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検索対象: 世界の大思想7 デカルト
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1. 世界の大思想7 デカルト

が生まれながらにしてもっているところの「真と偽を判別す を四角な塔と見あやまることはわれわれが常に体験すること である。また、感覚は巨大な太陽を盆の大きさに感じさせる能力」としての理性なのである。 しかし、ここに問題がある。もしそのような能力がすべて る。一言にしていえば、感覚への不信がデカルトの哲学の根 本である。 の人間にあるとすれば、どうしてわれわれに「誤り」という それと同様、記憶というものにもわれわれは信頼をおくこ ことが起こるのであるか。それは理性そのものが判断をあや とができない。記憶というものは極めて不確かなものであ まるのではなく、理性を正しく導くことをしないからである。 る。デカルトの出発点は感覚にたいする不信と共に、記應に 従って問題は、理性を正しく導くにはどうすればよいかとい たいする不信である。ベルグソン哲学にあっては記億が極め うこととなる。それがすなわち「方法」に他ならない。デカ たと て重要な役割を果たすのにたいして、デカルトでは記憶は否 アクチュアリズム ルトにとっては哲学とは、兪えば永久不変の。ヒラミッドのよ 定的な意味しか与えられない。デカルト哲学は現在主義であ うな堅固不動の知的体系ではなく、ことにあたってつねに正 る。ともかく、われわれがものを正確にとらえようとするな しく人間の判断を導く方法である。ちょうど、建築は時と場 らば、過去の記憶に依存せず、今、ここで、それを行なわね 所とによってその姿を変えるように、哲学体系も時代と共に ばならぬ。そうして、それを可能にするのが、すべての人間 移り変る。体系は過ぎ去り、方法は残る。哲学即方法とした ことこそデカルト哲学の一大特色である。方法こ 王とス聞ナ書そ「理性を正しく導き、あらゆる学問において真 女者ををチを 理を獲得させる」ものであり、それによって知識 好ト義ス紙 ナ 愛ル講リ手をどこまでも拡大し、人類の文明を無限に発展さ チのカのクの ス術デそも上 せる鍵なのである。デカルトにとっては哲学は。ヒ リ芸年 , ル献 ラミッドのように重く巨大な建築物ではなく、だ 9 、 0 カ 間 1 招ス算れのポケットにもおさめられる秘密の鍵であり、 の学。にパ計 ン。るム。て風のように軽やかなものである。もちろんそれは レに一し デのれ 8 らホし宛神のことばのように「あれ ! 」の一言でただちに 一知クとに。 解 ものを出現させ、創造する魔法の杖ではない。神 工能てッう王 スいしトこ女いには方法は不要である。しかし、人間は有限者で ある。その人間の有限性の自覚こそデカルト的理

2. 世界の大思想7 デカルト

減ぼすのは軽率であること、もしまた多勢に無勢ならば、猪 突猛進して決死の境に身をさらすよりは、堂々と退くか避難 した方がよいことを思い起こすであろう。 一一三人生の善悪はすべて情念のみにかかっている。 もっとも、心には心だけの快楽がありうる。しかし身体と 共通の快楽こそは、全く情念の左右するところであり、した 、がって情念に最も強く動かされる人は、無上の喜びをこの世 において味わうことができる。なるほど、情念を活用するこ とを知らす、また運命に恵まれない場合、その人は人生に無 上の苦しみを見いだすこともありうる。しかし知恵が特に有 用であるのは、それが情念を完全に支配し、情念を巧みに処 理することを教える点にある。その結果、情念のひきおこす 災もきわめて堪えやすいものとなるばかりか、すべての災か らかえって喜びを引き出すこともできるのである。 訳注 一 ( 三五五頁 ) 受動 ( 情念 ) ーーー原語は Passiou である。この語は 情念を意味するとともに、語源的には passif などと同族語で受 動の意をもっている。 一一 ( 三五五頁 ) 想念 , ーーー原語は Pensée である。思惟とか思考とか 訳し切れないものがあるのでかりに想念とした。 三 ( 三五七頁 ) ヘルヴェウスーーー血液循環説を提唱したハーヴェー (William Harvey 1578 ー 1657 ) のラテン名。 四 ( 三五七頁 ) 他の論文ーーー「方法序説」第五部と『屈折光学」第 四。 三 ( 三六四頁 ) 微細な腺。ーー松果腺を指す。しかしこの腺の作用が デカルトの説くようなものでないことはいうまでもない。 六 ( 三会頁 ) 人々ー、ーアリストテレス学派、ストア学派の人々を さす。 七 ( 三七六頁 ) あらゆる人々ーーートマス学派、新ストア学派をはじ め当時一般の哲学者。 ^ ( 三翁頁 ) 第六対目の神経ーー・当時は脳神経に七対あると考え ていた。第六対は迷走神経にあたる。 九 ( 三九四頁 ) ヴィヴェスー・ーーヴィヴェス (Vives 1492 ー 1540 ) は スペインの学者、アリストテレス学派やスコラ学派に反対した 人。エラスムスやビュデの友である。引用の箇所は第一版の注に よれば「精神論第三、笑いの章ーとある。デカルトは先人の学説 を否定したが、ヴィヴェスの学説にはかなり多くのものを負うて いることがロディ・レヴィスによって論証されている ( 同氏によ る「情念論」二四ページ ) 。 一 0 ( 四一一一頁 ) デキウス家ー・ーーデキウス (Decius Mus) 家は親子

3. 世界の大思想7 デカルト

414 善いことがあれば、ある人々はそれを不快に感じるあの生米 目の人、せむしの人、または満座で辱めを受けた人などは、 特に揶揄を弄しやすい。それは、他の人たちも自分なみに不の邪悪さに存する。しかし、私はこの言葉を、ここでは、必 遇であればよいと願っているから、他人に悪いことが起これずしも徳に反しないある情念を意味するために使っている。 ば大いに喜び、また悪いことが起こったのは自業自得だと考そこで羨望とは、それが情念である限りにおいては、憎しみ を交えた一種の悲しみであって、それに値しないと考えられ えるからである。 る人に善いことが到来するのを見て起こるものである。しか 一合嘲りの効用について。 しそれに値しないと考えて正しいのは、名誉財産についてだ 悪徳の笑うべきことを示してこれを有効に指摘し、しかもけで、生まれながらにしてもっている限り、心や身体に備わ った美点は、その人が罪を犯しうるようになる前にすでにそ 自分みすからは笑わす、また人にたいする憎しみを示さない という謙譲な嘲り、これは情念ではなくて君子の一資格であれを神から授けられたというだけで、その人が十分それに値 していることを忌味するのである。 る。それは、美徳のしるしで、気分の明るさ、心の落ちつき を示し、また揶揄の対象を何か楽しいものに見せるという点 入三羨望はいかにして正当または不当でありうる でしばしばその人の機才をも示す。 入一嘲りにおける笑いの効用について。 しかし運命が全くそれに値しない人に善いものを与えた場 ところが、他人の嘲るのを聞いて笑うのは不都合なことで合、また、われわれが生まれつき正義を愛するために、善いも はない。また、笑わなければ気むずかし屋に見えるほどの揶のの配分に正義が守られていないのを憤るところから、羨望 揄もあるのである。しかし自分が嘲る場合には、笑いを慎むの念がはじめて刺激された場合には、それは許さるべき一種 方がよい。自分がいう言葉に驚いたり、またそういう言葉をの熱意である。他人に羨むその善いものが、その人たちの手 思いついた自分の機才に感嘆したりする様子を見せないためで悪に変じうるようなものである場合は特にそうである。た である。またそういう様子を見せない方が、聞く人を一層驚とえば、それが何かある役目または職務であって、その人たち がそれに善処しえないような場合がこれである。しかもその かせるのである。 地位を自分も望ましく、自分以下の人間がそれを握っている ために自分はそれをえられないとなれば、羨望の念はいよい よ激しくなってくる。ところが、その情念の含む憎しみの情 一般に羨望と呼ぶものは一種の悪徳であって、他人に何か l<l 一羨望について。

4. 世界の大思想7 デカルト

一七一〈恐れの効用について。 嘲笑または揶揄は、憎しみを交えた一種の喜びであって、 恐れあるいは恐怖、これはとうてい賞賛すべきもの、有用 なものとは思われない。また、恐れは特殊の情念でなく、単ある人のなかに些細な悪を認め、しかもその人がその悪にふ さわしいと思われるところから生じるものである。悪そのも に過度の卑怯・驚愕・危惧であり、常に美徳に反している。 ちょうど、大胆が過度の勇気であり、所期の目的さえよけれのにたいしては憎しみをじるが、ふさわしい人のなかにそ の悪を見ると人間は喜びを感じるのである。またそれが思わ 、は善いものであるのと対をなしている。また、恐れの主因は ぬ時に突発すると、上述した笑いの本性にしたがい、驚異の 驚きであるから、恐れを免れる最良の方法は、熟慮を用い 念に襲われて人間は笑い出す。しかし、この悪は些細なもの あらゆる結果を覚悟することである。結果を危惧することか でなければならない。もし悪が大きい場合、その悪をもつ人 ら恐れが生じうるからである。 をそれにふさわしいと信じるのは、自分がよほど性質の悪い 一七七呵責について。 人間であるか、またその人をよほど憎んでいるのでなければ かしやく 論 できないことだからである。 良心の呵責とは、現にしていること、またはすでにしたこ 念 とが、善くないのではないかという疑いからくる一種の悲し 一究なぜ欠陥の最も多い人間が最も揶揄的である 情みであって、必すこの疑いを前提としている。意志は、幾分 でも善いと思われるものにしか働きかけないから、している また、よく目立っ欠陥のある人、たとえば跛をひく人、片 ことが悪いと十分わかっていれば、それをするのをさしひか を無益であると判断させ、それによって卑怯の念を刺激したえるし、すでにしたことが悪いとわかっていれば、単に呵責 場合は別である。卑怯さに効用があるというのは、それがこを感じるのでなく悔恨を感じるわけである。ところで、呵責 れらの苦労を免れさせるばかりでなく、精気の運動を緩慢なの念の効用は、いま疑っているそのものが、果たして善いも らしめてカの浪費を防ぐという点で身体にも役だっからであのか悪いものかを吟味させること、またそれが善いものであ ると確かにわからないあいだは、一一度とそれをしないように る。しかし普通卑怯は、有益な行ないを思い止まらしめるか させる、という点にある。しかし呵責は悪を前提としているの ら甚だ有害である。また卑怯は十分な希望、十分な欲望をも であるから、呵責を感じる原因をもたぬに越したことはない。 たないところからくるのであるから、卑怯をためるには心の また呵責は、逡巡を免れると同じ方法で防ぐことができる。 なかに希望と欲望の二情念を増せばよいわけである。 一大揶揄について。 、カ びつこ

5. 世界の大思想7 デカルト

412 デキウス家の人々が敵中に身を挺して死地を求めた時、彼ら 石一競争心について。 の大胆さの対象は、その行動中に生命を全うすることの困難 さであり、この困難さにたいして彼らはただ絶望あるのみで ところが競争心もまた、意味こそ違えやはり勇気の一種な のである。勇気は類と考えることができ、それが、対象の異あ「た。死ぬることは確実だったからである。ところが彼ら なるに応じていろいろの種に分かれ、また原因によ 0 ても分の目的は、身をも 0 て部下を激励し、部下をして勝利をえし めることであった。この勝利にたいしては、彼らは希望をも かれるのである。対象による分け方では大胆がその一種とな っていたのである。あるいはまた彼らの目的は死して後に名 り、原因による分け方では竸争心がその一種となる。ところ でこの競争心というものは、他人にも成功した以上、自分にをえることであり、彼らはそれを確信していたのである。 も成功するはすであると思われることを、心をして企てさせ 一茜卑怯と恐れについて。 る一種の熱意である。したがって、これは他人の例を外的原 卑怯は勇気の正反対で、もし心に卑怯さがなかったら果た 因とする勇気の一種である。外的原囚といったわけには、そ のほかに当然、内的原因があるべきだからである。その内的すであろう事柄をば、あえて心に実行させない一種の無気 原因とは、危惧や絶望が血行を妨げる度合にも増して、欲望力、ないしは冷たさである。また、恐れもしくは恐怖という のは大胆さの反対で、冷たさであるばかりでなく心の乱れ、 や希望は多量の血液を心臓へ送るように人間の身体はできて 驚愕であり、災が近いと思えば早やそれに抗する力を心から いる、ということにある。 奪い去るものである。 一卑怯の効用について。 を一大胆さはいかにして希望に左右されるか。 普通、危惧や甚だしきは絶望を伴うあの困難さというもの さていかなる場合にも美徳に反し、正しくまた立派な効用 は大胆さの対象であり、したがって、大胆さや勇気が最もよ く発揮されるのは、最も危険な絶望的な事件においてではあをもたないような情念を、自然が人間に与えたとはどうして にもかかわらす、卑怯と恐れの二情念が何の役 も思えない。 るけれども、しかも、遭遇した難事に敢然として立ち向かう ためには、所期の目的が成就することを期待し、また一歩進に立つのか、私は甚た推察に苦しむのである。ただ、も 0 と もらしい理由にかられてするかもしれない苦労を、卑怯さが んで確信する必要があることを注意せねばならぬ。しかしこ の目的というのは対象とは別物である。一つのものについて免れさせてくれる場合には、卑怯さにも幾分の効用はあるよ うに思われる。ただし、一そう確実なその他の理由が、苦労 確信し同時に絶望することはできないからである。たとえば ( 一 0 )

6. 世界の大思想7 デカルト

376 る。これが情念中、最も苦痛なものである。 六四好意 ( faveur) と感謝 ( reconnaissance ) 。 穴この情念列挙はなぜ一般に認められたものと なるか。 しかし他人によってなされた善は、それがわれわれになさ れたものでなくても、われわれがその人たちにたいして好意 以上が情念を列挙するために私には最良と思われる順位で をもっ原因となる。もしそれがわれわれのためになされた場ある。この点、従来これについて書いたあらゆる人々の意見 合には、われわれは好意の情にさらに感謝をつけ加える。 と隔たっていることは私もよく心得ている。しかしそれには やはり大きな理由があるのである。思うに、それらの人々は しよくてき 六五憤り ( indignation) と怒り (colöre) 。 心の感性的部分のなかに、一は嗜欲的、一は憤怒的と称する一一 それと全く同様に、他人のなした悪がわれわれに無関係で つの欲求を区別するところからその列挙法を引き出している あれば、それはわれわれをしてその人たちに単に憤りの念をのである。ところが上述したように、私は心のなかに部分の もたしめる。われわれに関係があればそれはまた怒りの情を別を一切立てないのであるから、以上のことは、むが、欲望 そそる。 する能力と怒る能力と、つごう二つの能力をもっことを意味 するにほかならないと考えられる。しかるに心はまた驚異し 六一 ( 名誉心 (gloire) と恥辱 (honte)0 愛し期待し危惧する能力をもち、またその他の情念を受け取 その上、われわれのうちにあり、またあった善いものは、 って、その情念がそそる働きをなす能力をもっているのであ 他人がそれについてもちうる意見に関係づけると、われわれるから、なぜ彼らがこれらすべての情念を嗜欲と怒りとに帰 のうちに名誉心を刺激し、悪いものは恥辱を刺激する。 そうとしたのか私にはわからない。その上、彼らの列挙は、 思うに私のものとは違って、主要情念のすべてを含んではい 六七嫌悪 (dégoüt) 、遣憾 (regret) 、愉悦 ( a = 6 ・ ない。単に主要情念とのみいうのは、なおそのほかに多くの gresse ) 。 特殊情念が区別され、その数は無限だからである。 また善いものが永続すれば倦怠または嫌悪の情を起こし、 六九基本的情念は六つあるのみ。 逆に悪いものが永続すれば悲しみの情を減殺すゑ最後に、 過ぎ去った善いものからは悲しみの一種である遺憾の情が生 しかし単純かっ基本的な情念の数は大して多くない。私が じ、過ぎ去った悪いものからは喜びの一種である愉悦が生じ挙げたすべての情念を通覧すれば、単純かっ基本的なものは ( む )

7. 世界の大思想7 デカルト

と同じように愚かなことのように思われる。したがって、私 が、それにもかかわらず実は、私の知っているこの私と異な が想像力によって捉えることのできるものは何一つ、私が私 ってはいないのではないであろうか。私にはわからない、そ についてもっている知識には属しないことを私は認識する、 のことについては私はいまは論じない。ただ私に知られてい るものについてのみ、私は判断をくだすことができるばかりそして、精神がそれ自身の本性をできるだけ判明に知覚する ためには、細心の注意をはらって精神をそのような考え方か である。私は私が存在していることを知っている、そして、 私の知っているその私は誰なのか、と私は問うているのであら呼び戻さねばならないことを知るのである。 る。このように厳密な意味における〔私自身についての想念 しかし、それでは私は何であるのか。思惟するものであ および〕知識が、それが存在していることを私がまだ知って る。思惟するものとは何なのか。むろん、疑い、理解し、肯 また想像し、そして感覚す いないようなものに依存しないことは確かであり、したがっ定し、否定し、欲し、欲しない、 て〔ましてや〕私が想像力によって描き出〔し作り出〕す何るものである。 ものにも依存しないことは、まったく確かである。そしてこ これらのものが全部わたしに属しているとしたら、それは ほんとうにたいしたことである。しかし、なぜ私に属しては の想像で描き出すという語がすでに私の誤謬を私に思い起こ させるのである。なぜなら、私が何ものかであると想像した いけないのであろうか。いまほとんどあらゆるものについて とすれば、私は実際に想像で描き出すのであろうから。つま疑い、それにもかかわらずいくらかのことを理解し〔かっ認 り、想像するということは、物体的なものの形あるいは像を識し〕、この一つのことは真であると〔確信しかっ〕肯定 観想することにほかならないのである。ところが、すでに私し、その他のことを否定し、より多くのことを知ろうと欲し は私があるということを確かに知っている、そして同時に、 〔かっ願い〕、欺かれることを欲せず、〔ときどき〕知らず識 このようなすべての像や、一般に物体の本性にかかわる一切らずにではあっても多くのことを想像し、また多くのものを のものは、夢幻〔ないしは妄像〕でしかないかもしれないこ まるで感覚からきたものででもあるかのように認めるもの っ は、私そのものではないのか。たとえ私がいつも眠っていよ とも確かに知っている。こう気づいておりながら、私がい うとも、たとえまた私を創造したものがカのかぎり私を欺こ 察たい何であるかをいっそう判明に知るために想像力をはたら うとしようとも、それらのものの何が、私はあるということ かせよう、などということは、私はもう目を覚して真実なも 省のを見てはいるのだが、しかしまだ十分にはっきり見ていな と等しく真でないのであろうか。それらの〔属性の〕何が私 いので、それを夢がいっそう真実にいっそうはっきりと私に の思惟から区別されるものであろうか。私自身から切り離さ 見せてくれるように、骨折って眠ることにしよう、というのれているといわれうるものは、それらのうち何であろうか。 ( 一五 )

8. 世界の大思想7 デカルト

に存在するということはおそらく不可能だから。 ことばを組み合わせてできるその他の符号だとかをもってい さてこれと同じ二つの方法で、われわれは人間と動物との ないということである。というのは、われわれはひとつの機 械がことばを発するように作られるということも、あるいは相違を知ることができる。というのは、いろいろなことばを いっしょに配列して、それでもって自分の考えを理解させる その機械が自分の器官のなかになんらかの変化をひき起こす 肉体的作用に応じて若干のことばを発するということ、たと話を組み立てることができないほど愚かで鈍重な人間はな く、白痴でさえもその例外ではないのに、これに反してほか えばもしわれわれが機械のどこかに触れると、何をいわせた いのですかとたずね、またほかの個所に触れると、痛いとの動物は可能なかぎり完全に、また仕合わせに生まれついた か、あるいはそれに類似のことを叫んだりするようなことさ動物でも、これと同様のことができるものはひとつもないと いうことはまことに注目すべきことだから。これは彼ら動物 え考えることができるが、しかし彼の目の前で話されるすべ が器官を欠いていることから生じるのではない。なぜなら、 ての事柄の意味に応じて返答するためにことばをいろいろな かささぎおうむ ふうに配列するというようなことは、人間ならどんなに愚かわれわれは、鵲や鸚鵡はわれわれと同じようにことばを発育 な人間にでもできることだが、そういうことをこの機械がですることはできるけれども、われわれのように、すなわち自 きると想像することは不可能であるから。第二は、このよう分がロにしていることを自分は考えているのだということを な機械はたくさんの事柄をわれわれの誰かと同じくらい上手明示しながら話すことはできないということを知っているか つんばおし ら。これに反し人間は、聾や唖に生まれて、話をするために に、あるいはそれ以上上手にやってのけることができても、 ほかの若干の点ではきっと欠けるところがあり、それらの諸ほかのひとに役に立っている器官を鳥獣と同様、あるいはそ 点によってわれわれは、このような機械は自覚によって行動れ以上に欠いているものでも、ふだん彼らとともに暮し、伐 らのことばを学ぶひまをもっている人たちに彼ら自身を理解〕 するのではなく、ただ単にその諸器官の配置によって動くに させるなんらかの符号を自分で発明するのが通例である。そ すぎないということを発見するだろう、ということである。 説 してこのことは単に鳥獣は人間よりも少ない理性をもってい というのは、理性があらゆる出来事に役立っことのできる普 るということを証明するばかりではなく、彼らは全然理性を 序遍的道具であるのに引き換え、これらの機械の諸器官は個々 法のある特定の行為にたいしてある特定の配置を必要とし、しもたないということを証明している。というのは、話すこと ができるためにはほんのわずかの理性しかいらないというこ 方たがってわれわれの理性がわれわれを活動させるのと同じよ とは、われわれの知るところであるから。同種の動物のなか うな具合に、その機械をば生活のありとあらゆる場合に応じ にあっても人間同士の間におけると同様に不平等が認めら て活動させるに充分なほど多様な配置が、一個の機械のなか

9. 世界の大思想7 デカルト

2 哲学の原理 がもしかすると虚偽のことであろうと、または存在しないものでしてあれこれと探しまわるとき、精神はますみずからのうち あろうとにかかわりなく、そういうことを考える私たちは存在すに多くの事物の観念を発見する、そして、これらの観念をた る、と結論できるのである。 > だ観想するばかりで、その観念に対応するものが自分の外に あるということを肯定も否定もしないでいるあいだは、精神 三なぜこのことがすべての人に同じように知られ は誤りに陥ることはありえない。精神はまた或る共通な概念 るにいたらないのか。 を発見して、これらの概念からさまざまな論証を組みたてる が、これらの論証に注意しているかぎり、それらの論証が真 順序正しく哲学することをしなかった人たちはそうは見て ( 1 ) であることを絶対に信じて疑わない。たとえば、精神のうち いないが、それは彼らが精神と身体とを十分厳密に区別しょ うと決してしなかったからにほかならない。彼らは彼らみずには数や形の観念があり、また精神の有する共通な概念のな から存在することを他の何ものにもまして確実なことと思っ かには、「相等しいものにそれぞれ相等しいものを加えれ ( 2 ) ていたにもかかわらす、自分自身〔の存在〕とはここではた ば、その和もまた相等しい」などという類のものがあって、 だ精神のことをいうにすぎないということに気づかなかっ これらによって、「三角形の三つの角の和は二直角に等し た。むしろ反対に、眼で見、手で撫で、そして誤って感覚す いーなどということが容易に論証されるのである。したがっ ( 1 ) る力を有するもののように考えた彼ら自身の身体だけが彼らて精神は、そのような論証が演繹されてきた前提に注意して 自身であると解したのである。このことが彼らにとって精神 いるかぎり、そのようなことやそれに類することを真である の本性を知覚する妨げとなっていたのである。 と信じて疑わない。しかしながら、精神はいつもそういう前 ( 2 ) ( 1 ) 「精神すなわち考えるものと、身体すなわち長さ広さ深さ提に注意していられるわけのものではないから、また後にな において延長あるもの」 って、自分はそれ自体きわめて明証的なものと思われるもの ( 2 ) 「 < 形而上学上の確実さが問題である場合には > 、この存 においてさえ過っことがあるような本性のものとして創造さ ( 3 ) 在する自己とはただ精神であると解すべきことに彼らは気づかな れたのかも知れないなどと思いついたりするとき、精神がそ かった。」 のような〔明証的な〕ことを疑うのはむしろ当然のことであ り、自己自身の起原の創作者を知るにいたるまでは、確実な 一三どういう意味で他のすべての事物の認識が神の 認識に依存しているのか。 知識というものをなんらもちえないのだということを、精神 しかし、精神が自分自身のことは知っているのにその他の は知るのである。 ことはことごとくまだ疑っていて、もっと知識を広めようと ( 1 ) 「精神がそういう結論やそれに類することを演繹するもと

10. 世界の大思想7 デカルト

まな部分を数える。これらの部分々々にはそれぞれ任意の大あるのであって、これは不変にして永遠であり、私によって きさ、形、位置、および場所の運動があり、またこれらの運想像で描き出されたものではなく、また私の精神に依存する 動には任意の持続があるのを私は認める。 ものでもない。 このことは、この三角形についてさまざまな また、単にこれらのものだけが、このように一般的に見ら属性が、すなわち、三角形の三つの角は一一直角に等しいと れた場合、私によく知られていて分明であるばかりではな か、三角形の最大の角には最大の辺が対応するとか、その他 く、少し注意してみると、さらに形、数、運動などについてこれに属することが、論証されうることから明らかである。 も、無数の特殊性を私は知覚するのであって、それらのもの これらの属性は、以前に私が三角形を想像したときには決し の真理はきわめて明瞭であり、またきわめて私の本性に適合て思惟しなかったものであっても、今は私が欲すると欲しな しているので、それを私が始めて発見したような場合でも、 いとにかかわらず私の明晰に認知するところであり、したが 何か新しいことを学ぶというよりもむしろすでに以前から私 ってまた、私によって想像で描き出されたものではない。 が知っていたことを想いおこすのであるかのように思われる また、私はもちろん三角の形をした物体をときどき見たこ ほどである。 しいかえると、とっくの昔から私のうちにある とがあるので、この三角形の観念はおそらく外の事物から感 にはあったのだが、これまで精神の眼を向けないでいたもの 覚器官を介して私にやって来たのであろうと主張してみて に、私が始めて気づくかのように思われるのである。 も、事態は同じことである。なぜかというに、 いっか感覚を そしてここにもっとも注目すべきことと私の考えるのは、 介して私のうちに忍び込んだのではないか、などという疑い たとえ私〔の思惟〕の外ではおそらくどこにも存在しないに のおこりえないような他の無数の形を私は考え出すことがで しても、無であるとはいわれえない或るものの無数の観念をきるし、しかもそれらの形について、三角形の場合にも劣ら 私が私のうちに発見するということである。そのようなものず、さまざまな属性を証明することができるからである。こ は、私によって或る意味で随意に思惟せられるものではあるれらの属性はすべて、私によって明晰に認識せられる以上、 しかし私によって想像で描き出されるのではなく、それ確かに真であり、したがってまた、或るものであり、純粋な 自身の真にして不変な本性をもっているのである。たとえ 無ではない。なぜなら、すべて真であるものは或るものであ ば、私が三角形を想像するとき、そのような形はあるいは私ることは明らかだからである。それに、私が明晰に認識する の思惟の外には世界のどこにも存在しないかもしれないし、 ものはすべて真であることは、すでに私の詳しく論証したと またかって存在しなかったかもしれないけれども、その形に ころである。またたとえ私がこれを論証しなかったとして も、少なくとも私がそれを明晰〔判明〕に知覚するかぎり はたしかに或る一定の本性、あるいは本質、あるいは形相が ( 三 )