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検索対象: 世界の大思想7 デカルト
239件見つかりました。

1. 世界の大思想7 デカルト

には真実だと思われた事柄が、紙に書こうと思う時には虚偽えるのに費やした労力にくらべて、現在はより少ない労力で に見えることもしばしばだったからである。それはまた、で大きな儲けをするのに似ているから。あるいはまた彼らは、 きることなら、公衆の役に立つどんな機会も失うまいがため勝利に比例してその兵力を増すのをつねとし、戦闘に敗けた であり、自分の書いたものが多少でも値うちのあるものなら後では兵力を維持するために、勝ったあとで数市あるいは数 州を奪取するのに必要な指揮カよりも多くの指揮力を必要と ば、自分の死後それを手にする人たちが、いちばん適当な方 法でそれを活用できるようにしたいがためであった。しかしする軍司令官にくらべてもよかろう。というのは、われわれ はん 私は自分の書いたものがおそらく受けるであろうところの反が真理の認識に到達するのを妨げるありとあらゆる困難や誤 駁や論議、それが私にあたえるであろうところのとかくの評謬を克服するように努力することは、まったく戦うことであ り、多少とも一般的で重要なある事項にかんしてなんらかの 判によって、自分が教養にもちいようと思っている時間を失 誤った意見を承認するということは、戦闘に負けることだか うような機会を作らないために、自分の生存中は自分の書い らである。敗北のあとでは、以前と同じ状勢に立ちなおるた たものをけっして出版することに同意をあたえてはならない めには、すでに確証された原理を抱いて巨大な進歩をするの と考えた。というのは各人は自分のもっているかぎりのもの に必要な熟練よりもずっと多くの熟練を必要とする。私自身 で他人の幸福をはかる義務があり、誰の役にも立たないとい うことは本来無価値だというのは真実であるが、しかしわれについていえば、私がこれまでもろもろの科学において多少 われの配慮は現在よりももっと先までおよぶべきであり、わの真理を発見したとすれば ( そして本書のなかに含まれてい れわれの子孫にほかのかずかずの利益をもたらすという意図る事柄が、私が若干の真理を発見したと判断させるであろう をも「てであれば、おそらく現在生きている人びとに若干のと期待しているのであるが ) 、私はそれはまさしく私が克服 ことだという した五つ六つの主要な困難の結果および付属物であり、私は 利益をもたらすものを省略するのも、またいい しままでに私が学んだわそれをばさいわいにして自分の勝利に帰した戦と見なしてい のも同様に真実であるから。私は、、 るということができる。否それどころか私はつぎのようにい 説ずかばかりのものは私の知らない事柄にくらべればほとんど 序 うことすら恐れないだろう。すなわち私は自分の計画をしま ~ に近いということ、しかし私は学ぶことができるというこ 法 いまでなしとげるためには、もう二つか三つの同様な戦闘に とにたいしては絶望してはいないということを理解してもら 方 勝利を収めさえすればよいと考えている。また私はまだた , い いたいと切望している。というのは、もろもろの科学におい して年をとっていないのだから〔デカルトは四十一歳〕、自 てだんだんと真理を発見してゆく人びとは、ちょうど金持に なりかけた人たちが、以前貧乏だった頃にすっと少ない富を然の一般的順序からゆけば、所期の結果に到達するのに充分

2. 世界の大思想7 デカルト

、、をま : す、を第 、 . 亠い亠 = 、 による。すなわち彼は マンは彼にはっきりと自覚させるのである。 元来、デカルトが生来、念願しているのは宇宙あるいは自 それによってさまざま んな土地を見、いろいろ然界の正しい理解である。従 0 てべーク「ンによ「て自然学 学な人達に接して、人生と数学にたいする興味を一層かきたてられた彼は、物体の落 この経験を深めようとし下や、水圧の原理の研究を行なったり、べークマンへのお年 でたのである。しかし、こ玉として『音楽提要』を書いたり、更に三次方程式の解法を まのような方法によって考究し、角を三等分するコン。 ( スの繝作を試みなどしなが Ⅱも彼の求めるものは得ら、自然法則の数学化に努力するのであるが、これらの仕事 に熱中するうちに、彼は、ますすべての学問に適用しうる普 らられなかった。が、この 遍学の形成が必要であることに思いしナ カオランダ生活は彼の一 ところで、彼がオランダにきたのは世間という書物を読む 生にとって大きな意義 ためであったから、この地に定住する気持はなく、一六一九 はがある。というのは、 レ彼はブレダ〔町名〕で年四月にはブレダを立ち、デンマークを経て七月にはフラン クフルト・アム・マインでドイツ皇帝フェルディナント二世 数学者イサーク・べー テ クマンに出あうのであの戴冠式に参列した後、パイエルン公マキシミリアンの軍隊 南ドイツの寒村ウルム付近で冬を越すこととな にはいり . 、 学る。後にドルトレヒト る。そうして、ここで有名な炉部屋にひとり籠っての思索が 会大学の総長となるべー なされることとなったのである。 ズクマンは一アカルトに・目 しったい、デカルトは、自分の力を過信してすべてを独カ イ然学と数学を結合させ の でやるような性格ではなく、むしろ他人から教えを受けるこ ることの必要を知らせ ュ シる。あるいはより正確とを悦ぶ性格であると、デカルトはいっている。しかし、そ の教えは学校においても書物を通じても与えられなかったの レにいうならば、デカル フ である。そこで彼は本を捨て世間に出て経験を通じて真理を ト自身かねて心に抱い ラていた考えを実現する知ろうとしたのであったが、しかし、経験の教えるものはた ことの重要さをベーク だ事実の多様性であって、そのどの一つもそれが真理である

3. 世界の大思想7 デカルト

幻 3 哲学の原理 しては、これを一つ一つ別々に考察することが必要である。 ところが、物体的な実体と精神すなわち思惟する実体と 実体とは、存在するために自己自身のほかに何ものをも必要は、被造のものとして、この共通な概念のもとに理解され としないで存在している事物である、という以外に私はこれる。どちらも存在するために神の協力のみを必要とするにす ( 2 ) ( 2 ) ぎないものだからである。しかしながら、実体は単に存在し を理解することができない。しかも、決して他の何ものをも 必要としない実体としては、ただ一つのものが、すなわち神ている事物であるということだけによってはじめに認められ るのではない、なぜかというに、それが存在しているという が、理解されうるばかりである。しかしその他の一切のもの ことそれ自身だけでは私たちを触発することはないからであ は、神の協力にまたすには存在しえないことを私たちは知っ る。むしろ私たちが実体を容易に認めるのは、その実体のも ている。したがって、実体という名が神とこれら一切の事物と に一義的に適用されないのは、学院においてふつうにいわれつ或る任意の属性によるのであって、無にはなんらの属性も ているとおりなのて ししカえると、神と被造物とに共通すまたなんらの特有性も性質もないというのが共通想念だから ( 3 ) である。すなわち、何らかの属性のあることが知覚されるな るような意義はこの名に判明に認められることができない。 らば、そこから私たちは必然的に或る存在する事物が、すな ( 1 ) 「何か存在をもっと考えられるものについては、私たちはこ れをここで一つ一つ検べて、そのおのおのについて私たちがもつわちかの属性の帰せられることのできる実体が現にあると結 想念の曖昧なところと明白なところとを区別しなければならぬ。」論するのである。 ( 2 ) 「それでは自分自身のほかに何ものをも必要としないとい ( 1 ) 「それが実体であることを理解するには、それらのものが う言葉の説明に曖昧なところがある。というのは、適切ないい方 存在しうるためにいかなる被造物の助けをもまっことがないこと をすれば、そういうものはただ神があるだけで、すべて被造物は を知るだけで足りるからである。」 神の力に支えられ守られなければ、ひと時も存在しえないからで ( 2 ) 「 ^ そういう実体がほんとうに存在するかどうか、すなわ ある。」 ち実体が現にこの世界にあるかどうかを知ろうということになる ( 3 ) < しかし、被造物のなかには他のものをまたずには存在し と、 > それがただそのように私たちに知られて存在するというだ えないような性質のものがあるから、これを私たちは、ただ神の けでは足りない、それだけでは私の思惟のうちに何か特殊な認識 協力だけを必要とするようなものと区別して、後者を実体と呼 を触発するような何ものをも私たちに見せてはくれないので、 び、前者をこの実体の性質または属性と名づける。 > なおそのほかに私たちに認められるような何か属性がなければな らないのである。しかもそういう属性はどんなものでもかまわな 五一一これは精神と物体とに一羲的に適用される。そ して、どのようにして実体は認識されるか。

4. 世界の大思想7 デカルト

うにして望むものは、全くわれわれだけの力に左右されるのら生じた幻として破棄すべきものである。事実われわれは、 であるからかならず成就する。ゆえにわれわれは常に期待し とにかく可能であると考えたものしか欲しえない。しかる ただけの満足をえることができるのである。しかしこの点で に、われわれのカで左右しえないものは、それが偶然によっ 普通におかされる誤りは、欲し過ぎるということでは決してて起こると考えられた場合、すなわち、われわれが、それは なく、ただ欲したりないということである。そこで、それに起こりうることであり、かってそれと同様のことが起こった 対する最上の療法は、それほど有用ではない他のすべての欲と判断した場合にはじめて可能と考えられるのである。とこ 望からできうる限り精神を解放すること。つぎに、欲すべきろがこのような考えは、ただ、われわれがおのおのの結果を ものの善さを十分明晰に認識し注視することに努力すること生むにあずかった全部の原因を知らないことに基づいてい である。 る。事実、われわれが偶然に支配されると考えた事柄が起こ ってこない場合、それは、その事柄を生ずるのに必要であっ 一四五他のものにのみ左右される欲望について。な た原因のどれか一つが不足したことを証明し、したがって、 らびに偶然とは何か。 この事柄は絶対に不可能であったこと、同様のことはかって 起こったためしがないこと、すなわち、それを生むにはやは 全然われわれの力に左右されないものについては、それが りこれと同じ原因が不足したことを証明するのである。した いかに善いものであっても、決して熱心に望んではならな がって、もしわれわれがそういうことをあらかじめ十分知っ それが実際起こりえない場合があり、したがって、望む ていたら、決してその事柄を可能であるとは考えなかったろ ことが強ければ強いだけ一層われわれを悲しませるからだけ うし、したがってまたそれを欲しもしなかったであろう。 ではなく、主として、われわれの想念を独占することによ り、われわれの力によって獲得しうるその他のものヘわれわ 一哭われわれにも他にも左右される欲望について。 れの愛情を向かわせないからである。ところが、かかる無益な それゆえ、思いのままにことを起こらせ、また起こらせな 欲望に対しては二つの一般的療法がある。その一は後に述べ いような偶然が、われわれの外側にあるという俗見を捨て る高邁の心であり、その二は神の摂理についてしばしば考察 念を重ね、いかなるものもこの摂理によって永遠に定められなて、すべては神の摂理によって導かれることを知るべきであ る。神の摂理が下す永遠の掟は、必至不動のものであるか 情ければ決して起こりえないことを思うことである。したがっ て摂理はいわば不動の宿命あるいは必然であって、われわれら、その掟がわれわれの自由意志に任せたもののほか、われ はこれを偶然と対立せしめ、偶然はわれわれの悟性の誤りかわれにたいしては、必然的な、いわば宿命的なもの以外、何

5. 世界の大思想7 デカルト

はこの三角形のもっとも大きな角に対応するということほど 決してできないのである。したがって、この種の偽の措定と には容易に見えないけれども、それがひとたび洞察された後 私に生具する真の観念との間には大きな差異がある、そして かかる観念のうち第一のそして主要なものは神の観念であには、後者と同様に信じられるのである。ところで神である が、もし私〔の精神〕がいろいろな先入見にとらわれておら る。なぜなら、この観念が何か虚構されたもの、私の思惟に 依存するものなのではなく、かえって真にして不変なる本性ず、そして私の思惟が感覚的なものの像によってくまなく占 めつくされていないとすれば、私は何より先に、そして何よ の映像であることは、多くの仕方で私の理解するところだか 最高の りも容易に、神を認知したことであろう。いっこ、、 らである。すなわち、まず第一に、その本質に存在が〔必然 的に〕属しているようなものは、ただひとり神のほかには私〔そして完全な〕実有があるということ、すなわち、存在と いうことがその本質に属している唯一者たる神が存在すると によって考え出されることができないからである。第二に、 ( 七 ) いうことより以上に自明なことがあるであろうか。 私は二つまたはそれ以上この種の神を理解することができな そればかりでなく、これだけのことを知覚するために私は いからである。そして、今ただ一つの神が存在していると措 定すれば、彼は永遠の昔から存在してきたし、また水遠に向注意深い考察を必要としたけれども、今や私はこのことにつ いて、他のもっとも確実と思われるすべてのことについてと かって存続するであろうことが必然的であるのを私は明らか に見るからである。そして最後に、何一つ私によって引き去同じ程度の確信をもちえたばかりでなく、さらにまた私は、 られることも変えられることもできない多くの他のものを、 その他のものの確実性がほかならぬこのことに依存して、 て、これを欠いては、何ものも決して完全には知られえない 私は神のうちに知覚するからである。 ことに気づくのである。 しかしながら、私が結局どのような証明の方法を用いるに いうまでもなく私は、私が何ものかをきわめて明晰判明に しても、つねに帰着するところは、私が明晰判明に知覚する ( ル ) もののみが私をまったく納得させるということである。そし知覚する間は、私はこれを真であると信ぜざるをえないよう てこのように私が知覚するもののうち、或るものは誰にでも な本性をもってはいるけれども、しかしまた私は、精神の眼 察すぐにわかるけれども、しかし他のものは仔細に観察し綿密をつねに同じものにとどめて、これを明晰に知覚するという ことができないような本性をももっているので、どういうわ に研究する者にしか発見されない。しかし、これもひとたび 省発見された後には、前者に劣らず確実なものと見なされるのけで私がそういう判断を下すにいたったのか、その理由には もはや注意しない場合には、しばしば以前に下した判断の記 である。たとえば、直角三角形において、底辺上の正方形は 他の二辺上の正方形の和に等しいということは、かかる底辺憶がかけ戻ってきて、他のいろいろな理由がもちだされるこ ( 八 )

6. 世界の大思想7 デカルト

必要でない。そうしたことがここでは、もともと成り立たな 余計な労苦を避けるべきである ( いのである。ここでは、ただ、文字の組みかえを検討するため の秩序を自分で立て、決して同じことを二度やらないように これに先立っ三つの規則は秩序を指示し説明するものであ すると共に、組みかえ方が幾つかあるのを、例えば一定のク たカ、この規則よ、、、 をし力なる場合に秩序が是非とも必要で ラスに配分でもして、そのうちのどれにおいて解答が見出さあるか、いかなる場合には単に有用なだけであるか、を示す れる見込みがより大きいかが直ちに明らかになるようにすれのである。実際、相対的なものから何らかの絶対的なものヘ ば、それで充分である。実際、こうすれば仕事は大抵長くか と、あるいはその逆に、導いてゆくところの系列において、 からず、子供でもできることにすぎなくなるであろう。 一つのまとまった段階をなしているものならば、それは常に、 なお、右の規則五と規則六と規則七との三つは分離されてそれに続くすべてのものに先立って検討されなければならな はならない。何故なら、大抵の場合それらを同時に顧みるべ いこと、必然である。しかし、よくあることだが、同一の段 きであり、それらが等しく協働することによって方法は完全階に多くのものが関系している場合、それらすべてを秩序に になるのだからである。また、それらのどれを先に教えるか したがって辿ることは、確かに常に有用ではあるけれども、 ということも、あまり問題にならよい。 ここではそれらにつ この秩序をそれほど厳密に、また頑固に守ろうとしなくても いて少ししか説明を加えなかったが、それは、この論文の残よい。そして大抵の場合は、それらのすべてではなくて、そ りの部分でわれわれのなすべきことカー : 、まとんどそれらの説のうちの少数だけ、あるいはどれか一つだけでも明瞭に認識 明にほかならないからであり、ここで一般的に総括したことすれば、次に進んでいって構わないのである。 を、以下において個別的に示してゆくであろう。 ところで右の規則は、規則二に対してあげられた諸理由か ら必然的に帰結してくるものである。しかもわれわれをある 事物の探索から遠ざけるだけで、何の真理も示しはしないよ 土《 . 目ハノ うに見えよう。しかし、それが学識を進めるための新しいも のを何も含んでいないと考えてはならない。確かに初心者に . 探究しようとする事物の系列において、われわれの とっては、この規則は、規則一一とほとんど同じ理由によっ 知性が充分によく直観することのできないものに出 て、力を浪費しないように教えるだけである。しかし、これ あったならば、そこで停止しなければならない。そ までの七つの規則を完全に身につけた人々にとっては、どの して、それに続く他のものを検討することはやめ、 学問においてにせよ、いかなる理由によって自分自身を満足

7. 世界の大思想7 デカルト

この二つが知識への最も確実な道である。そして知能に関 認識様式、すなわち演繹によるもの、を付け加えたのか、と いう疑問が直ちに生ずるかもしれない。「演繹 . とは、まさするかぎり、これ以外のものが認められてはならない。他の に、確実に認識された他のものから必然的に結論されるかぎすべての道は、疑わしくまた誤謬にさらされているものとし りのものすべて、をいうのだからである。しかしそうすべきて斥けるべきである。しかしこのことは、われわれが神によ こまさって確実なものと り啓示されたものを、あらゆる認識冫 理由があったのである。何故なら、個々の点を明瞭に直観し ながら進む思考の、連続的でどこも中断されていない運動に信ずることを妨げはしない。何故なら、それらに対する信仰 は、それが不明なものについてのことであるかぎり、知能の よって、すでに認識された真なる諸原理から演繹される、と いうことになりさえすれば、それ自身は明証的でなくても確作用ではなく、意志の作用なのだからである。しかし、もし その信仰が知性のなかに根拠を有するような場合には、その 実に知られたことになるものが、多くあるのだからである。 それは丁度、長い鎖の最後の環が最初の環と連結しているこ根拠は何よりもまず、右に述べた二つの道のいずれかによっ このことをわれ とを知るのに、その連結を成り立たしめている中間の環のすて見出されうるし、見出されねばならない。 べてを、一目で直観的に見てとらなくても、それらの環を次われは他日、多分も「と詳しく示すであろう。 次にたどってきて、その最初のから最後のまで、個々の環が 隣りの環につながっていることを記憶していさえすればよい 規則四 のと、同様である。そこで精神の直観と確実な演繹とは、次 の点で区別される。すなわち、後者には運動あるいは一種の 事物の真理を探究するには、方法が必要である。 継起が含まれているが、前者ではそうでないこと、また、直 観には現前せる明証性が必要であるが、演繹はそれを必要と 死すべき者たちは、盲目の好奇心に強くとらわれているの せす、むしろその確実性はある仕方で記憶から借りてこられ 則ること、である。ここからしてわれわれは、第一原理から直で、しばしば、はっきりした見込みは何もなく、ただ自分の 求めるものがその辺にありはしないか試してみようというだ の接に結論されるような命題については、観点の相違により、 直観によって認識されるとも、あるいは演繹によって認識さけで、知りもしない道を通って彼らの知能を導いてゆくもの 知れるとも、言いうるのであるが、しかし第一原理そのものはである。それは丁度、宝物を発見しようという愚かな欲望に 直観によってのみ認識され、反対に、遠く離れた結論は演繹燃えた者が、何か旅人が落した物でも見つかりはしないかと 探しながら、絶えず道路をうろついているようなものであ によってでなければ認識されない、ということになる。

8. 世界の大思想7 デカルト

176 ない場合よりも、或る意味で私におけるよりいっそう大ぎな ことは私の容易に理解するところである。しかしながら、そ 完全性であるからである。ところが欠如はというに、虚偽とれだからといって、宇宙全体には、その或る部分は誤謬から 罪過との形相的根拠はもつばらこれにのみ存するのであっ免れていないが他の部分は免れているという場合の方に、す て、なんら神の協力を必要としない。それは事物〔あるいは べての部分がまったく類似しているという場合よりも、或る 存在〕ではなく、もしその原因が神にかかわるとされるなら意味でいっそう大きな完全性があるということを、私は否定 ば、それは欠如といわるべきではなくて、〔スコラ哲学でこすることができない。そして神は私が世界において万物のう れらの語に与えられた意味にしたがって〕ただ単に否定とい ちもっとも主要な、そしてもっとも完全な役割を演すること わるべきものである。思うに、神が明晰判明な知覚を私の悟を欲しなかったからといって、訴えるべきなんらの権利をも 性のうちに置かなかったようなものに対して、同意したり同私はもたないのである。 意しなかったりする自由を神が私に与えたということは、確 さらにまた、商量さるべき一切のものの明証的な知覚に依 かに神における不完全性ではなくて、私がかかる自由を善用存する上述の第一の仕方によっては、私は誤謬を避けること せず、私の正確に理解しないことがらについて私が〔無謀に ができないにしても、しかし、ものの真理が私に明白でない も〕判断を下すということは、疑いもなく私における不完全場合にはいつでも判断を下すことを差し控えるべきことを想 性なのである。しかしながら、どこまでも私が自由でありそ起するということだけに依存するにすぎないもう一つの仕方 ( 八 ) して有限な認識を有するものでありながら、しかも決して誤で、私は誤謬を避けることができるのである。というのは、 ることのないように私を創ることは、神にとってはたやすくつねに同じ一つの認識にあくまでも固執することができない なしえられることであったと私は思う。すなわち、神は私が という弱さが私のうちにあることを私は経験するけれども、 いっか思案することになるであろうようなすべてのものの明しかし、注意深い省察を幾度となく繰り返すことによって、 晰判明な知覚を私の悟性に賦与するか、あるいは、私が明晰私は必要のあるたびにその認識を想い起こし〔そこねないよ うにしつかりと記憶に刻みこみ〕、そしてそのようにして決 判明に理解しないものについては決して判断を下してはなら ないということを、私が決して忘れえないほどしつかりと私して誤りをおかさない習慣を身につけることができるからで の記億に刻みつけるか、しさえすればよかったのである。そある。 してもし私が神によってそのようなものに作られていたとし この点にこそ人間の最大のそして主要な完全性があるので ( 七 ) たら、私は、私が或る一個の全体として見られる限り、現にあるから、私が今日の省察によって、誤謬と虚偽との原因を 私があるよりもよりいっそう完全であったであろう、という探究したのは、少なからぬ収穫であったと思う。そして確か

9. 世界の大思想7 デカルト

「面は物体の、線は面の、点は線の、限界である」、「単位は ている」という場合、「富んでいるものは富んでいる」とい 量ではない」、というような場合である。この種の命題は、す う場合と全く違ったことを思い浮べるであろう。事情がこの ように相違していることを大抵の人々は見分けないので、次べて、真であるためには、想像力から全く引離しておかれな 郎の富が次郎とは別ものであるように、延長は延長体とは区ければならない。だからわれわれとしては、以下においてこ うした命題は取扱わないことにしよう。 別された何かをなしているのだ、と、間違って思いこんでし まう。 この種のもの以外の命題においては、右にあげたような名 最後に、「延長は物体ではない , といわれる場合には、「延称は、意味の上では同じ内容を保ち、また、あれこれの主体 長」という言葉が右におけるのとは全く別の仕方で解されてから抽象されて語られることも同様であるけれども、実在的 には区別されないものがそこから排除されたり否定されたり いる。そしてこの意味においては、想像のなかでこの言葉に こうした命題においてはわれわれはいつも 対応する特定の観念は何もなく、この言表全体が純粋の知性することはない。 によってなされている。こうした抽象的存在を分離する能力想像力の助けを利用しうるし、そうしなければならないとい うことを、よく銘記しておくべきである。何故なら、この場 をもつのは、この純粋知性だけなのである。このことが大抵 の人々にとって誤りのもとになる。彼らは、このように理解合、知性の方は正確に言葉が意味するところにのみ注意する のであるが、想像力の方では、事物の真の観念をつくること された延長は想像力によっては捉えられえないということに によって、その事物の条件のうち言葉には表現されていない 気がっかず、それを真の観念によって表象しようとする。と ころがその観念は必然的に物体の表象を含まざるをえないの他のものにも、必要に応じ、同じ知性が向かうことができる であるから、彼らが、このように表象された延長についてそようにし、それらの条件は排除されているのだと軽率に判断 れは物体ではないというのならば、「同一のものが同時に物してしまわぬようにせねばならないからである。例えば数が 問題になっている場合、われわれは、多くの単位によって計 体であり物体でないーという矛盾に、不覚にも陥ってしまう られうるところの主体を何か想像するとともに、知性として わけである。一般に、延長、形、数、面、線、点、単位、と の いった名称が、きわめて厳密な意味をもたされ、事実上はそは、差当ってはその主体における多ということだけを考慮し 指れらと区別されないものもそこから排除されているような場ているわけであるが、後になってこのことから、数えられる 知合、そうした名称をふくむ言表を、それとして識別すること当の物はわれわれの表象から排除されていたのだと考えて、 何か結論を出すようなことにはならないように用心しよう。 は、非常に重要なことである。例えば、延長、あるいは形、 玄妙な神秘や全くの出鱈目を数に帰した人々がしたことはそ は物体ではない」、「数は、数えられる当の物ではない」、

10. 世界の大思想7 デカルト

236 志によって決意することである。」 ととは思われないからである。しかし、私たちがとにかく知覚し たことに同意を与えるためには、どうしても意志が必要である = 一三充分に知覚されていないものについて判断をく し、また、ただ判断を下すというためなら、私たちは全般的な完 だしさえしなければ、私たちは誤るものではない。 全な知識などもっ必要はないのであるから、そこから、はなはだ 曖昧な知識しかもたないことに私たちがしばしば同意を与える、 しかし、私たちが何かを知覚する場合、私たちがこれにつ ということが起こるのである。」 いて何も肯定したり否定したりしないかぎり、私たちが誤る ことのないのは明らかである。また肯定したり否定したりし 三五意志の方が悟性よりも広い範囲におよぶ、そこ ても、私たちが明晰判明に知覚するものだけを肯定したり否 に誤謬の原因がある。 定したりするのであれば、同じように誤ることはない ( よく それに、悟性の知覚は、自分に提供されるわすかなものに あることだが ) 。正しく知覚してもいないのになおそれにつ しかおよばない、だから、つねにきわめて限られている。 いて私たちが判断を下そうとするから、誤るだけのことであ かるに意志は或る意味で無限なものだといえる、なぜなら、誰 る。 か他人の意志の対象たりうるものであれ、あるいはまた、神 = 西判断するには、悟性だけでなく意志も必要であ のうちにある宏大無辺な意志の対象たりうるものであれ、私 る。 たちの意志のおよびえないようなものは何ひとっとして認め ( 1 ) また、判断するにはもちろん悟性が必要である。どのよう られないからである。それだから、私たちはとかく、明晰に にも知覚しないものについては、私たちは判断な下すことは知覚しているものの外にまで意志を押し広げてしまうことに できないからである。しかし、なんらかの仕方で知覚された なる。だから、そういうことをしておりながら私たちが誤り に陥ったからといって、少しも怪しむにはあたらないのであ ものに同意を与えるためには、なお意志も必要である、しかし ながら、 ( ただ何か判断をくだすというだけのためなら ) 事物る。 というの についての完全にして全般的な知覚は必要でない、 三六私たちの誤謬を神に帰することはできない。 は、まだごく曖昧かっ雑然としか認識していないものにさえ、 しかしまた、神が私たちに全知の悟性を与えなかったから 私たちはしばしば同意を与えることができるからである。 ( 1 ) 「悟性が介人しなければ、私たちは何ものについても判断とて、神を私たちの誤謬の創作者であるなどとは決して想像 を下すことはできないだろう。私たちの悟性がどのようにも知覚してはならない。なぜなら、限られてあるということは創造 しないものにたいして、意志が決意するということはありうるこ された悟性として当然のことであり、だからあらゆるものに