成り、それ ( 解〕の本性を除外せよ。 である灼熱した鉄のゆえに、〔物体〕全体の場所の連動ある 一「通常の火、なかんずく地下の火 ( これは天体の光線か いは膨脹の運動を除外せよ。 らもっとも遠く、まったく隔たったものである ) のゆえに、 一一、検温計やそれと類似のものにおける空気の膨脹 天体の本性を除外せよ。 それらにおいては空気はあきらかに場所と膨脹の運動をする 三、あらゆる種類の物体 ( すなわち、鉱物、植物、動物の が、あきらかに熱の増加をおこすことはない のゆえにも 体外の部分、水、油、空気等 ) がただ火やその他熱い物体に また、〔物体〕全体の場所の運動あるいは膨脹の運動を除外 せよ。 近づけられただけで熱せられるという事実のゆえに、物体の 多様性やもっと微細な組織をすべて除外せよ。 一一「物体はすべて、目だった破壊や変化をこうむること 四、他の物体を熱しながら、それ自身の重量や実体がまっ なしに、容易に温められるという事実のゆえに、破壊的な本 たく減少しない、灼熱した鉄や金属のゆえに、他の熱い物体性や何らかの新しい本性の急激な分与を除外せよ。 の実体の分与ないし混入を除外せよ。 一三、熱によっても冷によってもおこる類似の結果の一致 五、沸騰する湯や空気のゆえに、あるいはまた、熱せられと合致のゆえに、膨脹的であろうと、収縮的であろうと、 ながら、灼熱しまっ赤に焼けるには至らない金属や他の固体〔物体〕全体の運動を除外せよ。 のゆえに、明るさと光を除外せよ。 一四、物体の摩擦によって熱がおこされるゆえに、〔物体 六、月の光線や他の星 ( 太陽を除いて ) の光線のゆえにも の〕本源的本性を除外せよ。ここに本源的本性というのは、何 また、明るさと光を除外せよ。 らかのそれに先立っ本性によってひきおこされるのでなく、 七、灼熱した鉄と酒精の烙との比較によってもまた ( とい 〔その物体の〕本性のうちにあるものとして見出される本性 うのは、灼熱した鉄のほうは熱が多く、明るさが少ないのに のことである。 対して、酒精の焔のほうは明るさが多く、熱が少ないから ) 、 これ以外にも、なお〔除外されるべき〕本性がある。とい 明るさと光を除外せよ。 うのは、ここでわたくしは完全な表をつくり上げるのではな 八、全体としてもっとも濃密な物体である、灼熱した黄金 く、ただ実例を示すのみであるからである。 あるいは他の金属のゆえに、稀薄性を除外せよ。 うえにあげた本性はいずれもみな熱の形相には属しない。 九、たいていは冷たいものとして見出されながら、いつもしたがって、ひとは熱を扱うさいに、これらの本性をすべて 度外視して差しつかえない。 薄である空気のゆえにもまた、稀薄性を除外せよ。 一〇、そのかさが膨らまずに、みたところ同じかさのまま
いうのは、熱と冷は、量が少ないと、たがいに減ぼしあうが、れ自身にふさわしい位置への適合であり接合である。 ずっと量が多くなって、あい匹敵する軍隊のようになると、た 〔一一〕第十一の運動は、「同化ーないし「自己増ーない がいに陣地から追放し放逐しあうからである。また、肉桂やし「単純生殖の運動」であるとしよう。ところで、わたくし 香りのよいものは、便所や悪臭を発する場所の近くにおかれが単純生殖というのは、植物や動物の場合のような、完全体 ると、 いっそう長いあいだその香りを保っと伝えられているの生殖のことではなく、同質の物体の生殖のことである。す のであって、それというのは、その香りが出て悪臭とまじわなわち、この運動によって同質の物体は、他のそれ自身に近 ることを拒否するからである。ふつうは集結して完全に一体 あるいは少なくともそうなる素質と備えのある物体をそ となる水銀が、人間の唾やブタの脂肪やテレビン油などとい れ自身の実体や本性に転化させるのである。たとえば、ー : ったものによって妨げられて、その諸部分が一体とならない 蒸気や油性物質のうえに自己を増殖して、新しい燼を生み、 ことはたしかであって、それは、水銀の諸部分とこの種の物空気は、水や水性物質のうえに自己を増殖して、新しい空気 を生み、動植物の精気は、その養分に含まれている水性物質 体とのあいだに同感が欠けているためである。したがって、 それらのものによってすっかりとり囲まれると、それらのもや油性物質のうちの稀薄な部分のうえに自己を増殖して、新 のから水銀の諸部分は身を引くのであり、したがって、こう しい精気を生み、植物や動物の固体的部分、すなわち葉、 いった介入物に対する水銀の諸部分の忌避は、それ自身に類花、肉、骨、等々は、それぞれ養分の液汁を同化して、つぎ 似の諸部分と合一しようとする欲望よりも強いのであって、 からつぎへとたえす更新されてゆく実体を生むのである。と これがいわゆる「水銀の苦行」なのである。なお、油が水と ハラケルススとともに、つぎのようなた いうのは、何人も、 巻混合しないということもまた、その原因は、ただ、重量の差わごとをいおうと思ってはならないからである。すなわち、 異にのみあるのではなく、両者のあいだの同感の欠如にある。 パラケルススは ( かれの考案した蒸溜法に目がくらんで ) 、 ム このことは酒精にみられるとおりであって、酒精は油より軽栄養をただ分離によってのみ行なわれるものと考え、目、 いにもかかわらず、水とうまく混合するのである。しかしなが鼻、脳髄、肝臓は。 ( ンや食料のうちにかくれており、根、 + ら、忌避の運動は、硝石やそれと同種の、烙を嫌悪する粗暴葉、花は土壌の液汁のなかにかくれていると考えようとし た。そのわけは、かれの主張によると、ちょうど工匠が自然 、な物体、たとえば、火薬気 +4 訳書三五七。〈ージ〕に、なおまた、水 銀や黄金にもっともはっきりと認められる。しかし、鉄が磁のままの石や木のかたまりから、余分なものを分離し排除す ることによって、葉、花、目、鼻、手、足などといったもの 石の一方の極を忌避することは、ギルベルトウス〔「磁石論」 正しく注意しているように、本来の意味の忌避ではなく、そを制作するのと同じように、われわれの内部のエ匠であるア
ー 385 この衝動は、空気にはたえられずに、他に可触的なものが近れについて多くの誤りにおちい 0 ているのである。 〔八〕第八の運動は、「小集合の運動」であるとしよう。こ くに見出されるなら、そのほうをとろうとするのである。 の運動によって、一つの物体における同質的部分は異質的部 〔七〕第七の運動は、 ( わたくしの命名によると ) 「大集合の 運動」であるとしよう。この連動によ 0 て、物体は、それ自分から分離してたがいに接合するのであり、また、もろもろ - 身と同じ本性をもつ物塊のほうへ、たとえば、重い物体は地の物体全体も、それそれ類似の実体から成「ているので、た 球のほう〈、軽い物体は天の周辺のほう〈運ばれるのであがいに合体し密着し、ときとしてはかなり遠くから集合し、 る。これをス「ラ派は、軽薄にも、「自然的運動」という名牽きあい、合同するのであ「て、たとえば、牛乳の場合に、 ムが浮かび、ブドウ酒の場合におりや で表示したが、そのわけは、この運動をひきおこすものが外しばらくするとクリー 部からは何もみえない ( したがって、スコラ派はこの運動をかすがたまるのがそうである。というのは、このようなこと 事物それ自身に本有的で内在的であると考えた ) ためか、あが生ずるのは、ただ、軽重の運動によ「て、ある部分が表面 るいはおそらく、この運動がけっして停止しないためかであへ浮上し、また、ある部分が底へ沈下することにのみよるの ではなく、それにもまして同質的な部分相互の接合し合一し る。しかしこういうことは少しもおどろくにはあたらないの ようとする欲望によるからである。ところで、この運動は、 であって、それというのは、天と地はいつも目のまえにある 要求の運動とはつぎの二つの点で異なっている。すなわち、 が、それと反対に、ほかのたいていの運動の原因と起源は、 目のまえにあることもあれば、また目のまえにないこともあ第一に、要求の運動においては敵意のこもった反対の本性の 刺激のほうがいっそう強いが、この運動においては ( 障害や るからである。こういうわけで、この運動は中断することが 2 なく、ほかの運動が中断しても、ただちにおこるものである拘東さえなければ ) おのおのの部分は、争いをおこさせる外 来の本性が存在しなくても、友好によって合一する。第一一 から、スコラ派は、この運動を永続的で固有のものと考え、 この合一のほうがいっそう緊密であり、いわばいっそう 他の運動を外来のものと考えたのである。しかしながら、こ の運動は、じっさいは、 ( 物体のかさがひじように大きくな好ましいのである。というのは、要求の運動においては、敵 いかぎり ) 、他の運動が活動しているあいだはそれに従い屈対的な物体を回避することさえできれば、たいして類縁関係 のない物体どうしでもより集まるが、この運動においては、 ヴするのであるから、まことに徴弱で緩慢なものである。また この運動は、他の運動がほとんどかえりみられなくなるほど実体は、親密な類縁関係につながれて接合し、いわば一つに 合流するからである。また、この運動は、すべての複合体の 人びとの注意をひいたが、しかしそれにもかかわらず、人び とは、それについてほんのわすかしか知るところがなく、そうちにも存在するのであって、この接合を妨害する、他の物
〕も食物から分離と排除によってそれぞれの肢れる方法は、若がえりの秘訣にかかわることであるから、注 ルケウス〔 体や身体の部分を制作するゆえである。しかし、そのような意ぶかく探究しなければならない。最後に、うえにあげた九 第二から第十までの九 0 の運動を指す。第一の運動が省かれた〕こ たわごとはさておいて、植物や動物において、それそれの部つの運動〔 のは、それがすべての物体に共通のものであるからであろう 分は、同質的な部分も有機的な部分も、その養分のうち、そおいては、物体はただそれ自身の本性の保存だけを目ざして れ自身とほとんど同じである、あるいはたいしてちがわない 第一の運動からかそえ〕においては、繁 いるが、この第十の運動〔れ 液汁を、最初はいくらか選択しながら吸引し、ついで同化し殖を目ざしているようにみえるということは、注目に値する て、それ自身の本性に転化させるのであるということはきわことと思われる。 めて確実である。そしてこの同化あるいは単純生殖はただ生〔一二〕第十二の運動は、「刺激の運動」であるとしよう。 これは同化の運動と同じ類に属するように思われる運動であ 物体においておこるだけではなく、烙や空気について述べて おいたように、無生の物体もまたそれをいくらかもってい って、ときとしてわたくしは無差別に刺激の運動を同化の運 る。いな、それだけではなく、すべての可触的な生物体に動という名でよぶこともある。というのは、この運動は同化 含まれている鈍い精気も、たえすその生物体にはたらきかけの運動と同じように拡散的、伝達的、移行的、増殖的な運動 て、組大な部分を消化して精気に変え、そしてこの精気はそであって、両者は ( たいていの場合に ) その結果においても れからのちに発散するのであって、重量の減少と乾燥がそれ合致するからである。もっとも、両者は、その作用の仕方と によ「ておこることは、別の機会に〔ニ・四 0 、本 , 〕述べてお基体において異な「ている。すなわち〔作用の仕方について いうと〕同化の運動のほうは、いわば権威と権力をともなっ いたとおりである。なおまた、人びとが一般に栄養の作用と は区別する付着の作用ーー小石のあいだにある粘土が凝固して進行するのであって、それというのは、その運動は、同化 て石のような物質に転化し、歯の周囲にある鱗状のものが歯されるものが同化するものに転化し変化するように命令し強 自体にまけないほど硬い実体に転化する等々の場合のような 制するが、刺激の運動のほうは、いわば巧妙に気づかれすにひ をも、同化の作用から除外してはならない。 というのそかに進行して、ただ、刺激されるものを刺激するものの本 は、わたくしの考えによると、すべての物体のうちには、同性へ招きよせ誘いよせるだけである。また、〔作用の基体に 種のものと接合しようとする欲望と同じように、同化しようついていうと〕同化の運動のほうは、物体と実体を増大させ とする欲望も存在するのであるが、どちらの性能も、ちがっ変貌させるのであって、烙や空気や精気や肉が多くなるので た仕方によってではあるけれども、制限されているからでああるが、刺激の運動のほうは、ただ性能だけを増大させ変貌 る。しかしながら、この制限の仕方は、そしてまたそれを免させるのであって、熱や磁性や腐敗が多くなるのである。と
310 っ られたときに熱をうけいれないものは、触知されるものであ撃そのものによってある程度の熱をうけとる。ーーしたが ろうと、ガス状のものであろうと、われわれのもとには何もて、落下したのちいくらか熱いことがわかるーーのではない 見出されない。もっとも、あるもの、たとえば、空気や油やかどうかを、もっとたちいって探究しなければならない。と 水は、熱を速くうけいれ、他のもの、たとえば、石や金属ころが、空気は、動くと、熱するよりもむしろ冷やすもので は、遅くうけいれるという相違はあるが、しかしこれは程度あって、たとえば、風、ふいご、ロをすぼめて吹いた息の場 の表に属することである。 合がそうである。しかしながら、この種の運動は、熱をおこ 第一五の肯定的事例に対応する第二一の否定的事例これすほど急速ではなく、また、全体としての運動であって分子 には、添加される否定的事例はないが、ただつぎのことだけ 間の運動ではないのであるから、それが熱をおこさなくて はよく注意されなければならない。すなわち、火花が火打ちも、何もおどろくにはあたらない。 石や鋼鉄や何か他の固い実体から発せられるのは、石また 第一七の肯定的事例に対応する第一一三の否定的事例この は金属の実体そのものからある微分子がうち出される場合に事例に関しては、なおいっそう注意ぶかい探究がなされなけ かぎるのであって、一般に考えられているように、空気が摩ればならない。というのは、緑色の湿った草や植物は、 擦されただけでは、けっして火花は生じないということであらかのかくれた熱をそのうちにもっているように思われるか る。なおそのうえに、この火花そのものも、灼熱した物体のらである。ただし、その熱は、ひじように微弱であるので、 重さのゆえに、上方よりもむしろ下方に向かうのであって、 一つ一つの草については触覚に感ぜられないけれども、それ 消えると煤の粒のようなものになる。 らの草がよせ集められ閉じこめられて、その精気が空気中に 第一六の肯定的事例に対応する第二二の否定的事例これ出てしまわずに、たがいに温めあうようになるときには、熱 には添加される否定的事例はないと、わたくしは考える。と 、、、はっきりおこって、そうなりやすい素材の場合にはときど き烙が発することもある。 いうのは、触知される物体で、摩擦によってあきらかに熱く ならないようなものは、われわれのもとにはまったく見出さ 第一八の肯定的事例に対応する第一一四の否定的事例こり れないからである。したがって、むかしの人びとは、天体に事例に関してもまた、なおいっそう注意ぶかい探究がなされ は、その急激な回転によって空気を摩擦する以外に、熱を生なければならない。というのは、水をかけられた生石灰が熱〕 ずるどんな力も性能もないと空想したのである。しかしなが をはらむのは、以前に分散していた熱が結合するためである ら、この種の事例においては、機械から発射された物体 ( 大 ( 密閉された草についてさきに述べたように ) か、それとも 砲から発射された弾丸がそうである ) が〔空気に触れる〕衝火の精気が水によって刺激され激発されて、一種の衝突と村
蒸溜する場合にも、最初に水つ。ほい無益な粘液、それから酒もむしろ吸収がおこる。こういうわけで、入浴するのと水を 精を多く含んだ水、最後に香料を多く含んだ水という順序でかけるだけとでは、人体におよぼす効果がちがうのである。 上昇する。こういうたぐいの、注目に値することがらが、蒸また、小粒の露は空中にあってけっして落下せすに、まき肱 らされて空気と合体する。そして、宝石に息を吐きかけると 溜のさいに、ひじようにたくさん見出されるのであるが、し き、その少量の湿気は、風に吹きはらわれる薄い雲のよう かし実例としてはこれだけにしておこう。 に、すぐに消えてしまうのがみられる。また、磁石のかけら 四七 は、磁石全体ほどには強く鉄をひきよせない。他方、量の少 特権的事例の一つとして、第二十三に「量の事例」をあげない場合のほうがいっそう強力であるような性能もあるので よう。これをわたくしは ( 医学から術語を借用して ) 「自然あって、たとえば、孔をあけるさいには、するどい錐のほう の服用量」ともよぶことにしている。これは、「物体の性能」 がずんぐりした錐よりもはやくつき通り、ダイヤモンドは、 を〔その性能がそのなかにある〕「物体の量」によって測定とがっていれば、ガラスを切る等々がそうである。 し、物体の量がその「性能の作用の仕方」に対してどのよう しかしながら、この場合、不定なもの〔、 量の多少と〕に手間 ) な結果を生ずるかを示してみせる事例である。まず第一に、 っていずに、物体の量は性能の作用の仕方に対してどのよう いくつかの性能は、宇宙的な量、すなわち、宇宙の構成と構 な比率をもっかについてもまた探究しなければならない。 造に合致するような量においてでなければ存続しないのであ いうのは、量は性能に対して等しい比率をもっているので、 って、それというのは、地球は安定しているのに、その諸部一オンスの重さの鉛の球が一定の時間のうちに落下するな 分は落下し、また、海の水はみちたりひいたりするのに、河ら、二オンスの球は二倍の速さで落下するはずであると信ぜ これによると、ペ の水は、海の水があがってこなければ、そういうことをしな られやすいが、これはまったくの誤りであり〔 コンは、ガリレイ・か ピサの斜塔で行なった有名な実験の、 いからである。第二に、個々の性能はほとんどすべて、物体の また、同じ比率があらゆる種 ことを知っていたとも考えられる 量の多少に比例して作用するのである。たとえば、大量の水類の性能にあてはまるわけではなく、比率はそれぞれの場合 . ク量の水はたちまち腐敗する。 はなかなか腐敗しないのに、ト にはなはだ異なるからである。それゆえ、こういう測定は、 ただの確からしさあるいは推測からではなく、事物そのもの ・フドウ酒やビールは、大きな樽のなかでよりも小さな革ぶく ろのなかでのほうがはるかにはやく釀酵して飲みごろにな から求められなければならない。 る。薬草を大量の液体のなかにつけると、吸収よりもむしろ 最後に、すべて自然の探究のさいには、何らかの効果を生 浸出がおこるのに、少量の液体のなかにつけると、浸出より ずるのに必要な物体の量を、いわば〔薬の〕服用量のように
140 徳と義務を、とりででかため、ざんごうでかこって、汚れた きいのであるが、それは、このほうがいっそう一般的な本質 「諞から守った。つぎに、善の段階と相対的な性質のほう の保存に向かうからである。それゆえ、われわれのみるとお は、かれらはまたそれを手ぎわよくとり扱って、善を三組 り、鉄は特殊の共感によって天然磁石のほうに動くが、しか ストテレス「 = 。「。ス倫理学」「の 2 〕に分け、観想の生活と活動し、それでも、一定の量をこすと、それは磁石への共感を捨 て、善良な愛国者が同族の団体のいる土地におもむくよう 〕努力を要する徳と、 の生活とを比較し〔ゴ ~ ~ に「、 に、どっしりした物体の存在する地域と国である大地のほう 習性によって得られる徳とを区別し、正直か利益かの岐路に に動くのである。同様に、また別の例をとれば、われわれの たっ徳を描き」一一の六〕、徳相互の平衡をはか 0 たり みるとおり、水やどっしりした物体が地球の中心に向かって ス倫理学」第三ー四巻〕などしている。それゆえ、この部門はみご 動くが、しかし、それらも、自然の連続がたち切られるのを とに研究されているといってよろしい ゆるすよりは、むしろ地球の中心から上に向かって動き、世 ニ〇・六それにもかかわらず、哲学者たちが徳と悪徳、 。 7 快楽と苦痛等の、一般にうけ入れられている概念に到達する界への義務のために地球への義務を捨てるのである〔、 訳書二五 まえに、善悪の根とその根のひげについてもう少し時間をか 乙この二種類の善とそれらの相対的な価値は、堕落し けて詮議していたなら、かれらは、わたくしの考えによれていない場合の人間にもっとくつきり刻印されているのであ って、人間にとって、公共への義務を守ることは、生命と生 ば、あとにおこる問題に大きな光を投じていたことであろ 活を保持することよりもずっとたいせつなものでなければな う。とくに、事物の本性をも考えあわせていたら〔、か らない。それは、大ポンペイウスのあの記應すべきことばの れらはその学説をもっと冗長でない、もっと深遠なものにし とおりであって、かれは、ローマにおける飢饉のために食糧 たであろう。その点がかれらによって一方ではおろそかにさ れているし、他方では大いに混乱してとり扱われているの供給に専心して、かれの周囲の友人たちから、この荒天に出 で、われわれは、その点をもう一度とりあげ、もっとくつき航するような危険を冒さないようにとはげしく、しきりに引 きとめられたとき、かれはただ、「航海がだいじだ、生きるこ りと展開することにつとめてみよう。 全体の善と 0 プルタルコス「ポン ニ〇・七すべてのものには二種類の善〔 〕を求めとはだいじでない」とい「たのである〔 ペイウス伝」五〇 個体の善 かし、キリスト教の信仰ほどに、社会的な善をはっきりと ~ 「同 る傾向がある。その一つは、すべてのものがそれ自身におい く称揚し、私的で個別的な善を低くみる哲学も宗教もその他 て全体あるいは独立のものであるからであり、もう一つは、 の訓練もないと断言してもまちがいはないだろう。このこと それがいっそう大きな団体の一部あるいは一員であるからで から、生命のない被造物に、うえに述べたような自然の法則 ある。そしてそのうちあとの善のほうが力も強く値うちも大
における運動の普遍的な継起とさまざまの連続的な営みとに 加える方式、それらの本性の度合と加減の方法を知るひと は、それらの本性をある物体において結合して、その物体をよって、形のある植物となるかが探究される場合もそうであ 金に変化させる方法を考え工夫するであろう。そしてこの種る。また、動物の交接から出産に至る、順序をおうて展開さ・ の作業は第一次的な行為に属する。というのは、ある一つのれる生成についての探究もそうであり、また、他の物体につ 単純本性を生み出す方法も、いくつもの単純本性を生み出す いての探究もそうである。 方法も、異なるところはないからである。ただし、いくつも しかしながら、この探究は、ただ物体の産出にだけではな・ の本性を生み出さねばならぬ場合には、そのように多くの本 く、自然における他の連動と活動にもかかわるのである。た 性を一つのものに集めることが困難であるために、 ( それら とえば、食物の最初の摂取から完全な同化に至る、栄養の過一 の本性は、自然のふみかためられたふつうの道を経てでなけ程全体と連続的な作用とについての探究が行なわれる場合が れば、なかなかより集まらないので ) 、ひとは、その作業をそうである。また、表象力への最初の印象と精神の連続的な なすさいに、し 、っそうきゅうくつで不自由である。しかしそ営みから四肢の屈折と連動に至るまでの、動物における有音 れはとにかく、うえにあげた作業の方式は、 ( 具体的な物体的な運動についての探究もそうである。また、分節音が発せ においても、単純本性に注目するのであって ) 自然における られるまでの舌、唇、その他の器官の運動の展開についての 不変、永遠、普遍的であるもの〔単純 本性〕から出立して、人間の探究もそうである。すなわち、これらの探究もまた、具体的 な本性、すなわちより集まって組織をなしている本性にかか 思惟が ( 現状では ) ほとんど理解したり思い浮かべたりする わり、いわば自然の個別的で特殊な習慣を考察するのであっ ことのできないような広い道を、人間のカのために開くとい 巻 て、形相を構成する根本的で普遍的な法則を考察するのでは われなければならない。 第 つぎに、第二の準則は、 ( 「かくれた過程ーの発見にかかわない。しかしそれにもかかわらず、この方法は、さきにあげ ヌるのであって ) 単純本性によって進ますに、自然において見た第一次的な方法よりもいっそう便利で、いっそう手近にあ ガ 出されるままの具体的な物体によって、ふつうの道を経て進って、いっそう多くの望みをいだかせるように思われること は、はっきり認めなければならない。 むのである。たとえば、どんな起源から、どんな仕方で、ど ヴんな過程を経て、金や何か他の金属や石が、元初の溶液や ところで、この理論的部門に対応する作業的部門もまた、 ルデイメントウム 萌芽からっくり出されて、できあがった鉱物になるかが ごくふつうに自然において見出されるものから出立して、も 9 探究される場合がそうである。また、どんな過程を経て、草っとも近くにあるものや、それからあまり遠く離れていない が地中の液汁の元初の凝結や種子からっくり出されて、自然ものへ、その作業をひろげおし進めて行く。しかし、自然に
ならない。 この例としてはつぎのようなものがある。すなわ乾燥のさいにはいつも、何ほどかの量が消え失せるのであっ て、このことは、物体のうちにまえから存在した精気の量に ち、その物体全体が稀薄で徴細である、空気や精気などとい ったようなものが見ることも触れることもできないことはあついてだけではなく、以前は可触的で、新たに〔精気に〕変 きらかである。それゆえ、こういった物体に関する探究のさ 化した物体の量についてもいわれるからであって、それとい 、には、それらを感覚されうるものとすることがぜひとも必うのも、精気は重量をもたないからである。ところで、精気 要なのである。 の発散ないし解放は、金属のさびやその他これと同類の腐敗 これらは、第三類の過程に属する、生命の萌芽に達する そこで、探究されている本性は、触知される物体に包まれ まえに止なのであるーーによって感覚されるようになる。と た精気飛 0 一・五 0 、ニ・淋〕の作用と運動であるとしよう。 いうのは、比較的緻密な物体においては、精気は、のがれ出 というのは、われわれのもとにある触知されるものはすべ て、不可視的で不可触的な精気を包含していて、ちょうど衣るための孔や通路を見出すことができないので、したがっ て、可触的部分をもひつばり出し、おし出さねばならなくな 月がかぶさるように、それを覆っているからである。そして り、そのためにこれらの部分もいっしょに外に出てしまうか そのために、触知される物体における精気の、あの三通りの 強力な源泉とおどろくべき過程が発現するのである。すなわらであって、さびなどといったものが生ずるのはこうしてで ある。しかしながら、いくらかの精気が解放されたのちは、 ち、触知される実体における精気は、〔 1 〕解放されると、 可触的部分の収縮 ( それによってさきに述べた乾燥がおこ 物体を縮め乾かし、〔 2 〕拘留されると、物体を柔げ溶かし、 る ) は、物の硬度自体の増大にもよるが、それにもまして、 〔 3 〕まったく解放されることも、まったく拘留されること もないと、形を与え、四肢を生じさせ、消化、排泄、組織等その収縮から生する、物体の裂け目とひだとしわとよじれに よって感覚されるようになる。というのは、木の諸部分は割 等といった作用をする。そしてこれらの作用はすべて、明白 れてひだを生じ、皮には皺がよるだけでなく、 ( 精気の解放 な結果によって、感覚されうるものとされるのである。 〔 1 〕すなわち、すべての無生の可触的物体においては、そが火の熱によ「て早められると ) それらの部分は急速に収縮 こに閉じこめられた精気は、ます自己増殖して、そうするのするので、よじれてまくれあがってしまうからである。 〔 2 〕それと反対に、精気が拘留されながら、しかも熱ある にもっとも容易でうまくできている可触的部分をいわば食ら いはそれに類似のものによって膨脹させられ刺激されるとき 、、消化し、同化して、精気に変化させ、それからいっしょ になってのがれ出るのである。さて、精気のこの同化と増殖には ( これは比較的固い、あるいは粘りづよい物体において おこることであるが ) 、物体は、白熱した鉄の場合には柔軟 は重量の減少によって感覚されるようになる。というのは、
アリトテ《「天界論」〕これは、説明としてはみごとなもので 力と同じように、動物に生気を与える力もそなわっていると いうことが容易に知られるのである。フラカストリウスある。しかしながら、同盟の事例として、ある低位の彗星が と一・八・五、三六〔六〕、〕のあの有名な発明にかかる、強あるのであ「て、これは、天のはるか下にありながら、円連 ~ く熱せられた鍋ーー瀕死の卒中患者の頭に医者がかぶせるも動をするのである。そして彗星はある特定の星につながれ、 のーーもまた、あきらかに、脳髄の体液と障害のために圧迫あるいはそれに随伴するというアリストテレスの仮想〔 1 ・ の〕は、ず「と以前にうち破られているのであって、それと されてほとんど消え失せた動物精気を膨脹させ、ちょうど火七 いうのは、その理由がありそうにないものであるばかりか が水や空気に作用するように、それを刺激して運動させ、し かもその結果、生気を与えるのである。卵もまた、ときには彗星は天のさまざまな場所を不規則にさまよい動くというこ ) とが経験によってあきらかに知られるからである。 火の熱によって孵化されるのであって、火の熱は動物の熱に しかしまた、この主題に関する、もう一つの同盟の事例 それほどよく似ているのである。この種の例はそのほかにも は、空気の運動であって、熱帯地方 ( ここでは回転の描く円・ 多くあるのであって、火の熱が多くの基体において、天体の がよそでよりも大きい ) においては、空気それ自体が東かう 熱や動物の熱に似るように変化させられうるということは、 西へまわっているように思われるのである。 だれも疑うことができないのである。 また、もう一つの〔同盟の〕事例は、もしも海水それ自体、 同じように、探究されている本性は運動と静止であるとし よう。自然的物体は円を描いて動くか、直線を進むか、停止が東から西へ、一日に二度うち返すような仕方ではあるが、 し静止するかのいずれかであるということは、もはや確定し回転連動 ( 緩慢で目だたぬものであ「ても ) をすることが認一 た区分であって、哲学の根底に根ざすもののように思われめられさえするなら、潮の干満であるだろう。したがって、 もしもそうであるなら、回転運動そのものは、天体にかぎう る。というのは、終極のない連動か、終極における停止か、 終極にいたる移動かそのいずれかがあるからである。ところれるのではなく、空気や水にも共通のものであることはあき・ で、あの永久の円運動は天体に固有のものであるように思わらかである。 なおまた、軽いものの特質、すなわち、上方へ運ばれると れ、停止ないし静止は地球それ自体に属するように思われ、 う特質もかなり不正確である。そしてこの点では水泡を同・ その他の物体は ( 重いとか軽いとかよばれ、本来あるべき場 所の外にあると ) まっすぐに、類似したものの固まりないし盟の事例とみなすことができる。というのは、空気は、水の 集まりのほうへ、すなわち、軽い物体は上方〈、天の周辺に下にあると、急速に水の表面〈向か 0 て上昇するが、これ は、下降する水が空気を上方へおしあげ高める ( デモクリトス・ 向かって、重い物体は下方へ、地球に向かって運ばれる。