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検索対象: 世界の大思想8 パスカル
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1. 世界の大思想8 パスカル

引き出す。 いからである。反対に、原理によって推理することに慣れて たとえば、或る人々は、水のいろいろな作用を正しく理解 いる他の人々は、感情的なことがらについては少しも理解し する。そこにはわすかな原理しかない。しかし、その結果は ない。彼らはそこに原理を求めるからであり、一目で見るこ きわめて繊細なので、精神の最高の正しさがなければ、それとができないからである。 四 に到達することはできない。そうだからといって、この人た e 三五〇»-ä五一三九一一二四 ちは、必ずしも偉大な幾何学者でありうるとはかぎらない。 幾何学、繊細。ーー真の雄弁は、雄弁を軽蔑し、真の道徳 なぜなら、幾何学には多数の原理がふくまれているが、或る は、道徳を軽蔑する。 いいかえれば、判断の道徳は、基準を 精神的素質の人は、少数の原理を根柢まで洞察しうるけれど もたない精神の道徳を軽蔑する。 も、多数の原理をふくむ事物についてはさつばり洞察しえな なぜなら、精神に科学が属しているように、判断には感情 ということもあるからである。 が属しているからである。繊細さは判断の領分であり、幾何 してみると、二種の精神があることになる。一つは、原理学は精神の領分である。 から結果を鋭く洞察するもので、正確な精神がそれである。 哲学を軽蔑することこそ、真に哲学することである。 もう一つは、多数の原理を、混同することなく理解するもの 一版は「判断の道徳は基準をもたないーと解しているが、私は版のテ キストにしたがって自然な読み方をしたい。 ( ただしラフュマも、では で、幾何学的な精神がそれである。一は精神の力と正しさで qui est sans régles の前にティレをはさんでいるので、版と同様に解釈 あり、他は精神の広さである。ところで、一方は他方なしに しているように見える。 ) この基準は、判断のための基準であり、それを欠 存在しうる。精神は、強くて狭いこともありうるし、広くて いているのはむしろ精神の側である。精神の道徳すなわち哲学者たちの説く 弱いこともありうるからである。 道徳がいかに基準を欠いているかについては、断章一一〇、七三、二七四、三 八一、四二五、四二六、四三〇等がそれを立証している。 ここで述べられている二種の精神は、前の断章の二つの精神に対応する ものではない。ここではむしろ自然学的精神と幾何学的精神とが対比させら 五 れている。自然学的原理は少数であるが、その結果が微妙であることは、・ハ 基準をもたずに或る仕事を判断する人々と、そうでない人 スカルの「流体の平衡について」「大気の重さについて」の二論文を読めば 篇 明らかである。 人との違いは、あたかも、時計を持っている人々と、そうで e 四二七 i--a 七五一九一五二三 ない人々との違いである。一人は言う、コ一時間たった」と。 第感情によって判断することに慣れている人々は、推理的な他の一人は言う、「四十五分しかたたない」と。私は私の時 ことがらについてはほとんど何も理解しない。 , 彼らは一目で計を見て、一人に言う、「君は退屈している」と。そして私 見ぬこうとするからであり、原理を求めることに慣れていな は他の一人に言う、「君は時間のたつのを忘れている」と。

2. 世界の大思想8 パスカル

214 には人間のあらゆる本性を、一般的には世界のあらゆる動き を、説明することができるはすである。 以上のような論拠を、彼らはキリスト教を誹謗するときの 理由とする。というのも、彼らはキリスト教を誤解している からである。彼らは、キリスト教が、単に、偉大なもの全能 なもの永遠なものとして考えられた神を礼拝するところにの * * * 五〇三四四九一七六〇一一 五五六 み存すると、思い做している。そのようなものは、実をいう ・ : 彼らは彼らの知らないものを誹謗している。キリスト と、理神論であって、キリスト教とかけ離れている点では、 教は二つの点から成り立つ。その二つを知ることは、人間にその正反対である無神論とあまり違わない。しかし、そこか とってひとしく重要であり、その二つを知らないことは、ひら彼らは結論して、この宗教は真ではないと言う。というの も、神は、神のなしうるかぎりの明らかさをもって人間に神 としく危険である。そして、これらの二つのしるしを与えた 自身を示現しているのではない、 というこの点を、すべての のは、ひとしく神の慈悲から出たことである。 しかるに、彼らは、それら二つの点のうち一方の肯定を彼事物が協力して確立しているにもかかわらす、彼らはそのこ とを見ないからである。 らに結論させる論拠を、他方の否定を結論するための理由と 彼らは理神論に対してならば、、 しくらでも好きなようにそ するのである。ただひとりの神のみが存在すると告げた賢者 しかしキリスト教に対しては、彼 たちは、迫害された。ユダヤ教徒は憎まれた。キリスト教徒こから結論を出すがいい はそれよりもさらに憎まれた。彼らは、もし地上に一つの真らはそこからいかなる結論をも出すことができないであろ う。キリスト教は、本来、贖い主の秘義のうちに存するので なる宗教が存在するならば、すべての事物の動きは、あたか もその中心に向かうようにこの真なる宗教に向かうはずであある。この贖い主は、自己のうちにおいて、二つの本性すな ることを、自然的な光によって見たのである。事物のすべてわち人間性と神性とを結合しており、人間を罪による堕落か ら救い出し、その神格において、人間を神と和らがしめるの の動きは、かかる宗教の確立とその偉大さとを目的とすべき である。 はすである。人間は、この宗教がわれわれに示すことがらに 合致する感情を、自己のうちにもっているはすである。要す それゆえ、キリスト教は、人間に対して次の二つの真理を るに、かかる宗教は、すべての事物の向かうべき中心であり同時に教える。ひとりの神が存在し、人間はこの神を知るこ 目的であるはずであるから、それの原理を知る者は、特殊的とができるということ、人間の本性のうちには堕落があり、 第八篇

3. 世界の大思想8 パスカル

111 第三篇 に、私は睹けなければならない。しかし私はあまりに多くを よっては、君は一方と他方のいずれを選ぶこともできない。 考えてみよう。勝にも負 理性によっては、君は二つのうちいずれかを斥けることもで賭けすぎはしないだろうか ? きない。 にも同様の連があるのだから、かりに君が一に対して二の生 それゆえ、君はいずれか一方を選んだ者を、まちがいだと命を得るだけであ「ても、君はやはり賭けてさしつかえない 言って責めてはならない。なぜなら、君はそれについて何もであろう。しかし得られる生命が三であるならば、賭けるの 知らないのだから。 いや、私はそちらを選んだのがいけが当然である ( なぜなら、どうしても賭けなければならない 状態に君はいるのだから ) 。そして、このように賭けること ないと言って責めるのではない。どちらか一方を選んだとい うことで責めるのだ。なぜなら、表を選んだ者も、その反対を余儀なくされているときに、勝にも負にも同様の運がある の者も、同様にまちがっているからである。彼らは二人とも勝負において、君が三つの生命を得るために君の生命を賭け ないとしたならば、君は無分別のそしりを免がれないであろ 誤っている。正しいのは、賭をしないことである。 なるほど。だが、賭はしなければならない。それは随う。しかるに、そこにあるのは、永遠の生命と幸福である。 っこそうだとすれば、無数の運のうちでたった一つだけが君のも 意なことではない。君はすでに船を乗り出したのだ。いオ い君はどちらを取るか ? 考えてみよう。選ばなければならのであるとしても、君が一一を得るために一を賭けるのは、な 一 0 お道理にかなっているであろう。またどうしても賭をしなけ ないからには、どちらが君にとって利益が少ないかを考えて ればならないとき、無数の運のうち一つが君のものになりう みよう。君が失うかもしれないものは二つ、真と善である。 る勝負において、もし無限に幸福な無限の生命が得られるな 賭けるものは二つ、君の理性と君の意志、つまり君の認識と 君の幸福である。そして君の本性が避けようとするものは一一らば、君が三に対して一つの生命を賭けることを拒むのは、 つ、誤謬と悲惨である。どうしても選ばなければならないか無分別な行為であろう。しかし、ここでは無限に幸福な無限 の生命が得られるのであり、負ける連が或る有限数であるの らには、他方を措いて一方を選んだところで、君の理性は別 に対して、勝っ運は一つはある。しかも、君の方から賭ける に傷つけられるわけではない これで一つの点が片づいた。 ものは、有限である。これでは損も得もあったものではな だが、君の幸福はどうなるか ? 神は存在するという表の側 」。無限が存在するところ、勝っ運が一つはあるのに対して をとって、その得失を計ってみよう。二つの場合を見積って みよう。もし君が勝てば、君はすべてを得る。もし君が負け負ける運が無限ではないところにおいては、損得を考えるま しっさいを賭けるべきである。それゆえ、どうし でもない。、 ても、君は何も失いはしない。だから、ためらわずに、神は 存在するという側に賭けたまえ。 それは結構だ。たしか ても賭をしなければならない場合、無にひとしいものを失う

4. 世界の大思想8 パスカル

221 第八篇 してみると、そこに神の導きがある。この霊的な意味は、 れた正しいユダヤ人によっても、彼を拒否した不正なユダヤ 人によっても、ひとしく立証されたのである。そのことはい いずれの箇所においても、いま一つの他の意味によっておお われ、稀れに或る箇所においてあらわれている。それにして ずれも予言されていたからである。 も、真の意味が隠されている箇所は、両義的であって二つの そういうわけで、もろもろの予言は一つの隠れた意味をも どちらにも解されるし、他方、真の意味があらわされている っている。それは、この民族が敵とした霊的な意味であり、 この民族が友とした肉的な意味のもとに隠されている。もし箇所は、一義的であって霊的な意味にしか受けとれないよう になっている。 霊的な意味があらわであったならば、彼らはそれを愛好する したがって、そのために誤謬に導かれることはありえなか ことができなかったであろう。そして、彼らはそれを伝承す った。それをしも誤解したほどに肉的な民族は、ただ一つし ることができず、彼らの書物や彼らの儀式を保存する熱意を もたなかったであろう。また、もし彼らがそれらの霊的な約かなかった なぜなら、幸福がゆたかに約束されているとき、それを真 束を愛好し、メシア来臨のときまでそれらを変えることなく 保っていたとしたら、彼らの証言は、彼らが霊的な約東を友の幸福と解するのをさまたげるものは、その意味を地上の幸 としたために、かえって効力を失ったことであろう。 福に限定する彼らの欲でなくして何であろうか ? しかし、 そういうわけで、霊的な意味はおおわれている方がよかっ神のうちにしか幸福を求めなかった人々は、それらの幸福を た。しかし、その反面、この方の意味が隠されていて全然あひたすら神にのみ帰した。なぜなら、そこには人間の意志を らわれなかったならば、それはメシアの証拠として役立たな分っ二つの原理、すなわち欲と愛があるからである。そうは いっても、欲は神に対する信仰とあい容れないとか、愛は地 かったであろう。では、どういうふうになされたか ? 大部 分の章句においては霊的な意味がこの世的なもののかげにお上の幸福とあい容れない、などというのではない。たたし おわれ、若干の章句においてはそれがかくも明らかにあらわ欲は神を利用してこの世を楽しむが、愛はその反対である。 しかるに、最後の目的は、事物に名を与えるものである。 された。さらに、来臨の時期と、そのときの世のありさま は、日を見るよりな明らかに予言された。そしてこの霊的なわれわれをさまたげて目的に到達させないようにするすべて のものは、敵と呼ばれる。それゆえ、被造物は、どんなに善 意味は、或る箇所では非常に明らかに説かれているので、霊 いものでも、それが義人を神からそむけさせるときには、義 が肉に屈服したとき肉が霊のうちに投げ入れるような盲目 に、霊がわざわいされないかぎり、この霊的な意味を認めな人の敵である。神でさえも、神によって欲望がかきみだされ ている人々にとっては、敵である。 、よ、まどである。 いわけこよ、

5. 世界の大思想8 パスカル

: のような光は : た。現在では、それは意味である。 く発見する。しかるに、 貴方がたは彼らを異端者たらしめることしか欲していな 〔見棄てられた者たちの一団。誰かサン・メリ教会のすべて ということは明らかではないか ? 聖体の秘蹟。序文、 の慈善箱を破る者があっても、貴方がたが無罪であることに ヴィルロアン。 変りはない。〕 ジャンセニウス。アウレリウス。アル / 。『。フロヴァン : 偽りの権利、・ハロニ 〔それゆえ、それは奇異ではない。 シアル』。 ・ : よりもむしろ欺瞞者であるとされた ウス。私としては、 私は他の人々のために貴方がたと口論した。 方がいい。〕 貴方がたがそれらの命題のことで騒ぎを起すのは、まった それについて貴方がたはいかなる理由をもっているのか ? くおかしい。それは何ものでもない。人はこの何ものでもな 貴方がたの言うところによると、私はジャンセニストであ り、ポール・ロワイヤルは五カ条の命題を支持している、し いものを理解しなければならない。 著者たちの名前なしに。けれども、人々は貴方がたの意図 たがって私はそれらの命題を支持している、ということにな を知っていたので、七十人が反対した。 る。三つの嘘。 判決の日付を書くこと。 私は貴方がたにお願いしたいが、すべてそういう働きをさ 貴方がたが彼自身のことばにもとづいて異端者たらしめるせるのは貴方がたではないと私に言いに来ないでもらいた : のために。 ことができなかった人、云々 : い。私の回答は容赦ねがいたい。私は貴方がたにも他の人々 〔すべてそれらのことが、最も恐るべきものにいたるまで、 にも気にいらないようなことを、貴方がたに対して答えるこ 貴方がたの著者たちのものであることを示したと言って、私 とであろう。 を咎めるのは誰か ? 〕 教皇は二つのことがらを断罪しなかった。教皇は命題の意 なぜならすべては明白だからである。 味をしか断罪しなかった。貴方がたは教皇がそれを断罪しな 〔貴方がたはそれだけしか答えられないのか ? そんな証明 かったと言うのか ? ーーしかし、ジャンセニウスの意味はそ 篇のしかたしかできないのか ? 〕 こに含まれている、と教皇は言う。ーー教皇がそう考えるの + 彼は、然りか否かを知っている。あるいは彼は疑う、罪び は貴方がたの「一語一語」のせいであると、私は思う。けれ 第 とか、異端者か。 ども教皇は破門の罰にもとづいてそう言ったのではない。、、 異教徒をしか考慮せずに。 うして教皇が、またフランスの司教たちも、それを信じなか ったなどということがあろう ? 貴方がたはそれを「ことば 超自然的な真理を発見するこの同じ光が、それらを誤りな 一八

6. 世界の大思想8 パスカル

リエの筆蹟である。 一この草稿はジルベルト・ e 四五五»-a 八八四—八一三 八六〇 p-a 七八二 信仰のこれほどのしるしのあとで、彼らはなおも迫害を受 けている。これこそ信仰のしるしの最大のものである。 e 四五四八四五八五七 七八四 教会がもはや神によってしか支えられていない時、それは e 四三 0 七五八三二四 八五七 何と美しい状態であろうか , 七八六 e 四二〇七三三四六一一 もし真理が、眼に見えるしるしをもっ 明るさ、暗さ。 七八八 ていなかったならば、あまりに暗すぎたであろう。一つの教 教会は相反する幾多の誤謬によってつねに攻撃されてき た。けれども、現在のように、同時に双方から攻撃されたこ 会、見ゆる集会のなかに、つねに保たれているということ は、真理の驚くべきしるしの一つである。もしこの教会のな とは、おそらくいままでになかったであろう。もし誤謬の増 かに、ただ一つの意見しかなかったならば、あまりに明るす 加によって、教会がいっそう多く悩なならば、教会はそれら ぎたであろう。教会のなかにつねに存在していたものは、真の誤謬がたがいに相手を減。ほしあうという有利な地歩を占め 理である。なぜなら、そこにはつねに真なるものが存在してることができるであろう。 いたからであり、偽なるものは、教会のなかにおいては、つ 教会は双方を嘆くが、カルヴィニストの方を、その分離の ゆえに、、 しっそう多く嘆く。 ねに存在するということがなかったからである。 e 四三五七七六五六二 八五八 * * * 二つの相反するものが多くの場合欺かれていることは確か >-a 七七八 教会の歴史は、本来ならば、真理の歴史と呼ばれていいはである。彼らの迷いを解いてやらなければならない。 信仰はたがいに矛盾しているように見える多くの真理を含 ずである。 一この断章は「草稿原本』に欠如しており、「第一写本』に依拠するものむものである。「笑うとき、泣くとき」等々。「答えよ、答う である。 るなかれ」等々。 四二二七四三五六一 これらの矛盾の源泉は、イエス・キリストにおける二つの 八五九 七八三 けっして沈没しないと保証されているならば、船に乗って本性の結合である。また、二つの世界 ( 新しき天と新しき地 の創造。新たな生、新たな死 ) 。同じ名が残っていながら、 暴風雨に遭遇するのも愉快なことであゑ教会を悩ます迫害 二重であるようなすべての事物。 は、そのような性質のものである。 第十四篇 べ

7. 世界の大思想8 パスカル

ることである。それらの二つカ : 、トルコ皇帝という人物にお 多種多様。ーー・神学は、一つの学問である。だが、同時 いて一つに結ばれている。 にいかに多くの学問であることであろう ! 人間は、一つ トルコ皇帝が自分で耕作し、それによって生計を立てているという伝説 の実体である。しかし解剖すれば、頭、心臓、胃、血管、血 は古くからあったものらしく、アヴェの注によれば、一五六〇年に出たギョ 管の各部分、血液、血漿ではないか ? 1 ム・ポステルの「トルコ共和国について』のなかでは、そういう伝説のま 都市、田舎、それは遠くから見れば、一つの都市、一つの ちがいであることが指摘されている。 e 三六〇五五八九八三二八田舎である。しかし近づくにつれて、それは家、樹木、瓦、 ドカオしこれらすべて 多種多様さは、あらゆる声の調子、あらゆる歩きかた、咳木の葉、草、蟻、蟻の脚となり、艮り : よ、。 のしかた、洟のかみかた、くさめのしかた : : があるほどのものが、田舎という名のもとに包括されている。 一二三一二九二四四 に、豊富である。人々は果実のなかから、葡萄を見分ける。 一二五 そしてあらゆる葡萄のなかから、マスカットを、ついでコン 職業。思想。ーーすべては一であり、すべては多である。 ドリウーを、ついでデザルグを、ついでその接木を見分け ひとくちに人間の本性といっても、いかに多くの本性があ る。それで全部であろうか ? その接木から同じ形の二つの ることか ! ひとくちに天職といっても、いかに多くの天職 があることか ! しかも各人は、普通、他人がほめるのを聞 房が生じたためしがあるだろうか ? 一つの房に、同じ形の 二つの粒がなったためしがあるだろうか ? いて、偶然にもそれを選ぶ。ぐあいのいい靴のかかと。 一この「職業」という見出しは、「第一写本』による。版には省かれて 同一の事物についても、まったく同じ判断を下すことは私 にはできないであろう。私の作品についても、それを制作し 三一»-a 三五七二二六 つつ、それを判断することは私にはできない。私は画家のす 靴のかかと。 まあ ! 何てぐあいのいい靴だろう ! るように、それから少し離れてみなければならない。しか 何て上手な職人だろう ! 何て大胆な兵士だろう ! し、あまり離れすぎてもいけない。では、どのくらいか ? こにわれわれの好き嫌いのはじまり、職業選択のはじまりが 言い当ててみたまえ。 一幾何学者として、若ぎ日のパスカルに大きな影響を与えたデザルグは、 ある。 べっしょ リョンの人で、リョンから四〇キロ下流のローヌ河畔コンドリウーに別墅を あの人は何という酒豪だろう ! あの人は何という節酒家 もっていたが、この付近は葡萄の栽培が盛んで、・フ 1 テ 1 ュ・ド・コンドリ ミ」プつ、つー これがわれわれを節酒家にさせたり、酒飲みにさ ゥーという白葡萄酒を産する。おそらくデザルグは、自分の別墅内で産する 一変種に自己の名をつけたのであろう。 せたり、兵士にさせたり、臆病者にさせたりする。 四一一七一五一六八 六二六五一一三二九 つぎき いる。

8. 世界の大思想8 パスカル

251 第十篇 四、ラビたち自身が聖書に与える神秘的解釈による証拠。 五、ラビたちの次のような原理による証拠。すなわち、二 重の意味がある。彼らの功績に対応して、メシアの二つの 来臨があり、その一つは栄光の姿、他の一つは卑賤の姿に おいてである。予言者たちはただメシアについてのみ予言 した。ーー律法は永遠なものではなく、メシア来臨におい 二四一»-a 二七四—五〇八 て変化するはすである。 そのとき、人はもはや紅海を 六四ニ »-Ä五四一 思い起さないであろう。ユダヤ人と異邦人とは混合するで 旧約と新約を同時に証明すること。 この二つを一度に あろう。 証明するには、一方の予言が、他方において成就しているか 〔六、イエス・キリストや使徒たちがわれわれに与える鍵に どうかを見さえすればいい。 もろもろの予言を検討するに は、それらを理解しなければならない。なぜなら、もし、そよる証拠。〕 一ユダヤの律法学者の称。ユダヤ教の経典たるタルムードを生んだのは彼 れらに一つの意味しかないと人が思うならば、メシアが来臨 らである。新約聖書中では単に教師に対する尊称として用いられている。 しないであろうことは確かであるが、それらに一一重の意味が 一一十二世紀のユダヤ哲学者。 三ユダヤ教の中で紀元前二世紀頃に成立した一種の神知説。パスカルが読 あるならば、メシアがイエス・キリストにおいて来臨するで んだレイモン・マルタンの著書「信仰の懐剣」の序文の中で刊行者ジョゼフ・ あろうことは確かであるからである。 ド・ヴォアザンの定義しているところによれば、タルムード全体がカ・ハラと それゆえ、あらゆる問題は、それらの予言に一一重の意味が 呼ばれることもあるが、そのなかでも特に神の属性を論じた部分をかくい あるかどうかを知ることに帰着する。 二四二二七五五〇九 聖書には二重の意味があり、それはイエス・キリストと使 六四三 »-; 五六〇 徒たちによって与えられたものである。この点については、 『イザャ書』五十一章。紅海、贖罪の影像。 次のものが証拠になる。 「人の子の地にて罪を赦す権威あることを汝らに知らせんた 一、聖書そのものによる証拠。 めに、汝に告ぐ、起きよ。」 二、ラビたちによる証拠。モゼス・マイモニデスは言う、 神は見えざる聖性をもって聖なる民をつくり、それに永遠 聖書には二つの面があり、予言者たちはただイエス・キリ の栄光をみたしうることを示そうとして、見ゆる事物をつく ストについてのみ予言した、と。 った。自然は恩寵の影像であるから、神は恩寵の賜物のなか 三、カ・ハラによる証拠。 で為すべきことを、自然の賜物のなかで為した。それは、神 第十篇

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拠ったのでなければ、私に拠ったのでもない。」 の私の無知を慰めてくれるであろう。 三八四»-ä六四九九三五七八 四三六七七八七一六八二 六八 モンテーニュの長所は、なかなか得がたいものである。彼 人々は、誠実な人間になることは教えられないで、その他 の短所は ( 道徳的態度は別として ) 、もし人が彼に対して、 のすべてのことを教えられる。そこで彼らは、その他のこと あまり故実を並べすぎる、あまり自己を語りすぎる、と忠告 については何か知っていても、さほど自慢しないが、誠実な してやったならば、すぐにでも改めることができたであろ人間であることについては大いに自慢する。彼らが知ってい るのを自慢するのは、彼らが教えられなかったただ一つのこ 一「随想録』二巻六章「私は私の全体をさらけ出す。・ : ・ : 私が書くのは、 とだけである。 私の身振りではない。それは私であり、私の本質である。」三巻八章「私は 一ユ en は元来ラテン語の月 ( 事物 ) の目的格 m から由来した語であり、 あえて自己について語るばかりでなく、ただ自己についてのみ語る。」 ここではその本来の意義、すなわち quelque chose ( 何ごとか ) の意味で用 六九七二二〇八一 いられている。 人は自己自身を知らなければならない。それは真理を見い 三七、四一三四一、七二三七八 六九 »-a 八四 だすのに役立たぬまでも、少なくとも自己の生活を律するに 人はあまり早く読むか、あまりゆ 二つの無限、中間。 は役立つ。そして、これほど当然なことはない。 つくり読むときは、何ごとも理解できない。 一モソテーニュ「随想録』一巻三章「汝の本分を行ない、汝自身を知れ、 一この断章は同じ草稿が二つあり、その一つはパスカルの自筆であるが、 というこの偉大な格言は、しばしばプラトンのなかに出てくる。二つの項の 他の一つは前半が。ハスカルの筆蹟、後半が別人 ( たぶんエチェンヌ・ペリ 各々は、広くわれわれのすべての義務を含み、また同様にそれそれ一方が他 の筆蹟になっている。 方を包含する。自己の本分を行なおうとする者は、自分がいかなるものであ 三五二»-a 五一九—二五一 り自分には何が適しているかを知ることが、まず第一課であることをさとる 七〇 であろう。また自己を知る者は、もはや他人の本分と自己のそれとを取り違 自然は : えることがないであろう。彼は何よりもまず、自分のことを気づかい、自己 〔自然はわれわれをちょうど真中に置いたので、われわれが 自身をつちかう。彼は余計な仕事、無益な物思いや目的を、棄て去る。」ソ クラテスは、モンテー = = にとっては知恵の師であり、ミトンやメレにとっ秤の一方を変えると、われわれは他方をも変えることにな ては、誠実の師であった。 篇 る。 Je fesons, zöa trékei. このことからして、われわれの 二〇二三—六〇»-a 一九六 六七 頭のなかにはネがあって、それが一方に触れるとまた反対 第知識の空虚。ーー外的な事物についての知識は、苦難のとの方にも触れるような仕組みになっているのではないかと私 きに、道徳についての私の無知を慰めてくれないであろう。 は思う。〕 こついて 一この断章はパスカルが書いたあとで線を引いて消している。 しかし徳についての知識は、いつでも、外的な知識冫

10. 世界の大思想8 パスカル

その罪がわれわれに遺伝したことをも、理解することができ る。一は理性の力により、他は語る者の権威による。 人は後者を用いないで、前者を用いる。人は、「そのこと 幻ない。それらのことは、われわれの場合とはまったく異なっ は信じられなけれ、よよらよ、 た種類の状態において起ったことであり、われわれの現在の ( オオし。なぜなら、それを語る聖書は 理解力の状態を超えていることである。 神的であるからーと言わないで、かえって「それはこれこれ すべてそれらのことは、われわれにとって、そこから脱れの理由で信じられなければならない」と言う。これは薄弱な 出るためには、知っても無益なことである。われわれにとっ 論証に属する。というのも、理性はあらゆるものに屈するか らである。 て知らなければならない肝腎なことは、こういう点である。 一モンテーニュ「随想録』二巻一二章「われわれが宗教を受けいれたの すなわち、われわれは悲惨であり、堕落し、神から離れては は、論証によってでもなければ、われわれの悟性によってでもない。それは いるが、イエス・キリストによって贖われた者であるという 権威によってであり、外からの命令によってである。」 こと、またそれについてわれわれは、この地上に、驚くべき 五一八四六八四三»-a 七四 幾多の証拠をもっているということである。 この地上には、人間の悲惨を示すか、神の慈悲を示すか、 かくして、堕落と贖罪というこの二つの証拠は、宗教につ そのどちらかでないようなものはない。神をもたない人間の いて無関心な生活をしている不信仰者と、キリスト教の和解無能を示すか、神をもつ人間の能力を示すか、そのどちらか しがたい敵であるユダヤ人とから、引き出される。 でないようなものはない。 一この断章は「草稿原本』に欠如しており、「第一写本』に依拠するもの 一六二一七五三六〇二 である。 地獄に堕ちた者たちが狼狽することの一つは、彼らが理性 一四九八四四二六 五六〇乙 *-2 六四〇 によってキリスト教を断罪しようとしておきながら、その彼 かくして、全宇宙は、人間に対して、人間が堕落している ら自身の理性のゆえに、今度は自分たちが断罪される目にあ ことを教えるか、または人間が贖われることを教えるかであ うことであろう。 る。すべてのものは、人間に対して、人間の偉大を教える 四五四八三五七三六 五六四 »-a 八三一 か、または人間の悲惨を教えるかである。神の遣棄は異教徒 予言や奇蹟でさえもそうであるが、われわれの宗教の証拠 のうちに見られ、神の保護はユダヤ民族のうちに見られる。 いずれも、絶対的な説 - 得力をもっと言われうるような性 一この断章は「草稿原本』に欠如しており、「第一写本』に依拠するもの である。 質のものではない。さりとて、それらを信じるのはまったく e 四四九八一一〇三七八 五六一 理由のないことだと言われうるような種類のものでもない。 »-a 八一四 われわれの宗教の真理を納得させるのに、二つの方法があかくしてそこには、或る人々を明るくし、他の人々を暗くす