知性 - みる会図書館


検索対象: 世界の大思想6 ベーコン
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1. 世界の大思想6 ベーコン

のは、実用に関してはとるに足らぬ笑うべきものであるけれ したがって、それらの事例は、知性を矯正し浄化するため ども、その与える教示に関しては価値のあるものかもしれな の一種の準備として用いられなければならない。知性を習慣 いからである。 となっているものからひき離すものは何でも、知性の表面を 最後に、迷信と魔術 ( この語をふつうの意味に解して ) に 滑らかにし平らにして、真なる概念の乾いて純粋な光を受け いれやすくするからである。 こうい 属することがらも、まったく無視されてはならない。 うことがらは、虚偽と寓話の塊の下にふかく埋もれているけ なおまた、この種の事例は、作業的部門への道を開いてそ れども、やはり少しは調べてみる必要があるからである。すれに備えるものであるが、この点については、のちに、「実 〕を扱うときに述べること なわち、それらのあるものには、たとえば、魅惑、想像力の践への応用。訳書三一一九〈ージ注 にしよう。 増強、遠隔の事物の交感、霊から霊への、ならびに、身体か ら身体への印象の伝達などといったものには、ある自然的作 用がその根底にひんでいるかもしれないのである。 特権的事例の一つとして、第十一に「同伴的事例」と「敵対 的事例」をあげよう。これをわたくしは固定的命題の事例と うえに述べたところからあきらかなことであるが、いまわもよぶことにしている。これは、探究されている本性がい たくしのあげた五つの事例 ( すなわち符合的事例、単独的事わば離れることのない仲間としてたえず同伴されるか、ある いはそれと反対に、探究されている本性が敵対者または反抗 例、逸脱的事例、境界的事例、カの事例 ) は、 ( わたくしが 最初に提示したその他の事例や、これからのちにあげる大部者としてたえず忌避され排斥されるかするような物体または 具体的事物を展示する事例である。すなわち、この種の事例 分の事例がそうであるように ) ある特定の本性が探究される まで保留されるべきではなく、これらの事例の収集は最初か からは、確実な全称命題 ( あるいは肯定の、あるいは否定の ) がつくられるのであって、この命題においては、主語はいま らただちに、一種の個別的自然誌として、つくられなければ ならない。というのは、それらの事例は、知性にはいって来 いったような具体的物体であり、述語は探究されている本性 そのものである。というのは、特称命題は、けっして固定し るものをこなして、知性そのものの不良な性質 考えられ 〕を正しくするからであって、それというのも、知性たものではないーーすなわち、特称命題の場合は、探究され た性質 ている本性はある具体的なものにおいて流動し移動する、 は、日々の習慣的印象によって染められ彩られて、ついには いかえると、つけ加わり獲得され、あるいはまた、離れ去ワ 顧倒させられねじ曲げられることを免れないからである。

2. 世界の大思想6 ベーコン

303 械学よりも〕大きい支配力をもっゆえに、魔術 ( 純粋な意味されなければ一般的命題をつくることができない。したがっ の ) である。〔 て、第三に、〔知性に対する 〕それこそ〔自然の〕解明のかぎで 訳書八六ー九、九二ー三。ヘージ ある正しい真の帰納法を用いなければならない。ところで、 帰納〕についてまず述べたのち、それから他 この最後のもの〔法 このように学問の目標をかかげたのち、つぎに教則に、し の補助〔すなわち、「自然誌と実験誌」および「表」のこと。第二巻にみえ かももっとも秩序整然とした順序で進まなければならない。 ( 本訳書二一五。〈ージ ) によると、「自然誌と実験誌」はその第三部に〕にもど ところで、自然の解明についての指標は、その種類が異なる らなければならない。 二つの部門を包括している。すなわち、第一の部門は、経験 から一般的命題をひき出しつくり上げることに関するもので あり、第二の部門は、一般的命題から新しい経験を導き出し 形相の探究はつぎのように進められる。すなわち、与えら びき出すことに関する部門である。ところで、第一の部門 れた本性について、まず第一に、その質料においてはひどく は、感官に対する補助、記憶に対する補助、精神ないし理性異なっていながら同一の本性をもっ点においては一致する、 に対する補助という、三部に分かたれる。 すべての既知の事例を知性のまえに展示しなければならな 、。そしてこの種の収集は、未熟な思弁を交えたり、徴に人 すなわち、第一に、〔感官に対する 〕十分で適当な自然誌と実 り細にわたりすぎることなく、事例が〔観察者〕に現われる 験誌を整えねばならぬのであって、こうすることは成否のき まる基礎である。というのは、自然がなしたりなされたりす順序に従ってなされなけれ、はならない。たとえば、熱の形相 るものは、つくり上げたり考え出したりすべきではなく、見を探究する場合 出さねばならぬからである。 熱の本性において一致する事例 しかしながら、自然誌と実験誌は多様と乱雑をぎわめてい 一、太陽の光線、とくに夏期と真昼における。 一「反射して集まった太陽の光線、たとえば、山あに、 ルるので、適当な順序に整理され展示されなければ、知性を当 壁に、とりわけ、火取りレンズに。 惑させ混乱におとしいれる。したが 0 て、〔記億に対する て〕知性 三、灼熱した流星。 ヴが事例をとり扱うことができるような、整頓した仕方で、事 例の表をつくって、対照させなければならない。 四、燃焼する雷電。 そしてそれがつくられても、知性は放っておかれて、自発 五、噴火口等からの烙の発出。 六、すべての烙。 的に活動するままにされると、無力であって、指導され保護

3. 世界の大思想6 ベーコン

たされるのがつねである。そして知らず知らずのうちに、そないことがもっと大きなわざわいをもたらすのは、原因の発 のほかのものもみな、精神をとりまいている少数のものとだ見の場合である。すなわち、自然界におけるもっとも普遍的 いたい同じだと勝手に考え想像する。しかし、一般的命題をなものは、それらが見出されるとおりに、終極的なものであ あたかも火にあててみるように、ためすところの、遠くかけるべきであって、じっさいは、他の原因によっておこったもの はなれた異質的な事例に一つ一つあたってみることには、きでないのに、しかも人間の知性は休むことを知らすに、なお 自然にとっていっそうよく びしい規則ときつい命令によってそうすることを強制されなそれよりもいっそうよく知られたもの〔 知られたもの、いっそう普 遍的な っ いかぎり、人間の知性はまったく遅鈍で無力である。 もの 〕を求める。しかしそうするとき、人間の知性は、い そう遠くにあるものに到達しようとしながら、いっそう近く 四八 にあるもの、すなわち目的因にたちかえることになる。この 目的因は、あきらかに、宇宙の本性によるよりもむしろ人間 人間の知性はたえずわくわくしていて、たちどまることも 休むこともできず、なお進んで行こうとするが、しかしそれの本性によるものであって、人びとはこの目的因という源泉 はむだである。そういうわけで、世界に何か極限や限界があから哲学をじつにおどろくべき仕方で汚したのである。しか しながら、もっとも普遍的なものの原因をさがし求めること るということは考えられず、なおかなたに何かがあるという は、従属的で特殊的なものの原因を求めないことと同じよう ようなことが、いつもいわば必然的に考えられるのである。 に、未熟で軽薄な哲学者のしるしである。 なおまた、どうして永遠が今日にまで流れてきたかというこ というのは、あの一般に認 とも考えられることができない 四九 められている区別、すなわち、「過去の側における無限と未 〕のようなものではな 来の側における無限」との区別〔大曰一・一〇・五・異論四等《 人間の知性は乾いた光気←一一。ジ く、意志と感情によって染められるのであって、そのため にみら〕はけ「して存立することができないからであって、も に、「思うとおりの学問」がおこるのである。というのは、 しも両者を区別するとすると、一つの無限が他の無限よりも 大きいことになり、無限が食いつくされてだんだん有限に近人間は、自分が真であってほしいと思うことのほうを信ずる からである〔畠 。スビノザ、オルデン・ , ルクあての手紙〕したが「て、人 づいて行くことになるからである。〔有を加えても、減」も、どこ 間の知性は、探究のもどかしさのゆえに、困難なものをしり ま Y も無〕線はどこまでも分割されるという、同じような徴に 入り細にわたる論も、思惟の停止することのできないことかぞけ、希望の余地をせばめるからといって、地味なものをし らおこるのである。しかし、この精神の停止することのできりぞけ、迷信からして、自然の深遠なものをしりぞけ〔自然吶原

4. 世界の大思想6 ベーコン

一九 しかしながら、真理は混乱からよりも誤りから速かに現わ 排除の表のうちに真の帰納の基礎がおかれているのである が、しかし真の帰納は、肯定的〔事例の〕表におちつくまでれ出るゆえに、 ( わたくしがつく 0 たような ) 三通りの最初 の展示の表〔絲鬱が作成され検討されたからには、 は完成されないのである。また、排除の表そのものも、けっ して完成されていないうえに、はじめから完成されているこそれらの表の事例によ「ても、また、その他どこかで生起す とは不可能である。すなわち、排除の表は ( あきらかに ) 単る事例によっても装備をととのえて、自然の解明という仕事 純本性を除外するものであるが、もしわたくしが単純本性にを肯定的な仕方で試みることを、知性に許してやるほうが有 ついて、まだ真の正しい概念をもたないなら、どうして排除益であるとわたくしは考える。この種の試みをわたくしは、 の表は正しいものと認められることができるであろうか。と「知性の免許」、「解明の端初」、ないしは「最初の収穫」とよ ぶことにしている。 ころが、うえにあげた概念のいくつか ( たとえば、四元素の 熱の形相についての最初の収穫 本性の概念、天体の本性の概念、稀薄性の概念 ) は、はっき ここで注意しておかねばならぬことは、ある物の形相は り規定されていない、漠然とした概念である。したがって、 ( うえに述べたところからあきらかであるように ) 、その物自 わたくしは、わたくしの企てている仕事 ( すなわち、人間の 知性を事物と自然に匹敵できるものにするという仕事 ) の大身がそこに存在する個々の事例すべてにおいて存在するとい うことである。そうでないなら、それは形相ではないであろ きさをよく承知して心に銘記しているので、これまでに教則 2 として定めたことにけっして満足せずに、さらに進んで、知うからである。したがって、〔形相についての〕矛盾的事例 第 というものがありえないことはあきらかである。しかしなが 性のために役だっ、 いっそう強力な補助手段を考案し提供し ら、形相は、他の事例においてよりも、ある事例において、 ヌなければならないのであって、それをこれからつけ加えよう ルと思う。たしかに、自然の解明にさいして、精神は、確実性すなわち、その形相の本性が他の本性によって他の事例にお いてほど抑制されたり、阻止されたり、ある限界のうちに拘 の段階を正しく踏んで自分の足場を固めるとともに、現に自 ヴ分の所有しているものが、今後なお探究されるべきものに大東されたりしない事例においてはるかにいちじるしくあきら いに依存するということを ( とくに最初のうちは ) 十分念頭 かに見出されるのである。わたくしは、この種の事例を「顕 〕とよぶこ 3 におくように、しつかりとしつけられ教えこまれなければな現的事例」あるいは「明示的事例」〔孔書三三一・〈ージ らない。 とにしている。それでは、つぎに、熱の形相についての最初

5. 世界の大思想6 ベーコン

同じように、探究されている本性は精神の推理的能力であ 特権的事例の一つとして、第十四に「道標の事例」をあげ よう。この語は、別れ道にたてられて、それそれの道の行く るとしよう。人間の理性と動物の賢さを分かつのはまったく 先を指示し表示する道標から転用したものであって、これを 正しい区分のように思われる。しかしそれにもかかわらず、 動物によってなしとげられる行動のうちには、動物もまた推わたくしは「決定的事例」とも「裁決的事例」ともよび、ま た、ある場合には、「神託的事例」とも「命令的事例」とも 論のようなものを行なうと思われるいくつかの事例がある。 よぶことにしている。その理由はつぎのとおりである。すな たとえば、寓話に出てくるカラスの場合がそうであって、 このカラスは、ひどいひでりのためにのどが渇いて死にそうわち、ある本性の探究にさいして、それといっしょにいくっ もの本性が生起することが度重なって、通例のようになって であったとき、うつろになった木の幹のなかに水を見つけた いるので、二つの、ときにはもっと多くの本性のうちのいず が、穴の入口が狭いため、なかにはいることができなかった ので、小石をたくさん投げこみ、水が昇ってきて、飲めるよれに、探究されている本性の原因を帰属させるべきかについ て、知性が決定しかね、ためらう場合に、道標の事例は、 うになるまで、そうすることをやめなかった。これはのちに で「カラスと水差 ( 探究されている本性に関するかぎり ) これらの本性のうち ま「動物には、 金言にな「た。〔い霧裟矗 % 禮訓ー その本能にまさる、天性の の一つとの交わりは信用のおける断ちきりがたいものである 論理がある」というもの が、もう一つとの交わりは変わりやすくひき離されるもので 同じように、探究されている本性は可視性であるとしょ う。光と色を分かつのはまったく正しい確実な区分であるよあることを明示し、こうして問題は解決され、はじめのほう の本性は原因として受けいれられ、あとのほうの本性は捨て うに思われる。というのは、光は本源的に可視的であって、 視覚に最初に見させるものであるが、色は一一次的に可視的でられしりぞけられるのである。したがって、この種の事例は、 ひじように明るい光を投ずる、いわば大きな権威をおびたも あって、光なしには知覚されず、したがって、光の映像また のであって、〔自然の〕解明の過程は、ときとしてこの事例 は変容にすぎないと思われるからである。しかしそれにもか において終結し、この事例によって完成されることがある。 かわらず、この点に関しては両方の側に同盟の事例があると ところで、道標の事例はうえにあげておいた事例のうちにた 思われる。すなわち、大量の雪と硫黄の烙がそうであって、 前者のうちにはまっさきに光る色があり、後者のうちには色またま現われ見出されることもあるが、たいていは新しいも のであって、とくにそのために努力してさがし求められ、た に近い光があるように思われるのである。 ゅまず鋭い注意を払ってやっとさぐりあてられるのである。 〔一〕たとえば、探究されている本性は潮の干満であるとし

6. 世界の大思想6 ベーコン

410 い程度に、それそれ、知性を高めて類や共通本性に導くこと に述べたところからあきらかであるように ) 特権的事例は一一 によるものか、逸脱的事例のように、知性の習慣を正道にも 十七個あって、その名称はつぎのとおりである。すなわち、 〔一〕孤立的事例、〔二〕移動的事例、〔三〕明示的事例、〔四〕どすことによるものか、境界的事例のように、宇宙の強大な 内密的事例、〔五〕構成的事例、〔六〕符合的事例、〔七〕単独形相または構造に導くことによるものか、道標および離別の 的事例、〔八〕逸脱的事例、〔九〕境界的事例、〔一〇〕力の事事例のように、誤った形相や原因をうけいれぬように守るこ 例、〔一一〕同伴的および敵対的事例、〔一一一〕添加的事例、 とによるものかであって、それらはいずれも知性を助ける。 〔一三〕同盟の事例、〔一四〕道標の事例、二五〕離別の事つぎに、作業的部門についていうと、それらの事例は実践を 例、二六〕戸口の事例、〔一七〕召喚的事例、〔一八〕道程の 指示するものか、測定するものか、軽減するものかである。 事例、〔一九〕補足的事例、〔二〇〕分解的事例、〔二一〕物差実践を指示するものは、カの事例のように、同じ仕事をくり の事例、〔一一一一〕進行の事例、〔二三〕自然の服用量、〔二四〕返さないためにはどこからはじめるべきかを示すことによる 闘争の事例、〔二五〕暗示的事例、〔二六〕多面的有用の事例、 ものか、暗示的事例のように、能力が与えられているとき 〔二七〕魔術的事例である。ところで、これらの事例がふつ に、何を求めるべきかを示すことによるものかである。実践 うの事例よりもすぐれているのはその用途においてであ 0 を測定するものは、四つの数学的事例〔自然の服用ヰ闘争の事例 て、この用途は、一般的にいうと、告知的部門にかかわるもであり、実践を軽減するものは、多面的有用の事例と魔術的 のか、作業的部門にかかわるものか、その両方にかかわるも事例である。 のかである。そして、告知的部門についていうとそれらの事 なおまた、これら二十七個の事例のうち、いくつかのものは 例は、感官を助けるものか、知性を助けるものかである。す ( さきにそのうちのあるものについて述べておいたように ) 、 なわち、感官を助けるものは、たとえば五つのラン。フの事例 自然についての特殊な探究を待っことなしに、最初からすぐ この種のものとしては、符合 事例、補足的事例、分解的事例〕である。知性を助けるものは、孤に収集されなければならない。 立的事例のように、形相に至るための排除の過程を促進する的事例、単独的事例、逸脱的事例、境界的事例、カの事例、 ことによるものか、移動的事例、明示的事例、同伴的事例、 戸口の事例、暗示的事例、多面的有用の事例、魔術的事例が 添加的事例のように、形相の肯定的過程を狭め、いっそう近ある。というのは、これらの事例は、知性と感官を補助し匡 よって示してみせることによるものか、内密的事例、単独的正するものか、一般的に実践の備えをするものかであって、 事例、同盟の事例のように、直接的に、構成的事例のよう これら以外の事例は、何らかの特殊な本性について解明する に、それらに次ぐ程度に、符合的事例のように、もっとも低ひとの仕事のために比較の表を作成するときにはじめて集め

7. 世界の大思想6 ベーコン

ぶらさげることができる。これは鉄と鉄との、実体の類似性にしている。これは、探究されている本性の一つの種をいわ 3 によるのであるが、この作用はまったく内密的であって、磁ば〔その本性の〕下位の形相として構成する事例である。と 石がつけられるまでは鉄のなかにかくれていたのである。し いうのは、純正の形相 ( これは、探究されている本性とつね たがって、合体の形相が磁石においては活動的で強く、鉄に に置換されうるものである ) はふかくかくれていて容易には おいては弱くてかくれているものであることはあきらかであ発見されないので、そういう事態と人間の知性の弱さとのた る。同じように、鉄の先端のない小さな木の矢は、強弓によめに、特定の事例 ( けっしてすべての事例ではない ) の一つ って放たれると、同じ矢の先端に鉄をかぶせた場合よりもい かみをある共通概念のもとに包括する特殊な形相が看過され っそう深く、木 ( たとえば船側などのようなもの ) に突きさずに、し 、っそう注意ぶかく観察されることが必要であるから さることが観察される。これは、木と木との、実体の類似性である。というのは、たとい不完全な仕方によってであろう による作用であるが、それまでは木のなかにかくれていたのと、本性を統一するものはみな、形相の発見のために道を平 である。同じように、空気は空気を、また、水は水を、そのらにするからである。したがって、このために役だつ事例 ままでは牽引しないことはあきらかであるが、しかし、泡に は、微力なものではなく、ある程度の特権的な力をもってい なると、泡と泡とが接近するときのほうが、そうでないとき るのである。 よりもいっそう容易に分解するのであって、これは水と水、 しかしながら、これらの事例においては、注意ぶかい警戒 空気と空気との、合体の欲求のためである。そして、この種を怠「てはならない。すなわち、人間の知性が、いま述べた の内密的事例 ( これは、うえに述べたように、すばらしく役特殊な形相をたくさん発見して、それによ「て、探究してい にたつものである ) は、物体の小さい、微で細である部分に る本性の区分ないし分割をなしとげたのち、それらの形相に おいてもっともきわだって現われるのであって、それという すっかり満足してしまって、それらよりも上位の形相の純正 のは、も 0 と大きい物塊は、しかるべき場所で〔訳書 = 一九六一 1 ジ な発見に備えないで、その本性はいわばその根本から多様で 赴べるように、、 し「そう普遍的で一般的な形相に従うからで分かたれたものであると思いこみ、それ以上その本性の統一 ある。 を求めることはいたずらに微に入り細にわたって単なる抽象 に近づくものとして、それを嫌悪し排斥することのないよう に、注意しなければならない。 たとえば、探究されている本性は記憶ないし記憶をよびお こし助けるもの〔 本訳書一二三 ~ ージ〕であるとしよう。構成的事 特権的事例の一つとして、第五に「構成的事例」をあげよ う。これをわたくしは「一つかみになる事例」ともよぶこと

8. 世界の大思想6 ベーコン

ためには、知性は自己を環境から引きはなし、自らを超越せもち、また辛抱強く判断を差控え、喜びをもって熟考し、慎 4 しめねばならぬ。知性的自己のこのような自己超越におい 重に判定し、間違った意見は進んで訂正し、私の考えを入念 て、はじめて知性は事実を分析し計算し綜合することが可能 に骨折ってととのえる力をもっている。私は珍奇なものを追 となる。このような計算の結果にもとづく行動は、環境を規 い求めたり、古きものをやたらに賞めたりするようなことは 制し再編成し、新しい世界を作りゆくことができるものとな しない。欺瞞はいかなるものにせよ、私が真そこから嫌悪す る。このような知性的自己の単純なる自己主張が、ほかなら るところである。以上、こういった理由からして、私の本性 ぬべーコンの場合であったと考えてよいであろう。 および素質が、あたかも真理の縁者たるかの如きところがあ ここにはいまだ禁欲的な自己規制のごときは存しない。イ ると考えた次第である。」しかし、彼によると、「私の生れ、 ドラの破壊のごときが急務とせられた点にうかがえるよう 私の育ち、私の教育は、すべて哲学にではなく政事に向けら ここには自己主張が急務であったと語らるべきであろれていた。私は幼時から、政事に深くしつけられていたわけ う。かくしてそれは法外な自信にみちている。一六〇三年、 だ。」そこで「結局、私は次のような希望をいだいた。もし 彼が四十一一歳の頃に執筆したと推定される「自然解釈ーの私が国家において何か栄誉ある官職を占めるならば、私の連 命づけられた仕事を成就することを期しつつ、かくて私の努 「序文ーによると、「私は人類に奉仕するために生を享けたの だと自ら確信している」という強い言葉がみられる。「人類力を援ける助力や支持を確保することができようというの だ。こうした動機から、私は政事に身をゆだねた。そうして への奉仕ーとは何であるか。それは「人間生活を開明するこ とをめざす技術と発明とを発見し展開すること」である。そ然るべき慎ましさをつくすことにより、私は有力な友人達の れは「人間の王国」を「宇宙に拡大すること」であり、「人好意をうけることができたのであった。」と彼は書いている。 ェッセイズ 間自由のための選手」たること、「現在なお依然として人間 それは『随想集』において、「良き思想は、たとえ神がそれ を東縛している諸々の困難を打破する人」たることである。 を嘉せられるとはいえ、しかし人間のためのものであるかぎ ところが彼によると「私は私自身の本性のうちに、真理を考 り、それが実行にもたらせられぬならば、良き夢想となんら異 ・察するために特に適していることがあるのを見出した。とい なるところはない。しかも実行にもたらすというのは、権力 うのは、私の心は、直ちにその最も重要な対象に対して十分と地位とを伴わずしては不可能のことである」 (Essays, xi, な柔軟性があり、 という意味は、類似点の認識をいうの of Great Place) と書いた現実派の彼にふさわしいことであ さらに同時に、徴妙な陰影の差異の考察に際して ったといえる。彼は与えられた現実に、従順であったという も十分に集中的であり着実である。私は探究せんとの情熱をことができるであろう。彼の壮大な夢は現実のうちに実現せ

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237 一般の論理学に役だつのと同じであるからである。釟九い一 一、本訳書一一九〕 四一 人間の知性をすでにとらえてしまって、そこにふかく根を おろしているイドラと誤った概念は、ただ、人びとの精神を 種族のイドラ〔と一・一四・夬本召は、その根基を人間性そ とりかこんで、真理がはいってくることをむずかしくしてい のものに、人間という種族または類そのものにもっている。 るだけではなく、真理がはいってくることを許され認められというのは、人間の感官が事物の尺度だという説は誤りであ るようになったのちも、人びとがあらかじめ用心して、でき って、それとは反対に、すべての知覚は、感官のものも精神 るだけ、それらのものに対して身を守らないかぎり、それらのものも、宇宙になそらえてでなく、人間になぞらえてつく は、いざ、学問を革新しようとすると、ふたたびあらわれてられるからである。そして人間の知性は事物の光線をまとも じゃまをするであろう。 にうけいれないでこ、ほこのある鏡のようなものであって、事 物の本性にそれ自身の本性をまじえ、事物の本性をゆがめ、 変色させるのである。〔種族のイドラについては、のちに詳しく、、 0 人間の精神をとりかこんでいるイドラには四種類ある。そ れらに ( 説明の便宜のために ) 名をつけて、わたくしは、第 一のものを種族のイドラ、第二のものを洞窟のイドラ、第三 洞窟のイドラ ニ・一四こ 0 、〕は各個人のイドラであ 巻のものを市場のイドラ、第四のものを劇場のイドラとよぶこ る。すなわち、各人は ( 人間性一般に共通の誤りのほかに ) 第とにした。 自然の光をさえぎったり弱めたりする個人的な洞窟や穴のよ ム うなものをもっているのであって、それは各人に固有の特殊 四〇 ガ な本性によることもあり、自分のうけた教育と他人との交わ りによることもあり、読んだ書物と自分の尊敬し感嘆する人 正しい帰納法によって概念と一般的命題をつくりあげるこ ヴとは、イドラのはいってくるのを防ぎおつばらうのに適切な びとの権威によることもあり、あるいはまた、印象が先入見 方策にちがいないが、しかしイドラを指摘することもきわめと偏見をいだいた心に生するか、それともかたよらないおち ついた心に生するかという、印象の相違によることもあり、 て有益である。というのは、イドラについての正しい研究が 自然の解明に役だつのは、ソフィスト的論破法〔びの研究があるいはまたほかの事情によることもある。したが「て、人 六、本訳書二四、二九一ページ

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間の精神は ( 各個人によって別々であるかぎり ) さまざまにちがった法則から人びとの心にはいってきたイドラがあるの であって、わたくしはそれらのものを劇場のイドラとよぶ。 四うつり変わり、動揺し、いわば偶然によって左右されるもの というのは、これまでうけいれられ、あるいは考え出された哲 であることはあきらかである。そういうわけで、ヘラクレイ トス〔ハ←一一一「 ~ 乙が人びとは知識をいくつかの小さな世界学はいすれも、舞台に上され演ぜられた脚本であ 0 て、それ それ架空の芝居がかった世界をつくりあげたものだと、わた に求めて、一つの大きな、共通の世界に求めないといってい 。洞窟のイドラについては、のちに詳 くしは考えるからである。こうわたくしがいうのは、現在行 るのはもっともなことである〔 しく、、 0 一・五三ー五八、本訳書 なわれている哲学や、あるいはまたむかしの哲学とその学派 についてだけではない。 というのは、それと同じような脚本 がなおいくつもっくられ、上演されるからであって、それと いうのも、まったくちがった誤りでさえも、その原因はだい なおそのほかに、いわば人類相互の接触と交際からおこる イドラがあるのであって、わたくしはそれらのイドラを、人びたい同じであるからである。なおまた、わたくしがこのよう に考えるのは、ただ哲学全体についてだけではなく、伝統と との結びつきと交わりのゆえに、市場のイドラ〔わ = ・一四・ 軽信と怠慢のためにすっかり固まってしまった、諸学の多く 〕とよぶ。すなわち、人びとは語ることによってたがい に結ばれるが、しかしその語る言語は、一般人の理解力に応の原理や一般的命題についてもである。ちに詳しく、、 0 一・六 じて定められる。したが「て、言語がまちが「て不適当に定一ー七、本訳書一一四〕しかしながら、うえにあげたイドラの一つ められると、知性はじつにおどろくべきほど妨害されるわけ一つについては、人間の知性に警戒させるために、もっと詳 である。学者たちがある場合に自分の身を守って安全にする しく、はっきり区別して述べなければならない。 ために用いるのがつねである定義や説明もけっして事態を改 四五 善するものではない。言語は、あきらかに、知性に暴力を加 えて、すべてのものを混乱におとしいれ、人びとを空虚で数 人間の知性は、それに固有の本性からして、じっさいに見 かぎりのない論争とっくりごとにひきいれるのである。 出される以上の秩序正しさと等しさが実在すると考える傾向 市場のイドラについては、のちに詳しく、〕 がある〔ド 。以下、五ニまで、種つイ〕そして自然界においては多く のものが独特で、それに等しいものがまったくないのに、そ 四四 れにもかかわらず、実在しないところの、それに並行し、 最後に、哲学のさまざまな学説から、そしてまた証明のま応し、関係するものを考、亡出すのである。天においてすべて ジ