となる。したがって血液は、心臓に最も近い、最も太い血管血液はこの状態において一層多量に顔面の静脈に集まりうる からである。このことは主として恥ずかしさにおいて現われ 内にしりそき、最も遠い血管を去るのである。遠い血管のう ち最も顕わなものは顔面の血管であるから、血液の退行は顔る。恥ずかしさは自愛の感情と目前の不面目を避けようとす る切望とから成っており、これが血液を内部から心臓へ、心 面を青くやつれさせる。悲しみの度が大きい場合、また悲し からさらに動脈を経て顔面へと達せしめる。なお恥ずかしさ みが突如としてくる場合は特にそうであって、たとえば驚愕 は弱い悲しみの情からも成っており、その血液が心臓に帰る において見るように、その不意打ちが心臓収縮の作用を強め ことを妨げるのである。同様のことが泣く場合にも普通に現 るのである。 われる。それは後に述べるとおり、涙の大部分を生ぜしめる = 七悲しいとき、人はいかにしてしばしば顔を赤 ものは悲しみと結合した愛だからである。また同様のことが らめるか。 怒りにも現われるのであって、怒りにおいてはしばしば咄 の復讐欲が、愛、憎しみ、悲しみと混交しているのである。 しかし悲しいときに青ざめないで、かえって赤くなること がしばしばある。これは悲しみの情に加わった他の情念、す 一入震えについて。 なわち欲望やまた時には憎しみの念に帰すべきものである。 震えは二つの異なった原因をもっている。その一つは、脳 これらの情念は、肝臓、腸、そのほか内部からくる血液を熱 しまた刺激して、これを心臓に押し進め、さらに大動脈を経から神経にくる精気が時に少な過ぎるということ。その二は て顔面の静脈に進める。しかも心臓口を両方から圧迫する悲それがときに多過ぎるため、第一一節に述べたところにした しみの念も、それがきわめて激しい場合を除き、この血液をがい、身体各部の運動を決定するため当然閉鎖されるべき筋 阻止しえないのである。しかし悲しみの度が微弱に過ぎない肉の小通路を、十分に閉鎖しえないということ。第一の原困 場合でも、愛、欲望、または憎しみの念が内部から他の血液は寒さに震えるときと同じように、悲しみや恐れにおいて現 を心臓に押し出してくる間は、以上のように、顔面の静脈にわれる。これらの情念は空気の冷たさと同様に、血液を甚だ 論達した血液が心臓に向かって下降することを、悲しみは容易しく濃厚ならしめる力があるから、血液は神経に送るにたる 念に妨げるのである。それゆえ、この血液は顔の周囲に停滞し ほどの精気を脳に供給しえないのである。第一一の原因は酩酊 情てこれを赤らめる。甚だしきは喜びのとき以上に赤らめるのした者におけると同じように、ある物を熱望する人や激怒し である。けだし血の色は、緩く流れれば流れるだけよく現わた人に現われる。この二つの情念は酒と同様に、時として多 れるからであり、また心臓口が大きく開いているときよりも、量の精気を脳に送るから、精気は規則正しく脳から筋肉内に
うであるように、その多くが混交している場合の方がはるかすべて変化しうるものである。それゆえこの働きは情念を衣 3 に観察しゃ、 一しかかる徴候の主なるものは、目と顔の働現するためにも用いうるのである。 おえっ き、顔色の変化、震え、けだるさ、気絶、笑い、涙、嗚咽、 = 四顔色の変化について。 嘆息がこれである。 ある情念に促された場合、赤面したり青ざめたりすること = 三目と顔の働きについて。 は、これほどたやすくは抑制できない。 これらの変化は前者 のように神経や筋肉によるものでなく、一層直接に心臓から いかなる情念でも目のある特殊な働きによって表明されな くるためである。心臓は血液や精気をして情念を生む準備を いものはない。ある種の情念においてはそれが非常に著しい ため、いかに愚かしい下僕でも主人が自分にたいして怒ってさせるという点で、情念の源と称しうる。しかるに顔色が血 ~ いるかいなかはその目つきでわかるのである。しかし、この液によってのみ生することは確実である。血液は心臓から動、 種の目の働きは容易に気づかれ、またその意味もよく解され脈を経てすべての静脈へ、またすべての静脈から心臓へと絶 ~ えず循環しているから、顔面に向かって走る小静脈を血液が るが、さればといってこれを記述することは容易でない。な ぜなら、これらの働きのおのおのは、目の動きや形に現われ満たす量の多少によって、顔を濃くまたうすく色どるわけで る多くの変化から成っており、しかもこれらの働きはきわめある。 て特殊徴細であるから、それらの結合から生ずるものは至極 = 五喜びはいかにして顔を赤らめるか。 容易に認められるが、そのおのおのは別個に認めがたいので ある。同じく情念に伴う顔の表情についても、ほとんど同様 たとえば喜びは顔色をいきいきと赤らめる。その理由は、 のことがいえる。すなわち、顔の働きは目の働きよりも大き喜びは心臓の弁を開いて血液を速やかに全血管に流れさせ、 いにかかわらず、これを識別することは困難であるし、また血液は熱して徴細となり、顔のあらゆる部分を僅かに膨脹さ 変化に乏しいから、人によっては泣く場合に他人が笑うときせ、その表情を一層花やかに明るくするのである。 とほとんど同じ表情をするものもあるくらいである。もっと 一一六悲しみはいかにして顔を蒼白ならしめるか。 も、怒った時の顔の皺や憤激嘲笑における鼻や唇のある種の 動きのように相当顕著なものもあるが、それは自然的という これに反して悲しみは心臓口を萎縮せしめるから、血液は よりもむしろ意識的であるらしい。また一般に顔や目の働き緩やかに血管へ流れ込む。またそのために血液は冷たく濃厚、 は、心が情念を隠そうとして反対の情念を強く世田 ( 場合には となり、血管内において比較的狭い場所を占めることが必
いたばかりだから、大静脈から直接やってきた血液よりも微から大動脈に血液を送りこむ導管をもっているだけだという ことによってたしかめられる。つぎに肖化作用も、もし心臓 細で、より強く、かついっそうたやすく稀薄化するという以 外に理由はない。またもし医師たちが、血液はその性質を変が動脈によって胃に熱および熱とともに、そこに入った養分 えるにしたがって、心臓の熱のために以前よりも多かれ少な の分解を助ける血液のいちばん流動的な部分を送らないなら ば、どうして胃においてなされるだろうか ? それからまた かれつよく、また多かれ少なかれ速く稀薄化されるものだと みやくはく いうことだけしか知らなかったら、彼らは脈搏に触れて何をこの食物の汁液を血液に変える作用も、それがおそらく一日 ゅ、き 子断できるだろうか ? またもしわれわれがこの熱がどのよ に百回あるいは二百回以上も心臓に往来することによって蒸 うにしてほかの肢体に伝えられるかを検討するならば、それ溜されると考えれば、認識しやすいのではあるまいか ? そ は心臓を通る際そこで温めなおされて、そこから全身に広がれからまた栄養および体内にある種々の体液の生産を説明す る血液によってだということを認めざるをえないのではなか るためには、稀薄化しながら血液を心臓から動脈の末端に移 ろうか。そのことから、もしわれわれが体のどこからか血液す力が、血液の若干の部分を、それが到達した肢体のある部 を奪い取るならば、それによって熱を奪うことになるという分にとどまらせ、そこで自分が追い出したほかの部分にとっ しやくねっ て代るということ、それらの血液が出会う細孔の位置、形 事態が生じる。たとえ心臓が灼熱した鉄のように熱していて も、もしそれがたえす新しい血を送りこむのでなかったなら状、大小に応じて、あたかもいろいろなふうに穴があいてい ふるい ば、実際に手足をあれほどまで温めるには不十分だろう。そて種々の穀物をふるいわけるのにもちいる篩と同じように、 して上のことからわれわれは、呼吸の真の効用は、心臓の右血液のある部分はほかの部分とはちがった場所へ行くのだ、 というだけで充分ではあるまいか ? そして最後に、これら 窩で稀薄化され、いわば気体に変えられて、そこから肺臓に エスプリ・サニモー ( 一三 ) 入ってくる血液をば、左窩に落入するに先立って、そこで濃の事実のうちもっとも注目すべきことは、動物精気の生成 厚化し、再び血液に変えるために、充分な新しい空気を肺臓である。これはきわめて微細な風、あるいはむしろきわめて ほうじよう 純粋で活気のある烙みたいなもので、不断に豊饒に心臓から 説に送ることにあるということを知る。このことがなかったな ・序 脳髄にの、ほり、そこから神経を通って筋肉に行き、あらゆる らば、血液は心臓にある火の養分となるにふさわしいものに 法なれないだろう。このことは、肺臓をもたない動物はまた心肢体に運動をあたえるものである。この精気を構成するのに いちばん適した血の若干部分はいちばん激しやすく、またい ナ臓内に一個の窩しかもたないということ、母胎内にある間肺 臓を使用することができない胎児は、大静脈から心臓の左窩ちばん透過力をもったものであって、それをほかの場所へ向 に血液を流しこむ一つの開孔と、肺臓を通らすに動脈性静脈かわせないで脳のほうに行かせる原因としては、血液のこの
しかしこれらの動物精気や神経がいかにして運動や感覚に から心臓の左側に帰り、最後に、全身に分枝する大動脈に移 るかを知っている。のみならず、古人の権威にまどわされ寄与するか、またこれらを活動せしめる物的原動力は何かと いうことは一般に知られていない。それゆえ、すでに他の論 ず、目を開いて血液循環に関するヘルヴェウス説の研究に志 ( 四 ) した者は、つぎの事実をあえて疑わないのである。すなわ文で多少それに触れてはあるが、なおここにも簡単に、つぎ ち、体内の静脈・動脈はすべて小川のごときもので、そこをのことを述べておきたい。われわれが生きている間は心臓の 血液が絶えずすみやかに流れている。血液はます肺動脈を通なかに不断の暖かみがある。これは一種の火気であって、静 って右心室から流れ出す。肺動脈の分枝は肺の全体にひろが脈血がこれを保持している。そしてこの火気があらゆる肢体 り、肺静脈の分枝に連絡している。血液はこの肺静脈によっ運動の物的原動力をなすのである。 て肺から左心房に移り、さらに大動脈におもむく。大動脈の 九心臓の活動はいかにしてなされるか。 分枝は全身にひろがり、静脈の分枝に連絡する。静脈の分枝 はこの血液をふたたび右心房に連ぶのである。したがって以 火気が与える第一の作用は、心臓の室房内に充満する血液 うちょう 上二つの室房はすべての血液が身体を一循環するごとに通過を脹させることである。その結果、血液は一層広い場所を する水門のようなものである。なおまた、人の知るごとく、 占める必要を生じて右室から肺動脈に突入し、左室から大動 きっこう したい 肢体の運動はすべて筋肉によって起こる。筋肉は互いに頡頏脈に突入する。やがて膨脹が停止すると、新しい血液は直ち しているものであって、一方が縮まればその付着している局に空静脈から右心房に、また肺静脈から左心房にはいるので 部を引きよせ、同時にこれと頡頏している筋肉を伸ばす。もある。すなわち以上四血管の入口には少さな膜があり、血液 しまた後者が縮まる場合には前者は伸び、後者はそれらの筋 が心臓にはいるときは後の二つ、出るときは前の二つをかな 肉が付着している局部を引きよせる。最後に、すべてこれら らず通過せねばならぬようにできているのである。心臓には 筋肉の運動が、あらゆる感覚と同じく神経の作用であること いった新しい血液は、先のものと同様ただちに稀薄化され みなもと こどう は周知の事実である。神経とはすべて脳に源を発する細糸ま る。さて脈搏、すなわち心臓および動脈の鼓動はもつばらこ 論たは細管状のものであり、脳と同じくぎわめて徴妙な一種のれによって成り立つものであるから、したがって、この鼓動 念気体または気息を含んでいる。これを動物精気 (esprits ani ・ は新しい血液が心臓にはいるその回数だけ繰り返されること 情 maux) と呼ぶ。 となる。また血液に初動を与え、すべての動脈や静脈内を絶 えず急速に循環せしめるのも、もつばらこの鼓動である。血 ^ これら諸機能の原理はなにか。 液はこの循環によって、心臓内でえた熱を身体の各部に伝
126 六 ( 一 0 四頁 ) デカルト時代には tranchée-artiöre ( 気管 ) という 字がなかったらしく、彼は一般に日常用語で喉笛をさすのにもち いる sifflet という字を使っている。 七 ( 一 0 四頁 ) ここでも今日の解剖学上の「弁」 valvule の代り に、 peau ( 皮または筋 ) という語が使用されている。しかし文章 を理解しやすくするため、「皮ーを用いないで、今日の用語「弁ー をもちいた。 ハ ( 一 0 五頁 ) ここでもデカルトは今日の用語 oreillette du cæ・ ミ ( 心房 ) の代りに、 oreilles du cæur ( 心臓の耳 ) という語をも ちいている。 九 ( 一 0 五頁 ) 以上の血液循環のメカニスムを、次節でみずから告 白しているように、デカルトはイギリスの医師ウィリアム・ ヴェーの説に則って説明しているのであるが、ただつぎの点にお いて両者は異なっている。すなわちハーヴェーは心臓をその筋肉 によって運動するポンプと見たのにたいし、デカルトは血液の循 彊を、心臓に人った血液の、熱による膨脹から説明している。こ の場合もちろんハーヴェーのほうが正しかったので、デカルトは ーヴェーの本質的に正しい観察を、力学的に歪曲したのであ 一 0 ( 一 0 五頁 ) ウィリアム・ハ ーヴェー William Harvey ( 一五 七八ー一六五七年 ) 。ロンドンの医学専門学校で解剖学、外科を 一教え、血液の循環を発見した。それは一六一九年同校の生徒に教 えられ、一六二八年「動物における心臓と血液の運動に関する解 割学的実験」として出版された。 = ( 一 0 六頁 ) 筋ーー いうまでもなく、今日ではこの筋は静脈弁と 呼ばれている。 一一一 ( 一 0 七頁 ) 当時の医学は古代の医学説を受けついで、人間の体 のなかには四種の体液があると考えていた。胆汁、リンバ液、血 液、黒胆汁がそれである。胆汁の多いものは怒りつほく、リンバ 液の多いものは冷静で、血液の多いものは激しやすく、黒胆汁の 多いものは神経質だとされた。病気はこれらの体液の過剰または 腐敗によって起こると考えられた。 一三 ( 一 2 頁 ) デカルトはこれを血液のもっとも微細な部分と見、 これが神経 ( 彼はこれを管と考えた ) のなかを流れ、筋肉に到達 して、感覚を伝達し、運動を起こさしめると考えた。 一四 ( 一 0 八頁 ) 快感または苦痛にたいする霊魂の動きを当時こう呼 んだ。ボシュエは「神と自我の認識」のなかで、「パッションと は、対象について感じる、あるいは想像する快楽や苦痛に動かさ れて、その対象を回避したり追及したりする霊魂の運動をいう」 と書いている。これによってわれわれは十七世紀におけるこのこ とばの一般的意義を知ることができよう。すなわちそれはわれわ れが外界から受けた印象によって生じる感情的な迎合または反嬢 作用をさす ( もちろんパッションは当時においても今日それが もっているのと同じ意味、すなわち情熱という意味を・もってい た ) 。デカルトは「情念論」のなかで、基本的感情として驚嘆、 愛、憎、欲求、喜悦、悲哀を六つあげ、詳細にその感情のメカニ スムを論じているが、デカルトによれば、パッションはまったく 非意志的なもので、われわれは理性によってそのバッションの正 否を判断し、正しくないものは意志の力によって抑制しなければ ならないとしている。 ( 一只頁 ) われわれの五感が個々に受け取った感覚を統一する 中心をいう。アリストテレスの用語。 第六部 一 ( 三頁 ) 一六三三年七月。 = ( 一一一頁 ) すでに誌したとおり、これはガリレイの地動説を唱
したとおりの一種の仕方でこの肉体に結びつけたと仮定するの一つは静脈性動脈で、これまた誤ってこう呼ばれているが 一つの静脈にほかならず、それは肺臓からくるもので、両肺 ことによって、それらの人間的機能をすべてこの〔仮定の〕 内で数多の枝に分かれ、動脈性静脈の枝、および吸った空気 人間に見いだしたのであった。 しかしそこで私がこの問題をどんなふうに取り扱ったかをの入る気管と呼ばれる導管の枝とたがいにからみあってい 見てもらうために、私はここで心臓および動脈の運動を説明る。も一つは大動脈で心臓から出て、全身にその枝を送「て いる。それからまた私はこれらの人たちが、この窩にある四 したいと思う。この運動はわれわれが動物において観察する つの出口を開けたり閉めたりする扉のような十一個の小さな 第一の、そしてもっとも一般的な運動であるから、それによ って人びとはほかのすべての運動にかんしてどのように考え弁を入念に見せてもらわれることを希望する。そのうち三個 は大静脈の人口にあって、この血管のなかにある血液が心臓 るべきかを容易に判断するだろう。また私がそれについて以 の右側の窩にながれこむことは少しも妨げないが、この窩か 下に述べようとするところを理解しやすくするため、私は、 ら血液が出ることは正確に妨げるようにあんばいされて、 解剖学に少しも通じていない人たちは、これを読むに先立っ て、肺臓をもったなんらかの大きな動物の心臓を自分の目のる。つぎの三個の弁は動脈性静脈の入口にあり、前者とはま ったく反対にあんばいされ、この窩のなかにある血液が肺臓 前で切り開かせて見る労をとられることを希望する。という に行くことは許すが、脯臓にある血液がそこに後戻りすちこ のは、こうした動物の心臓はあらゆる点で人間のそれにかな り似ているからである。また私は彼らがそこにある二つの室とは許さない。それからこれと同様に、ほかの二つの弁は静 または窩を見せてもらわれることを希望する。第一に、右側脈性動脈の入口にあって、肺臓の血が心臓の左窩に流れるこ とを許すが、戻ることはさえぎる。三個は大動脈の入口にあ にある室には二つのきわめて大きな管が対応している。すな って、血液が心臓から出ることは許すが、心臓に逆戻りする わち一つは大静脈であって、血液を受ける主要な管である。 これを樹木の幹とすれば、身体のほかのすべての静脈は枝ことは妨げる。そしてこれらの弁の数については静脈性動脈 だえんけい の開孔はそれが見いだされる場所の関係上楕円形をしてい のようなものである。も一つの管は動脈性静脈で、誤ってこ う名づけられているが実際は動脈である。それは心臓に源をて、二つで都合よく閉められることができるのに反し、ほか 発して、心臓を出てからいくつかの枝に分かれ、その枝は両の血管は円形で、三個の弁で閉じたほうがより好都合である という以外には理由を求める必要がない。それからまた私 肺に行ってくまなくひろがっている。それから心臓の左側に は、これらの諸君が、大動脈と動脈性静脈は静脈性動脈と大 ある室にも同じように上記の二本と同じくらいか、あるいは それよりもっと太い二本の導管が対応している。すなわちそ静脈よりもずっとつよく堅牢な組織をもっていること、後り ( 七 )
地を開拓し、動脈の末端にたくさんの小通路が存在し、動脈ち静脈にそうて所々に存在し、血液が身体の中央から末端に が心臓から受け取った血液はそれを通って静脈の小さな支管流れることを許さないような装置になっている数個の筋、そ に入り、そこから再び心臓のほうに帰って行く、した。 かつれから体内にある血液は、ただ一本でも動脈が切断された場 て、血液の流れは永続的な循環にほかならないことを最初に 合には、たちまちそこから流出してしまうことが可能であ 教えたことにたいして、この医師を賞讃しなければならな り、しかも動脈が心臓に非常に近い所で堅く縛られ、心臓と い。彼はこのことを外科医のありふれた経験で巧みに証明し縛った紐との間で切られた場合でもなおかっそうであり、し ている。すなわち外科医は静脈を切開する時、その切り口よ たがってそこから流れ出る血液が心臓以外の場所からくると り上の部分で腕を中位のつよさに縛ることによって、縛らな 想像すべきなんの理由もないということを示す実験、等によ って証明している。 かった時よりも多量の血を流れ出させる。もし彼らが切り口 よ、しは切 の下部、すなわち手先と切り口との間を縛るか、オし しかしなおこのほかにも、血液の運動の真の原因が私の述 べたとおりてあることを証明する事実がたくさんある。たと り口の上部を非常に堅く縛ると、まったく反対の結果が生じ るだろう。というのは、中位のつよさで縛った紐は、すでに えば第一に、静脈から出る血と動脈から出る血との間に認め 腕のなかにある血液が静脈を通って心臓のほうへ帰ることをられる差異はつぎのこと以外からは生まれようがない。すな 妨げることはできるが、しかしそのために血液が不断に動脈わち心臓を通る際血液は稀薄化され、いわば蒸溜されて、心 臓から出て直後、すなわち動脈のなかにある時は、心臓に入 を通ってあらたにやってくるのを妨げることはできないとい 、っそう徴細 うことは明白だからである。というのは動脈は静脈の下に位る直前、すなわち静脈のなかにある時よりは、し しており、その膜は硬くて圧しにくいし、また心臓からきたで、いっそう活漫で、いっそう熱い。もしわれわれが注意し 血液は、そこから静脈を通って心臓に帰る時よりもつよいカて見るならば、われわれはこの差異が心臓の近くにおいてだ で動脈を通って手のほうへ行こうとする傾向をもっているかけいちじるしく現われ、心臓から非常に遠ざかった所ではそ ら。そしてこの血液が静脈の一つにある切り口を通って、腕れほどでもないことを発見するだろう。つぎに動脈性静脈お から流出するのであるから、縛った紐よりも下に、すなわちよび大動脈を組織している膜が堅いということは、血液が静 腕の末端のほうに、血液が動脈から静脈に移ることができる脈に当たるよりもいっそうつよいカでそれらに当たることを ような通路がどうしてもなければならないことになる。この証明してあまりがある。また心臓の左窩および大動脈が、右 医師はまた血液の循行について自分の説くところをばつぎの窩および動脈性静脈よりも広く大きいのはなぜだろうか ? もろもろの事実によって非常に巧みに証明している。すなわそれは静脈性動脈の血液は、心臓を通過したあとでは姉臓に ひも
~ 一名は心臓に入るに先立って拡大し、そこで心臓と同じよう よって血滴は動脈性静脈と大動脈の全支管を心臓とほとんど な肉で組織されている心房と名づけられた二つの袋みたいな同時に膨張させる。ところが、そこに入った血液はそこで再 ものになっていること、心臓はつねに身体のどんな部分よりび冷却するから、心臓は、これらの動脈が収縮するのと同じ も熱があること、最後に、この熱はもし血液が数滴でもその ように収縮し、動脈の六つの小扉は再び閉じる。そして大静 しんか 心窩に人ると、ちょうどわれわれが非常に熱いなんらかの器脈および静脈性動脈の五つの小扉は再び開いてつぎの一一滴の に、液体を一滴すったらすとき、一般にすべての液体が急速血液に通路をあたえ、さきの一一滴とまったく同様に、心臓お に膨張し拡大するのと同じように、血液が急速に膨脹し拡大よび動脈を再び膨脹させる。このようにして心臓に入る血液 することを可能ならしめるということを観察されることを望は心房と名づけられている二つの袋を通過するので、心房の む。 運動は心臓のそれとは反対になり、心臓が膨脹する時には収 というのは、以上のことがわかったあとでは、私は心臓の縮する。最後に私は、数学的論証の力を知らす、真実の理由 運動を説明するためにつぎのこと以外は、何もいう必要がなを真実らしい理由から区別することになれてない人たちが、 いからーー心臓の窩が血液で満たされていない時には、血液以上のことをよく検討してもみないで向こう見すに否定する は必然的に大動脈からは右窩へ、静脈性動脈からは左窩へ流ことがないように、彼らにつぎのことを告げておきたい。そ れる。というのはこの二つの管はつねに血液で満たされておれはすなわち、私がいま説明した連動は、あたかも時計の連 くち り、心臓に向かって開いているその開孔はその際閉ざされて動がその分銅や歯車のカ、位置および形状から結果するのと いることはできないからである。ところがこのようにして各同じように、目でもって心臓内に認めることができる諸器官 窩に一滴ずつ、あわせて二滴心臓に人ってきた血液は、それの配置、指で感じることができる熱、経験によって知ること が流れこんできた開孔は大きく、その出てきた管は血液で充ができる血液の性質から必然的に帰結するところだ、という ことである。 満しているのであるから、非常に大きな滴であるにちがいな しかしもし人びとが、このように静脈内の血液が不断に心 。そしてそれが心臓に入るや否や、そこで熱に出会って稀 序薄になり、膨脹し、それによって心臓全体を脹らませ、血滴臓内に流れこみながら、なぜ少しも涸渇しないのか、また心 法の入ってきた管のロにある五個の小さな扉を押して閉じ、そ臓を通過したすべての血液が動脈に入るのに、なぜ動脈は血 方れ以上の血液が心臓に落ちこんでくるのを妨げる。そしてま液で溢れることがないのかとたすねられるならば、私はそれ すます稀薄になりつづけた血滴は、ほかの二つの窩の入口に に答えるのにイギリスの一医師によって、すでに書かれたと ある六つの小さな扉を押しあけてそこから出て行く。それに ころをもってすればよい。われわれは、この方面で新しい見 ( 八 ) ( ル ) こかっ
慣念論 、だしい不均等をひき起こす。脾臓からきた血液は熱しがたく IOII 愛における血液および精気の運行。 また稀薄化しがたく、これに反して常に胆汁の存在する肝臓 以上の観察、そのほか一々記せば長くなる数々の観察によ下部からきた血液はきわめて急速に熱し拡大するからであ って、私はつぎのように判断すべき理由をえた。すなわち、 る。したがって脳に至る精気もまたきわめて不均等となり、 悟性がある愛の対象を思うとき、この想念が脳に与える印象きわめて異常な運動をなすに至る。したがってこれらの精気 はすでに脳に印象された憎しみの念を強め、とげとげしさと は、動物精気を第六対目の神経を経て胃腸周囲筋の方に導い てゆく。その結果、食物の液汁は新鮮な血液と変じ、肝臓に辛辣さに満ちた想念へと心を向かわしめるのである。 停滞しないで直ちに心臓に移行し、肉体の他の部分にある血 一日喜びにおいて。 液よりも一層強く押しやられるから一層多量に心臓へはいり 喜びにおいては、脾・肝・胃腸の神経よりもむしろ他の全 込む。また心臓を再三通過してすでに幾度か稀薄化された血 液よりは粗であるから、心臓内に一層高い熱を起こす。その身に存する神経、特に心臓ロの周囲に存する神経が活動す る。む臓はロを開脹することによって、他の神経が静脈から 結果この血液はまた精気を脳に送り、脳の各部は普通以上に 拡大し興奮する。そしてこの精気は愛すべき対象に関する最心臓に追いやる血液を普通よりも一層多量に心臓に出入せし 初の想念が脳に与えた印象を強め、心をこの想念の上に停止める。このとき心臓にはいる血液は、動脈から静脈にきてす でに幾度か心臓を通過したものであるから、きわめて容易に せしめる。ここにこそ愛の情念は成立する。 拡充し、その生する精気は各部分がきわめて均等徴細である 一 0 三憎しみにおいて。 ために、快活平静の想念を心に与えるような脳の印象を、形 これと反対に憎しみにおいては、厭忌を与える対象への最成し強化する性能をもっている。 初の想念が、脳中の精気を多量に胃腸筋の方へ導くために、 一 0 五悲しみにおいて。 精気は食物の液汁が普通流れ込む口をことごとく圧縮して、 その液汁が血液と混ずることを妨げる。厭忌の対象に関する これに反し悲しみにおいては、、い臓ロはそれを取り巻く小 第一想念はまた精気を睥臓の小神経、および胆汁容器の存在神経によって甚だしく縮小され、静脈内の血液はいささかも する肝臓下部の小神経の方へ多量に導くために、血液のうち動揺せず、そのためにごく少量しか心臓へ向かって流れな 。しかし、食物の液汁が胃腸から肝臓に流れる通路は依然 平常それらの場所に投ぜられる部分がそこを出て、大動脈分 枝内の血液とともに心臓に注ぐ。このことは血液の熱度に甚開いているから、悲しみにしばしば伴う憎しみの念がそれを
さて、笑いは喜びの主徴の一つと思われるにもかかわら 血液が突然しかも多量にはいり込む。したがって血液が熱に ず、喜びが中程度に過ぎず、ある種の驚異または憎しみがこ よって速やかに稀薄化されず、ためにこれらの静脈口を塞ぐ 小膜をもちあげえない、ということである。これによって血れに交わらねば笑いは起こらない。経験によってわかるとお り、非常にうれしい時、その喜びの原因は決して人を笑わさ 液は熱を抑圧する。血液は徐々に心臓にはいってはじめて熱 なし。いなかえって、悲しいときほど人の笑いやすいことは を保持するのが常なのである。 ないのである。その理由は、非常な喜びにおいては、肺 一一 = = なぜ悲しみによって気絶せぬか。 が、それ以上繰り返し膨脹しえないほどかならず充血してい ることにある。 大きな悲しみが突発すれば、当然、心臓のロを強く圧迫する から、悲しみもまた心臓の熱を冷却しうるもののように思わ れる。にもかかわらず、そのようなことの起こるのを見たも ぞうらよう さて、このように肺臓を急激に形脹させる原囚はただ二つ のはなく、たとえ起こってもきわめてまれである。思うにその しか見あたらない。第一は驚異の突発である。これは喜びと 理由は、心臓のロがほとんど塞がれた場合、いかに少量でも、 結合して心臓口を急激に開く力をもっている。それゆえ、多 熱を保持するにたるほどの血液は残っているからである。 量の血液が空静脈を経て心臓の右側に人り、そこで稀薄化さ 三四笑いについて。 れ、そこから肺動脈を通過して肺臓を膨脹させるのである。 笑いとは、右心室から肺動脈を経てくる血液が、突如数回第二の原因は血液の稀薄化を増進するある種の液が混人する のどぶえ ことである。その目的にかなうものとしては、睥臓からくる にわたって肺臓を拡大し、肺臓の含む空気を喉笛を経て激し 血液のうち最も流動性に富む部分しか発見されない。血液の く押し出し、空気がこの喉笛のところで不明瞭な高声をつく ることにある。肺臓は拡大し空気は噴出して、相ともに、横この部分は、驚異の突発によ 0 て助けられたある軽徴な憎悪 隔膜、胸部、咽喉部のすべての筋肉を刺激し、これらの筋肉感のために、心臓〈向か 0 て押し流される。そして身体の他 論 がそれと連絡する顔面筋を動かすのである。笑いと称するもの部分からきて、喜びの情により多量に心臓内にはい 0 た血 念 のは、この顔面連動およびこの不明瞭な高声にほかならな液とそこで混交し、この血液をきわめて異常に膨張させるの である。これはちょうど、そのほかいろいろの液体を火にか けてある時、容器のなかに少量の酢を投じるとたちまち膨張 するのと同じことである。脾臓からくる血液中、最も流動性 一一宝なぜ笑いは激しい喜びに伴わぬか。 三六笑いの主因は何々か。