3 引 喜びとは心の快適な情緒であって、脳の印象が心の所有でる。これは情念ではないが、情念を伴わすにいることはほと んどない。 あるとして心に示す善いものを心が享受するのはこの情緒が あるからである。私は善いものの享受がこの情緒において存 九三これら一一情念の原囚は何々か。 するという。事実、心はその所有するすべての善いものから ところが、知的な喜びや悲しみが情念としての喜びや悲し 喜び以外のいかなる結果をも受けえないからである。心がそ みを刺激する場合、この二情念の因って起こる理由は十分明 れらにたいする喜びをもたない限り、心がそれを享受しない 白であって、ある善いものを所有しているという考えから喜 ことは、あたかもそれを所有しないのと同じである。また、 びが起こり、ある悪いものをもち、ある善いものが欠けてい 私が、脳の印象が心の所有であるとして心に示す善いもの、 と付加したのは、情念である喜びを、純粋に知的な喜びと混るという考えから悲しみが起こることは、これら情念の定義 によって了解される。しかし、その原因となる善いもの悪い 同しないためである。知的な喜びはただ心のみの作用によっ て心に生ずるものであり、心自身のなかに刺激された快適のものを上のように明確に認めえないで、しかも悲しく感じ、 情緒ともいいうべく、悟性が心の所有であるとして心に示す喜ばしく感じることが往々ある。これはすなわち、この善い もの悪いものが心の媒介なくして脳に印象を与える場合であ・ 善いものを心が享受するのはこの情緒による。もっとも、心 って、善いもの悪いものが身体にのみ属していることに起因 が身体に結合されている限り、この知的な喜びが情念である 喜びを伴わずにいることはますほとんどない。けだし、われし、また時には、たとえ心に属してはいても、心がそれを善 いもの悪いものとは考えず、ある他の形においてこれを考 われがある善いものを所有していることを悟性が気づくや、 え、しかもその形の与える印象が脳のなかで善悪の印象に結一 たとえその善いものが、すべて身体に属するものとは大いに 異なるために全然想像されえないものであっても、想像力は合されている、ということに起因する場合がある。 依然として直ちに脳のなかにある印象を与え、その印象から 九四いかにしてこれらの情念は身体にのみ関係する くすぐ 精気の運動が起こり、これが喜びの情をそそるのである。 善いもの悪いものによって刺激されるか、また擽り の快感 (chatouillement) と痛みは何から成ってい 空悲しみの定義。 るか。 悲しみとは一種の不快な憂欝感であって、脳の印象が心に たとえば、身体がいま健康であり、天気が常ならすうう 属するものとして心に示す悪いものまたは欠陥から心の受け らかなとき、人は心に一種の快活さを感じる。ところでこり る不愉快さはこの憂欝感に存する。また知的な悲しみもあ
ができると思う。 志、心に関係するものではあるが、しかも心自体によって起 こる意志からそれを区別するためであり、また、情念を同じ 天この定義前半の説明。 く他の感覚と区別すべき、情念の最終的な最も近い原囚を説 心の働きでもなく意志でもないすべての想念を意味するた明するためである。 めにひろく知覚という語を用いるなら、情念は知覚と名づけ き心が身体各部と相関すること。 ることができる。しかし、この語を明白な認識を意味する場 合にのみ用いるなら、情念は知覚とは名づけられない。けだ しかし以上の事柄を一層完全に了解するためには、心が真 し、最もはげしく情念に動かされる人々は、最もよく情念を実全身に結ばれていること、心が身体のある一部分にのみあ 知るものでなく、この種の情念が心身の密接な結合によって って他にはないというがごときは正しくないこと、を知って あいまいか こんとんか 暖昧化され混沌化された知覚の類に属すべきことは、経験におく必要がある。身体諸器官の組立ては、その一を除去すれ よって明らかなのである。この情念は外的感覚と同様にして ば全身に欠陥をきたすほどすべて互いに密接な連絡があるか 心のなかに受け取られ、他の方法では心によって認識されえら、身体は一つであり、いわばまた不可分であるのがその理 ないから、これを感覚と名づけることもできる。しかし、心由の一つ。また心が、身体を組織する物質の拡がりにも、ま じようしょ の情緒と呼んだ方がなお一層適切である。この名称は、心の たその次元にも関係せず、単に身体諸器官の全体に関係して なかに生ずるあらゆる変化、すなわちすべて心に生する各種 いるということがその理由の二。これは、心の半分、心の三 の想念に対して与えうるゆえのみならず、特に、心のもちう分の一というようなことや、心がどれだけの拡がりをもっか るすべての想念中、この種の情念ほど強く心を動揺させるも というようなことは全く考えられす、身体の一部を除去して のはないからである。 も心は小さくならず、諸器官の全体を分解するときにはじめ て心が身体から分離することによって明らかである。 一一九後半の説明。 三一脳に微細な腺があり、むは他の部分よりも特に これらの情念が特に心に関すると付け加えたのは、匂いや この腺においてその機能を果たす。 音や色のように外物に帰すべき感覚や、饑渇、苦痛のように 身体に帰すべき感覚からそれを区別するためである。またこ 心は全身に連絡しているけれども、しかも心が他の部分に れらの情念がある種の精気運動によってひき起こされ保持さおけるよりも特によくその機能を果たす部分が身体の中にあ れ強化されると付け加えたのは、心の情緒と称しうべき意 ることを知っておく必要がある。そしてこの部分は、脳また ( 五 )
361 情念論 の流れ方に左右されるのである。ちょうど時計の運動が、も 一九知覚について。 つばらゼンマイの力と歯車の形によって生ずるのと同然であ る。 知覚にもまた一一種類ある。一は心を原因とし、他は身体を 原困とする。心を原因とするものは、意志および意志に依存 一七心の機能は何々か。 する一切の想像その他の想念に対する知覚である。ある事柄 かならず、それを意志することをも 以上、身体にのみ属する一切の機能を考察したうえは、心を意志しうるためには、 に帰すべきものは想念を除いて他に何物も残っていないこと同様の手段によって知覚しなければならないことは確実だか らである。また、ある物を意志するということは、心から見 を容易に知ることができる。想念には主として二種類あり、 すなわちその一は心の能動であり、その二は心の受動 ( 情れば一つの能動であるが、意志していると知覚することは、 念 ) である。心の能動とは意志のすべてをいう。意志は直接また心において一つの受動 ( 情念 ) であるということができ る。しかし、この知覚も意志も実際には同じものであるか 心からくるものであり、もつばら心にのみ左右されるらしい ことを、われわれは経験上知っているからである。またこれら、呼び方はつねに高次の方をとり、これを受動 ( 情念 ) と は呼び慣わさず単に能動 ( 働き ) という。 と反対に、われわれの内部に存する各種の知覚や認識は、こ れを一般に受動 ( 情念 ) と呼ぶことができる。多くの場合、 一一 0 心によって作られる想像その他の想念について。 それをかくあらしめるのは心ではなく、心は常にそれらを、 ぬえ それらが表象している事物から受け取るゆえである。 心がたとえば魔法の宮殿や鵺を空想するように、全く存在 しないある物を想像しようと努める場合、また心がたとえば 入意志について。 みずからの本性を考える時のように、単に理解できるのみで また意志にも一一種類ある。その一つは、われわれが神を愛想像することのできないある物を考えようと努める場合、心 しようとしたり、また一般に物質的でない対象に向かって思 がそれらから受ける知覚は、心をしてそれらを知覚せしめる いをひそめようとする場合のように、心そのものの内におい 意志に主として依存するのである。それゆえこの知覚を普通 て終結する心の働きである。その二は、身体において終結すは情念と考えず、むしろ働きと考えるのである。 る働きであって、たとえば、散歩しようという意志をもつだ 三身体のみを原囚とする想像について。 けで自然に足が動き、われわれが歩き出す場合のようなもの 身体によって生じる知覚のうち大部分は神経の作用であ である。
ように心を刺激し、勇猛心は戦おうと欲するように心を刺激すくなっているのである。したがってこの気孔に出会った精 する。他の情念についてもまた同じである。 気は、他の気孔にはいるよりも容易にこの気孔にはいって腺 に特殊の連動を刺激する。この運動が前と同じ対象を心に示 四一身体にたいする心の力はどうか。 し、この対象こそ心の思い出そうとしているものであること しかし意志は本来自由であるから、決して抑圧されえなを心に教えるのである。 。ところで、私が心のなかに区別した一一種類の想念、その ー。いかにして想像し、注意し、また身体を動 四三むよ 一は心の働き、すなわち意志であり、その二は、各種の知覚 かしうるか。 をも含む最広義の情念であるが、第一のものは絶対的に心の かくして、われわれがかって見たこともない事物を想像し 支配下にあって、身体によっては間接にしか変えることがで きない。 これに反して第一一のものは、それを生する働きに絶ようとする場合、その意志は、ある脳気孔に向かって精気を 対的に依存するものであって、心がその原因である場合を除押し出すために必要な仕方で腺を動かす力をもっており、問 けば、心によっては間接にしか変えることができなし 、。心の題の事物はその脳気孔の入口から心に表象されるのである。 かくしてまた、ある一つのものをしばらく注視しようと欲す 働きは、何ごとかを望みさえすれば、心と密接な連絡のある る場合、その意志は腺をその間ある同一方向へ傾けておく。 小腺が、その意志に応じた結果を生むに必要な仕方で動く、 かくしてまた最後に、人が歩こうと欲する場合、その他身体 ということを知っている点だけに存する。 をある仕方で動かそうと欲する場合、その意志は、この目的 四ニ想起しようとすることが、いかにして記億のな に役だつべき筋肉の方へ腺をして精気を押し出させるのであ かに見いだされるか。 る。 かくて、心がある事柄を思い出そうと欲した場合、その意 四四意志は本来それぞれある腺運動に連絡してい 志の働きによって腺は前後左右に傾き、思い出そうとする対 こんせき る。しかし修練や習慣によってこれを他の腺連動に 象が残した痕跡の在存する個所に出会うまで、脳の各所に精 も連絡させうる。 気を押し流すのである。けだしこの痕跡とは、かって問題の 対象が現われたために精気がそこから流れ出した脳気孔にほ とはいえ、われわれの内部に、ある運動、またはその他の かならず、その結果、この痕跡は精気が到達した場合、ふた結果を刺激しようとする意志は、われわれをして必ずしも実 たび同様にして開くことが、他の気孔と比べてはるかにたや際にそれを刺激せしめうるとは限らない。それは、自然や習
播によって身体に起ころうとする運動の多くを抑止することのである。しかるに、精気によって腺のなかに刺激される運 である。たとえば怒りが、相手を打っために手をあげさせよ動には二つの種類が区別される。その一は、感覚を動かす村 そうぐう うとすれば、意志は普通この怒りを抑えることができる。恐象物、または脳髄内で遭遇する印象を心に呈示し、しかも意志 れが人々の足を駆って逃げさせようとすれば、意志はその人にはなんらの力をも加えないもの。第二は意志にたいしてい 人の足を停止させることができる。他の情念についても同様 くぶん力を及ぼすもの、すなわち情念あるいは情念に伴う身・ である。 体運動を起こすものをいう。さて第一のものについては、そ れがしばしば心の働きを妨げ、また心の働きによって妨げら - 岩普通、心の下部と上部の間に起こると想像され れるにもかかわらす、直接相反するものではないからそこに る戦いはそもそも何に存するか。 戦いは見られない。戦いが見られるのは、ただ第二のものと けんお 普通、心の下部すなわち感覚的と呼ばれている部分と、上それを嫌悪する意志との間においてのみである。たとえば、 部すなわち理性的部分との間、または自然的欲望と意志との精気があるものにたいする欲望を心のなかに起こそうとして に起こると想像されているすべての戦いは、もつばら、身腺を押す努力と、そのものを避けようという意志によって心 体がその精気により、心がその意志によって、腺のなかに同がそれを押し返す努力との間に起こるのがそれである。そし 時に刺激しようとする連動間の反撥に存するのである。とい てこの戦いをあらわにする主な事情は、すでに述べたとおり、 うのは、われわれの中にはただ一つの心しかなく、またこの 意志は情念を直接刺激することができないから、勢い工夫を 心には決して相異なる部分があるわけではない。感覚的な心用いてさまざまの事柄をつぎからつぎへと思念しなければな がまた同時に理性的なのであり、すべての欲望は意志なので らないが、それらの事柄のうち、たとえあるものが精気の流 ある。心をして一般に矛盾した役割を演ぜしめようとする誤れを一時変化させるだけの力をもっていても、そのつぎに考 りは、全く、心の機能と身体の機能とを十分区別しなかった える事柄にはその力がなく、神経や心臓や血液内の前の状態 ことから起こっている。われわれの内部において認められる 、、、変化していないために、精気がすぐまたもとどおりに流れ 反理性的なものは、すべて身体のみに帰すべぎである。した出すこともありうるから、心はある事柄を欲したくもあり、 がって今の場合には、脳の中央にある例の小腺が、前述のよ またほとんど同時に欲したくないとも感じる、ということで うに心の力により、また物体にほかならない動物精気の力にある。またそれに基づいて人々は相戦う二つの力が心のなか よって異なる方向に押されうるため、この二つの推進力が相にあると想像したのである。しかしまたわれわれはつぎの 反し、強い方が弱い方の効果を妨げることがしばしば起こる である別種の戦いを考えることもできる。すなわち、心のな
4D3 情念論 非常に強く、いかに激しい情念の力も、決して心の平安を乱 いのである。またわれわれが異常な事件を本で読んだり、ま たそれが舞台で演ぜられるのを見る場合、われわれの想像にすほどの力をもちえないのである。 現われてくる対象のいかんによって、われわれの心には時に 悲しみ、時に喜び、あるいは愛や憎しみ、そのほか一般にあ らゆる情念が刺激される。しかもわれわれはそれといっしょ に、それらが心に刺激されるのを感じて快感をおぼえる。そ してこの快感は一種の知的な喜びであって、悲しみからも、 またその他一切の情念からも生まれうるのである。 一哭徳の修養が情念にたいする最上の療法である。 ところが、これらの内的情緒は、それとは大いに異なるあ の情念、内的情緒と合体するあの情念よりも、一層密接にわ れわれに触れるものであり、したがってわれわれにたいして はるかに強い力をもっているから、もしわれわれの心がその 内部に、満足するにたるものを常にもっていさえすれば、外 部からくる一切の惑いも、心を害する力を全くもたないこと は確実である。いなむしろ、心は自分が外部の惑いによって そこなわれないことを見て、心みずからその完全さを知ると いう点で、これらの惑いは心の喜びを増すことに役だつので ある。そしてわれわれの心が、右のように満足するにたるも のをもっためには、心はただ厳密冫 こ徳にしたがえばよいので ある。というのは、何人によらす、自分が最善と判断したす べてを怠らず実行して ( それがここにいう徳にしたがうこと である ) なんら良心にとがめるところなく生活してきた人は 一種の満足感をえる。この満足感は彼を幸福ならしめる力が
かに、ある情念をそそるその原因が、またしばしば身体のな ば、恐怖の念が死というものを、逃げるほかに避けようのな かに、ある運動を刺激する。心はこの運動に少しも参与せ い無上の不幸として現わすとき、一方では名誉心が、逃亡の ず、それを認めるや直ちにこれを抑止し、または抑止しよう 恥辱を死以上の不幸として示す。この二つの情念は意志をさ と努めるのである。恐怖をそそる原因が、また、逃げるためまざまにかき乱す。意志はある時は甲に、ある時は乙に服従 に足を動かすべき筋肉内に精気を入れ、一方、大胆であろうして、絶えず自分自身に対立し、かくて心を奴隷化し不幸に とする意志がその足を引きとめるときに感じられる戦いがそ陥れるのである。 れである。 四九心の力も真理を知らないでは不十分である。 哭心の強弱は何によって知られるか、また最も弱 もっとも、情念の命ずること以外は何ものも欲しない、と い心の不幸は何か。 いうほど優柔不断な人間は甚だすくない。たいていは確たる しかるに、この戦いの勝敗によってこそ、人はおのおのそ判断をもっており、それにしたがって行動の一部を規定して の心の強弱を知ることができるのである。生来、意志によっ いる。もっともこの判断はしばしば誤っており、かって意志 て最も容易に情念に打ち勝ち、情念に伴う身体運動を抑止しを支配し誘惑した情念にさえ基づく場合が多いのであるが、 うる人々は、疑いもなく最も強い心をもっているわけであしかも意志はその判断を生んだ情念の消減後も依然としてそ る。ところが、なかには心の強さを試みえないでいる人もあの判断にしたがうのであるから、その判断は意志本具の武器 る。それは、意志をして戦わしめるのに意志本具の武器をも と見なすことができるし、また、心がこれらの判断にしたが ってせず、単にある情念に抵抗するため他の情念が提供して いうる程度の多少、心がこの判断に反する当面の情念にたい くれる武器をもってするからである。意志本具の武器というしていかに抵抗しうるかの程度によって、心の強弱を定める のは善悪の識別に関する断固たる決断であり、これにしたが こともできるとはいえ、ある誤った考え方からくる決意と、 って意志がおのれの生命活動を導こうと決したものである。 真理の認識にのみ基づく決意との間には大きな差異がある。 論最も弱い心とは、その意志がある判断にしたがう決心をなし後者にしたがえばたしかに恨みも悔いもないのであるが、前 念えず、絶えずその場の情念に引きずられてゆくものをいう。 者にしたがってその誤りを発見した場合には、、 力ならず悔恨 情情念はしばしば相反するものであるから、意志をこもごも自を残すからである。 分の味方に引きよせ、意志をして意志自身と戦わせ、心をこ の上もなくあわれむべき状態に至らしめるのである。たとえ
に感じることができる。そして、われわれの手にある冷熱をるのと同じものが、偶然的な精気の流れによってもすべて蓼 われわれに感じさせる働きと、われわれの外にある冷熱をわ象されうるということである。ただその異なるところは、神 . 経によって脳に到達する印象が、精気によって刺激される印 れわれに感じさせる働きとの間には何らの別もない。たた 乙の働きが甲の働きに加わるために、われわれは甲の働きは象に比して一般に強烈であり明瞭であるという点である。私 . が第一一一節で、精気による印象は前者の影、写し絵のような すでにわれわれの内部にあると考え、それに加わる乙の働き ものであるといったのはそのためである。さらに注意すべき一 は、まだわれわれの内にはなく、それを起こす対象のなかに ことは、時としてその写し絵が原物と非常によく似ているた . あると考えるのである。 めに、われわれは外物に関する知覚や身体の局部に関する知 まんちゃく ~ 宝心に帰すべき知覚について。 覚において瞞着される場合がある。しかし情念は非常に近く 心にのみ帰すべき知覚とは、いわば心そのもののなかにそ存在し、また心に深く内在しているから、心は情念のあるが の結果が感じられるような知覚であり、それについては、そままを感じないではいられない。それゆえ情念において人は れを帰着せしむべき近因がなんら普通には知られていない知上のように瞞着されえないのである。たとえば、眠っている・ 覚である。たとえば、喜び、怒り、その他の感情がこれであとき、また往々にして目を覚ましているときでさえ、われわ って、神経を刺激する対象物によってわれわれのなかに起これはある物事をきわめて強烈に想像することが多いから、現 - ることもあり、また他の原因によって起こることもある。し実には全く存在しないにもかかわらず、それを眠前に見、ま かるに、われわれの知覚は、外物に帰すべき知覚も、身体のた体内に感じる思いがする。しかし、たとえ眠って夢を見て いる場合でも、悲哀を感じたりまた他の情念に動かされると 各種の感覚に帰すべき知覚も、情念という語を最広義に解す きは、むはたしかにその情念をおのれの内にもっているので れば、心に対してはまさしくすべて情念であるにもかかわら ず、普通はこの語を制限して、心そのものに関係ある知覚のある。 みを意味させる。私が心の諸情念という名のもとにここに説 毛心の諸情念の定義。 論明しようとしたのは、もつばらこれらの知覚である。 心の諸情念がいかなる点で他のすべての想念と異なって、、 一宍単に精気の偶然的運動による想像も、神経によ 情 るかを考察したうえは、ひろく情念を定義して、特に心に昴 る知覚と同程度に真の情念でありうる。 すべき心の知覚、感覚、または情緒であり、ある種の精気連 なおここに注意すべきは、心が神経の媒介によって知覚す動によってひき起こされ保持され強化されるものとすること
はなくて、痛みの感覚を心に伝える神経の通っている、どこかも ないもので、特にそれは感覚とか感じとかと呼ばれるあの漏 っと脳に近い箇所にあることがある、ということである。」 乱した意識である。すなわち、△まず、 > 言葉というものが ( 7 ) 「多くの」 口に出していわれたものであろうと単に△紙の上に > 書かれ ( 3 ) ( 8 ) 「少女はそれを見るに堪えないだろうと思われるからであ ただけのものであろうと、私たちの心に何か或る意識や活動・ を惹き起こすものだということは、私たちの知っていること ( 9 ) 「脱疽が悪化するので、腕を半分切断せぎるをえなくなっ である。同じ紙に、同じペンと同じインキでただペンの先が たのであるが、少女を悲しませたくないので前もって知らせるこ とをしないで切断された。そして切断した跡へはたくさんのリン紙の上をとにかく何とか走らせられるというだけで、読者の ネルを重ねたものを当てて、少女はその後長い間それを知らすに 心に戦いや嵐や擾乱の意識を起こさせ、嫌悪や悲しみの気持 いるようにした。ところが < 注意すべきことに > 少女は、もうなをかきたてるような文字が書きつけられる。ところが、そ くな「ている手にいろいろと痛みを覚えすにいられなくて、」あれとかなり似てはいるが少し違った筆法でペンが動かされる の指が痛いとかこの指が痛いとか : と、静けさや平和や快適さというたいへん違った意識が呼び ( 川 ) 「もう肘までしかなくなった手の神経が、以前に指の末端 おこされ、愛や喜びという全く反対の気持が惹き起こされ で刺激を受けたのと同じようなふうに運動させられ、そのため るのである。これにたいしてあるいは、書かれたものや語ら 一 5 ) に、脳制のなかで同じような苦痛の感覚を心に起こさせるからに れたことは、直接、心に気持とか、音や文字とは違った事物 ほかならなかったのである。 < このことは明らかに、手の痛みと いうものが心によ「て感じられるのは、心が手のなかにあるからの像とかを呼び起こすものではなく、ただいろいろな考え ではなく、心が脳のなかにあるからだということを示してい を起こさせるだけであって、この考えが機縁になって、心自 . 身がさまざまな事物の心像を自分で作り上げてゆくのだと、 反論されるかも知れない。しかしそれなら、苦痛やくすぐっ 一心は、ただ物体の連動だけで心にさまざまな たさの感覚はどうなのであろうか。刀が私たちの身体にあて 感覚を起こさせられることができるような性質をも られると、身体は切れ、それだけで苦痛が生じてくるが、こ っている。 の苦痛△について私たちのもっ観念 > が、刀の運動あるいは さらに、これもすぐ証明できることであるが、私たちの心切られた身体の場所的運動とは全く違ったものであるのは、 は、何か運動が物体に起こるということだけで、或る種の意色や音や臭いや味△について私たちのもっ観念 > がそれと異〕 ( 2 ) 識を誘発されるような性質をもっている、この意識は〔それなるのと同じことである。したがって、苦痛の感覚が私たち を誘発する〕その物体の運動についてなんらの像を含んでい のうちに惹き起こされるのは、私たちの身体の或る部分が他
快活さは決して悟性の働きからくるものでなく、単に精気の弓 弓さを心に伝えるために自然によって作られたもので、こり 運動が脳に与える印象からくるものである。同様にして、病損害や弱さを、心にとって常に不愉快な悪として心に示す。 気のときには病気を全然意識しなくても悲哀を感じる。こう ただし、それら以上に価値ありと心の認めるような善いもの いうわけで、感覚の擽りは直ちに喜びを伴い、痛みは直ちにを、それらの悪が生ぜしめる場合は別である。 悲しみを伴うから、たいていの人はその間の区別を立てえな 九五心に属しつつ、しかも心の気づかぬ善いもの悪 。しかし、それらは非常に異なったもので、喜びをもって いものによって、これらの情念がまたいかに刺激さ 苦しむこともあり、また不快な擽りを受けることもありうる れるか。危険を冒すこと、過去の災を想起すること のである。しかし喜びが通例擽りに伴って起こる理由は、擽 に感じられる快感はいかなるものか。 りの快感とか快さとか呼ばれるものは、すべて感覚対象が神 経のなかにある種の運動を刺激することにある。ある種の運 たとえば、青年がなんらの利益も名誉をも期待しないにか 動とは神経に抵抗力がなく健康状態の悪い場合、神経に害を かわらず、しばしば難事を企て、大きな危険に身をさらして 与えうるような連動である。この刺激は脳に一つの印象を与感じる快感は、自分の企てることが困難であるという考えが えるが、この印象は、身体の健全、神経の強さを示すために 脳にある印象をつくることに由来する。自分がかくまでの危 おのずから作られたもので、心が身体に結合されているかぎ険を冒しうるほどに勇敢であり、またそれほどに恵まれてお り、身体の健康さや神経の強さを心に属する善いものとしてり、腕があり、カがあると感じるのはありがたいことであ 心に示し、かくて心に喜びを刺激するのである。あらゆる情る、と考えた時つくり出される印象に、先の印象が結合する 緒、悲しみや憎しみのごときものでさえ、それが舞台上に演ことによって、彼らがそれを喜ぶ原因をなすのである。また ぜられる異常な事件や、そのほか、決してわれわれを害しえ老人が以前に受けた災を想起して感じる満足は、それにもめ ず、心に触れてそれを快く擽るような芝居類似の事柄によっげず生を完うしたのは善いことであると考えることに由来す る。 て起こる場合には、人間はその情緒によって動かされること 論を喜ぶというのも、ほとんど上と同じ理由による。また、苦 突以上五つの情念が起こす血液ならびに精気の運 念痛がおおむね悲しみを生する理由は、苦痛と呼ばれる感情 動は何々か。 情 が、常に、神経を害するほどに強烈なある働きから由来する ということにある。したがって苦痛の感情は、この働きによ 私がここに説明しはじめた五つの情念は、互いに密接に連 って身体の受ける損害や、その働きに抗しえなかった身体の関し対立しているから、その全体を考察する方が、驚異の情