キリスト教 - みる会図書館


検索対象: 世界の大思想8 パスカル
455件見つかりました。

1. 世界の大思想8 パスカル

214 には人間のあらゆる本性を、一般的には世界のあらゆる動き を、説明することができるはすである。 以上のような論拠を、彼らはキリスト教を誹謗するときの 理由とする。というのも、彼らはキリスト教を誤解している からである。彼らは、キリスト教が、単に、偉大なもの全能 なもの永遠なものとして考えられた神を礼拝するところにの * * * 五〇三四四九一七六〇一一 五五六 み存すると、思い做している。そのようなものは、実をいう ・ : 彼らは彼らの知らないものを誹謗している。キリスト と、理神論であって、キリスト教とかけ離れている点では、 教は二つの点から成り立つ。その二つを知ることは、人間にその正反対である無神論とあまり違わない。しかし、そこか とってひとしく重要であり、その二つを知らないことは、ひら彼らは結論して、この宗教は真ではないと言う。というの も、神は、神のなしうるかぎりの明らかさをもって人間に神 としく危険である。そして、これらの二つのしるしを与えた 自身を示現しているのではない、 というこの点を、すべての のは、ひとしく神の慈悲から出たことである。 しかるに、彼らは、それら二つの点のうち一方の肯定を彼事物が協力して確立しているにもかかわらす、彼らはそのこ とを見ないからである。 らに結論させる論拠を、他方の否定を結論するための理由と 彼らは理神論に対してならば、、 しくらでも好きなようにそ するのである。ただひとりの神のみが存在すると告げた賢者 しかしキリスト教に対しては、彼 たちは、迫害された。ユダヤ教徒は憎まれた。キリスト教徒こから結論を出すがいい はそれよりもさらに憎まれた。彼らは、もし地上に一つの真らはそこからいかなる結論をも出すことができないであろ う。キリスト教は、本来、贖い主の秘義のうちに存するので なる宗教が存在するならば、すべての事物の動きは、あたか もその中心に向かうようにこの真なる宗教に向かうはずであある。この贖い主は、自己のうちにおいて、二つの本性すな ることを、自然的な光によって見たのである。事物のすべてわち人間性と神性とを結合しており、人間を罪による堕落か ら救い出し、その神格において、人間を神と和らがしめるの の動きは、かかる宗教の確立とその偉大さとを目的とすべき である。 はすである。人間は、この宗教がわれわれに示すことがらに 合致する感情を、自己のうちにもっているはすである。要す それゆえ、キリスト教は、人間に対して次の二つの真理を るに、かかる宗教は、すべての事物の向かうべき中心であり同時に教える。ひとりの神が存在し、人間はこの神を知るこ 目的であるはずであるから、それの原理を知る者は、特殊的とができるということ、人間の本性のうちには堕落があり、 第八篇

2. 世界の大思想8 パスカル

178 けル」い、刀ュ / , 刀 4 / このような天の光を信じ、それを崇拝することを、いった そういうところから、種々の異なる学派、たとえば、スト い誰が拒否しえようか ? なぜなら、われわれがわれわれ自 ア派とエ。ヒクロス派、独断論者とアカデメイア派などが生ま身のうちに、消すことのできない優れた特徴を感知している れてくる。 のは、日の光を見るよりも明らかなことではあるまいか ? また、われわれがわれわれのなさけない状態の結果をつねに ただキリスト教だけが、これら二つの悪徳をいやすことが できた。それも、地上の知恵によって、一方のカで他方を追経験していることも、同様に真実ではあるまいか ? してみると、この渾沌とこの奇怪な混乱とは、それら二つ い出したのではなく、福音の単純さによって、一をも他をも の状態が真実であることを、言いさからうことができないほ 追い払ったのである。なぜなら、キリスト教は、正しい人々 を神性にあずかりうるまでに高めるが、その至高の状態にあどカづよい声で、われわれに告げ知らせているものでなくし て何であろうか ? っても、なお彼らのうちには堕落の源泉がひそみ、そのため 一このあとに数行、いったん書いて消した文章がある。 に彼らは生あるかぎり誤謬と悲惨と死と罪におちいることを = この付近はかなり文章を推敲したあとが見える。 まぬがれえないものであることを教えるとともに、最も不信 二五 >-a 二八六五一九七 四三六 仰な人々に対しては、彼らとても、なお救い主の恩寵にあず 弱さ。ーーー人間のあらゆるいとなみは、善を得ようとする かることができるということを告げ知らせるからである。か ところにある。しかも人間はその善を所有するのが正当であ くしてキリスト教は、その義とする人々をおののかせ、その ることを証明するだけの資格をもっことができそうにもな 罪する人々を慰めつつ、恩寵にもあすかりうるし罪にもおち い。なぜなら、人間は、人間的な気まぐれしかもっていない いりうるという万人に共通なこの二重の可能性によって、布 からであり、善をしつかりと所有するだけの力をもっていな れと希望をかくも正しく調節し、それによって、単に理性だ いからである。それは学問についても同じことである。病気 けがなしうるよりも無限に低く人々をへりくだらせるが、し になれば、学問どころではなくなるからである。われわれは かも絶望にまではいたらせず、また本性の自尊心がそうさせ 真理についても善についても無力である。 るよりも無限に高く人々を引き上げるが、しかも驕慢にまで 一六五九年の夏頃からパスカルの健康状態は悪化し、彼はペンを執った はいたらせない。その点から見て、キリスト教だけがひとり り書物に向かったり、或いは少しでも頭をつかうことを医者から禁じられる までになった。一六六〇年五月、彼は保養のため郷里クレルモンに帰省し 誤謬と悪徳をまぬがれているのであるから、人々を教え導く た。同年八月に、トウールーズ在住の数学者フェルマに宛てて書き送った・ハ ことのできるのはキリスト教以外にないということが、明ら スカルの手紙によっても、病気が彼を幾何学の研究から遠ざからせたことが 知られる。 かになるであろう。

3. 世界の大思想8 パスカル

人その人の性向を十分に考慮したうえで勧められなければな らな、 サシとパスカルよ、、 カくしてたがいにおなじ結論に到 若いときからその科学的業績によってフランス国内ばかり ~ しこ。こ。こ、、、 ト・サシはキリスト教の明白な考えから直ちでなく国外にまで名を知られていた。 ( スカルの入門を、ポー にそこに到達したのにひきかえて、パスカルはこれらの哲学 ル・ロワイヤルの人々は特別の感激をもって迎えいれた。こ 者たちの原理に対する愛着からかなり遠廻りをしたのちそこ のような高邁な精神が謙虚にもイエス・キリストの軛のもと に到達したという差異があった。 に服従したことは、神の恩寵の働きが直接彼らの上に加えら われわれがパスカルの「パンセ』と呼んでいるものは、これたにも等しい出来事であった。感激は。ハスカルにとっても の対話の日から約三年後にパスカルが『キリスト教の弁証同様であった。かって世俗の生活において求め得なかった真 論』の著作を思い立ったとき以来、その執筆の材料に利用すの平安を、いまやこの寂しいポール・ロワイヤル・デ・シャ るために折にふれて書き集めた一千に近い断章から成り立っ ンにおける隠士たちとの共同生活のうちに求め得たことは、 ているのであるが、そのような断章の形で残された未完成キリスト教的な徳の実践に向かって彼をはげました。 の『弁証論』に見られる基本的な構想の一つが、すでにこの いわば客 しかし彼は正式の修道士になったわけではなく、 『ド・サシ氏との対話』のなかに示されていることは注目に員としての資格でポール・ロワイヤルの門に入ったのであ 値いすることである。すなわちそれは、人間を偉大と悲惨と る。したがって彼はかなり自由な立場に置かれていた。彼は の二重性において捉え、この相反の源泉をイエス・キリスト その後しばしばパリの自宅に戻り、またポール・ロワイヤ の二つの本質、いいかえれば十字架の死にまで辱かしめられル・ド・ 。ハリにも出入した。そして新たな興味をもって聖書 た神のうちに見いだし、独断論者と。ヒュロンの徒、ストア派や教父たちの著書を研究した。 とエピクロス派等、相互に対立する諸学派の偏頗な思想が、 ポール・ロワイヤルの客員となってから一年とたたないう 福音の光に照らされてはじめてそれぞれの存在理由をもちうちに、パ スカルはジェズィットとジャンセニストのあいだに る、という思想である。事実、『パンセ』の断章のうちには、応酬されはじめた大論争の渦中に、自分自身が置かれる運命 『ド・サシ氏との対話』とまったく符合する思想が随所に見になった。ジャンセニウスの問題の著書『アウグスチヌス』 いだされる。 ( 一六四〇年 ) は、つとにソルポンヌの教授たちからはげし い攻撃を受けていた。ポール・ロワイヤルの論客アントワー ヌ・アルノーは「ジャンセニウスのための弁護』 ( 一六四四

4. 世界の大思想8 パスカル

419 解説 が完了し、・ ( スカルの甥エチェンヌ・ペリエがその序文を執 筆した。 一六六九年六月あるいは七月に、教会の出版許可を受ける ために司教および博士たちに提出する検閲用として、また編 纂委員やペリエ家の人々の勘校用として、三十部ばかりの見 本が刷り上った。これに対して、教会の検閲当局は若干の修 正と二、三の削除を要求したにすぎなかった。この最初の見 本刷は厳密にいえば版本と称すべきものではないであろう。 しかしその僅かな部数の見本刷のうち、現在、一部がパリの国 立図書館 ( B. N. Res. D. 21374 ) に、他の一部がトロワ図書 館 ( B. deTroyes,D. G. 1874 ) に保存されている。ついで翌 一六七〇年一月十五日、。 ( リのギョーム・デブレ書店 (Guil ・ laumeDesprez) から、いわゆるポール・ロワイヤル版『パ ンセ』の初版が発行された。印刷の日付は一月一一日となって いる。これは十一一折本で、表題、序文、司教および博士たちの 出版許可書、国王の認可状抄本、正誤表、小序につづいて、『パ ンセ』の本文は一ページから三六五ページにわたって収録さ れており、最後に内容目次が付せられている。それによると、 選択された諸断章が次の三十一一の主題に分類されている。 一無神論者たちの無関心を駁す。 二真の宗教のしるし。 三人間のうちに存するかずかずの相反と、原罪とによ って証明せられた真の宗教。 四神がわれわれに結びつくということは、信じがたい ことである。 五理性の服従と運用。 六推理によらない信仰。 七キリスト教の教えるところを信じないよりも、それ を信じる方が有利であるということ。 八推理のみによって神を求めることに倦み、聖書を読 みはじめる人間の姿。 九人間の不正と堕落。 一〇ユダヤ人。 一二象徴。 一三律法は象徴的なものであったということ。 一四イエス・キリスト。 一五もろもろの予言によるイエス・キリストの証拠。 一六イエス・キリストについての種々の証拠。 一七マホメットを駁す。 一八或る人々には自らを隠し、他の人々には自らをあ らわにする神の意図。 一九真のキリスト教徒と真のユダヤ教徒とは、同一の 宗教をもつにすぎない。 二〇人はイエス・キリストによってのみ有効に神を知 る。 二一真理、幸福、その他の多くのことがらに関して、 人間の本性のうちに見いだされる驚くべきかずかすの 相反。 一三人間の一般的認識。

5. 世界の大思想8 パスカル

5 第七篇 言ー「史』に取材した悲劇で、一六四〇年に初演された。長いあいだ戦争的な会話をするからである。大事なのはその会話をよく調節 していたローマ市とアル・ハ市は、勝敗を決するために、双方から戦士を三人 することである。「悪しき交わりは、善き慣わしをそこなう。」 ずつ送り出すことにする。アル・ハ市はキュリアス三兄弟を、ローマ市はオラ ース = 一兄弟を指名すゑところがこの両家はそれ以前にすでに姻戚関係をもわれわれはできるだけ沈黙し、われわれが真理として知って っており、キュリアスの妹サビーヌはオラースの妻、オラースの妹カミーユ いる神とだけ語らなければならない。そうすれば、われわれ はキュリアスの許婚であった。双方は祖国のためにたがいに敵となって決闘 は真理を自分に納得させることができる。 し、ついにオラースが最後の勝利を得てローマに凱旋する。許婚者キュリア 一「コリント前書』一五章一一一三節。 スの死を知ったカミー ュは、悲嘆のあまり兄を呪い、祖国を呪う。オラース e 二八四»--a 三五一—六六七 五三七 は怒ってこの妹を刺し殺す。オラースは罪に問われるが、父の弁護によって 六八四 赦免される。この作品で、オラースは非人情的性格の男として描かれ、キュ キリスト教は奇妙である。それは人間に対して、彼が下劣 リアスは人情的性格の男として描かれている。パスカルは「砕かれた心」の なものであり、憎むべきものでさえもあることを、認めるよ うちに、この両者を超える第三のキリスト教的性格を見たのであろう。 うに命じておきながら、他方では、神に似たものになろうと 三六二五六二—七〇〇 五三四 六八一 するように命じる。このような対重がなかったならば、かか 人間には一一種類だけしかない。一は、自己を罪びとだと思 る高揚が彼を恐ろしく虚栄にさせるか、またはかかる低下が っている義人。他は自己を義人だと思っている罪びと。 四九〇四二二六九三 彼を恐ろしく卑屈にさせることであろう。 五三五 六八二 一「第一写本』ではこの断章は第一部第・二十六綴「キリスト教的道徳」と われわれは欠点を指摘してくれる人々に多大の恩義を負っ いう見出しのもとに置かれ、以下、五二六、五二九、五二四、七六七、五三 ている。なぜなら、彼らはたしなめるからである。彼らはわ 九、五四一、五三八、四八一、四八二、二〇九、四七二、九一四、二四九、 四九六、七四七丙、六七二、四七四、六一一、四八〇、四七三、四八三、四 れわれが軽蔑されていたことを教えてくれる。しかし、彼ら 七六、四七五、五〇三、四八四の諸断章が同じ綴におさめられている。 は、将来われわれが軽蔑されないように防いではくれない。 e 二八四»-a 三五八六七四 ノ »-ä六八五 なぜなら、われわれは軽蔑されるだけの欠点を、ほかにも多 キリスト者は、自分が神に結ばれていると信じていなが くもっているからである。彼らは矯正の実行と欠点の除去へ ら、いかに傲慢でないことか ! 自己を虫けらに比していな の準備をしてくれているのである。 がら、いかに卑屈でないことか ! e 九四».-a 九九八九 p-:æl 〇一一 五三六 生と死、幸いと禍いを受けいれるのに、何と美しい態度で 人間は、おまえは馬鹿だといつも言われていると、いっし あろうー か自分でもそう思いこみ、おれは馬鹿だといつも自分に言い 二八四»-2 三五六六七二 五三九 »-2 六八六 きかせていると、いっしか自分でほんとうにそうだと思いこ 服従ということに関して、兵士とシャルトルーの修道士と むようにできている。なぜなら、人間は自分ひとりだけで内

6. 世界の大思想8 パスカル

231 第九篇 版、版、版とも欠 聖書と決疑論者とでは、まったく異なっているからである。 ) 六〇三 一プランシュヴィックの小型本「パンセ・エ・オビュスキュール」では、 ユダヤ教の基礎は、驚くべきものである。それは世界中で最 最初ここに「ユダヤ教は、その権成において、その持続において、その永続 も古く、最も素姓の正しい書物である。また、マホメット、、、 性において、その道徳において、その教理において、その効果において、ま 彼の書を存続させるためにこれを読むことを禁じたのに、モ ったく神的な宗教である。」を採用したが、これはポール・ロワイヤル版が 断章七三七から抜粋したものであることがわかって、六〇二の付録に組みい 1 セは彼の書を存続させるために、すべての人にこれを読む れられた。全集本では欠番になっている。 ことを命じた。 e 四九 0 四二五三七九 六〇四 七二六 われわれの宗教は、いま一つの神的な宗教がただわれわれ 常識にも人間の本性にも反する唯一の知識こそが、人々の の宗教の基礎をなすにすぎないほど、それほど神的である。 あいだにつねに存続してきた唯一のものである。 一この一句はパスカルのあとからの加筆であるが、 e 版、版はこれを、 一シャロン「三つの真理』二巻一二章「キリスト教徒は、彼自身の理性や 「すべての人にこれを読むことを命じた」のあとに置いている。決疑論 ( カ 事物のあらゆる秩序が彼に信じさせまいとするもの、本性が支持することの ズイスティック ) というのは、倫理神学の一部門で、宗教的戒律を個々の事 できないものを、信じる。」さらに「知恵について」二巻五章六節「すべて 例に適用するに際して、そこに疑義の存する場合をとりあっかうもので、 の宗教は、常識からみれば、奇怪であり、恐ろしいものである。」 わば教会倫理の判例体系とでもいうべき学問である。ジェズィットは告解聴 二四九二八四五四三 聞に従事することが多かった関係上、告解した罪人の良心の指導という実際 六〇五 »-a 七二七 的必要に迫られて、倫理神学のこの部門に特に重きを置いた。しかし決疑論 こ反し、われわれの快楽に反する唯一の 本性に反し、常識冫 者 ( カズイスト ) のなかには、必ずしも戒律を適用する必要がない方にいっ そう大なる蓋然性のある場合にはその戒律に拘東されないでいいと主張する 宗教こそ、つねに存在してきた唯一のものである。 e 四九〇»-a 四二一三一三 蓋然論 ( プロ・ハビリオリスム ) に傾く者が多く、ひいては伝承の戒律をみだ 六〇六 七〇三 す放漫論におちいる危険があった。事実、。ハスカルが「プロヴァンシアル書 われわれの宗教以外のいかなる宗教も、人間が罪のなかに 簡」でその正体をあばいた当時の決疑論は、われわれが教会の定める戒律に 生まれていることを教えなかった。哲学者たちのいかなる学 牴触することなしにどの程度まで自己の情欲を充足させうるかというような 問題の研究に堕していた。したが 0 て、聖書そのものにおけるキリスト教派も、そのことを言わなかった。それゆえ、いかなる学派も と、決疑論者などに見られるキリスト教とでは、あたかも旧約聖書における 真実を言わなかった。 ユダヤ教と、パリサイ人や教法師に見られるユダヤ教とのような、はなはだ しかなる宗教 キリスト教を除いては、、かなる学派も、、 しい差異がある、というのであろう。 = 「申命記」三一章一一節。三ユダヤ教をいう。 も、地上につねに存続しはしなかった。 二五一二八七—五四六 六〇七 四九五 e 七八三一四〇五 六〇ニ ユダヤ人の宗教を俗悪な人たちから推して判断する者は、 ユダヤ人の全状態のうちにある明白なものと、 秩序。 この宗教を誤解するであろう。この宗教は、聖書や予言者た 争う余地のないものとを、見ること。

7. 世界の大思想8 パスカル

22 聖書の二つの意味 聖書の唯一の目的は愛である 隠れている神 なにゆえ神は隠れようとしたか 第二章新約聖書。イエス・キリスト 緒論。神人イエス・キリスト。万物の中心 イ壬ス・キリストの証拠 彼はもろもろの予言と型とを成就する 571 , 3 , 664 , 662 , 573 , 574 , 575 , 576 , 578 670 , 671 , 672 , 673 , 8 , 5 , 7 , 757 751 , 752 , 753 , 7 , 7 田 1 , 田 2 , 5 , 田 6 737 , 765 , 5 , 557 , 8 , 511 , 559 784 , 5 , 739 , 768 , 770 , 727 , 735 , 730 , 9 , 773 , 7 , 736 , 7 838 , 830 , 1 , 829 , 811 , 812 , 815 , 808 , 8 , 837 2 3 4 5 6 7 8 9 彼は奇蹟をおこなった イエス・キリストの曖昧さ。聖体の秘蹟 787 , 7 , 794 , 7 % , 764 , 763 , 792 , 795 , 789 , 万人の贖い主イエス・キリスト 贖いの効果。恩寵 祈りといさおし 救い 恩寵と律法。義人 道徳 普遍的正義の秩序。自己放棄 思考する肢体 神の愛 救いの道。真理と愛 悔い改め イエス・キリスト イエスの秘義 512 517 , 771 , 513 , 777 459 , 460 9 , 0 , 1 , 545 , 6 , 467 , 466 , 422 , 3 , 2 , 4 田 , 5 , 524 , 5 , 528 , 529 , 530 , 4 , 5 , 532 , 537 , a38, 522 , 516 , 520 , 519 , 5 , 502 , 83 , 521 514 , 1 , 518 , 5146n , 744 , 515 6 , 782 , 772 , 783 , 769 , 87 , 88 , 5 , 85 0 , 767 , 774 , 775 , 755 , 780 , 4 5 , 555 549 , 548 , 7 , 785 , 550 , 1 , 554 , 552 498 , 661 , 497 , 604, 605 5 開 , 495 , 4 % , 81 , 4 , 9 , 544 , 6 484 , 481 473 , 474 , 475 , 476 , 480 , 482 , 483 , 943 , 485 470 , 4 , 478 , 472 , 477 , 6 第三章教会 2 3 4 キリスト教はいかにして成立したか。福音の歴史の真理。使徒たら 802 , 801 , 6 , 800 , 798 , 799 , 797 キリスト教はいかにして維持されたか 奇蹟と恩寵。超自然的な宗教の超自然な基礎 805 , 8 , 851 , 807 , 813 時と場合によって奇蹟と教理を見分けること 803 , 836 , 5 , 9 , 843 , 8 , 8 820 , 永続性。存続する真理 821 , 8 , 826 , 824 , 825 , 822 , 850 , 852 , 1 , 851 , 846 , 別 8 , 別 7 851 , 852 , 646 , 616 , 617 , 613 , 614 真理の歴史。もろもろの異端。相反の一致 8 田 , 747 , 255 , 2 , 0 , 861 , 9 , 857 , 579 , 2 , 3 , 田 5 , 7 , 5 , 4 , 895 , 893 , 894 , 897 , 898 , 8 % , 8 , 5 , 田 9 , 8 , 9 教会の教理的無謬性。教皇と単一 9 , 田 0 , 876 , 874 , 871 , 872 , 879 , 877 , 875 , 1 , 83 , 867 , 1 , 870 , 905 教会を通して神にいたらなければならない。味方でないものは敵である。 田 9 , 878 , 949 , 945

8. 世界の大思想8 パスカル

解題 ハスカルバンセ PASCAL 】 PENSÉES ル研究者を悩ましていた『パンセ』の編纂方法の問題につい ても、ようやく決定的な岐路に到達しようとしている。もと もと、パスカルの死の直後に見いだされた草稿の状態が、フ ロラン・ペリ 工の証言のごとく「断片的なパンセの堆積」で しかなく、パスカル自身このような状態で自分の覚え書が刊 行されることになろうとは予期しなかったはずのものである 松浪信三郎 だけに、これを版本として刊行するのにいかなる方法で編纂 すべきかについては、すでに最初のポール・ロワイヤル版刊 ・ハスカルが没してからすでに三百年の歳月を経ているにも かかわらず、彼が「キリスト教の弁証論』の著作のための覚行委員会で多くの論議が重ねられたのである。当時、三つの え書として書き残した数多くの断章のこの集積、最初の版本方法が考えられた。委員会がいちばんはじめに思いついた方 法で、たしかに最も容易であったのは、それらの草稿を発見さ 以来「。ハンセ」の名で呼ばれるようになったこの遺稿集は、 時代のへだたりを超えて、あたかも深淵から深淵にこだますれたままの状態でただちに印刷させることであった。第二の るように、今日、人間性の危機を意識するすべての人々によ方法は、それらにあらかじめ筆を加え、不明瞭な思想を明ら かにし、不完全なものを完全になし、それらすべての断章の って、異常な親近感をもって読み返されている。パスカルは、 いまでは、アウグスチヌスとならぶ稀有のキリスト教的思想なかからパスカルの計画を取り出し、彼が企てていた著作を いわば補充することであった。委員会はかなり長いあいだこ 家として、カトリックの側からも。フロテスタントの側からも ひとしく容認され、時の経過とともにますますその輝きを増の方法にこだわっていたが、パスカルその人の思想と計画の し加えているばかりでなく、さらに、キルケゴールとならんうちに入りこむことの不可能をさとって、この方法を断念し で、キリスト教的実存の自覚に生き、実存哲学的な問題を提た。結局、委員会が採用したのは、その一一つの中間をいく第 三の方法であった。ポール・ロワイヤル版の序文を書いた甥 起した最初の人として、われわれの新たな思想的関心のまえ のエチェンヌ・ペリエはこう記している。「われわれは単に、 に現前している。 この多数のパンセのなかから、最も明瞭で最も完成されてい 。ハスカルに対するこの関心の高まりに比例して、『パンセ』 の原典についての研究は、最近にいたっていちじるしい進展ると思われるものを取り出した。そして、それに何ら加筆も を示し、パスカル自筆の草稿の解読や語句の校訂がほぼ望み訂正もせず、見いだされたままに、それらを刊行した。ただ、 うるかぎりの完璧さに近づいたことはもちろん、従来パスカそれらが脈絡も関係もなくあちこちに雑然と散乱していたの

9. 世界の大思想8 パスカル

考える肢体 : ・ キリスト教の道徳 : ・ 贖罪と恩寵・ : イエス・キリストによる神 : イエスの秘義 : ・ 第八篇この宗教の「基礎」の両義性〔キリスト教の基礎〕 : ・ コ一つの相反する理由」・ : 「この宗教の知恵と愚かさ」 : ・ 第九篇諸宗教〔永続性〕 : 「シナの歴史」 : ・ マホメット : ユダヤ教の永続性 : ・ 第十篇象徴〔象徴〕・ 第十一篇予言〔予言〕・ ヤコ・フ : イザャ : ダニエル : メシア : 第十一一篇イ = ス・キリストについての証拠〔イ 偉大の三つの秩序 : ・ 福音書の文体・ : に 0 いての拠〕・ ・一一七四 ・一石六 ・一一九六 ・一九六 ・ニ 0 六

10. 世界の大思想8 パスカル

216 およそイエス・キリスト以外のものに神を求め、自然のう 自ら所有していると思いこむほど十分に見るのであってもな ちにとどまる人々は、彼らを満足させる光をまったく見いだ らない。ただ、自分はそれを失ったのだということを知るに すことができないか、もしくは仲保者なしに神を知り神に仕十分な程度に、彼はそれを見なければならない。なぜなら、 える手段を自分でつくり出すか、どちらかであり、そこから 自分が失ったのだということを知るためには、見るのでなけ して彼らは、無神論におちいるか、または理神論におちい ればならないし、また見ないでいるのでなければならないか る。この二つは、キリスト教がほとんどひとしく嫌悪すると らである。そして、これこそまさに、人間の本性の状態であ ころのものである。 る。 イエス・キリストなしには、世界は存在しないであろう。 彼がいずれの側に立つにせよ、私は彼をそこに休息させて なぜなら、その場合には、世界は崩壊するか、もしくは地獄 はおかないであろう。 のようになるかしかないからである。 一この断章は「草稿原本』に欠如しており、「第一写本』に依拠するもの である。 もしこの世界が、人間に神を教えるために存在するもので = 以下の叙述において「彼ら」と言っているのは、いずれも「キリスト教 あったならば、神の神性は、疑う余地のないようなしかた を誹謗する人々」のことである。 三人間における偉大と悲惨の二重性。いいかえれば、アダムの堕落と、イ で、あらゆる方面に光り輝いていたことであろう。しかし、 エス・キリストによる贖い、という二つの点。 世界は、イエス・キリストのために、イエス・キリストによ 四「彼らは人間の偉大を否定することなしにはその悲惨を認めることがで ってのみ存在し、人間にその堕落とその贖いを教えるために きず、また逆に、人間の悲惨を否定することなしにはその偉大を認めること のみ存在しているのであるから、すべてのものは、この二つ ができない。彼らにとっては、人間的本性の一つの様相は、その反対の様相 とあいいれないものである。ただキリスト教徒だけが、人間の二重性とその の真理の証拠としてこの世界に現われているのである。 原因を認める」という意味である。 この世界に現われているものが示しているのは、神性のま 五ただひとりの神のみが存在すると告げた賢者たち、ユダヤ教徒、キリス ったき排除でもなく、神性の明白な現存でもなく、自らを隠 ト教徒が、迫害され、憎まれたのは、宗教を判断するのにこの人たちが自然 的な光によらなかったからである。 している神の現存である。すべてのものはこの性格をもって 六この「彼ら」も、キリスト教を誹謗し、自然的な光によって真の宗教は かくあるはずだと独断している人々を指す。 自己の本性を知る者だけが、本性を知ってはじめて悲惨に 七以下この段落の終りまでの文章は、失われたパスカルの原稿では欄外に 記されていたのらしい。というのも、この断章のコ。ヒ 1 を作った人は、以 なるのであろうか ? 自己の本性を知る者だけが、ただひと 下のこの文章を、はじめ本文中に書き入れたが、あとでそれを抹消し、ふた り不幸なのであろうか ? たび欄外に移しているからである。版、版ともここで行を変えている 彼は全然何も見ないのであってはならない。また、それを が、この一節は「キリスト教を誹謗する人々ーの論拠を述べたものであるか