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検索対象: 世界の大思想7 デカルト
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1. 世界の大思想7 デカルト

からだのためになる飲みものをとるのと同じく自然であろうて自然の真の誤謬である。したがって、ここになお残る問題 いかにして神の善意は、このように解せられた「人間 ことは、私の容易に認めうることである。時計というものに 予想されている用途から見ると、時刻を正しく示さない時計の〕自然が〔誤りやすく〕欺瞞的であることを防止しえない は、自己自身の自然からそれている、と私はいうことができのか、ということを探求することである。 るであろうし、また同じように、人間の身体の機械をいわば そこでここにまず第一に私の気づくことは、精神と身体と そのなかでふつう行なわれる〔すべての〕運動をなしうるよ の間には大きな差異があることである。すなわち、身体はそ うに〔神によって〕しつらえられたものであると考えてみるれ自身の本性としてつねに可分的であるが、精神はまったく と、咽喉が乾いているのに飲みものを飲むことが身体の保持不可分的である。実際、私が精神を、すなわち単に思惟する に役立たないというような身体は、これまた自己自身の自然ものである限りにおける私自身を、考察するとき、私は私の からはすれている、と考えていいけれども、しかし、私は自 うちにいかなる部分をも区別することができず、かえって私 は私がまったく一にして全体的なものであることを理解する 然のこの後の方の意味が前の方の意味とは非常に異なってい ることを見のがすわけこよ、 からである。そして、たとえ精神全体が身体全体と合一して 冫 : しかない。すなわち、後の意味で いるかのように見えようとも、しかし、私が足か腕かその他 の自然は、病気の人間やできそこないの時計を健康な人間の 観念や正しく作られた時計の観念と比較する私の思惟に依存身体のどの部分かを切りとったからといって、そのために何 する規定にほかならす、その語られる事物に対して外面的な物も精神から取り去られたことにはならないことを私は認め 規定にすぎないが しかるに前の意味における自然は、実際るのである。なおまた意欲の能力、感覚の能力、理解の能力 に事物のうちに見いだされ、したがって或る真理をもっ或る などは、精神の部分といわれることができない、なぜなら、 ものをいっているのだからである。 意欲するのも、感覚するのも、理解するのも、同じ一つの精 しかしながら、たしかに、水腫病にかかっている身体につ神だからである。ところがこれに反して、物体的な事物すな いて見ると、飲みものを必要としないのに渇いた咽喉をしてわち延長あるもので私が容易に部分に分割して考えることの いるということから、その自然は頽廃しているといわれるとできないようなものはない。したがって、私は物体的な事物 き、それは単に外面的な規定であるにすぎないけれども、し が可分的であることを理解するのである。この一事だけで、 省かし合成体、すなわちそのような身体と合一した精神につい 私がまだこの区別を他の根拠から十分に知るにいたっていな て見ると、飲みものが自分を〔ひどく〕害するであろうのに いにしても、〔人間の〕精神〔あるいは魂〕と身体とはまっ 渇きをお、ほえるということは、単なる規定ではなく、かえっ たく異なっていることを私に教えるに足りるであろう。

2. 世界の大思想7 デカルト

126 六 ( 一 0 四頁 ) デカルト時代には tranchée-artiöre ( 気管 ) という 字がなかったらしく、彼は一般に日常用語で喉笛をさすのにもち いる sifflet という字を使っている。 七 ( 一 0 四頁 ) ここでも今日の解剖学上の「弁」 valvule の代り に、 peau ( 皮または筋 ) という語が使用されている。しかし文章 を理解しやすくするため、「皮ーを用いないで、今日の用語「弁ー をもちいた。 ハ ( 一 0 五頁 ) ここでもデカルトは今日の用語 oreillette du cæ・ ミ ( 心房 ) の代りに、 oreilles du cæur ( 心臓の耳 ) という語をも ちいている。 九 ( 一 0 五頁 ) 以上の血液循環のメカニスムを、次節でみずから告 白しているように、デカルトはイギリスの医師ウィリアム・ ヴェーの説に則って説明しているのであるが、ただつぎの点にお いて両者は異なっている。すなわちハーヴェーは心臓をその筋肉 によって運動するポンプと見たのにたいし、デカルトは血液の循 彊を、心臓に人った血液の、熱による膨脹から説明している。こ の場合もちろんハーヴェーのほうが正しかったので、デカルトは ーヴェーの本質的に正しい観察を、力学的に歪曲したのであ 一 0 ( 一 0 五頁 ) ウィリアム・ハ ーヴェー William Harvey ( 一五 七八ー一六五七年 ) 。ロンドンの医学専門学校で解剖学、外科を 一教え、血液の循環を発見した。それは一六一九年同校の生徒に教 えられ、一六二八年「動物における心臓と血液の運動に関する解 割学的実験」として出版された。 = ( 一 0 六頁 ) 筋ーー いうまでもなく、今日ではこの筋は静脈弁と 呼ばれている。 一一一 ( 一 0 七頁 ) 当時の医学は古代の医学説を受けついで、人間の体 のなかには四種の体液があると考えていた。胆汁、リンバ液、血 液、黒胆汁がそれである。胆汁の多いものは怒りつほく、リンバ 液の多いものは冷静で、血液の多いものは激しやすく、黒胆汁の 多いものは神経質だとされた。病気はこれらの体液の過剰または 腐敗によって起こると考えられた。 一三 ( 一 2 頁 ) デカルトはこれを血液のもっとも微細な部分と見、 これが神経 ( 彼はこれを管と考えた ) のなかを流れ、筋肉に到達 して、感覚を伝達し、運動を起こさしめると考えた。 一四 ( 一 0 八頁 ) 快感または苦痛にたいする霊魂の動きを当時こう呼 んだ。ボシュエは「神と自我の認識」のなかで、「パッションと は、対象について感じる、あるいは想像する快楽や苦痛に動かさ れて、その対象を回避したり追及したりする霊魂の運動をいう」 と書いている。これによってわれわれは十七世紀におけるこのこ とばの一般的意義を知ることができよう。すなわちそれはわれわ れが外界から受けた印象によって生じる感情的な迎合または反嬢 作用をさす ( もちろんパッションは当時においても今日それが もっているのと同じ意味、すなわち情熱という意味を・もってい た ) 。デカルトは「情念論」のなかで、基本的感情として驚嘆、 愛、憎、欲求、喜悦、悲哀を六つあげ、詳細にその感情のメカニ スムを論じているが、デカルトによれば、パッションはまったく 非意志的なもので、われわれは理性によってそのバッションの正 否を判断し、正しくないものは意志の力によって抑制しなければ ならないとしている。 ( 一只頁 ) われわれの五感が個々に受け取った感覚を統一する 中心をいう。アリストテレスの用語。 第六部 一 ( 三頁 ) 一六三三年七月。 = ( 一一一頁 ) すでに誌したとおり、これはガリレイの地動説を唱

3. 世界の大思想7 デカルト

360 情念論 慣が一々の腺連動を種々の仕方でそれそれの想念に結びつけのなかに大胆さを刺激し恐怖を去るには、意志するだけでは たことによって変わってくる。たとえば、きわめて遠距離に十分でなく、危険が大きくないこと、逃げるよりも守る方が ある物体を見るために目を加減しようとすれば、その意志が 常に安全であること、勝てば名誉や喜びがえられるが、逃げ・ : っ - J 、つ なっとく 瞳孔を拡大し、きわめて近距離にある物体を見るために目をれば悔いと恥をしか望みえないことなどを納得させてくれる。 加減しようとすれば、その意志が瞳孔を縮小させる。しかし ような理由なり事物なり実例なりを熟慮する必要がある。 単に瞳孔を開こうと思う場合 、いかにその意志をもっても瞳 四六心をしてその情念を完全に支配せしめない理由 孔は開かない。それは、瞳孔の開閉に必要なように精気を視 は何か。 神経へ押しやるための腺連動を、自然は瞳孔を開閉する意志 に連絡させないで、遠距離または近距離にある物体を見る意 心がたちどころにその情念を変化し、また抑止しえない特「 志に連絡させたからである。またわれわれがものをいう場殊な理由が一つある。この理由により、私は上述した情念の 合、いおうとすることの意味だけを考えている方が、同じ言定義のなかで、情念はある特殊な精気運動によって起こるば 葉を出すに必要なあらゆる方法で舌や唇を動かそうと考える かりでなく、またこれによって保持され強化されると書いた ぜっしん よりも、はるかに早く、はるかによく舌唇を動かすことがで のである。その理由とは、ほとんどすべての情念は心臓のな きる。それは、われわれがものいうことを学ぶ際にえた習慣 かに、またしたがって血液全体や精気のなかに、ある種の動 によって、われわれは腺運動の媒介によって舌唇を動かしう 揺を伴っているということである。それゆえ、感覚の対象が る心の働きを、舌唇の運動そのものと結びつけるよりは、む感覚器官に働きかけている間は、その対象がわれわれの想念、 しろその運動に伴う言葉の意味と結びつけているからであに直面していると同様に、情念もまたこの動揺が停止するま る。 ではわれわれの想念に直面しているのである。そして心は、 ある他の事柄に注意を集中すれば、小さな音を聞かず、小 ~ 0 四五情念にたいする心の力はどうか。 な苦痛を感ぜすにいられるが、同様の方法によって雷の音を一 われわれの情念は、意志の作用によって直接刺激されえ 聞かず手をこがすような熱を感ぜすにいることはできないの す、また除去されえない。しかし間接には、われわれのもと と同じことで、心は徴弱な情念を抑制することはできるが、 うとする情念に普通結合されているもの、われわれの捨てよ きわめて強烈な情念は、血液や精気の動揺が静まった後でな この動揺がたけなわである間に意志の うとする情念に相反するものを心に描くことによって、あるければ抑制しえない。 しは刺激されあるいは除去されうるのである。たとえば、心 なしうることは、たかだか、この動揺の結果を甘受せす、動「

4. 世界の大思想7 デカルト

解説 ことが必要と思うのである。西洋文明を真に身につけるため にも、それにたいして批判的態度をとるためにも、それが必 要と考えるのである。 与えられた紙数においてデカルト哲学の特徴をその全般に 渉って述べることは私の卑力を越えていた。そのため、私に 二二ロ はデカルト哲学の真髄と思われるデカルト的理性に限って侖 述したのである。また、同様の理由から、当然述べるべきで 二 1 一口 あったデカルト哲学の歴史的意味や現代的意義についての侖 考も割愛せざるを得なかった。しかし、それは以上に述べた ことを一歩進めれば容易に理解されると思うのである。 ( 一九六五年春 )

5. 世界の大思想7 デカルト

236 志によって決意することである。」 ととは思われないからである。しかし、私たちがとにかく知覚し たことに同意を与えるためには、どうしても意志が必要である = 一三充分に知覚されていないものについて判断をく し、また、ただ判断を下すというためなら、私たちは全般的な完 だしさえしなければ、私たちは誤るものではない。 全な知識などもっ必要はないのであるから、そこから、はなはだ 曖昧な知識しかもたないことに私たちがしばしば同意を与える、 しかし、私たちが何かを知覚する場合、私たちがこれにつ ということが起こるのである。」 いて何も肯定したり否定したりしないかぎり、私たちが誤る ことのないのは明らかである。また肯定したり否定したりし 三五意志の方が悟性よりも広い範囲におよぶ、そこ ても、私たちが明晰判明に知覚するものだけを肯定したり否 に誤謬の原因がある。 定したりするのであれば、同じように誤ることはない ( よく それに、悟性の知覚は、自分に提供されるわすかなものに あることだが ) 。正しく知覚してもいないのになおそれにつ しかおよばない、だから、つねにきわめて限られている。 いて私たちが判断を下そうとするから、誤るだけのことであ かるに意志は或る意味で無限なものだといえる、なぜなら、誰 る。 か他人の意志の対象たりうるものであれ、あるいはまた、神 = 西判断するには、悟性だけでなく意志も必要であ のうちにある宏大無辺な意志の対象たりうるものであれ、私 る。 たちの意志のおよびえないようなものは何ひとっとして認め ( 1 ) また、判断するにはもちろん悟性が必要である。どのよう られないからである。それだから、私たちはとかく、明晰に にも知覚しないものについては、私たちは判断な下すことは知覚しているものの外にまで意志を押し広げてしまうことに できないからである。しかし、なんらかの仕方で知覚された なる。だから、そういうことをしておりながら私たちが誤り に陥ったからといって、少しも怪しむにはあたらないのであ ものに同意を与えるためには、なお意志も必要である、しかし ながら、 ( ただ何か判断をくだすというだけのためなら ) 事物る。 というの についての完全にして全般的な知覚は必要でない、 三六私たちの誤謬を神に帰することはできない。 は、まだごく曖昧かっ雑然としか認識していないものにさえ、 しかしまた、神が私たちに全知の悟性を与えなかったから 私たちはしばしば同意を与えることができるからである。 ( 1 ) 「悟性が介人しなければ、私たちは何ものについても判断とて、神を私たちの誤謬の創作者であるなどとは決して想像 を下すことはできないだろう。私たちの悟性がどのようにも知覚してはならない。なぜなら、限られてあるということは創造 しないものにたいして、意志が決意するということはありうるこ された悟性として当然のことであり、だからあらゆるものに

6. 世界の大思想7 デカルト

ができると思う。 志、心に関係するものではあるが、しかも心自体によって起 こる意志からそれを区別するためであり、また、情念を同じ 天この定義前半の説明。 く他の感覚と区別すべき、情念の最終的な最も近い原囚を説 心の働きでもなく意志でもないすべての想念を意味するた明するためである。 めにひろく知覚という語を用いるなら、情念は知覚と名づけ き心が身体各部と相関すること。 ることができる。しかし、この語を明白な認識を意味する場 合にのみ用いるなら、情念は知覚とは名づけられない。けだ しかし以上の事柄を一層完全に了解するためには、心が真 し、最もはげしく情念に動かされる人々は、最もよく情念を実全身に結ばれていること、心が身体のある一部分にのみあ 知るものでなく、この種の情念が心身の密接な結合によって って他にはないというがごときは正しくないこと、を知って あいまいか こんとんか 暖昧化され混沌化された知覚の類に属すべきことは、経験におく必要がある。身体諸器官の組立ては、その一を除去すれ よって明らかなのである。この情念は外的感覚と同様にして ば全身に欠陥をきたすほどすべて互いに密接な連絡があるか 心のなかに受け取られ、他の方法では心によって認識されえら、身体は一つであり、いわばまた不可分であるのがその理 ないから、これを感覚と名づけることもできる。しかし、心由の一つ。また心が、身体を組織する物質の拡がりにも、ま じようしょ の情緒と呼んだ方がなお一層適切である。この名称は、心の たその次元にも関係せず、単に身体諸器官の全体に関係して なかに生ずるあらゆる変化、すなわちすべて心に生する各種 いるということがその理由の二。これは、心の半分、心の三 の想念に対して与えうるゆえのみならず、特に、心のもちう分の一というようなことや、心がどれだけの拡がりをもっか るすべての想念中、この種の情念ほど強く心を動揺させるも というようなことは全く考えられす、身体の一部を除去して のはないからである。 も心は小さくならず、諸器官の全体を分解するときにはじめ て心が身体から分離することによって明らかである。 一一九後半の説明。 三一脳に微細な腺があり、むは他の部分よりも特に これらの情念が特に心に関すると付け加えたのは、匂いや この腺においてその機能を果たす。 音や色のように外物に帰すべき感覚や、饑渇、苦痛のように 身体に帰すべき感覚からそれを区別するためである。またこ 心は全身に連絡しているけれども、しかも心が他の部分に れらの情念がある種の精気運動によってひき起こされ保持さおけるよりも特によくその機能を果たす部分が身体の中にあ れ強化されると付け加えたのは、心の情緒と称しうべき意 ることを知っておく必要がある。そしてこの部分は、脳また ( 五 )

7. 世界の大思想7 デカルト

性の秘められた源泉なのである。デカルト哲学にとって理性する能力ではない。それは事実をあからさまに見る直観の能 は何にもまして価値あるものである。しかし、そのように理力である。 ところで、そのように第一原理としてとらえられた自我と 性を評価するデカルトの思想の底には人間の有限性の自覚が ひそんでいることを知ることが大切である。デカルトほど人は何か。自我とは精神である。精神とは何か。精神とは考え るものである。しかし、このように精神を「考えるもの」と 間の有限性を痛感している人は少ないとさえいえるであろ う。そのことを知らずしてはデカルトの合理主義を正しく理 いう時、人は、また多くの哲学史家さえも、その「もの」と いうことばに囚われて、自我をいわゆる実体化する。しか 解することは不可能である。人間を有能と自惚れる者にはデ カルト哲学の方法の意義を真に理解することは不可能なのでし、このような解釈ほどデカルトにたいする無理解はない。 ある。デカルトの哲学はどこまでも儿人の哲学である。 、それにたいして「自我 、一アカルトは自ら・目我とは仞かと問い 人間は無力であればこそ、方法を手段として進歩を企てとはただ考えるものである。すなわち、精神であり、悟性で る。しかし、そのためには、まず、出発点が確立されねばなあり、あるいは理性である」と自ら答えているのである。し らぬ。どこまでも、どこまでも、天にのび、月をも火星をも かも、大切なことは、そのおり、ことばを続けて、「それら 越えてゆく知識と技術の大建築を構築するためには鞏固な土のことば〔精神・悟性・理性〕の意味を私は今まで知らなか ったのであるが」といっていることである。つまり、彼は世 台が必要である。文字通り不動の礎石がまず置かれねばなら ぬ。哲学には第一原理が必要である。それがデカルトにとっ 人がつねに用い、また自分も使い馴れていた精神とか悟性と か理性とかいうことばの意味を今こそはっきり知った、とい ては「我思ウ、故ニ我アリ」の直観である。といっても、そ の直観は通常の意味の直観すなわち、合理的思索や科学的方うよりもむしろ、体得した、といっているのである。そうし 法を欠く思いっきの直覚ではない。一生一度の大懐疑というて、それは、我とは精神以外の何ものでもなく、その精神と 厳しさこの上ない徹底的自己否定の方法的懐疑のすえ、デカ は、考えるものであることを、すなわち、精神の本質は考え ることにあり、従って、考えるということなくしては精神は ルトはこの方法的懐疑そのものをも否定して、あらゆる学問 の基礎である「思惟する自己」を発見し、その発見に自ら驚ないことを、言明しているのである。それは精神から物質的 なものを完全に排除したことに他ならない。精神ということ 異するのである。それは自己を否定することによって却って 自己を肯定せざるを得ない第一真理である。真理はただ自己ばはわれわれもつねにロにし、また多くの哲学者も精神をい によって自己を保証するのである。他に依存する限り、真理ろいろと定義しているが、デカルトほど精神を純化し、その は絶対的ではあり得ない。デカルトにあっては、理性は推理本質を「考えるもの」として明示した人が他にどれだけある われ

8. 世界の大思想7 デカルト

Ⅷ でいる時には、めったに起こりえないことで、道徳的な意味でも いておこなわれるすべての明晰な推理もそうである。この 信じられないことである。だから、磁石や火やその他世界にある〔書物で述べられた〕私たちの確実さも、それがどんなふうに 一切のものやのいかに多くのさまざまな性質が、私がこの論文の して人間的認識の第一の最も単純な諸原理から演繹されたか 始めに挙げたごく僅かな数の原因からはなはだ明瞭に導き出され に思いを致されるならば、おそらくそのような確実さの数に たかに思いを致すならば、それらの原因は私が偶然に仮定したも 加えられることであろう。特に、外にある対象というもの ので、それを信じねばならぬ理由などないと想像されようとも、 は、それによって或る種の場所的運動が私たちの神経のうち 少なくとも、臆測によって一つ一つの文字に与えてみた意義から に惹き起こされるのでなければ、私たちはそれを感覚するこ 暗号の真意が辿られることがわかれば、それでその暗号は解けた とがないということが、そして、そのような連動は、恒星と ものと信じてよいのと同じ程度には、それらの原因は私がそこか ら演繹した一切のものの真の原因であると、とにかく判断しても 〔恒星と私たちとのあいだに〕介在する全天空とに或る運動が よいであろう。なぜかというに、アルファベットの文字の数は、 生するのでなければ、この地上から最も遠く離れている恒星 私が仮定した第一原因の数よりもはるかに多く、暗号に用いられ によって惹き起こされることはできないということが、充分 る語の数も文字の数も、私がこれらの原因から導き出したさまざ よく理解されるならば、そうである。なぜならば、これらの まな結果の数よりも少ないのがふつうだからである。 ことが承認されるならば、他のことはすべて、少なくとも世 界と地球について私が書いたより一般的なことは、私の説明 ニ 9 〈むろん、道徳的意味の確かさより以上の確か したのとは違った仕方では、理解されえないといってもいし さがある。 ように思われる。 ( 1 ) さらに、自然的な事物においてさえ、私たちが絶対的で道 ( 1 ) 「もう一つの種類の確かさは、ものごとが私たちの判断す るのよりほかには決してありえないと考えられる時である。そし 徳的より以上の意味で確実であると考えるものがある。すな てこれは形而上学の非常に確かな一つの原理に基づいている。す わち、この確実さは、神は最高度に善であり最も欺瞞的なも なわち、神は最高の善でありあらゆる真理の源であるが、その神 のでないのであるから、真を偽から識別するという、神の私 が私たちを造られたのであるから、私たらの授かった、真と偽とを たちに与えられた能力は、私たちがそれを正しく用い、その 識別する力あるいは能力は、私たちがこの能力を正しく用い、ま 能力によってものごとを判明に認識する限りは、誤ることは たその能力によって事物の真であることが私たちに示される場合 ありえない、という形而上学的な基礎に基づくものである。 には、決して間違うことはない、という原理がそれである。だか 数学の証明はそのような確実さであり、物質的な事物が存在 ら、この確実さは、数学において証明されることすべてにおよん しているという認識もそうであり、また、それらの事物につ でいる。二と三とを加えると五より多くも少なくもなりえないと

9. 世界の大思想7 デカルト

由もなく私の仮定したものだと認められようとも、おそらく 一一 0 五けれども、私の説明したことは、少なくとも ( 1 ) それでも、それらの原理が誤りであるとしたら、それほど多 道徳的な意味では、確実なものと思われる。 くのことがみんな一致するというようなことは、めったに起 ( 2 ) しかしそれにもかかわらず、ここで真理にたいして思い違こりうることではないということは、きっと承認されること いをすることのないように、神の絶対的なカから見れば不確であろう。 実であっても、道徳的な意味では、つまり、人生に有用であ ( 1 ) 「それにもかかわらす、この世界の万物は、そうありうる るという意味では、確実だと見なされるようなものがあると とここで論証されたようにしてあるということには、道徳的な確 かさがある。」 いうことを考えてみなければならない。たとえば、一通の手 ( 2 ) 「しかしそれにもかかわらず、真理の確実さを過小に評価 紙を読もうとする人があって、その手紙がラテン文字で書か して真理を冒漬することのないように、私はここで確実さに二つ れているのだが、文字がほんとうの意味のとおりに配列され の種類を区別しておきたい。その第一は、道徳的といわれるも ていないので、 << とあるところはすべてと読み、とある の、すなわち、私たちの処世の準則とするに足るだけのもの、あ ところは O と読なというふうにして、どの文字もそのすぐ次 るいは、絶対的な意味では誤りといえるかも知れないとはわかっ にくる文字に置きかえて読まねばならないと推量し、そうい ていても、日常の生活を導く上では私たちのふつうすこしも疑わ う読み方をして行くとそれらの文字から或るラテン語の言葉 ないようなものごとのもっ確かさと同じくらいの確かさである。 が組み立てられるのを発見する場合、その人はその手紙のほ < 例えば、ローマへ行ったことのない人でも、ローマという都市 んとうの意味がそうして組み立てられた言葉のなかに含まれ のあることを教えてくれた人がみんな自分を欺いたのだといえな くはないけれども、ローマがイタリーの一都市であることを少し ていることを疑わないであろう。その人は単に推測だけでそ も疑いはしない。また > ふつうの文字で書かれた暗号を解こうと う読みとっているので、その手紙を書いた当人は、すぐ次に して、 << とあるところはすべてと読み、とあるところはと くる文字ではなくて何か別の文字をほんとうの文字の位置に 読むというふうにして、どの文字もアルファベットの順序ですぐ 理置いていて、だから手紙には別の意味を隠しているのだとい 次にくる文字に置きかえて読もうと思いつく人が、そういう読み 原 うようなことが、おそらくありえはしようが、しかしそうい の 方をして、そこに意味のある言葉を発見するとすると、その人は 学うことはごく稀にしか起こらないことで、ほとんど信じられ これがその暗号のほんとうの意味であることを少しも疑わないで 哲ないくらいである。だから、磁石や火や世界の全構造やにつ あろう。その暗号を書いた当人は、一つ一つの文字に別の意味を いていかに多くのことが少数の原理からここで導き出された もたせて全く違った文字の配列をしているというようなこともあ・ りえはしようが、そういうことは、ことに暗号が多数の語を含ん かに思いをいたす人は、たとえそれらの原理がでまかせに理

10. 世界の大思想7 デカルト

173 省察 くて完全な意志、すなわち意志の自由を神から授からなかっ強固にしより有効にする認識と力との点においても、意志が たなどと訴えることもできない。なぜかといって、意志が〔無限に〕より多くのものにおよぶという意味でその対象の 〔はなはだ広漠としたもので〕いかなる制限をも受けていな点においても、私のうちにおけるとは比較にならぬほど大ぎ いことはいうまでもないが 、しかし、それ自身において形相 いことは、経験によって実際に私の知っていることだからで ある。そして、きわめて注目すべきことと私には思われるの的に、かっ厳密に見られるならば、より大きいとは思われな であるが、私のうちにはこれほど完全な、これほど大きなも いからである。すなわち、意志というものはただ、われわれ のは他に何もないので、それがよりいっそう完全な、よりい が或る一つのことをなす、もしくはなさぬ ( いいかえると、 っそう大きなものでありえようなどとは考えられないのであ肯定する、もしくは否定する、追求する、もしくは忌避する ) る。すなわち、たとえば、理解の能力を考察してみると、私ことができるというところにのみ存するのである。あるいは の理解能力がはなはだ狭小で、非常に限られたものであるこむしろ、悟性によってわれわれに提供されるものをわれわれ が肯定もしくは否定し、すなわち、追求もしくは忌避するに とがすぐにわかるが、するとそれと同時に、それよりもはる かに大きな、いな、もっとも大きな、無限な或る他の能力のあたって、なんら外的な力に強いられてそうするのではない と感ずるようなふうにしてこれをおこなうところにのみ存す 観念を私は作る。そして、私がそのような能力の観念を作る ことができるということそのことから、私はそのような能力るのである。すなわち、私が自由であるためには、私が両方 が神の本性に属することを〔わけなく〕知覚するのである。 の側に動かされることができるということは必要でない。む 同じように、想起の能力あるいは想像の能力、あるいは何か しろ逆に、私が真と善との根拠をその側において明証的に理 のよう その他の能力を検討してみても、私のうちにあっては弱くて解する故であれ、あるいは、神が私の思惟の内齧 制限されており、神においては広大〔かっ無限〕であると私に配置したが故であれ、私が一方の側に傾けば傾くほど、そ の認めないようなものは何一つ私は決して発見しないのであれだけ自由に私はその側を選択する〔し、そしてその側を採 る。私が私のうちにおいてより以上に大きなものの観念を捉る〕のである。むろん神の恩寵も、自然的な認識も、決し えることができないほど大きなものとして経験するものは、 て〔私の〕自由を減少せしめるものではなく、むしろこれを ただ意志のみ、すなわち意志の自由のみである。したがっ増大し、強化するものなのである。ところが、かの無関心 て、私がいわば神の或る像であり似姿であることを理解する は、いかなる根拠も他方の側によりもむしろ一方の側に私を ゆえんの根拠は、主としてこの意志である。なぜかという駆り立てることがない場合に私が経験するもので、もっとも この意志は神にあっては、意志と結びついて意志をより低い程度の自由であって、それは意志の完全性を証するもの ( 三 )