151 第六篇 セ同上三巻一二章に引用されているセネ力「書簡」一〇六の句。 セネ力。五八八。 ^ 同上二巻一六章に引用されているキケロの「善悪の極限について」二巻 「いずれかの哲学者によってかって言われなかったほどに不 一五章の句。 条理なことは、誰も言いえない。」占術について。 九同上一巻二八章に引用されているテレンチウス「ヘアウトンチモルメノ ス」 ( 自分で自分を苦しめる男 ) 第一幕第一場二八の句。 「彼らは一定の学説に東縛されているので、自分の是認しな 三四七注•--a 五〇八八〇一一 三六四 いことがらをまで擁護しないわけにいかなくなる。」キケロ。 「他のあらゆる場合におけると同様、学問においても、われ「人が自己自身を尊敬することは、実に、稀れである。」 われは不節制に苦しむ。」セネ力。 「たった一人の人間をめぐって、かくも多くの神々が立ち騒 「われわれに最もよく似合うものは、われわれにとって最も 自然なものである。」五八八。 「理解するより以前に肯定することほど、恥ずべきことはな 「これこそ、自然が与えた最初のおきてである。」ゲォルギ 「それらの人々とちがって、自分の知らないことを知らない 「健かな霊魂をつくるには、あまり学問を必要としない。」 とするのを、私は恥としない。」 「そのものとしては恥かしくないことでも、おおぜいの称讃「始めない方が、途中でやめるよりも、容易である。」 一モンテーニュ『随想録』一巻三九章に引用されているクイソチリアヌス を受けると、恥かしいものになってくる。」 一〇巻七章の句。 「私の場合は、、 しつもこうする。君は君の思うままにしたま = 同上二巻一三章に引用されている修辞学者マルクス・アナエウス・セネ え。」テレンチウス。 力「説得術」一巻四章の句。 一数字は一六五二年版モンテーニュ「随想録』のペ 1 ジを示す。三巻一章 三同上三巻一三章に引用されているキケロ「アカデミアの諸問題」一巻一 にセネ力のこの句が引用されている。 二章の句。 一一モンテーニュ「随想録』二巻一二章に引用されているキケロ「占術につ 四同上三巻一一章に引用されているキケロ「ツスクラヌム論叢」一巻二五 いて」二巻五八章の句。 章の句。 三同上二巻一二章に引用されているキケロ「ツスクラヌム論叢』二巻二章 同上三巻一〇章に引用されているセネ力「書簡』七二の句。 の句。 四二九»-a 七五六—二三一一 三六五 二六三 四同上三巻一二章に引用されているセネ力「書簡』一〇六の句。 五数字は一六五二年版のモンテーニュ「随想録」のページを示す。三巻一 思考。ーー人間のすべての尊厳は思考のうちに存する。 章に引用されているキケロ「義務について」一巻三一章の句。パスカルはい しかし、この思考とは何であるか ? それは何と愚かなも ったんセネ力と記してそれを消している (»-; 版による ) 。 のであることか , 大モンテーニュ『随想録』一巻三〇章に引用されているヴェルギリウス 「ゲォルギカ』二巻二〇章の句。 それゆえ思考は、その本性からいえば、讃嘆すべきもので 。」キケロ。
て、またわれわれが設定したのとは別の事情によって相手の不運も、それとはあまり関係がない。私はときどき自分で自 うちに醸し出された状態にしたがって、判断する。少なくと分の運命にさからうことがある。運命にうちかっ光栄にうな も、われわれの方では、何もそこに醸し出しはしなかったわがされて、私は快く運命にうちかつ。その反面、私は幸運の さなかで、ときどきいや気をもよおす。 けである。ただし、相手が、向うの気分でこちらの沈黙にど 一モンテーニュ「随想録』二巻一章または二巻一二章の一節を指示したも ういう意味や解釈を与えるか、または人相見のように、こち のであろう。ホメロス『オデュッセイア』一八巻一三六の句であるが、キケ らの動作や表情や声の調子などからその沈黙をどう推測する 口がこの句をラテン語に移し、アウグスチヌスが『神の国』五巻二八章に引 か、それ次第で、沈黙もまたその効果をあらわすというなら 用している。モンテーニュでは二箇所に出てくるが、二巻一章では「われわ ば別である。一つの判断を、それの自然的な位置から引きお れの気分は天気とともに変る。「ジュピテルが光で豊饒な大地を照らしたと きのその光のように、人々の心は変る。ヒ二巻一二章では「大気や晴天も、 カくもむすかしいことである。 ろさないようにすることは、、 われわれに若干の変化をもたらす」の次に「ジュビテルが炬火をもって大地 というよりもむしろ、判断は、固定し安定した位置をもっこ を照らした、云々」の句が引用されている。 とがそれほど少ないのだ。 = モンテ 1 ニュ三巻九章に「大気や気候の変化は私に少しも影響しない。 四四二 >-a 八〇五九六二 いずこの空も、私にとっては一つである。私が自分のうちに生み出す内的変 一〇六 »-a 一六二 化によってしか、私は打撃を受けない。」 各人の支配的な情念を知っていれば、きっとその人に気に 四二二七四二四九 一〇八 入られる。とはいえ、各人は、幸福についてもっている観念 一七四 たとい人々が彼らの言うことがらに利害関係をもっていな のうちですら、自分自身の幸福に反する気まぐれを起す。こ いときでも、そのことから、彼らは嘘を言わないと絶対的に れこそ、われわれを当惑させる不可思議である。 一モンテーニュ「随想録』三巻一三章「二人の人間が、同一の事物につい 結論してはならない。なぜなら、ただ嘘を言うのが目的で嘘 て、同様の判断を下したためしはない。またまったく相似した二つの意見を を言う人もあるからである。 見ることも不可能である。異なった人々のあいだでならばまだしも、同一人 リエの筆蹟である。 一この断章の「草稿原本』は、ジルベルト においてさえ、時が異なれば、そういうことは不可能である。」ラ・ロシュ 三八三 s-a 六三八、六三九一四四、 フコー「箴言集』四五「われわれの気分の気まぐれは、運命の気まぐれより 一〇九 一四三 \-a 一六六、 も、いっそう奇妙である。」 健康なときには、もし病気になったらどうなるだろうと案 三五九五五一一七五三 一〇七 一六三 じるが、病気になればなったで、人はよろこんで薬をのむ。 「炬火をもって大地を照らした。」 病気がそうさせるのである。健康のときに起るような情念 天気と私の気分とのあいだには、あまり関係がない。私は も、娯楽や散歩の欲望も、もはや起らなくなる。そういうも 私のうちに、私の曇天と晴天をもっている。私の仕事の運、 のは、病気のときの必要とは両立しない。そのときには、そ
132 それが理由をもったものになっている。それがまもなく消減 することを欲するのでないかぎり、それを真正な永久的なも のと思わせ、その起原を隠しておかなければならない。 一この断章のはじめの部分は欠如している。わずかに一行半ばかり残って いるが、その意味は明瞭でない。 = 「人間は」の意に解してよいであろう。 三モンテーニュ「随想録』一巻二三章「各人が自分の住んでいる国の法に 従うことこそ、規則のなかの規則、法のなかでも最も普遍的な法である。」 四モンテーニュ「随想録』二巻一二章「何たる善行であることか、昨日ま 川ひとすじ ではあれほど重んじられたのに、今日はもうそうでないとは ! 隔てると、それが罪悪になるとは ! 何たる真理であることか、これらの山 山に限られていて、それを越えた向こう側の世界では虚偽になるとは ! 」 五モンテーニュ「随想録』前注と同じ箇所に「だが面白いことに彼らは、 法律に若干の確実性を与えようとして、法律のなかには堅固で永続的で不動 なものもある、これがいわゆる自然法で、それ自身の本質によって人類のう ちに刻みつけられたものである、と言っている。 : : : 気の毒なことに、彼ら の選んだ三つ四つの自然法のなかで、一国民によってはおろか数人によって さえ、反対されず拒否されなかったような法は、唯の一つもない。」 六モンテーニュ「随想録』前注と同じ箇所に「習慣や法律においてほど、 人々がまちまちであることはない。或ることがこちらで嫌悪されているかと 思うと、他のところでは称讃されている。たとえばラケダイモンでは盗みの 巧みさがほめられたように。近親間の結婚なども、わが国では死に当る罪と ・ : 幼児殺し、父親殺し、姦 されているが、他の国では名誉とされている。 通 : : : など、要するにどんな極端なことでも、どこかの国の風習で許されて いないものはない。」 宅前注と同じ箇所。キケロ「善悪の極限について」五巻二一章からモンテ ーニュが引用した句。 ハモンテーニュ「随想録』三巻一章、セネ力「書簡』九五からの引用。 九モンテーニュ『随想録」三巻一三章、タキッス「年代記」三巻二五章か らの引用。 一 0 モノテーニュ「随想録』二巻一二章「プロタゴラスとアリストンは、法 ・ : プラ 律の正義に、立法者の権威と意見より以外の本質を与えなかった。・ トンの中のトラシュマコスは、勢力者の便宜以外に法律はないと言ってい = モンテーニュ「随想録』三巻一三章「キュレネ学派の説くところによれ ば、それ自身正しいというようなものは何もなく、習慣と法律が正義をつく る、という。」 パスカルは、この文章の主語をはじめ「法律は : : : 」と書いて、後に 「習慣は : : : 」と直したため ( 版、版による ) 、このあたりの原文は若干 混乱している。次の文章の「これがその権威の神秘的な基礎である」の「そ の権威」は、直された文脈からいえば「習慣のもっ権威」と解するのが妥当 であるが、はじめに書かれた「法律は : : : 」という主語が意味の上で存続し ているので「法律のもっ権威」と解した方が内容的にいっそうよくわかる。 さらに次の文章の「それをその起原までつきとめていくと、それは消減して しまう」の「それ」についても同様で、直された文脈の上では、「習慣」を 指すものと見るのが正しいであろうが、意味内容の上では「法律」を指すも のと見ることができる。なお、モンテーニュ三巻一三章前注の箇所に続く部 分に「法律が信奉されるのは、それが正しいからではなく、それが法律であ るからである。これが法律の神秘的な基礎であり、法律の基礎はこのほかに ない。云々」とあり、また二巻一二章に「法律をその発生までさかの・ほるの は危険である。云々」とある。 一三モンテーニュ二巻一二章「彼 ( プラトン ) は、その「国家篇』のなかで きわめて率直に、人々の利益のためには時に彼らを欺く必要がある、と言っ 一四モンテーニュ二巻一二章に引用されているアウグスチヌスのことば。 「神の国』四巻二七章。 六一六四一一二二三一 ニ九五 私のもの、君のもの。 「この犬はおれのだ。」この可 憐な子供たちが、そう言った。「そこはおれが日向。ほっこを する場所だ。」そこに地上における簒奪の始まりと写しがあ る。 五五五九一〇七二三四 ニ九六 戦争をして多くの人間を殺すべきか否か、イス。ハニア人を
もし理性が理性的でありさえすれば、もちろん、これくら いっそう賢明な人々は言う。人間は最高善を見いだす いで十分なはずである。理性は、自分がまだ確実なものを何 ことができない。たといそれを望んでもむだである、と。こ も見いだしえないでいることを告白するほど、十分に理性的 れくらいかそえあげれば、十分に納得がいくであろう。 である。しかし理性は、確実なものに到達しうるという希望 を、まだ失っていない。それどころか、理性はこの探究にお 次の項目を法律のあとに移す。 いていままでと同様に熱心であり、この征服に必要な力を自 だが、この立派な哲学は、あれほど長いあいだの緊張した 努力にもかかわらす、何一つ確実なものをつかまなか 0 たの己のうちにもっていると信じている。だから、理性をして、 ではないか ? ・それにしても、少なくとも霊魂は、自己自身行くところまで行かせなければならぬ。そして、結果の上で を知ることができるのではあるまいか ? ・その点を明らかにその能力を吟味したのちに、その力をそれだけのものとして する必要がある。この問題について、世の専門家たちの説を承認しよう。はたして理性は、真理をとらえる力と手がかり 聞こう。彼らは霊魂の実体についてどう考えたか ? ( 三九を、いくらかでももっているであろうか ? 〕 一この断章はパスカルが書いたあとでその全部を消している。 五 ) 彼らは霊魂の所在をいっそうよくつきとめることができ = たぶんこれはモンテーニュが「随想録』二巻一二章「レイモン・スポン たであろうか ? ( 三九五 ) 彼らは霊魂の起原、その持続、そ の弁護」でとりあっかっている「神の本性ーについての問題であろう。 の離脱について、何を見いだしたであろうか ? ( 三九九 ) 三版によって補なう。 四ヴェルギリウス「ゲォルギカ』二巻四九〇。モンテーニュ三巻一〇章に 引用されている。 してみると、霊魂は自己の弱い光にとって、あまりに高貴 五ホラチウス『書簡』一巻六ノ一。モンテーニュ二巻一二章に引用されて な問題なのであろうか ? ・それでは、霊魂を、物質のところ 六版、版の判読にしたがう。 まで引き下げてみよう。はたして霊魂は、それから生気を受 宅モンテーニュ『随想録』二巻一二章「われわれの愚かさについての数多 けている自己自身の身体が、何からできているかを知ってい くの証拠のなかでも、次の点は忘れられてはならないと思う。すなわち、人 るであろうか ? はたして霊魂は、それが眺めたり意のまま 間はいかに欲しても、自分の必要とするものを見いだすことができない。わ れわれは現に享受している場合は別として、想像や希求によっては、われわ 篇に動かしたりする他のもろもろの物体が、何からできている れが自己を満足させるのに必要としているものについて、一致した意見をも 二かを知っているであろうか ? ・何でも知らないものはないと ・ : 人間の最高善の問題について起った争いほど、哲学 っことができない。・ 第いうかの偉大な独断論者たちも、そのことについて、何を知 この争いからして、ヴァ 者たちのあいだの激しくかっきびしい争いはない。 っていたであろうか ? ( 三九一一 D 「これらの意見のうちいす ・ : 或る人々 ロのかそえるところによれば、二百八十八の学派が生じた。・ は、われわれの幸福は徳のうちにあると言い、他の人々は、肉体的快楽のう れが真であるかは、神が決定するであろう。」
それを言うのは、我慢のならないことである。しかも、この ようなことを一一「ロうにいたっては : 一シャロンの『知恵について』 ( 1601 ) の第一巻は、自己認識について論 じたもので、六十二章に分れている。 = 版、版、版とも、フォージェールの訂正にしたがっている。 三モンテーニュ「随想録』の序文にいう。「私が描いているのは、この自 分である。」 e 三九一一六八〇九三六七七 モンテーニュの欠陥は大きい みだらなことば。グールネー嬢が何と言おうとも、それは 無価値である。 軽率に信じる。「眼のない人間。」 無知である。「円の求積法。」「いっそう広大な世界ー 自殺や死についての彼の意見。彼は、恐れもなく悔いもな 、救いに対する無関心を吹きこむ。彼の著書は、信仰への 導きのために書かれたのではないから、何も信仰にとらわれ る必要はない。しかし、信仰のさまたげにならぬようにする 心がけは、、 しつの場合にも必要である。生涯の或る場合 における彼のいささか自由な享楽的な意 七三〇、七三一 見については、寛恕することができる。しかし、死について の彼のまったく異教的な意見は許すことができない。なぜな ら、もし少なくともキリスト教徒として死ぬことを欲しない ならば、人はあらゆる信仰を棄てなければならないからであ る。しかるに、彼はその著書の全巻を通じて、意気地なく虹 気力に死ぬことをしか考えない。 一グールネー嬢 ( 1565 ー 1645 ) は若くしてモンテーニュに私淑し、「結縁 の娘」とまで呼ばれた。モノテーニュの死後、「随想録』を校訂し、一五九 五年より一六三五年までに諸種の版を刊行した。ここでは一六三五年版のグ ールネー嬢の序文を指して言っているのであろう。 一一モンテーニュ「随想録』二巻一二章「プリニウスとヘロドトスの言うと ころを信じるならば、或る地方には、われわれとは似ても似つかぬ多くの人 種がある。・ : ・ : 或る地方では、人間が頭をもたず、眼やロを胸部につけて、 生まれてくる。 : ・或る地方には、額に一つしか眼をもたない人間がいる。」 三モンテーニュは「随想録』二巻一四章で、理性と経験がまったく相反す る場合の例として「円の求積法」をあげている。 四「随想録』二巻一二章「プトレマイオスはわれわれの世界の限界をうち たてた。すべての古代の哲学者たちは、世界の広さをとらえたと思った。 : ・千年前には、コスモグラフィーの知識を疑うなどとは、。ヒュロンの徒の : ・ところが、われわれの世紀にいたって、大地の無限 することであった。・ の広さが発見された。現代の地理学者は、いまやすべては見いだされた、と ・ : しかし。フトレマイオスでさえ、かっては彼の理 断言してはばからない。・ 性にもとづいて誤った判断を下したくらいだから、現代の地理学者の言うこ とを、いま私が信用するのは、愚ではないだろうか ? 」 五たとえば「随想録』二巻三章「最も意志的な死が、最も美しい。生は他 ・ : 死の自由がさまたげら 人の意志によるが、死はわれわれの意志による。 れるならば、生きることは屈辱である。」 大 e 版の訂正にしたがう。一六三五年版および一六五二年版「随想録』の ペ 1 ジを示す。二巻三七章の最初の部分、モンテーニュが自分の病気のこと を語っている箇所がそれに当る。 三九七六八九七五八»--ä七九 私がモンテーニュのなかに読みとるすべてのものを、私は モンテーニュのうちに見いだすのでなく、私自身のうちに見 いだすのである。 一これと同様の思想はモンテーニュ自身のうちにも見られる。「随想録」 一巻二六章「真理と理性は、各人に共通のものである。それは、最初にそれ を言った人のものでもなければ、後からそれを言った人のものでもない。彼 も私も同じようにそれを理解しそれを見るのであるから、それはプラトンに
いずれの方向にせよ、徳をその極端にまでおしすすめようの者は、ひとしく愚かであり、ひとしく不徳である。たとえ 1 とすると、はからずも悪徳が、無限小の側からは、それと気ば、水中、一寸ぐらいのところにいる者の場合と同様に。 一水中、一寸ぐらいのところにいる者も、水中数尺のところにいる者も、 づかれぬ径路で徳のなかに忍びこむようなことになり、また 水中にいるという点では変りがない。モンテーニ、は「随想録』二巻二章 無限大の側からは、悪徳が群をなしてあらわれるので、われ で、もろもろの悪徳は、それらがすべて悪徳であるという点では、いずれも われはそのなかに没して、もはや徳が見えなくなる。 みな同様であり、限界を百歩越えた者も十歩しか越えない者も、その性質が 悪いという点では同様であると説くストア派の説を、批判している。 れわれは完全性そのものをそこなうことになる。 一一三九一四七二九九 一モンテーニュ「随想録」一巻一五章「勇気にも、その他の徳の場合と同 三七五 様、やはりその限度がある。それを超えると、人は悪徳のみちに迷いこむ。」 最高善。ーー最高善についての議論。「汝は、汝自身およ 一巻三〇章「あまり熱烈な欲求をもって徳をいだくと、かえってそれが悪徳 び汝のうちから生じた善に満足するがいい。」 になってしまうようなことがある。」 そこに矛盾がある。なぜなら、彼らは結局、自殺をすすめ 三九一六七八二五七 三五八 三二九 るからである。 人間は天使でもなければ禽獣でもない。天使になろうとす ああ、何という幸福な人生か ! ベストから逃れるよう る者が禽獣になるのは、不幸なことである。 に、人がそれから逃れるこの人生は。 一モンテーニュ「随想録』三巻一三章「彼らは、自己のそとに自己を置こ 一この断章は「草稿原本』には欠如しており、「第一写本』に依拠するま うとし、人間であることからのがれようとする。それは愚かなことである。 のである。なお、「第一写本』では、これは第一部第十綴「最高善」という 彼らは天使にならないで、禽獣になる。」 見出しのもとに置かれており、同じ綴に断章四二五がふくまれる。 e 三九一六七四六六 ニセネ力「ルキリウス宛書簡』二〇ノ八。 三五九 三二五 三モンテーニュ「随想録』二巻三章「ストア派の人々の言うところによれ われわれが徳のなかに身を持しているのは、われわれ自身 ば、自ら幸福のさなかにありながら、ころあいを見て人生におさらばをする の力によってではない。むしろ、相反する二つの風のあいだ のが、賢者にとっては、自然にかなった生きかたなのである。」 に立っているときのように、対立する二つの悪徳の均衡によ 四ジャンセニウス『まったく自然な状態について』二巻八章。 三一六九六二八〇一一一 ってである。それらの悪徳の一方を取り除いてみよ。われわ 三七一 れは他方の悪徳におちいるであろう。 「元老院の決議や、人民議会の決議によって : : : 。」 e 一三六一四四—二八二 三七六 同様な箇所をさがすこと。 ストア派の人々のとなえることは、かくも困難であり、か 一セネ力「ルキリウス宛書簡』九五。モンテーニュ『随想録』三巻一章。 三四七注 i--ä五〇七三〇四 くも空虚である。 三七一 ストア派の人々は言う。知恵の高い段階に達しないすべて 「元老院や人民議会の決議によってなされた犯罪がある。」
向にしたがって、時には一つの顔を、時には他の顔を与える。」二巻一二章不平を言うならば、彼らに何もしないで居させてみる、、 「事物には、さまざまな面と、さまざまな見かたがある。さまざまな意見が 生じてくるのは、主としてそこからである。或る国民は事物を一つの面から 三七八六一三 =.21 一六〇 見る。そしてそれだけである。他の国民は別の面から見る。」 »-2 二〇一 = 同三巻二章「私の叙述を時宜にかなったものとしなければならない。私 倦怠。 情念もなく、仕事もなく、気ばらしもなく、専 が時として変るのは、偶然によるばかりでなく、故意にそうすることもあ 心すべき営みもなしに、まったき休息のうちにあることほ る。云々。」 ど、人間にとって耐えがたいことはない。彼はそのとき、自 一一八»-a 一二四一三九 »-; 一五九 己の虚無、自己の遺棄、自己の不満、自己の依存、自己の無 相反。ーー人間は、生来、信じやすくて疑いぶかく、臆病 力、自己の空虚を感じる。たちまち、彼の魂のおくそこか であって大胆である。 ら、倦怠、憂鬱、悲哀、苦悩、悔展、絶望が湧き出るであろ e 七五七八—一五八 ? >-a 一六〇 人間の叙述。依存、独立の願い、要求。 一モンテーニュ「随想録』二巻一二章「そこから、人間を悩ますもろもろ 二一 i--a 二四六一一九九 の悪、すなわち罪、病気、迷い、煩悶、絶望などの、主たる源泉が生じる。」 さらに「われわれがわれわれの分としてもっているのは、気まぐれ、不決 人間の状態。気まぐれ、倦怠、不安。 断、不確実、悲嘆、迷信、未来のこと特に死後のことについての不安、野 七六七九一五九二〇〇 心、貪欲、嫉妬、羨望、放埓、狂暴で抑えがたい欲望、戦争、虚偽、不信、 われわれが専心していた仕事から離れるときに生じる倦 中傷、好奇心などである。」ポシュエもその「邪欲論』のなかで「人間が彼 怠。或る男が家事にたずさわって楽しく暮している。彼が好 自身のうちに見いだすものは、彼が神なしに持ちうるもの、すなわち誤謬、 虚偽、迷妄、罪、彼の情欲の混乱、理性に対する彼自身の反抗、彼の希望の きな女に会うとか、五、六日、楽しく遊ぶとしよう。彼が最 欺瞞、恐るべき彼の絶望の恐怖、怒り、嫉み、意地悪などでしかない」と言 とんなに惨めな気持になることだろ 初の仕事に戻るならば、。 っている。 う。これほどありふれたことはない。 四四 >-a 四九八六一七九 e 三八三六四一一六三 »-ä一九八 私の思うに、カエサルは世界を征服して自ら楽しもうとす われわれの本性は、運動のうちにある。まったき休息は死 るには、あまりに年をとりすぎていた。そのような楽しみ である。 は、アウグスッスか、またはアレクサンドロスに、ふさわし 一モンテーニュ「随想録』三巻一三章「われわれの生は、運動にほかなら ない。」二巻八章「存在は運動と行為のうちに存する。」 かった。この二人は、抑制することが困難なくらいの青年で 四八八四一五二七三 あった。けれども、カエサルはもっと成熟していたはずであ 二〇二 活動。ーーもし兵士あるいは労働者が自分の労苦についてる。
・ハール・コク・ハ Far cochba ( アラム語で星の子の意、「民数紀略」二 「ラザロは眠れり」ーしかもそのあとで彼よ言った「ラザ ハドリアヌスの時代に・ハレスチナにおけるユダヤ人 四章一七節 ) ローマ皇帝 ロは死にたり。」 の反乱を指揮し、多くのユダヤ人からメシアとして期待されたが、二年間で 一「ヨハネ伝」一〇章三三、三四、三五節。 惨敗したため、偽りの子 ( ・ハール・コジ・ ( ) とあだ名された。パスカルがこ = 「ヨハネ伝』一一章四、一一、一四節。 こに書いている・ハール・コス・ハ parcosba という形は『プギオ・フィデイ』 e 二七 0 三一八五九五 第二部四章一七節に拠ったものであろう。グロチウス「キリスト教の真理に 七五五 六四四 ついて」五巻一九章には「ユダヤ人によって祭り上げられた二人のメシア」 四福音書のあいだの外見上の不一致。 のことが語られている。「使徒行伝』一三章に出てくる・ハルイエスのごとき パスカルは「要約イエス・キリスト伝』で、四福音書を一つの順序に書 も偽キリストの一人である。 き改めることを試みた。 三スエトニウスは一世紀から二世紀にかけて生きたローマの歴史家。タキ ッスもほ・ほ同時代のロ 1 マの歴史家。ョセフスについては、断章六一九注三 e 二八〇三四四六三五 七五六 五九五 を参照。この三人の名は、グロチウス三巻四章および二章からの覚え書であ 起るべきことがらを明瞭に予言し、人々を盲目にするとと ろう。 ( スエトニウス「クラウデイウス伝」二五章、タキッス「年代記」一五 巻 ) もに開眼させるというその意図を公言し、起るべき明瞭なこ 四「創世記』四九章一〇節「杖ユダを離れず法を立つるものその足の間を とがらのあいだに曖昧さを混えるそのような人に対して、わ はなるることなくしてシロの来るときにまでおよばん。彼にもろもろの民し たがうべし。」シ 0 の意味に関しては諸説があるが、一般にはメシアを指すれわれは尊敬以外の何をいだくことができようか ? ・ e 二二七 >-a 二六一 * 四九五 ものと解されている。「エゼキエル書』二一章二七節、「ダニエル書』九章一一 七五七 五九〇 四節以下参照。 第一の来臨の時期は予言されているが、第二の来臨の時期 「イザャ書』六章九、一〇節。 は予言されていない。というのも、第一の来臨はしのびやか 大版は「三つの時代を区分する人々」と読んでいるが、ここでは版、 版にしたがう。「ダニエル書』の七十週の時代区分をするユダヤ人、特に なものであり、第二の来臨は輝かしく、彼の敵でさえも認め ョセフスらを指すのであろう。事実、ヨセフスは「ユダヤ民族古代史」一 0 冫。いかないほど明白なものであるはずだからであ ないわけこよ 巻一一章で紀元七〇年のエルサレムの破減に「ダニエル書」の七十週を適用 る。けれども、彼はおしのびでしか、また聖書をさぐる人た している。これに対する「ギリシア人たちの暴言」とは、おそらくョセフス が反駁したアビオンらをいうのであろう。 ちによって知られるためにしか、来臨しないはずであったか 四一八注»-a 七三〇九四一 ら : 七五四 五九四 一三六»-a 二五五四八九 七五八 五八九 + 「なんじ人なるにおのれを神とす。」 第 神は、メシアを善良な人々には認められるが、邪悪な人々 しかも「聖書は 「汝らは神々なり」としるされている。 にはわからないようにさせるために、メシアを次のように予 廃るべきにあらす。」 8 言した。もしメシア来臨のしかたが明瞭に予言されていたな 「この病いは死にいたらすーーーしかも死にいたる。
他のことを信じない。国王を恐るべきものであると思う習慣 いなるむだごとを言おうとしている。 自分の妄想のとりこになっている人間ほど不幸なものがまをもった人は : : : 等々。 してみると、われわれの魂は、数や空間や運動を見ること たとあろうか ? 一モンテーニ = 『随想録』一六五二年版のべージを指す。この断章は、 に慣れたために、それを信じ、それ以外のものを信じなくな 「草稿原本」では断章九〇と並べて記されている。 ったのだということを、誰が疑うであろうか ? = テレンチウス喜劇「ヘアウトンチモルメノス」 ( 自分で自分を苦しめる 一断章二三三を参照。 男 ) 三幕五場八。モンテーニュ「随想録』三巻一章「誰でも下らないおしゃ 三四七注 '--ä五〇六三三 九〇 一〇五、一一七 べりをしない者はない。しかしことさらにそれをやられると、迷惑する。」 そのあとに、この句が引用されている。 しばしば見なれているものについては、たといその原因が 三プリニウス二巻七。モンテーニュ二巻一二章「われわれが自分の猿知恵 わからない場合でも、人は驚かない。けれども、かって見た と創作で自己を欺くのは、憐れむべきことである。「彼らは自分が案出した こともないようなものが起ると、人はこれを驚異と見なす。 ものを恐れる。』 ( ルカヌス ) あたかも、子供たちが、自分で友だちの顔に墨 を塗りつけておきながら、その顔を見てこわがるようなものである。」その (Cic. ) あとに、この句が引用されている。次の断章八八もこの箇所と関係がある。 一この断章は「草稿原本」では、断章八七と同じべ 1 ジにある。モンテー - 一 = 「随想録」二巻三〇章に引用されているキケロの句。キケロ「占いにつ 四三六七七九—一五三 いて」二巻二七章。 三八九六六〇九一三 自分で顔を塗りつけておきながら、その顔を怖がる子供た ち。それが子供というものである。だが、子供のときにそん われわれは、つねに同 太陽の海綿 (spongia solis) 。 なに弱い者が、年をとったからといって、どうしてそれほど じ結果が生じるのを見ると、そこから一つの自然的必然性を 強くなりえよう ? ・変ったと思うのは、ただそう思うだけ 結論する。たとえば、明日は来るであろう、などと。けれど だ。すべて進歩によって完成するものは、また進歩によって も、自然はしばしばわれわれを裏切り、自然そのものの法則 消減する。すべて弱かったものは、けっして絶対的に強くは にしたがわないことがある。 なりえない。「彼は成長した。彼は変った」と言っても、む 一従来の注釈者は、この「太陽の海綿」 ( スポンギア・ソリス ) という一 篇だである。彼はやはり同じである。 語について、さまざまな臆測的解釈を下したが、いずれも不満足なものであ 一前章の注三を参照。 った。アヴェはこれを太陽黒点 (taches du soleil) の意味に解した。プラン シュヴィックもこの解釈を踏襲し、「パスカルはそこに太陽のやがて暗くな 四九〇四一九九四 第 八九 »-a 四四九 る兆候を見、そこから太陽の消減することがあるかも知れないという結論を 習慣はわれわれの本性である。信仰の習慣をもった人は、 下したのである」と言う。事実、太陽の表面に汚点が見られることは、一六 一〇年オランダの天文家ョ ( ン・フア・フリキウスが発見し、「太陽における その信仰をいだき、地獄を恐れずにはいられなくなり、その
e 五〇»-ä五五 * 一〇三一七二 のときの状態にふさわしい情念や欲望が、自然によって与え 気まぐれ。ーー人は普通のオルガンをひくつもりで、人間 られる。われわれをかきみだす煩悶があるとすれば、それは に接する。なるほど人間はオルガンではあるが、奇妙な、変 自然が起させるのでなく、われわれ自身が呼び起すにすぎな 、。というのも、煩悶は、われわれの現にある状態に、われりやすい、移り気なオルガンである。〔そのパイ。フは音階の 順にならんでいない。普通のオルガンしかひけない人〕は、 われの現にないときの情念を結びつけるからである。 : がとこに このオルガンでは諧音を出すことができない 自然はわれわれをいかなる状態においてもつねに不幸にすあるかを知らなければならない。 パスカルが線をひいて消した箇所である。 るので、われわれの欲望がそれに代ってわれわれに幸福な状 = 草稿には欠如しているが、多くの版本は「鍵盤」 (touches) という語を 態を描いてみせる。というのも、欲望は、われわれの現にあ 補っている。版、 e 版ではモンテーニュの次の一節に見いだされる mar- ches という語を補っているが、マルシュは、普通の場合ペダルのことであ・ る状態に、われわれの現にないときの快楽を結びつけるから る。「随想録』二巻一章「 : : : たとえば若きカトンの場合にそのことが見ら である。われわれがそういう快楽に到達したとしても、それ れる。一つのペダル (marche) を踏んだ者は、すべてに触れたも同然であ でわれわれが幸福になれるとはかぎらない。というのも、わ る。それはきわめて協和的な音の調和であり、けっして調子はずれになるこ れわれはこの新しい状態にふさわしい他の欲望をいだくであ とがない。」 ろうからである。 e 四九 b--a 五四一〇二一七一 この一般的な命題を個々の場合にあてはめなければならな 気まぐれ。ーー事物は種々の性質をもっており、霊魂は種 種の性向をもっている。なぜなら、霊魂に示されるもので、 一この断章の前半と後半は一見矛盾しているように見えるが、これはプラ 単一なものは、一つもないからであり、また霊魂は、いかオ ンシュヴィックの言うように、二つの互いに矛盾する迷妄を指摘したもので る対象に対しても、けっして単一なものとして現われないか ある。人は幸福なときには、不幸を予測して心配するが、不幸なときには、 欲望によって幸福を夢みる。モンテ 1 ニュ「随想録』一巻一九章、二巻六 らである。そういうわけで、人は同一の事物に対して、泣い 章、二巻三七章にも同様な思想が見える。ラ・ロシュフコ 1 「箴言集』四九 たり笑ったりする。 「人間は自分でそう思っているほど、幸福でもなければ、不幸でもない。」 一モンテー一 : 「随想録』一巻三八章は「われわれは同一の事物について いかに泣いたり笑ったりするか」という表題である。 七〇七三一二一一七〇 一四一七五四 p•-:p-a 一七三 第現存する快楽が虚妄であることについての意識と、現存し ーー・自分の労働だけで生活する 気まぐれで、奇妙なこと。 ない快楽が空しいものであることについての無知とが、気ま ことと、世界最強の国を統治することとは、まったく相反す ぐれの原因である。