427 解説 を P N S E S D お M 、や A S C A L SÜR LARELIGI()N* 5 び R , 咜し更ル 5 A リ T 長を & S 男を T 新 、ツ声さに去 ド S E モ S D E M ・ P A S C A L UR LA RELIGION, ET SVR Q リし 0 ES AVTRES SVJETS. I. 平朝 contbatte•nt . 獰 : g 新い ( け朝ま衄 社。、ト。田い平に飜訂慮 人、 ( トぐ茎 0 い t 一人新 0 を 3 第ミー ーまリ“甲お : ド お気い 0 し X ー X. た。次に彼は、。ハスカルが書こうと企てていた宗教 に関する著作に関係のないすべての断章を『。ハン セ』から除外し、それを付録のうちに置かなければ ならないと指摘した。最後に彼は、それらの断章の 出所が明記されなければならないことを要求した。 それ以来、パスカル研究者の努力は、もつばら直 接「草稿原本』に依拠する原文の忠実な再現と厳密 な校訂に向けられることにな 0 た。一八四四年に刊 行されたフォージェール (Faugére) 編の『パンセ」 ロし 本て二巻は、この要望にこたえた最初のものであった。 見し の存これは第一巻に、「真空論の新断章」「幾何学的な精 か神と繊細な精神」「幾何学ー繊細」「諸種のパンセ」 、部「法悦と信仰告白」「雄弁と文体についてのパンセ」 二「ジェズィット、ジャンセニスト、およびプロヴァ 版に ルスンシアルに関するパンセと覚え書」「教皇と教会に ついてのパンセ」「貴族の身分についての第三の訓 ワフ話に対する追加」など、キリスト教弁証論に関係の 第ロ在 ・現ない諸種のパンセと論争的断章をおさめ、第二巻 「川に、弁証論のための素材と認められるパンセを収録 ポこしたもので、その構成は次のようになっている。 第一一巻キリスト教弁証論の断章、すなわち宗教 についてのパンセ 全般的序文 全般的序文の異文 全般的序文のために書かれた覚え書
もしすべての人が、互いに何を語りあ「ているかを知 0 たおいては、偉人も、われわれや、最も卑小な人間や、子供 ならば、事実、この世に友は四人といないであろう。この一」や、動物などと同じ低さにある。 一アレクサンドロスの純潔の模範についてはモンテーニ「随想録」二巻 とは、ときおり誰かが口をすべらして告げ口をしたために起 一九章に暗示されている。また、彼の欠点については、同二巻一章および二 る争いからしても明らかである。〔さらに、私はこう言いた 巻三四章に記されている。三四章「アレクサンドロスは血気にはやる怒りつ ぽい熱烈な性質の人で、さらに酒によってこの気質を煽ったが、カエサルは 。すべての人は : : : 〕 三五六五三五三六 その酒を節制した。」 一〇ニ 三〇〇».-; 九三七七二三 一〇四 悪徳のうちには、その他の悪徳によってのみわれわれにつ »-ä一八三 ながっているものがある。そういう悪徳は、幹を除けば、枝 われわれの情欲がわれわれを促して何ごとかを為させると のように取り去られる。 きには、われわれはわれわれの義務を忘れる。たとえば、人 e 四三四»-ä七七〇七一四 が他のことをしなければならないときにも、書物を愛し、そ 一〇三 一八二 アレクサンドロスの純潔の模範は、彼の酒癖の模範が不節れを読みふけるようなものである。けれども、義務を思い起 制な人間を多く生んだほどには、節操ある人間を生まなかっすためには、自分の嫌いなことをするように心がけなければ ならない。そうすれば、他に為さなければならないことがあ 。彼ほど有徳でないということは恥にならないが、彼ほど るということを理由に、われわれは、そういう方法で義務を 不徳でないということは申しわけになるらしい。人々はこう 思い起すことができる。 いう偉人の悪徳にあやかっているときには、普通人の悪徳に e 三五三»-a 五二九一»-ä一六一 一〇五 は全然おちいっていないものと思いこむ。しかしながら、悪 或ることがらを提示して他人の判断を求める場合、それを 徳の点においては、偉人でも普通人と変りがないということ に、彼らはまったく気づかない。彼らは、偉人が民衆に連な彼に提示するときのしかたによ「て相手の判断をそこなわな いようにするのは、何とむずかしいことであろうか ! もし っている末端で、偉人に連なっている。なぜなら、偉人はい かに高く聳えていても、なおどこかで最下等の人間と結びつわれわれが「私はそれを美しいと思う」とか、「私はそれを 篇いている。彼はわれわれの社会からまったく遊離して空中に曖昧だと思う」とか、そのほかそれに類したことを言えば、 二懸っているわけではない。否、偉人がわれわれより偉大なのわれわれは、この判断に、相手の想像を誘いこむか、または 第は、彼がずばぬけて頭角をあらわしているからである。しか反対に、相手の想像を怒らせることになる。何も言わない方 し彼の足は、われわれと同じく低い所にある。偉人もわれわがましである。そうすれば、相手は、彼のあるがままの状態 いいかえれば彼のそのときの状態にしたがっ にしたがって、 れも、同じ水準にあり、同じ地上に立っている。この末端に
177 第七篇 一 0 このあとにも、パスカルが消している次のような数行がある。「それゆ たが、たまたま二人の夢が一致したとすれば、そして目覚めたときにどちら え、人間の状態は二重であると考えよう。それゆえ、人間は人間を無限に超 も単独であったとしたら、われわれは事態を逆のものと思いこむのではなか えており、信仰の助けをかりずには人間は人間自身にとって不可解なもので ろうか ? 要するに : あった、と考えよう。なぜなら、本性のこの二重の状態を知らなかったとき 七このことばから推して、この断章のはじめにドグマチスト ( 独断論者 ) には、われわれは自己の本性の真理について如何ともなしがたい無知のうち の立場の主要な強みを述べた文章が置かれていたはずである。 に置かれていた、ということを、誰れ知らぬ者があろうか ? 」 ^ デカルト『哲学の原理』第一部七「すべてこれらの事物についてそれが = 以下の四節はパスカルが線をひいて消している箇所である。 真理であるか否かをわれわれが疑うとき、そのわれわれが存在しないと考え 一 = 「箴言〕八章三一節。一三「ヨエル書」二章二八節。一四「詩篇」八二 ることはできない。なぜなら、考える者が、まさに考えている丁度そのとき 篇六節。一五「イザャ書」四〇章六節。実「詩篇」四九篇一二節、二〇節。 に、本当は存在しないのだ、と考えるのはあまりに矛盾したことである。ど 宅「伝道の書』三章一八節。 のように不条理な仮定がなされようとも、われわれは、この結論 C 品洋 0 ergo sum ( 私は考える、ゆえに私は存在する ) が真理であることを疑うわ e 一二五乙»-a 二〇八四〇一一 四三五 にーいかない。」このコギト・エルゴ・スムの思想はすでに古くアウグス 四三九 チヌスのうちに見いだされる。「神の国』一一巻二六章「私は存在する。私 このような神的な認識がなかったならば、人間たちは、彼 は私が存在することを知る。私はこの存在とこの知識を愛する。この三つは らの過去の偉大さの名残りともいうべき内的感情において自 私にとって最も確実なことである。汝は欺かれていたとしたらどうなるかと 己を高くするか、または彼らの現在の弱さを見て自己を卑下 いうアカデメイア派 ( 懷疑論者 ) の反駁を、私は恐れない。私が欺かれてい るならば、私は存在するからである。存在しないものは欺かれようがない。 するか、そのいずれか以外に何を為しえたであろうか ? な 私が欺かれているならば、それこそ私の存在の証拠である。それゆえ、私は ぜなら彼らは真理全体を見なかったので、完徳に到達するこ 欺かれているならば存在するのであるから、私の存在を信じることにおい とができなかったからである。或る人々は人間の本性を堕落 て、私が欺かれることがあろうか ? 」その他「自由意志について』二巻三 章、「独語録』二巻一章、「三位一体論』一五巻一二章などに示されている。 していないものと考え、他の人々はそれを回復しがたいもの 九このあとに次のような数行があるが、パスカルは線をひいて消してい と考えたため、彼らはあらゆる悪徳の二つの源泉である傲慢 る。「たしかに、このことは独断論や、ビロニスムや、またあらゆる人間的 か怠惰かを避けることができなかった。というのも、彼らは な哲学の力を超えている。人間は人間を超えている。それゆえ、われわれは ビロンの徒があれほどまでに叫んだことに同意しよう。それによれば、真怠情によって悪徳に身を委ねるか、傲慢によってそこから脱 理は、とうていわれわれの力に及ぶものではなく、われわれの獲物ではあり 却するか、それ以外に仕様がなかったからである。彼らは人 えない。真理はこの地上にとどまっていない。真理は天の召使いであって、 間の優秀さを知っていたにしても、その堕落を知らなかっ 神のふところに宿っている。神がそれを啓示しようと欲し給うかぎりにおい た。そのために怠惰を避けることはできたが、傲慢のうちに てしか、われわれはそれを知ることがでぎない。それゆえわれわれは、創造 されることなくして存在し肉となった真理 ( 訳注、キリスト ) から、われわ 自己を失った。あるいはまた、彼らは人間の本性の弱さを知 れの真の本性を教えてもらおう。 : : : われわれは、自然を窒息させることな っていたにしても、その尊厳を知らなかった。そのために、 しには、ビュロンの徒あるいはアカデメイア派となることができないし、ま 虚栄を避けることはできたが、絶望のなかに身を投じないわ た理性を棄てることなしには、独い論者となることができない。」
句の校訂については、その断章が『草稿原本』中にふくまれ にフォルチュナ・ストロウスキー、一九三八年にザカリー トウールヌーレ、 一九五一年にルイ・ラフマ等によるそれているかぎり、直接これに依拠していることはいうまでもな いが、草稿に見られる書き直しゃ抹消の箇所についても、ト それ権威と特色をもった諸版が刊行されている。ことに、ト ゥールヌール版に劣らぬ忠実さをもってこれを再現してい ゥールヌール編、エディシオン・ド・クリュニー刊の二冊本 は、主として「第一写本』の分類に準拠して『パンセ』の新る。さらにその翌年、ラフ = マは一冊本の = ディシオン・ア 版を編纂し、パスカル自筆の草稿における抹消や書き直しゃンテグラル ( 完全版 ) をデルマスから刊行した。これは『第 加筆のあとを、活字で示しうるかぎりの方法で再現しようと一写本』の一。ヘージから一八六ページまでに示されている分 企てたものであり、草稿の解読の正確さ、校訂の厳密さにお類とその見出しをそのまま生かし、他の大部分の断章を、編 いて、『。 ( ンセ』の原典研究に画期的な寄与をなした。この者自身の判断にしたがってこの分類のもとに編入したもので 版本の大体の構成は、第一巻に、『第一写本』の一ページ かある。ただ、「弁証論」に直接関係がないと判定される断章 ら一八八ページまでの断章を収録し、第二巻第一部に、『草は、これを第一一部として最後に集めている。この一冊本は、 稿原本』中に含まれるが『第一写本』によっては保存されな完全版と銘うってはあるものの、仔細に照合し検討していく と、字句の校訂や断章の分類排列に関して必ずしも周到な配 かった断章を、同第一一部に、『第一写本』の三一三ページか ら四七二ページまでの断章を、同第一二部に、『第一写本』の慮がなされているようには思われないふしもある。 一九一ページから三〇八ページまでの断章およびその他の典 ところで『草稿原本』 ( ル・ルクーユ・オリジナル ) という 拠に由来する断章を収録するという方式で、トウールヌール のは、現在、パリの国立図書館に所蔵されている「フランス 自身がそれに若干の整理を加えたものである。 部、手書本九一一〇一一番」がそれで、これにふくまれている草 ついで一九五一年に出たラフュマ編、エディシオン・デュ・ 稿の大部分はもちろんパスカル自筆のものであるが、若干は 別人の筆蹟、おそらくパスカルが病床にあったときロ述して リュクサンブール刊の三冊本は、第一巻が原典篇、第二巻が 側近の人に筆記させたもの、またはそれにあとからパスカル 注釈篇、第三巻が資料篇となっており、原典篇ではトウール 自身が部分的に加筆したと見えるものもふくまれている。こ ヌール版の方法をいっそう徹底させ、『第一写本』をパスカ ルの死の直後に見いだされたままの草稿の状態であると断定の『草稿原本』は草稿を糊づけした大判白紙四九六ページか ら成り、四十の分冊を一巻に製本したものである。これは、 し、『第一写本』の順序にしたがって『パンセ』の断章を排 列し、それに洩れている『草稿原本』中の断章、その他の典最近のトウールヌールおよびラフ = マの研究が確認したとこ ろによると、パスカルの草稿の大部分を保管していた甥のア 拠に由来する断章を、最後に収録している。原文の解読や語
ると言う。プラトンは、 : : : 霊魂のうちには、幾たびもの旅で、それが行っ 言うことほど、不合理なことがあろうか ? 無感覚で、生命 たり、来たり、滞在したりした天国や地獄やこの世の事柄についての不思議 もなく、生命をもっことさえもできない物体が、どうして情 な知識、すなわちその想起の題材がある、と言う。 : : : われわれの霊魂に関 念をいだくことがあろうか ? そういう情念は、少なくとも して、われわれが人間的な知識から引き出した立派な教えは、以上のごとき ものである。」モンテー : の用いたと思われる典拠は、主としてキケ。「ツそれを感じるだけの感覚力を有する魂の存在を前提とする。 スクラヌム論叢」、ディオゲネス・ラエルチオス、ルクレチウス、その他の しかもその嫌悪の対象が真空であるとは、どうしたわけであ ラテン詩人、時にはアウグスチヌス、セクストス・エンべィリコス、近くは ろうか ? 真空のなかに、物体を怖れさせる何かがあるのだ ジュスト・リプス等である。 ろうか ? ・これほどばかげた笑うべきことがあるだろうか ? , 一ニキケロ「ツスクラヌム論叢』一巻二章。 一三版、版にしたがう。 しかもそれだけでなく、物体はそれ自身のうちに、真空を避 e 四八一一 >-a 四〇八四〇八八ける連動の原理をもっているというのである。物体は、腕 七四 や、脚や、筋肉や、神経をもっているであろうか ? 「人間的知識や哲学の愚かさについて」の手紙。 一この断章は『草稿原本』にあるが、「第一写本』にも「第二写本」にも この手紙を「気ばらし」の前に。 ない。フォージェール以後の諸版に収められている。 ••Nihil admirari. Felix qui potuit, = この略号は、「第一部、第二巻、第一章、第四節」の意味であろう。こ れは、発表されなかった「真空論』の章節を示したものであろうと推測され モンテーニュに出てくる一一百八十種の最高善。 ている。ポッシュ編「パスカル著作集」は、パスカルの二つの科学論文「流 一前章の注四、五を参照。「事物の原因を究めた者は幸いである。」「何も 体の平衡について』および「大気の重さについて』のあとに、「真空論断片」 のにも驚かないことこそ幸福を生み幸福を保つ唯一の道である。」 を収めたが、それには次のような表題が付されている。「同じ問題に関する 一一前章の注七を参照。 パスカルのいっそう長い別の著作の断片。この著作は、部、巻、章、節、項 * * * e 五二一»-a 四七九三 0 三 七四乙 に分れていたが、彼の原稿のなかからは、この断片しか見いだされなかった 哲学者たちにとっては、二百八十の最高善。 ものである。これは、その第一部、第三巻、第一章、第二、三節に当る。」 一この断章は「草稿原本』には欠如しており、「第一写本」に依拠するも パスカルの企図していた「真空論』は、思うに散佚したのでなく、パスカル のである。 自身が途中で予定を変更し、もっと圧縮された形、すなわち「流体の平衡に 二九五 s-a 九六〇七六一 ついて」および「大気の重さについて」にまとめたのであろう。この二論文 七五 一九一 は、パスカルの死後、一六六三年に刊行された。 篇 Part I, 1. ド c. I 》 Section 4. 三この箇所はパスカルが書いたあとで消している。「臆説」というのは、 「自然は真空を怖れる」という臆断 ( 思い做し ) のことをいうのであろう。 一一〔臆説。さらに一段と引き下げて、それを笑うべきものとし 「検討してみてもーの箇所は版、版の読みにしたがう。「自然は真空を怖 第て示すことも、むずかしくはないであろう。 れるというような臆断はそれだけとしてみても笑うべきものである」という なぜなら、それをそれだけとして検討してみても。〕 ようなことをパスカルは書こうとしたのであろう。 四「流体の平衡について」および「大気の重さについて」の「結論』にい 霊魂をもたない物体が、情念や恐怖や嫌悪をいだくなどと
148 一この「包む」という語 comprendre はいうまでもなく「理解する」とい びやかす剣がどこにあろうか ? もし人が、一種の熱狂的な興奮によって、 う意味をふくむ。ドイツ語でいえば umgreifen であると同時に begreifen あるいはガリラヤ人たちのように習慣の力によって、そのような気持をいだ である。 くようになるとすれば、推理と論証のみちによっても、人はそういう真理に 一〇九一一五二一九 徹することができるのではなかろうか ? 」ここで「ガリラヤ人」と呼ばれて 三四九 三五六 いるのはキリスト教徒のことである。 自己の情念を制御した哲学者たちょ、 霊魂の非物質性。 四五三八二九一五五 »-a 三二一 いかなる物質がそれをよく為しえたであろうか ? これらの偉大な精神的努力は、霊魂が時としてそれに触れ 一明らかにこれはストア派の哲学者を指したものである。シャロンは『知 ることのできるものではあるが、霊魂がそこに長くとどまっ 恵について』のなかで情念を制御したストア派の哲学者たちを称讃している が、彼らによれば、情念はわれわれがそれに同意を与えるかぎりにおいてのていることのできないものである。霊魂はただそれにとびつ み、われわれのうえに力を及・ほすにすぎない。しかるに、われわれはわれわ くだけである。しかも、王座につくようにいつまでもという いいかえれば、われわれが情念に れの判断については絶対的に自由である。 わけではなく、ただ一瞬のあいだにすぎない。 屈するか、それとも情念を抑刪してわれわれの存在を調和あるシステムたら 一モンテーニュ『随想録』二巻二章「われわれがストア的なこれらの飛躍 しめるかは、われわれの自由である。ストア派の哲学者たちは、神や霊魂を に達するとき、 : ・それは勇気がそのつねの宿りから突出したものである 微細な火であると考えた点では、なるほどマテリアリストであるが、そのモ と、誰が判断しないであろうか ? 」二巻二九章にも同様の思想が述べられて ラルは、パスカルの眼から見れば、内的意志の独立性を主張する点で、霊魂 いる。「過去の時代の英雄たちの生涯のなかには、時として、われわれの自 の非物質性を立証していると思われたのである。 然的な力をはるかに超えた奇蹟的なひらめきがある。けれどもそれは、事 一三八一四六—二八四 三五〇 三七四 実、ひらめきにすぎない。そのように高揚された状態で霊魂を染め、霊魂に 彼らは、人がときおり為しうること ストア派の人々。 とってそれが平常の自然的状態であるようにさせることは、とうていできそ うにない。われわれだって、たまには、他人の言説や模範によってわれわれ を、つねに為しうると結論し、名誉欲はそれに取りつかれて の霊魂を目ざめさせ、それを平常よりもはるかに高く飛び上らせることもあ いる人々に何ごとかを為させるがゆえに、そうでない人々の る。けれどもそれは一種の情熱が霊魂を発動させるのであり、情熱が霊魂を だが、それは、健康な 場合も同様であろうと結論する。 われわれの外に奪い去るのである。この旋風が過ぎ去ると、霊魂はそれと知 らぬまにひとりで弛緩してしまう。 : : : 」 人には真似のできない熱病的な動きである。 四一五 p-a 七二四七一一 工。ヒクテトスは、堅固なキリスト教徒があるということか 三二二 ら、誰でもキリスト教徒になれると結論する。 一人の人間の徳がどれほどのものであるかは、その人の努 一ェビクテトス「語録』 ( ディアトリ・ハイ ) 四巻七章にいう。「貝穀で遊ん 力によってではなく、その人の平常によって測られなければ でいる子供たちが遊びに熱中しながらも貝殻そのものを欲しがらないのと同 ならない。 様に、この人が自分のたずさわっていることがらにもはや重きを置かず、た だ遊ぶべき遊びをよく遊ぶためにのみそれにかかわっているとしよう。すれ 一モンテーニュ『随想録』二巻二九章、前注の箇所につづいて、「それゆ どこに暴君がいようか ? どこに衛兵がいようか ? このような人をお え、と賢者は言う。一人の人間を正しく判断するには、主として、その人の
59 第 真理と正義はきわめて微妙な二つの尖端であって、われわ れの道具はそれにびったり触れるにはあまりに磨減しすぎて いる。かりに届いたにしても、尖端をつぶして、そのまわり ふつかる。 に、真よりもむしろ偽に、、、 〔それゆえ人間は、かくもおめでたく出来ているので、真に ついては何ら正しい原理をもたず、偽については多くのすぐ し力に・ : ・ : であるかを れた原理をもっている。さしあたり、、、 見よう。〕 〔しかし、それらの誤謬の最も面白い原因は、感覚と理性と のあいだで行なわれる戦いである。〕 一この断章にはモンテーニュの影響がつよくあらわれている。特に『随想 録』二巻一二章、三巻八章と密接な関係がある。 = 版、 *-•; 版にしたがう。版では欺瞞的部分と読んでいる。 三モンテーニュ『随想録』三巻八章「世間のありさまを見ていていつも気 ーし力に・目己 づくことであるが、われわれの自惚れを挫くことを好む運命よ、、、 が万能であるかを示すために、徳と対抗して、愚者を幸福にさせる。という のも、さすがに愚者を賢者たらしめることはできなかったからである。 さらに、理性が適度に自己を楽しんでいるのならばまだしも、暗愚が自分で ひとりよがりをしているくらい、腹の立っことはない。」 四同二巻一二章「試みに、一人の哲学者を、細い針金で粗く編んだ籠に入 れ、ノ 1 トル・ダム・ド・ パリの塔の頂上からぶらさげてみるがいい / は、明白な理性によって、けっして落ちる心配のないことを知るであろう。 だが、この極端な高所から見おろすならば ( 彼が屋根屋の職に慣れていない かぎり ) 、恐怖と戦慄におそわれるのを防ぐことはできないであろう。 また、そういう二つの塔のあいだに、われわれが十分にその上を歩いて渡れ るほどの太さの丸太を、一本、懸け渡してみよう。 いかに堅固な哲学的知恵 をもっていても、われわれは、地上に丸太が置かれているときのような態度 でそこを渡って行く勇気をもっことはできない。」 工「演説や詩を効果の点で変える」っまり「演説や詩の効果を変える」の 意に解する。次行の「裁判の局面を変える」についても同様。同二巻一二章 「これは人が私にそう思いこませようとしたことだが、われわれフランス人 が誰でも知っている或る男は、自分の作った詩句を吟誦して私を感動させた が、それらの詩句も紙上で見ると、耳で聞くほどのものではなく、私の眼 は、耳とは反対の判断を下すであろう。それほど朗縁は作品を意のままに し、それに価値と風情を与える力をもっている。」 大同二巻一二章「あなたが訴訟の一件をただ単に弁護士に話す。彼はあや ふやな疑わしい答えをする。どちら側を支持するのも、彼にとっては同じこ となのだ、とあなたは感じる。彼に食いっかせ、彼に義憤を起させるに十分 な報酬を支払っていたなら、彼はその話に身をいれるようになり、熱意を示 したであろう。同時に、彼の理性と彼の知識も熱を帯びてくるであろう。そ こではじめて、疑いえない明白な真理が、彼の悟性の前にあらわれる。彼は そこにまったく新たな光を見いだし、本気でそれを信じ、事実その通りだと 思いこむ。」 セ同三巻八章「さらに、われわれの知恵も、熟慮も、多くの場合、偶然の 導くままにしたがう。私の意志や私の理論は、時にはかなたへ、時にはこな たへと、吹き流される。しかも、そうした運動の多くは、私にかかわりな く、勝手に動く。私の理性は、日々の偶然的な衝動と動揺をもっている。」 ^ 版、版にしたがう。版は「真と偽とを」と読んでいる。 九版にしたがう。なお、以上括弧に入れた三節は、パスカルが書いたあ とで抹消している箇所である。なお、「むしろ、いつもその反対である」の 箇所には「かえって、想像力は、しばしば、理性を完全にその座席からひき ずりおろす」と書いて消したあとがある。版はこの読みの方を採用してい る。 一 0 ラ・ロシュフコー「箴言集』二五七にいう。「物々しさは、精神の欠陥 を隠すために考え出された身体の秘密である。」 = 「毛皮をつけた猫」 chat-fourréは、裁判官を卑しめていう名称。 一ニ des robes trop amples de quatre parties の de quatre parties を、 トウールヌールは des quatre cinquiémes と洋一しているがリトレによ、れ・は en totalité,tout fait の意。したがって単に「全体的にゆったりした服」 、、。ただし、トウールヌール流に解するならば「すその長いゆっ と解してし たりした服」ということになる。 一三版、 *-; 版にしたがう。
247 第九篇 き歴史書で、・ハ・ヒロン捕囚中のユダヤ民族がクロスの・ハビロニア征服ととも に許されて帰国するところから筆を起している。 ( Ⅱ ) 第二は、ラテン語訳 では「第三工ズラ書」と呼ばれ、旧約外典 ( アボクリファ ) のうちにおさめ られているもので、ギリシア語訳はこれを「第一工ズラ書』と呼んでいる。 ( 邦訳では、聖公会訳の「旧約聖書続篇」のなかの「エズラ第一書』がこれ に当る。 ) 内容からみると、これは「歴代志略』「エズラ書』「ネヘミャ記』 に材料を取り、ヨシア王からエズラの律法朗読にいたるまでの歴史を、一種 の知恵文学的立場から叙述したものである。 ( Ⅲ ) 第三は、ラテン語訳で「第 四工ズラ書』と呼ばれているもので、その成立年代は明らかに紀元後であ り、旧約偽典 ( 。フセサドエビグラファ ) に属する。 ( 前記邦訳では「エズラ 第二書』がこれに当る。 ) これは全部で十六章から成っているが、はじめの 第一、第二章と終りの第十五、第十六章とは後から付加されたものと見ら れ、前者を「第五工ズラ書」、後書を「第六工ズラ書』とも呼ぶ。そして特 に第三章ー第十四章の部分を「第四工ズラ書』と呼ぶ場合もある。内容から みると、この部分はエルサレムの減亡と世界の終末を黙示的に描いたもの で、黙示文学の一種である。これは紀元後一〇〇年前後にユダヤ人によって 書かれたものと推定される。 したがって、パスカルが六三二、 六三四の三つの断章で批判している「エズラーは、この『第四工ズラ書』の ことである。 = エルサレムの王宮とエホ・ハの神殿が、・ハビロニア王ネ・フカドネザルの軍 隊によって焼かれたのは紀元前五八六年五月である。「列王紀略下』二五章 八、九節、「エレミャ記』五二章一二ー一四節。しかし旧約聖書には、律法 の書が焼かれたとはどこにも記されていない。しかるに、「第四工ズラ』 ( 邦 訳「エズラ第二書」 ) 一四章二一節によれば、「汝の律法焼かれたるがゆえ に、汝のなしたまいし御業、汝のなさんとしたもう御業をわきまうるものな し。」ということになっている。 三「マカべャ第一一書』二章二節「この予言者 ( エレミャ ) は、囚われ行く 人々に律法を与えて、主の誡命を忘るることなきよう命じたり。」この点で 「第四工ズラ書」の記述はくつがえされる、とパスカルは考えたのであろう。 四「第四工ズラ書』一四章によれば、エズラは焼失した律法の書を再興す るために、エホ・ハの命令にしたがい、五人の書記を伴って荒野に行き、霊感 の杯を受けて律法の書に関するすべての記憶をとりもどし、それを暗誦しは じめたという。一四章四〇ー四一節「われこれを受けて飲みしに、飲みしと きわが心にさとり起り、わが胸のうちに知恵おこれり。そはわが霊、記億を 保ちたればなり。わがロは開かれて、もはや閉じず。」 しかるにヨセフスの「ユダヤ民族古代史」によっても、「第二工ズラ書」 ( すなわち旧約聖書の「ネヘミャ記しおよび「第三工ズラ書」 ( すなわち邦 訳旧約聖書続篇のなかの「エズラ第一書」 ) によっても、右の「第四工ズラ 書』の記述はくつがえされる。ョセフス「ユダヤ民族古代史』一一巻五章。 「第二工ズラ書』 ( 「ネヘミャ記」 ) 八章二、三節「この日すなわち七月一日、 祭司工ズラ、律法をたずさえ来りて、その集りおる男女およびすべて聴きて さとることをうるところの人々の前にいたり、・ : : ・これを読めり。民みな律 法の書に耳を傾く。」また「第三工ズラ書」九章四〇、四一節「大祭司工ズラ、 ・ : 男女の全群およびすべての祭司たちに聴かしめんがため律法をたずさえ 来れり : これを読みしに、群衆はことごとく律法に心をとめたり。」 大 ・ハロニウス ( 1538 ー 1607 ) は教皇クレメンス八世の書記官長、枢機卿、 ヴァチカン図書館長をつとめた人で「教会年代記』 ( 一一九八年まで ) の編 者。「一八〇」というのは「キリスト紀元一八〇年」の略である。 セ「第四工ズラ書』一四章四一節「いと高き者その五人に知恵を与えたれ ば、彼らいまだ知らざる文字をもて、その聞かされしことばを順序によりて 書き記せり。 ^ 「モーセ伝』二巻。なお、「七十人訳」 ( セプトウアギンタ ) というのは、 プトレマイオス二世 ( 在位紀元前二八四ー二四七年 ) 治下のアレクサンドレ ィアで、七十二人のユダヤ教学者によってギリシア語に翻訳された旧約聖書 のことである。 九「ユダヤ民族古代史』一二巻二章。 一 0 シリア王アンチオコス・エビフアネス ( 在位紀元前一七五ー一六三年 ) 。 前一七〇年エルサレムを占領、神殿を汚し、律法の書の焼却を命ずるなど、 ユダヤ教徒を迫害したため、マテチアス、ユダス・マカ・ハイオス等の叛逆を まねく結果となった。断章六三〇参照。「マカべャ第一書』一章。 = ヴェスパシアヌス。紀元六七年皇帝ネロの命でユダヤ征討軍の司令官と なり、ネロの没後、六九年、ロ 1 マ皇帝の位に即いた ( 在位六九ー七九年 ) 。 その子ティッスは父のあとを継いでユダヤ征討軍を指揮し、七〇年エルサレ ムを陥落させ、これを徹底的に破壊した。 一一一版、»-a 版の読みにしたがう。 一三テルトウリアヌス「女の身だしなみについて」一巻三章。。ハスカルがこ
149 第六篁 平生の行為をしらべ、彼をその日常の姿でとらえなければならない。」また る。 三巻二章に「霊魂の価値は高く飛ぶところにあるのではなく、平常どおりに 世紀から世紀にわたる人間の発明も、同様な進みかたをす 行くところにある。霊魂の偉大さは、偉大さのうちにではなく、平几さのう る。世間一般が善くなるのも悪くなるのも、また同様であ ちにあらわれる。」 e 三九一六八一一一二九 三一三 「多くの場合、変化は貴人に喜ばれる。」 一つの徳、たとえば勇気を、どんなに極度に持っていて 一モンテーニュ「随想録」一巻四二章に引用されているホラチウスの詩 も、極端な勇気と極端な寛大さとをあわせ持っていたエバミ ノンダスに見られるように、同時にその反対の徳を極度に持 e 四三四»-a 七七一九六一 三五五 三一九 = オしなぜなら、 っているのでなければ、私はそれを称讃しよ、 雄弁がつづくと、退屈になる。 もしそうでないならば、それは上昇でなく、下落だからであ 君主や国王はときおり遊楽する。彼らはつねにその王座に る。人は一つの極端にあるからとて、その偉大さを示すもの いるわけではない。彼らはそれに退屈する。偉大さを感じる ではない。むしろ同時に二つの極端に達し、その中間をすべ には、それから離れる必要がある。連続は、何ごとにおいて て満たすことによって、それを示すものである。けれども、 も不快の念を起させる。あとでからだを温めることができる それは一つの極端から他の極端への霊魂の急激な運動にすぎ ならば、寒さもまた快い。 ないかもしれない。霊魂は、実は、たいまつの火のように、 自然は、往と還という進み方で動く。自然は往き、また還 一点にあるだけにすぎないかもしれない。それなら、それで る。ついでさらに遠くに往き、また一一倍だけ還り、それから いい。だが、そのことは、霊魂の広さのしるしでないまで さらに遠くへ往く。 、少なくとも霊魂の速さのしるしではある。 海の潮汐もそういうふうにおこなわれ、太陽もそのように 一モンテ 1 ニュ「随想録』二巻三六章「最もすぐれた人物は、私の考えで = ・ ( ミノンダスである。」また三巻一章に「私はかって = 。 ( ミノンダス運行するように見える。 一「草稿原本』では、この最後の行のあとにジグザグの線が描かれている。 をすぐれた人物の第一位に置いた。 : : : 彼は人間の最も粗暴な行為に、善意 」三五〇五一四九二一 と人情味を結びつけた。」 P-«三二〇 e 二四二七—六四 p-* 三一八 三五四 身体の栄養は少しずつである。多量の栄養物と、わずかの ム間の本性は、つねに往くとはかぎらない。それは、往き 滋養。 もすれば、還りもする。 一モンテーニュ「随想録」一巻二五章「どんなに肉をたらふく食っても、 それが消化されず、われわれの身にならないならば何の役に立とうか ? 」 然病には、悪寒のするときと、ほてるときがある。寒け e 四三八 >-a 七八三九四三 三五七 は、暑さそのものと同様に、熱病の熱の高さを示すものであ »-a 三二四 句。
一クロンウエルは一六五八年九月十三日、膀胱結石のためでなく、熱病で 偉大な人にとっても卑小な人にとっても出来事は同じであ 死んだ。当時そのようながあったものと思われる。チャールス二世が復位 る。不満は同じであり、情欲も同じである。しかし一方は車 したのは一六六〇年五月二十五日であった。 輪のふちにおり、他方は中軸の近くにいる。だから、同じ連 e 五九六二一一〇一三四 一七七 動によっても少ししか動かない。 〔三人の主人〕イングランド王、ポーランド王、スウェーデ 一モンテーニ = 「随想録』二巻一二章「皇帝の霊魂も靴屋の霊魂も同じ鋳 ソ女王から愛顧を受けていた者たちは、この世に隠れ家も逃 : ・われわれが隣人と喧嘩するのと同じ理由で、王保は戦争 型で作られる。 を起す。・ : ・ : 彼らもわれわれと同様軽はずみに心を動かすが、その為すとこ げ場もなくなるような時が来ると思ったであろうか ? ろは大きい。同じ欲望が、だにと象を動かしている。」 一これはパスカルが消した箇所であるが、 E* 版は hötes を tétes ( 頭首 ) e 五一五六一〇四 m-2 一六四 と読んでいる。 ニイングランド王チャ 1 ルス一世は一六四九年に斬首され、スウェーデン われわれはかくも不幸なので、一つのことを楽しむときに レ ホーランド王ヨハン・カシミ 1 女王クリスチナは一六五四年に譲位した。。 も、それがまずい結果になると困ると思って、気にせすには は一六五六年に廃せられたが、同年中に復位した。パスカルが結びつけたこ の三人の名は、ラ・ロシュフコー「反省雑記』 ( レフレクシオン・ディヴェ いられない。無数のことがらが、まずい結果になりうるし、 ルス ) の一七章「今世紀の出来事について」のなかでも、同様に対照させら また事実、そうなっているからである。もし幸福を楽しみつ れている。 つ、その反対の災いによって悩まされすにすむ秘訣を見いだ 二七 0 »-a 三二〇五九七 した人があったならば、たいした発見であろう。だが、それ マクロビウス。ヘロデによって虐殺された嬰児について。 は無窮の運動のようなものだ。 一第四世紀の終りから第五世紀のはじめにかけて生きた学者。「スキビオ 一上述の理想が、人間の現実的状態と両立しないのは、無窮の運動という の夢』「サツルナリア」 ( サツルヌス集 ) の二書によって知られる。 理想が、地上の運動的条件と両立しないのと同様である。 一一「マタイ伝』二章。 三八三 >-a 六四〇三〇七 一 e 四二八七五三六一二 一六五 一七九 二二五 困った事件のときでもつねによい希望をもち、幸福な冒険 ヘロデが命じて殺させた二歳以下の嬰児のうちに、ヘロデ 自身の子がいたと聞いたとき、アウグスッスは、〈ロデの子を楽しんでいる人たちが、もし災いな冒険にも同様に悩まさ 篇であるよりも、〈ロデの豚である方がましだと言った。マクれないとしたら、彼らはむしろ事件の失敗を喜んでいるので はないかと疑われる。彼らはそのような希望的口実を見いだ ロビウス「サツルナリア』二巻四章。 第 一この断章は『草稿原本』に欠如しており、「第一写本』に依拠するもの して有頂天になっているが、それは彼らがそれに興味をもっ である。 ていることを見せるためであり、また自分がそれについて懐 四〇四七〇五二五八 いているようなふりをしているいつわりの喜びによって、事 一八〇 一三三