 の知覚。ーー真の概念と一般的命題ーーに達するゆえに、感官にいっそう判明に知覚できるようにするものかである。 自体の陳述ないし報知が豊富で精密であればあるほど、万事〔一〕第一類のものには ( 正常でない視力の欠陥を矯正し幄 ヴがそれだけ容易に好都合に進行するにちがいないからであ減するのに役だつだけで、したがってそれ以上には何も告知 る。 しない眼鏡などといったものを別とすると ) 最近発明された 顕徴鏡がある。これは物体のひそんでみえない細部とかくれ さて、これら五つのラン。フの事例のうち、第一のものは、 感官の直接的作用を強化し、拡大し、矯正する。第二のものた構造と連動とを ( 映像の大きさを異常に増大させることに

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だけは例外であって、これは理性と普遍哲学によってでなけ 喚覚とにおいの場合のほかはめったにおこらないのであるか ら、当面の問題とたいしてかかわりはない。それゆえ、感覚れば矯正されない。 きれえないものを感覚されうるものとすることについては、 これだけにしておこう。 しかしながら、人間には感覚されうるものとされないもの 特権的事例の一つとして、第十八に「道程の事例」をあげ よう。これをわたくしは「巡行的事例」とも「関節的事例」 が、ときとして、他の何らかの動物ーーある場合には人間の ともよぶことにしている。これは、徐々につづけられる自然 感官よりもすぐれた感官をもっているーーには感覚されうる の運動を示してみせる事例である。ところで、この種の事例 いくつかのにおいが大には とされることもある。たとえば、 感覚されうるものとされ、外部から照らされない空気のうちは、感官によってとらえられないというよりも、むしろ観察 によってとらえられないのであって、それというのは、こう にかくれて存在する光が、ネコ、フクロウなどといったよう しう間題に関しての人びとの不注意はおどろくべきものであ な、夜間に目のみえる動物には感覚されうるものとされる。 るからである。じっさい、人びとは自然をただ気まぐれに、 「事の本性に〕が正しく指摘したよう すなわち、テレシウス〔 0 に、空気自体のうちには、かすかでうすく、その大部分が人そしてときたま、物体がすっかりできあがってから考察して みるが、それがつくられているあいだはかえりみないのであ 間の目やたいていの動物の目には役にたたないものではある が、ある本源的な光が存在しているのである。というのは、 る。しかしながら、あるエ匠の才能と勤勉をさぐり出しはか うえにあげた動物は、このような光がその感官に適合してい り知ろうと思うひとがあるなら、そのひとは、ただ、この技 るので、夜間でもものをみわけるのであって、そうすること術の素材を調べ、つぎに、完成した作品を調べるだけでは満 第 、、、光なしに、あるいは〔動物の〕内部の光によってでぎるな 足せずに、むしろ、このエ匠が創作にたすさわり仕事を進め スどとはとても信、せられないからである。 ている現場にいあわせることを望むであろう。そして、自然 さて、わたくしは、ここでは感官の欠陥とその対策を論じ に関しても、何かこれに似た態度がとられなければならな ル ているのだということを、とくにことわっておく必要があ い。たとえば、植物の生長について探究しようとするひと は、何かの種子をまいた当初から、いつどのようにして種子 ヴる。というのは、感官の誤りは、感官と感覚される対象とに がふくらみ、ふくれあがり、 いわば精気で充満しはじめるか 関する別個の研究にゆだねられねばならないからである。た 9 だし、事物の限界を、宇宙になぞらえてでなく、人間になそを調べ ( これは、土中に埋められて二日目、三日目、四日目 ・四一、凸等々にな「た種子を、毎日のようにとり出し、注意ぶかく吟 らえて定めるという、あの重大な感官の誤り〔訳

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237 一般の論理学に役だつのと同じであるからである。釟九い一 一、本訳書一一九〕 四一 人間の知性をすでにとらえてしまって、そこにふかく根を おろしているイドラと誤った概念は、ただ、人びとの精神を 種族のイドラ〔と一・一四・夬本召は、その根基を人間性そ とりかこんで、真理がはいってくることをむずかしくしてい のものに、人間という種族または類そのものにもっている。 るだけではなく、真理がはいってくることを許され認められというのは、人間の感官が事物の尺度だという説は誤りであ るようになったのちも、人びとがあらかじめ用心して、でき って、それとは反対に、すべての知覚は、感官のものも精神 るだけ、それらのものに対して身を守らないかぎり、それらのものも、宇宙になそらえてでなく、人間になぞらえてつく は、いざ、学問を革新しようとすると、ふたたびあらわれてられるからである。そして人間の知性は事物の光線をまとも じゃまをするであろう。 にうけいれないでこ、ほこのある鏡のようなものであって、事 物の本性にそれ自身の本性をまじえ、事物の本性をゆがめ、 変色させるのである。〔種族のイドラについては、のちに詳しく、、 0 人間の精神をとりかこんでいるイドラには四種類ある。そ れらに ( 説明の便宜のために ) 名をつけて、わたくしは、第 一のものを種族のイドラ、第二のものを洞窟のイドラ、第三 洞窟のイドラ ニ・一四こ 0 、〕は各個人のイドラであ 巻のものを市場のイドラ、第四のものを劇場のイドラとよぶこ る。すなわち、各人は ( 人間性一般に共通の誤りのほかに ) 第とにした。 自然の光をさえぎったり弱めたりする個人的な洞窟や穴のよ ム うなものをもっているのであって、それは各人に固有の特殊 四〇 ガ な本性によることもあり、自分のうけた教育と他人との交わ りによることもあり、読んだ書物と自分の尊敬し感嘆する人 正しい帰納法によって概念と一般的命題をつくりあげるこ ヴとは、イドラのはいってくるのを防ぎおつばらうのに適切な びとの権威によることもあり、あるいはまた、印象が先入見 方策にちがいないが、しかしイドラを指摘することもきわめと偏見をいだいた心に生するか、それともかたよらないおち ついた心に生するかという、印象の相違によることもあり、 て有益である。というのは、イドラについての正しい研究が 自然の解明に役だつのは、ソフィスト的論破法〔びの研究があるいはまたほかの事情によることもある。したが「て、人 六、本訳書二四、二九一ページ

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デミア派のここかしこにみられる多くの人びとが、この説を学問的な経験明〔その詳細は、「ノヴム・オ 日ルガヌム」に述べられる〕と名づける。そして すなおにまた誠実に奉じていたことはたしかである。しかし、 と自然の解明前者は後者への階梯と基礎なのである。しか かれらは主としてつぎの点において誤っていた。すなわち、 し、さきのつもりをあまりにながながと述べたり、あまりに かれらは欺瞞の罪を感官におわしたのであるが、感官は、わ多く語ったりしないことにしよう。 たくしの判断によれば、 ( かれのならべたてる小理屈にもか 言語あるいは論証の発見は、本来の意味におい かわらず ) 、真理を証言し伝達するまことに十分な能力をもては、発見ではない。というのは、発見するということは、 っているのである。もっとも、感官は、いつも直接的にそうわれわれが知らないものの正体をあきらかにすることであ われわれがすでに知っているものをとりもどしたり、よ するわけではなく、比較によって、器具の助けによって、感官 にとってあまりにとらえにくくあるようなものをひき入れ、 び出したりすることではないのに、この発見の効用 駆りたてて、ある程度、感官によってとらえ得るようなものと は、われわれの精神がすでにもっている知識から、われわれ それ自体はとらえられない空気 の考慮する目的にかなうものをとりもどし、あるいはよび出 する〔 を空気ポンプによ。てとらえるなど、その他、類似の助けに よってそうするのではあるが。かれらは、欺瞞の罪を、感官すことにほかならないゆえである。それゆえ、ほんとうをい えば、それは、発見ではなく、応用をともなう想起か、ある におわすべきではなく、知性のカの弱さと、感官の報告をも いは示唆かである。そしてそういうわけで、スコラ学者は、 とに推論し結論する仕方とにおわすべきであった。わたくし がこういうことを語るのは、人間の精神を不具あっかいするそれを判断のあとにおき、それにつづくものであってさきだ つものではないとしたのである。それにもかかわらず、かこ ためではなく、精神をふるいおこして援助を求めさせるため いのある猟園で鹿を狩る場合でも、かこいのない森で狩る場 である。というのは、人間はどれほど器用で練習をつんでい 合と同じように、それを狩猟と考えるのであるから、そして ても、手のたしかさだけでは、まっすぐな線や完全な円を書 くことはできないが、これは定規やコンパスの助けをかりれそのような発見でも、すでに発見という名を得ているのであ るから、それは発見とよばせておこう。ただし、この種の発 ばわけなくできるからである。 歩 一三・五諸学の発見に関係のある、この発見の部門をわ見の目標と目的は、われわれの知識をいつでもとり出してす ぐに使えることであって、それを増したり加えたりすること 問たくしは、これから ( もし神がお許し下さるなら ) 、叙説す ではないということが認識され、識別されていなければなら るつもりであるが、それにさきだって、これを二つの部門に 燔区分する。その第一の部門をわたくしは、「学問的な経験」 その二つの意味については、 Z 0 一・一 0 、 一三・七このように知識を即座に使えるようにするため 〕第二の部門を「自然の解 一、一 0 三注、本訳書一一七六、二七七ページ

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218 りたり他の学問へ貸したりしている。つぎに精神の第一次的 は、観念的なものになってしまわずに、うまく限定されてい て、自然がじっさいに自分自身にいっそうよく知られている諸概念を尊重する。そして最後に、感官の直接の告知をうま われわれにいっそうよく知られているもの、すなわち、個別 くこなして、それに満足している。しかしわたくしは、真の と認めるもの〔 的なものに対して、自然にいっそうよく知られているもの、 論理学は、個々の学問の原理がもっているものよりも高位の すなわち、、真 ) 0 あり、事物の心髄にひそんでいるものである。 しかしながら、帰納法の形式そのものと、それによってな権限をもって、諸学の領域に進み入って、それらの原理だと される判断とについても、わたくしはもっとも大きな改革を臆断されているものがまったく確実であることがあきらかに なるまで、それらのもの自身に申し開きをさせるべきである 企てる。すなわち、論理学者たちがロにする、単純枚挙によ と考えた。つぎに、知性の第一次的諸概念はどう。かという って進む帰納法は、こどもじみていて、その結論はあぶなっ と、知性が放っておかれてつくりあげたもののうちで、わた こよってくつが かしく、矛盾的事例〔三、本訳書一四、一一。〈ージ冫 くしにとって疑わしくないどんなものもなく、また、新しい えされる危険を免れず、ただ、慣れているものだけを目にと 審判をうけ、それによって判定されないかぎり、けっして有 めて、成果をあげるにいたらないのである。 効と認められないものでないどんなものもないのである。な ところが、諸学が必要とするのは、経験を解体し分解し、 しかるべき除外と排除を加えることによって、その結論が必おまた、わたくしは、感官そのものの告知をもさまざまな仕 と方で吟味してみるのであって、それというのは、感官はたし 。一・一 0 五、本〕 然的であるような帰納法の形式である〔 訳書二七八ページ かに欺くものであるが、しかしその誤りをも示すからであ ころで、論理学者たちの用いる、あのふつうの判断の方法が る。ただし、誤りは現存しているけれども、それを指し示す あのように骨がおれ、あのように大いに知力をはたらかせる ものはさがしてまわらなければならない。 ものであるなら、まして、ただ、精神の奥所からだけではな さて、感官の罪責は二重である。感官は、ときとして告知 く、自然の内臓からひき出される、この別の判断において を与えず、またときとして誤った告知を与えるからである。 は、どれほど骨をおらねばならぬことであろうか。 しかしながら、まだこれでおわりではない。すなわち、わすなわち、まず第一に、感官が健全でまったく障害をうけな い場合にも、感官によってとらえられないじつに多くのもの - 堵学の基礎をもっと深いところにおき、もっ たくしはまた、一ⅱ があるのであって、それは、そのもの全体が微で細であるた と強く固める。そして探究を、これまで人びとがしたところ よりももっと深いところからはじめ、ふつうの論理学がいわめか、その部分が微小であるためか、そのある場所が遠く離 れているためか、その運動がのろくあるいは速いためか、そ ば信用して認めるものを吟味にかけるのである。すなわち、 論理学者たちは、一つの学問の原理を他の学問からいわば借の対象がなれ親しまれているためか、その他のためかであ

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266 技術があらゆる民族と時代において、またあらゆる宗教におれてはいない文句にしてしまうのがつねであって、学問全体 いてさえも、何ごとかをなしえ、あるいは欺くことができたを包容するかのようにみせかけもせず、またそのように公言 もしなかった。しかしながら、現在のような状態では、もうず のは、ある特定の限られた種類の問題に対してだけであった ということにとくに注意しなければならない。そういうわけっと以前に完成して、もはや手を加える余地のないものとし であるから、それらのものはとり上げずにおく。しかしそれて伝えられているものについて、人びとがもはやそれ以上の はとにかく、豊富だという考えが窮乏を招いた原因であってものを求めなくても、すこしもおどろくにはあたらない。 、。ニ献詞一四 も、すこしもおどろくにはあたらなし本訓書六五ペ 1 ジ 八七 八六 なおそのうえに、むかしからある学説は、新しい説を唱え なおまた、学説と技術に対する人びとの感嘆は、それ自体た人びとの虚妄と軽薄のために、その評価と信用を大いに増 し加えられたのであって、このことはとくに自然哲学の行動 としては単純で子どもじみたものであるが、学間をとり扱い 伝えてきた人びとの奸計と策略によって増し加えられた。す的作業的部門において事実である。すなわち、あるいは軽信 なわち、それらの人びとは学問を、ひどくはでに飾りたてて から、あるいは欺瞞から、人類にとてもせおいきれぬほど多 出し、あたかも学問がそのすべての部分を通じて完成し完結 くの約東をした饒舌家や空想家がいたのであって、かれらは しているかのようにつくりあげ、いわば装うて、人びとの目生命の延長、老衰の防止、苦痛の軽減、生得的欠陥の矯正、 にみせるのである。すなわち、その方法と部門を考えてみる感官の惑わし、感情の抑制と刺激、知的能力の啓発と高揚、 なら、それらの学問はその対象となりうるすべてのものを包実体の変化、運動の任意の強化と増大、空気の圧搾と変化、天 括し包容しているようにみえるであろう。そしてそれらの部体の影響力の引出しと利用、将来の事物の予一言、遠い過去の 門は、からつ。ほで、あき箱のようなものにすぎないのに、し事物の再現、かくれた事物の開示などといった多くのものを かし世間一般の知性には完全な学問の形式と計画のようにみ約東したり誇示したりしているが、しかしこのようなおおま かな約東をする人びとについては、つぎのような判断を下し えるのである。 ところが、真理の最初のそして最古の探究者たちはもっとてもたいした誤りはないであろう。すなわち、哲学の学説に 誠実に、またもっと幸運に、かれらが事物の考察から集め、利おけるこれらの人びとの虚妄と真の技術との相違は、歴史の 用するために貯えようと考えた認識をアフォリズム〔七・七、・本記述におけるカイサルやアレクサンドロス大王の事蹟とガリ 訳書一二 アのア「ディス〔に普及した、中の同名の騎士物語の主人公 〕こ、すなわち短くて断片的な、体系式に整然とつなが 八べージ冫