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検索対象: 世界の大思想7 デカルト
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1. 世界の大思想7 デカルト

と変りがない。そして、この共通の観念を一つの主体から他てにおいてであり、そしてその場合においてのみである 1 と の主体へ移すということがなされるのは、単純な比較によっ いうことに注意せねばならない。それ以外のすべての場合に てであって、それ以外のことではない。 この比較によってわ比較は準備を必要とするが、その理由は、こうした共通の本 れわれは、求めるものと所与のものとが、かくかくの点で類性が、比較の両項のなかに等しく存しているのでなく、何か 他の関係や比例に従属し包みこまれているからにほかならな 似しているとか、同一であるとか、相等しいとか判定する。 結局のところ、あらゆる推理において、われわれが正確に真 。そして人間としての主な仕事は、これらの比例を煎じっ 理を認識するのは、もつばら比較ということによってなので めていって、求めるものと既知のあるものとの間の相等性が ある。例えば、「すべてのはであり、すべてのは 0 で明晰に見てとられるようにする、ということ以外にない。 ある、故に、すべてのは 0 である」といったような推論に 次に注意すべきことは、こうした相等性へと引直すことが おいても、求めるものと所与のもの、すなわちと 0 とが、 できるのは、より大とより小の関係をもちうるもの以外には そのどちらもであるという点で相互に比較されるわけであなく、そしてこれはすべて「大きさーという語のもとに包括 . る。しかし、今までにもしばしば注意を促しておいたよう される、ということである。したがって、前の規則により困 に、三段論法の形式などというものは事物の真理を認識する難の諸項があらゆる主体から抽象された後、ここではそれに . のに何の役にも立たないのであるから、読者は、そうしたも続いて、われわれが取扱うのはただ大きさ一般のみであると いうことが理解される。 のはさっさと捨て去る方がよい。そして一般に、認識という ものは、孤立した一個の事物についての単純で純粋な直観に ところで更に、ここではわれわれは何かを想像において捉 よってえられる場合以外は、すべて、二つあるいはそれ以上えるのであり、純粋な知性ではなくて、想像において描かれ のもの相互間の比によってえられる、とだけ考えておくのた像に助けをかりる知性を用いるわけであるが、最後にその・ が有益であろう。実際、人間理性の仕事は殆んどすべて、こ点で注意すべきことは、大きさ一般について言われる事柄〕 の操作を準備することにある。というのも、この操作が明白は、必ずいかなる種類の特殊な大きさに対しても当てはめら ) で単純である場合には、それによってえられる真理を直観すれうる、ということである。 るために、特に方法の助けは必要でなく、ただ自然の光だけ これらのことから容易に次のことが結論される。大きさ一 あればよいのだからである。 般について理解されるべき事柄を、特殊な大きさの種類のう 比較が単純で明白だといわれるのは、求めるものと所与のちでもわれわれの想像力が最も容易に最も判明に描くとこる ものとが、ある一定の本性を等しく分有している場合のすべ のものに移して考察するならば、少なからぬ利益があろう。

2. 世界の大思想7 デカルト

則が、この世界に存在し、あるいは生起するすべての事柄に るものであるから遊星、彗星および地球について、なかんす おいて正確に守られているということを疑うことができない く地上に存在するすべての物体は色彩を有するもの、透明な ような具合に神が自然界に設定し、その概念をわれわれの霊もの、または光り輝くものであるから、地上に存在するすべ 魂のなかに刻みつけたものである。ついで私は、これらの法ての物体について、最後に人間はそれらの物体の見物人であ 則の系列を考究して、私がそれ以前に学び、あるいは学びた るから人間について、若干の事柄を付け加えようと企図した いと望んでいたすべてのものよりももっと有益で、もっと重のであった。これらのすべての事柄を少し陰におくため、ま 要ないくたの真理を発見したように思う。 た学者のあいだで認容されている見解に追随したり、あるい しかし、私はこれらの真理の主なものをある論文のなかで はこれを反駁したりしなければならないような羽目に陥らず 説明しようと努力したのだが、 若干顧慮するところがあってに、自分がこれらのことについて判断したところのことをい その出版を見合わせているので、それらの真理を知っていた っそう自由に語ることができるように、私はこの地上世界を だくためには、ここでこの論文の内容を略述するにこした一」あげて彼ら学者たちの論議に委ね、かりにいま神が仮想の空 とはないと思う。この論文を書くまえに、私は物質的な事物 間のどこかで新しい世界を構成するに十分な物質を創造し、 の本性について私が知りたいと思ったすべてのことをそこに この物質の種々の部分をさまざまなふうに無秩序に揺り動か 含めようと企図した。しかし画家が、平らな画面に立体の異し、それでもって詩人でなければ想像できないような混沌を なったすべての面を同じように表現することは不可能だか構成し、しかるのち神は彼の正常の協力を自然にあたえ、自 ら、その主要な面のひとつを選んで、その面だけを光のほう然をして彼が設定した法則にしたがって動いてゆくに委せる にむけ、ほかのもろもろの面は陰において、われわれがこの以外にはなんら手を加えないとしたならば、このような新し 日向になった面だけを眺めることによってはじめて、ほかの い世界に起こるであろうと思われる事柄についてだけ語ろう 面が見えるようにするのとまったく同じように、私もまた、 と決意した。このようにして私はまず第一にこの物質につい 説この論説中に自分の思惟のなかにあるすべてのものを盛るこ て記述し、それをば私がさきに神および霊魂について述べた 序とはできないであろうということをおそれて、私はそこで自 ことをのぞくと、この世にこれ以上明白で理解しやすいもの 法分が光について考えていたことだけを思う存分に説明し、な はないと思われるような具合に表現しようと努力した。とい うのは私は、そのなかには学院で論じられているあの形相だ おその機会に、光はほとんどすべて太陽と恒星から生じるも のであるから太陽と恒星について、天空は光を伝えるものでとか本有性だとかいったものは全然なく、また一般に、それ あるから天空について、遊星、および地球は光を反射すを知らないふうに装うことが不可能なほど、その認識がわれ カオス

3. 世界の大思想7 デカルト

吟味することほど有効なものはない、ということにあるが、 雑した仕方で認識するにすぎないこともある。 ところが更に、この枚挙は、時には完全でなければなら また次のような事情もある。問題になっている事柄に関係が ず、時には判明でなければならないけれども、場合によってある個々のものを、一つずつ別に辿ってゆかねばならぬとな は、そのいずれも必要でないことがある。だから、それは充ると、それが余りに多かったり、同じものが幾度も繰返し出 分でなければならぬ、とだけいわれたのである。例えば、私てきたりするため、人の一生ではとても足りないということ になる場合が多い。しかし、もしそれらすべてのものをきわ が、存在のさまざまな類のうちいくつのものが物体的である か、すなわち何らかの仕方で感覚にるか、ということを枚めて秩序よく配置し、大抵のものは一定のクラスにまとめて 挙によって判定しようとする場合ならば、まずもって、存在おくようにすれば、それらのクラスのうちの一つだけを精密 に調べるとか、それぞれのクラスからのものを一つずっ取り のすべての類を枚挙によって総括し、その一つ一つを互いに 区別した、ということを確実に知った上でなければ、そうし出すとか、他は別にして特定のクラスを取り上げるとかすれ た類の数はこれだけあってそれ以上にはないと主張しはしな ば充分であり、あるいは少なくとも、同じものを二度も辿っ て無駄をすることはなくなるであろう。このやり方を活用す いであろう。しかし、同じ枚挙の道によって、理性的精神は 物体的でないということを示そうとする場合には、枚挙が完れば、最初は測りしれぬと見えた多くのものでも、秩序をう まく立てたために短時間で、しかも楽な仕事として、処理し 全である必要はなく、ただ、物体的なもののすべてを幾つか の集合にまとめ、これらの集合のどれにも理性的精神が関係おえることが少なくない。 づけられえないということを証明しさえすれば、それで充分 ところで、事物を枚挙するためのこうした秩序は、大抵の であろう。また、円の面積は、周囲の長さの等しい他のすべ場合、さまざまな仕方で立てられうるものであり、各人の意 ての図形の面積よりも大であることを、枚挙によって示そう 志に依存している。したがって、それをできるだけ巧みに考 とする場合には、すべての図形について検討する必要はなく、 案するためには、規則五で述べられたことを思い出すのがよ そのうちのあるものについて個別的にそのことを証明し、帰 い。また、人がよくする遊戯のなかには、それを解決する方 の納によってそれを他のすべてについても結論する、というの法とはこうした秩序を設定することにほかならないようなも 指で充分なのである。 のが、非常に多い。例えば、ある語句の文字を組みかえるこ とによって字謎を解く場合がそうである。これを最もうまく 知また私は、枚挙が秩序正しくなければならないということ を付け加えておいた。その理由は、先ず、右にあげてきたよやるためには、より容易なものから困難なものへ進むとか、 うな不備を免れるための対策として、すべてを秩序に従って絶対的なものを相対的なものから区別するとかいうことは、

4. 世界の大思想7 デカルト

な関係または比例だけを考究するものだという点では一致せするのに二、「三か月しか費やさなかったのに、以前には非常 ざるをえないということから考えて、私は、ただこれらの比にむずかしいと思ったたくさんの問題を解決してしまったば 例一般をば、それも認識をいっそう容易にするような問題に かりではなく、しまいには、以前は知らなかった難問さえ、 だけ仮定し、しかも後になってこの比例があてはまるすべてどんな方法によって、またどの程度に解決が可能であるかを の事物にそれだけよく適用できるように、その問題だけに限決定することができると思われたほどである。こう申しあげ らないで、検討したほうがよいと思った。つぎに、この比例 たところで、もし諸君が、ひとつひとつの事物について真理 を認識するためにしばしばそれらをひとつひとっ個別的に考はただひとっしかないのであって、この真理を発見する人は この事物についておよそわれわれが知りうるかぎりのことを 究したり、また数個の比例をいっしょにして単に記憶にとど めるとか、あるいは理解するとかいう必要も生じるだろうと全部知っているのだということを考えられ、またたとえば算 いうことに気がついて、私はつぎのように考えた。すなわち術を習った子供は、その規則にしたがって加算した場合、彼 めいせき が検出した総和については、人間精神が発見できると思われ 線以上に単純で、私の想像力や感覧にこれ以上明晰に描いて るすべてのことを発見したと確信することができるというこ 見せることのできるものは見いだせなかったので、この比例 を個別的にいっそうよく考察するためには線として想定すべとを考えられるならば、以上私が申しあげた点において、私 ごうまん きだということ、しかしながら数個の比例をいっしょに記憶はおそらくそれほど傲慢ではないと考えられるだろうと思 し、あるいは理解するためには、できるだけ短い数字でもっ う。けだし、つまるところ、真の秩序にしたがい、また探求 て説明しなければならないということ、そしてこのような方しつつある事物にかんするすべての状況を正確に列挙するこ 法によって、幾何学的解析と代数学のすべての長所を借り とを教えるところの方法は、算術の諸規則に確実性をあたえ るすべてのものを包含しているのだから。 て、一方の短所はすべて他方で訂正しようと考えたのであっ しかしながら私がこの方法にいちばん満足を感じたのは、 この方法によって、自分の理性を何事につけても、よし完全 事実私は、はばからずに申しあげるが、私がさきに選びだ したあのわずかばかりの準則を厳格に守ることによって、こ にではないにしても、少なくとも自分のカのおよぶかぎりよ く使用しているという確信をえたことであった。なおまたこ のふたつの科学の領域にあるすべての問題をまことに容易に 解くことができた。それは、もっとも単純でもっとも一般的の方法を実際に使用することによって、私は自分の精神がだ なものから始めて、発見したおのおのの真理をほかの真理のんだんその対象をもっとはっきりと、もっと判明に理解する ことになれてゆくのを感じた点、ならびにこの方法を少しも 発見に役立っ規則とすることによって、これらの科学を検討

5. 世界の大思想7 デカルト

( 1 ) 「私たちが想念としてもっているものは、事物か真理かのを知らずにいるわけこよ、 冫。し力ないものである。 いずれかと考えられる。」 ( 1 ) 「これで私たちが事物として知っているものはことごとく ( 2 ) 「私たちに認識される一切のものを私は二つの種類に区別 数えあげたから、こんどは私たちが真理として知っているものに する。一つはなんらかの存在をもつあらゆる事物を含み、他は私 ついて述べよう。」 たちの思惟の外にはない一切の真理を含む。」 ( 2 ) ^ それは真理にほかならないので、私たちの思惟の外にあ ( 3 ) 「事物については、私たちはまず第一に、すべての事物に る事物ではない、 > かかわりうるような或る一般的な想念をもっている、すなわち、 ( 3 ) ^ またその必要もない、なぜなら、 > 私たちが : 実体・持続・順・数、およびその他まだいろいろあろうが、そ ういうようなものである。つぎに私たちはまたもっと特殊な想念 吾これらの真理は明晰に知覚される、しかしすべ をもっており、これが事物を識別するのに役立つのである。」 ての真理がすべての人によって知覚されるというわ に。いかない。先入見があるからである。 究永遠の真理はそのように数えあげられるもので しかも、これらの共通想念に関するかぎり、それが明晰判 はないし、またその必要もない。 ( 1 ) 明に知覚されうることは疑いない。もしそうでなければ、共 これらすべてを私たちは事物あるいは事物の性質ないし様通想念とはいわれえないはずであろう。しかし実際には、共 態と考える。ところが、無から何ものかが生ずることは不可通想念といわれるもののなかにもすべての人々に等しくこの 能であると私たちが認める場合、「無からは何ものも生じな名に値するとはいえないものがある。というのは、すべての というこの命題は、何か存在する事物とも考えられない 人によって等しく知覚されはしないからである。けれどもそ し、また事物の様態とも考えられない。むしろ或る永遠の真れは、田 0 うに、ひとりの人の認識能力が他の人のそれよりも 理と考えられ、私たちの精神のうちに坐を占めていて共通想広い範囲におよぶからなのではなく、むしろ、これらの共通 念あるいは公理と呼ばれる。この類に入るものは、同じもの想念が或る人たちでは先入見と背馳しているため、容易にそ が同時にありかつあらぬということは不可能である、とか、 れが捉えられないのに、そのような先入見から自由な人たち なされたことはなされなかったこととはなりえない、とか はそれをきわめて明証的に知覚するからなのである。 思惟する者は思惟している間は存在せざるをえないとかで、 五一実体とは何か。また、この名は神と被造物とに この他にも無数にあって、それをことごとく挙げつくすのは ( 3 ) 一義的に適用することはできない。 容易なことではない、しかし、私たちがひとたびこれを思惟 ( 1 ) する機会にのそんで先入見に昏まされていないならば、それ しかし、私たちが事物もしくは事物の様態と見るものに閃 ( 2 )

6. 世界の大思想7 デカルト

であり、彼らが、数は数えられるものとは区別されると考その同じものについて、一を他から構成するという場合、相 えたのでなかったなら、あのようなことをかくも信じこむこ矛盾する原理を持ち出して彼の対象の明証性を混乱させては いないであろうか。その場合、運動によって面を生ずると考 とはなかったに違いない。同様に、われわれが形を取扱う場 合には、延長ある主体を取扱っているのであって、ただ、そえられている線は真の物体なのであるが、幅をもたぬ線とい うのは物体の様態にすぎない、等々、ということに気がっか れが形をもっという点だけが考えられるのだ、と心得ること にしよう。物体の場合は、長さと幅と深さのあるものとしてなければならないのである。しかし、こうしたことの検討に の限りでの延長主体を取扱っているのだと心得よう。面の場これ以上は停滞しないことにして、われわれとして対象をい かなる仕方で把握すべぎだと考えているか、簡潔に説明する 合は、同じ延長主体を長さと幅のあるものとして考え、その としよう。そして、そのわれわれの対象において、数論と 際、深さは無視するのであって否定するのではない、という ようにしよう。同じく線の場合は、長さあるものとしてだけ何学に内在している真理のすべてを、できるだけ見やすく示 してみせよう。 である。点の場合は、やはり同じ延長主体を、存在というこ われわれがここで取扱うのは、延長ある対象であり、この と以外のすべてのことを無視して考えるわけである。 こうしたことのすべてを私がここでどんなに詳しく述べて対象において、延長そのもの以外は全く考察から除く。われ いっても、死すべき者たちの知能は甚だしく先入見にとらわわれとしては「量」という語をわざと避けるが、そのわけ は、ある詮索好きな哲学者たちが量も延長から区別したから れているものなのであるから、私の危惧するところでは、こ の点に関する誤謬のあらゆる危険に対し充分に安全でありうである。そしてわれわれは、すべての問題がすでに充分に推・ るような人はきわめて少数であり、そして、私の考えを説明しすすめられていて、今や求められているのは、ある延長を しようとしてのこうした長談義も実は短かすきるくらいだと他の既知の延長との比較によって認識すること以外にはな 、というところまで来ているとする。われわれはここで何 いうことが、なかなか分ってもらえないであろう。あらゆる か新たな存在の認識を期待しているわけでなく、ただ、いか 学術のうちで最も確実な数論や幾何学でさえ、この点でやは に複雑な比例でも、それを煎じつめていって、未知のものが既 りわれわれを欺くのである。例えば、計算家は誰でも、彼の 取扱う数が、あらゆる主体から、知性によって抽象されている知の何かに等しいということを見出そうと欲するだけなので はかりでなく、想像力によっても真に区別されるべきだ、とある。そこで、われわれとしては、他のどんな主体において 考えているのでなかろうか。また幾何学者は誰でも、線は幅存する比例にせよ、そのすべての差異を、二つあるいはそれ 以上の延長どうしの間においても見出すことができるのは、 をもたず、面は深さをもたぬと判断しておきながら、後では

7. 世界の大思想7 デカルト

7 知能指導の規則 ら、学問はすべて人間の知恵にほかならないのであるが、こ の知恵よ、、、 . 冫し力に種々さまざまの異なった事柄に適用されて 土へ .. 目ハ も、それ自身は常に同一のものとしてあり、それらの事柄か ら差別をうけとりはしないこと、太陽の光が、それの照らす 事物の多様性から差別をうけとらないのと、同様だからであ ものを研究することの目的は、知能を指導して、そ る。したがって知能を、何らかの限界のなかに閉じこめねば れが出あうすべての事柄につき、しつかりした真な よ、技術 ならぬいわれはない。また実際、一つの真理の認識ー る判断をくだしうるようにすること、でなければな 4 り - - よ、 0 の習得の場合とは違って、われわれを他の真理の発見から遠 ざけはせず、かえってそれを促進するものなのである。とこ いろが大抵の人々は、人間の風習とか植物の効能、星の運動と 一般に人々は、二つのものの間に似たところがあるのを認 めると、実はそれらが相異なっている点に関してさえ、どちか金属の変質、その他こうした諸科学の対象については、あ れほど熱心に探究するのに、良識、すなわちあの普遍的知恵 らか一方について真であるのを見出したことを、両方ともが そうなのだと判断してしまう、という傾向をもっている。そについては、ほとんど誰も考えない。私にはこれは全くおか しなことだと思われる。というのは、およそ知恵以外のもの のようにして人々は、もつばら精神による認識ということに おいて成り立っている学間と、身体の何らかの慣れや素質をが尊重されるのは、それ自身の故ではなく、この知恵に何か 必要とする技術とを混同し、そして、すべての技術が同時に寄与するところがある故なのだからである。 こうした事情を考えて、われわれは右の規則を、すべての 同一人によって習得されるものではなく、一つの技術だけを 練習する者の方が、容易に優秀な技術者になりうることを見うちで第一に掲げた。学問の研究を、この一般的目的にでは なく、何か他の特殊な目的に導くことより以上に、真理探究 て、学問についても同様であると信じた。技術においては、 同じ手が畑仕事と琴の演奏、あるいはその他さまざまの仕事の正しい道からわれわれをはずれさせるものはないからであ る。ここで私が他の目的というのは、例えば空しい名声や卑 に熟達しようとしても、それらのうちの一つだけの場合のよ しい利得などのように、よこしまな非難すべき目的のことで うには、うまくゆかないものである。そこで学問についても、 十よ、 0 こうしたものに達するためならば、真理の堅実な認 対象の相異に応じて諸科学を互いに区別した上で、それらの 一つ一つを、他はすべて捨ておいてそれだけ別に、研究すべ識によるよりも、うわべだけの才知や俗物の知能に合った術 きだと人々は考えた。これは明らかに間違いである。何故な策による方が、はるかに近道であることは、初めから明らか

8. 世界の大思想7 デカルト

341 哲学の原理 で、人間の技巧で作られた多くの物体の実例がたいへん私に役立 ら、それらの事物の原因と感覚できない徴小部分とがどんな った。なせかといえば、職人の作る機械と、自然だけが作るさま ものであるかを、探求しようと試みたのである。 ざまな物体とのあいだに私の認める相違は、・たご、 機械の結果は ( 1 ) 「さらにまた、おのおのの物体の微小部分の形や大きさや 管や発条やその他の道具の組み立てに依存しているが、それらの 運動がどんなものであるかを私がどこから知ったのか、と問う人 ものは、それを作る人間の手と何らかの関係をもたぎるをえない・ があるかも知れない、 この微小部分は感覚できないものと私は認 のであるから、いつでもその形や運動が目で見えるだけの大きさ。 めているのだから、私が感覚によって知覚できなかったことは確 のものでなければならないのに、自然的な物体の結果を生む原因 .. かであるはすなのに、私はまるで見て知っているのと同じような ナしてい私たちの感覚では知覚できない となる管や発条の方は、こ、 ふうにして、その多くを私はここで規定しているからである。こ ほど微小なものである、ということだけである。ところで、力学、 の疑問にたいして私はこう答えよう。私はます第一に、物質的な の規則はすべて自然学にもあてはまることは確かである。したが・ 事物に関して私たちの悟性のうちにありうる明晰判明な観念すべ って、人工的なものはすべて、また自然的なものでもある。すな てを一般的に考察したのであるが、それによって私の発見したも わち、例えば、車で作られている時計がその歯車によって時を のは、形と大きさと運動と、そしてこれら三つのものがお互いに 示すのは、一本の木が果実をつけるのと同様に自然なことであ 作用し合って変化してくる規則、つまり幾何学と力学の原理でも る。それだからこそ、時計職人が、自分で作ったのでない時計を あるような規則と、について私たちのもっている観念だけであっ 見て、そのどこか一部分を見るだけで、ふつう、目で見えない他の たので、そこで私は、人間が自然についてもらうるすべての認識 諸部分全体がどうなっているかを、判断できるのと同じように、 は、必然的にそこからのみ引き出されねばならないと、判断した 私も、自然的物体の感覚できる結果や部分を考察することによっ のである。感覚できる事物について私たちのもっているそれ以外 て、感覚できない部分のそれがどんなものでなければならないか のすべての念は、混乱した曖昧なものであるから、私たちの外 を認識しようと試みたのである。」 にあるどんな事物の認識ー こも役立っことができす、むしろその妨 げになりかねないのである。そこで私は、ただ小さいがためにの ニ 0 四感覚できない事物については、たとえそうで み感覚できないさまぎまな物体の形と大きさと運動とのあいだに いかにありうるかを はないかも知れないとしても、 ありうるすべての主要な相違を調べ、それらがさまざまなふうに ( 1 ) 混ぜ合わされるとどういう感覚できる結果が造り出されうるかを 私が説明できれば足りる。 検討した。その後で、私たちの感覚の知覚する諸物体のうちにそ すべての自然的な事物がどのようにして造られることがで れと似た結果を見つけると、その結果も同じようにして生じえた きたかが、おそらくこのように理解されるとしても、それだ・ のだと、私は考えた。それから、自然界全体を見渡しても、そう からといって自然物が実際にそのように造られたと結論する いう結果を生み出す原因はこのほかには見いだすことは不可能の ように思われた時、私は確かにそうに違いないと信じた。この点わけにはゆかない。なぜかというに、同じ〔時計〕職人によ ( 2 )

9. 世界の大思想7 デカルト

さらに私は、信仰をもたない人々の大部分が神の存在した 彼ら知らざるをも宥すべからざるなり、彼らもしこの世のも もうこと、および人間の精神が身体から区別されていること いかなればこの世のも 1 のを賞でうるほど知りえたらんには、 のを創りし主をこそいと容易に見いださざりしや」という言を信じようと欲しない原因は、この二つのものはこれまで何 葉から明らかなことであります。また『ロマ書』第一章に人によっても論証されることができなかったではないか、と は、「彼らいいのがるるすべなし」といわれております。そ彼らが主張するからにほかならないことを知っております。 もちろん、私は決して彼らに同意いたすものではなく、反対 してまた同じ箇所に、「神につきて知りうべきことは彼らに あらわ ( 三 ) にこれらの問題にたいしてすぐれた人々によってもち出され 顕なり」とありますが、この言葉によりまして、神について 知られ得るい「さいのことがらは、ほかならぬ私たちの精神ましたほとんどすべての根拠は、それが十分に理解されさえ しますならば、論証の力を有するものと考えております。で そのもののうちに〔そして私の精神のみがわれわれに与える すから、すでに以前にほかの誰かによって発見されなかった ことのできるところに〕求めらるべき根拠によって、明らか ような根拠を〔新たに〕あげるなどということは、ほとんど にされうるということが指示されていると思われるのであり できないであろうと確信しております。しかしながら、ひと ます。そういうわけで、それならば、どうしてそうなのか、 どうして神はこの世のものよりもより容易に、そしてより確たびそれらすべての根拠のうちもっともすぐれたものを綿密 実に、認識せられるのかを探究いたしますことは、私に無関に考究して、それを厳密にかっ明瞭に述べ、かくてこれから はその根拠がすべての人々にとって論証であるということに 係なことではないと考えたのであります。 きまりますならば、哲学においてこれにまさる有益なことは また霊魂に関しましては、多くの人々はその本性を究める 果しえられないと私は信ずるのであります。そして最後に、 ことは容易でないと考えておりますし、また或る者は、人間 的な根拠からは霊魂が肉体と同時に減び去るとの確信をいだ或る人たちは、私がもろもろの学問におけるあらゆる難問を くにいたるほかなく、ただ信仰によってのみそれとは反対の解決するための或る方法をうちたてましたことを知っており ことが理解せられる、とさえ敢えて主張いたしておりますけまして、と申してももちろんまったく新しい方法ではありま せんがーー・真理よりも古いものはありませんからーー・・・しかし れども、しかしレオ十世の下に開かれました第八回ラテラン 会議は、そのような説をなす人々を非となし、そしてキリスそれでも彼らは私がその方法をしばしば他の困難な問題に使 ト教哲学者たちに特に命じて彼らの論拠を破らせ、全力を挙用してかなり実のりを結んだことを見ているのであります げて真理を証明させているのでありますから、私もまたあえが、そういうわけで彼らは、私がこの仕事にとりかかること を切に求めましたので、そこで私はこの問題について少しば てこれを企てた次第であります。 ゆる ( ニ )

10. 世界の大思想7 デカルト

われわれが弁証家たちの真似をするのは、次の点だけであうである。すなわち、三本の絃が等しい音を発し、そ る。彼らは、三段論法の形式を教えるにあたって、その諸項、のうち、仮定により、はに対し太さは二倍であるが、長 さは等しく、二倍の重さの錘りで張られている。また 0 は ナなわち質料、を、既知のものとして前提するが、そのよう に、われわれもここで、問題が完全に理解されたということ に対し太さは等しいが、長さは二倍しかないのに、四倍の重 さの錘りで張られている。そこで、これだけのことから正確 を、初めから要求しておく。しかしわれわれは、彼らのよう に音の本性について私が何を判断するか、と人が問う場合、 に両端項と媒項を区別するといったやり方をするわけではな く、車柄全体を次のようにして考察してゆく。第一に、すべ などである。すべての不完全な問題がいかにして完全な問題 て間題においては何か未知のものがあるはずである。そうで に引直されうるものかは、ここから容易に知られる。これに なければ問題にすることが無意味だからである。第二に、そっいては適当な場所でもっと詳しく説明されるであろう。ま の当のものが何らかの仕方で表示されなければならない。そた、この規則を守って、よく理解された困難をすべての余計 うでなければ、われわれが探究すべきなのは他の何かではな な表象から引き離し、最後には、当の困難に関しわれわれの くてまさにそれである、という決まりがつけられないからで考えることは、もはやあれこれの主体を取扱うことではなく ある。第三に、それが表示されるのは、既知である何か他の て、一般的にただ大きさを相互に比較することだけである、 ものによってのみなされうる。ここまでのことはすべて不完というところにまで煎じつめてゆくのは、どのようにしてな 全な問題においても見出される。例えば、磁石の本性はいか されうるかも明らかである。というのは、例えば磁石につい なるものかが問題にされる場合、磁石と本性という二語の意て、かくかくの実験だけを考察するように決められてしまえ 味として理解されるところは既知であり、それによって、探ば、われわれの思考を他のすべてのものから遠ざけるのに、 究すべきものは他ではなくてこれだと決まる、等々という具もはや何の困難もないからである。 合にである。しかし、それ以上に、問題が完全であるために これに付け加え、規則五と規則六にしたがって困難を最も は、われわれは、問題が全面的に規定されており、所与のも単純なものに還元し、規則七にしたがって分割せねばならな ののから演繹されうる事柄より以上のものが求められてはいな い。例えば、多くの実験に基づいて磁石を検討する場合なら ということを要求する。例えば、ギルく , ートが自分でやば、私はそれらを順次に一つずつ辿ってゆくであろう。同様 知ったという実験、それには真なのも偽なのもあろうが、それに、右にあげた音の問題でいえば、私は絃ととの間を、 らから磁石の本性について正確に推論されるべきことは何次にと 0 との間を、別々に比較するであろう。こうして後 か、と人が私に問う場合である。同様に次のような場合もそすべてを同時に、充分な枚挙によって総括する、というよう