理性と正義の在り場所を確実に知っているかのごとくにであで、ついに自分を、ついで他人を、信頼することができなく る。人はいつも自分が欺かれているのを見いだす。しかも、 なった。私はあらゆる国々や人々が変るのを見た。かくし 笑うべき謙遜によって、そのことは自分のあやまちだと思い て、真の正義に関する判断をいくたびも変えたのち、私は、 こみ、自分が持っているのをつねに誇りとしている処世術のわれわれの本性が不断の変化でしかないことを知った。それ あやまちだとは思わない。けれども、。ヒ = ロンの徒でないそ以来、もはや私は変らなかった。もし私が変るとしたら、私 のような人々が世間にたくさんいるということは、ピロニス の考えが強くなるだけであろう。 ムの名誉のために、結構なことである。なぜなら、それによ 独断論者に逆戻りしたピロンの徒アルケシラオス。〕 って、人間はまったく奇妙な意見をいだきうるものだという 一西暦前三一六年頃に生まれ、二四一年頃に死んだギリシアの哲学者。新 アカデメイアの創始者。ストア派の独断論とくにゼノンに反対し、真理の確 ことが証示されるからである。というのも、人間は、自分は 実な標識は存在しないと言い 、合理的に行為するには蓋然性 ( エウロゴン ) そういう生まれつきの避けがたい弱さのなかにはいないと思 にしたがうべきだと説いた。 い、むしろ反対に自分は生まれつぎの知恵のなかにいるのだ 三〇三四七一一八六 と思いこむことができるからである。 この学派は、その味方によってよりも、その敵によって強 ビュ・ロンの徒でない人々があるということほど、ピロニス 化される。なぜなら、人間の弱さは、それを認識している人 ムに力を与えるものはない。もしすべての人々がピ = ロンの人においてよりも、それを認識していない人々においていっ 徒であったなら、彼ら。ヒ = ロンの徒はまちがっていることにそうよく現われるからである。 三八七六五五二五五 なるであろう。 三七七 >-Ä一八七 三五二五二〇—二九〇 三七五 謙遜な議論も、高ぶった人々には傲慢のたねとなり、ヘり 二五二 〔私は一生の長いあ : こ、 しナ一つの正義があると信じてすごし くだった人々には謙遶のたねとなる。そのように、。ヒロニス てきた。その点で、私はまちがっていなかった。なぜなら、 ムの議論も、断定論者には断定のたねとなる。謙遯について 神がわれわれに正義を啓示しようと欲した程度に応じて、正謙遜に語る人は少なく、純潔について純潔に語る人は少な 義は存在するからである。けれども、私はそれをそういうふく、。ヒロニスムについて懐疑的に語る人は少ない。われわれ うには解しなかった。そこが私のまちがっていた点である。 は、虚偽、表裏、相反であるにすぎない。われわれはわれわ なぜなら、私はわれわれの正義を本質的に正しいと思い、正れ自身に対して自己を隠し、自己をいつわる。 e 三五一五一八—二八九 義を認識し判断する能力が私にあると思っていたからであ 三七八 »-a 三二七 る。けれども私は、、 しくたびも正しい判断をしそこなったの 。ヒロニスム。 ーー極端な精神は、極端な精神喪失と同様
142 うが、世には知識に先立っ初歩的無知もあり、他方、知識の後に来る博士的 れに従うべきである。あたかも、長上には、彼が正しいから 無知もある。 ・ : 精神力も能力も中くらいの人々のあいだに、誤った意見が ではなく、長上であるがゆえに従うべきであるのと同様であ 生まれる。云々。」また二巻一二章「自己を知り、自己を判断し、自己をと る」と言わなければならない。かくして、もしわれわれがそ がめる無知は、まったくの無知ではない。」 のことを民衆に了解させ、またそれこそまさに正義の定義で 八九九三八三三〇九 あることを了解させることができるならば、あらゆる反乱は 現実の理由。 正から反への不断の転換。 防止される。 そこでわれわれは、人間が何ら本質的でない事物を重んじ 七九八三»-* 一七三三〇八 ている点から、いかに彼が空しいものであるかを示した。本 世間の人々は事物を正しく判断する。なぜなら、彼らは人質的でない事物を重んじるそれらの意見は、すべてくつがえ 間の真の場所である自然的な無知のうちに、とどまっている された。 からである。知識。 よ二つの極をもっており、それらはたがい ついでわれわれは、すべてそれらの意見がきわめて健全な に触れあ「ている。一方の極は、生まれたばかりの人間が置ものであることを示した。すべてそれらの空しさにはそれだ かれているま 0 たくの自然的な無知である。他方の極は、人けの根拠があり、民衆の空しさは人のいうほどひどいもので 間の知りうるかぎりを知りつくしたのち、自分が何も知らな はないことを、われわれは示した。かくしてわれわれは、民 いことを自覚し、はじめの出発点たるあの同じ無知に戻「て衆の意見をくつがえした意見を、さらにくつがえした。 くる偉大な魂がついに到達する無知である。しかしこれは、 しかし、今度は、この最後の命題をくつがえさなければな 自己を知る有知の無知である。両者の中間にあって、自然的 らない。そして、民衆の意見がいかに健全であろうとも、彼 な無知からは脱却したが、もう一方の無知にまでは到達しえらが空しいものであることはやはり真である、ということを ていない人々は、ひとりよがりの知識でうわべを飾り、物の 示さなければならない。なぜなら、彼らは真理のある場所に わか「たふりをする。こういう連中が、世をまどわし、万事おいて真理を認めずに、真理のあらぬ場所に真理を置く。し 冫 = = った判断をくだす。 たがって彼らの意見は、やはり誤っており、あまり健全では 民衆と識者が世間の営みを構成している。中途半端な識者ないからである。 は、この営みを軽蔑し、そして軽蔑される。彼らは何ごとに 九二»-a 九六一八六三〇〇 も誤った判断をくだす。その点、世間の人々の方がものごと 現実の理由。ーー人間の弱さは、われわれがうちたてるか を正しく判断する。 くも多くの美の原因である。たとえば、リュートをよく弾き 一モンテーニ = 「随想録』一巻五四章「こういうふうに言ってもいいと思 うることは、人間の弱さのゆえにのみ、悪である。
引き出す。 いからである。反対に、原理によって推理することに慣れて たとえば、或る人々は、水のいろいろな作用を正しく理解 いる他の人々は、感情的なことがらについては少しも理解し する。そこにはわすかな原理しかない。しかし、その結果は ない。彼らはそこに原理を求めるからであり、一目で見るこ きわめて繊細なので、精神の最高の正しさがなければ、それとができないからである。 四 に到達することはできない。そうだからといって、この人た e 三五〇»-ä五一三九一一二四 ちは、必ずしも偉大な幾何学者でありうるとはかぎらない。 幾何学、繊細。ーー真の雄弁は、雄弁を軽蔑し、真の道徳 なぜなら、幾何学には多数の原理がふくまれているが、或る は、道徳を軽蔑する。 いいかえれば、判断の道徳は、基準を 精神的素質の人は、少数の原理を根柢まで洞察しうるけれど もたない精神の道徳を軽蔑する。 も、多数の原理をふくむ事物についてはさつばり洞察しえな なぜなら、精神に科学が属しているように、判断には感情 ということもあるからである。 が属しているからである。繊細さは判断の領分であり、幾何 してみると、二種の精神があることになる。一つは、原理学は精神の領分である。 から結果を鋭く洞察するもので、正確な精神がそれである。 哲学を軽蔑することこそ、真に哲学することである。 もう一つは、多数の原理を、混同することなく理解するもの 一版は「判断の道徳は基準をもたないーと解しているが、私は版のテ キストにしたがって自然な読み方をしたい。 ( ただしラフュマも、では で、幾何学的な精神がそれである。一は精神の力と正しさで qui est sans régles の前にティレをはさんでいるので、版と同様に解釈 あり、他は精神の広さである。ところで、一方は他方なしに しているように見える。 ) この基準は、判断のための基準であり、それを欠 存在しうる。精神は、強くて狭いこともありうるし、広くて いているのはむしろ精神の側である。精神の道徳すなわち哲学者たちの説く 弱いこともありうるからである。 道徳がいかに基準を欠いているかについては、断章一一〇、七三、二七四、三 八一、四二五、四二六、四三〇等がそれを立証している。 ここで述べられている二種の精神は、前の断章の二つの精神に対応する ものではない。ここではむしろ自然学的精神と幾何学的精神とが対比させら 五 れている。自然学的原理は少数であるが、その結果が微妙であることは、・ハ 基準をもたずに或る仕事を判断する人々と、そうでない人 スカルの「流体の平衡について」「大気の重さについて」の二論文を読めば 篇 明らかである。 人との違いは、あたかも、時計を持っている人々と、そうで e 四二七 i--a 七五一九一五二三 ない人々との違いである。一人は言う、コ一時間たった」と。 第感情によって判断することに慣れている人々は、推理的な他の一人は言う、「四十五分しかたたない」と。私は私の時 ことがらについてはほとんど何も理解しない。 , 彼らは一目で計を見て、一人に言う、「君は退屈している」と。そして私 見ぬこうとするからであり、原理を求めることに慣れていな は他の一人に言う、「君は時間のたつのを忘れている」と。
8 徳・・・・・・ 20 , 67 , 73 , 352 , 3 , 357 , ドマ・・・・・・ 47 4 ドナティスト・・・・・ 822 友・・・・・・ 101 , 155 , 553 都市・・・・・・ 115 時計・・・・・・ 5 395 , 434 , 4 独断論 ( 者 ) ・・・・・・ 73 , 184 , 392 , 特殊 ( 的 ) ・・・・・・ 40 , 777 359 , 4 , 485 , 82 , 503 , 515 富・・・・・・ 310 , 550 , 771 , 7 的 957 82 , 825bis, XIIIApp., 941 , トマス ( 派 ) ・・・・・・ 61 , 338 , 514 れ , ナザレ・・・・・・ 7 % ・・・ 313 , 320 内乱・・・ 319 , 729 , 805 , 85 内的 ( 内心 , 内面 ) ・・・・ 0 , トロイア・・・・・・ 6 奴隷・・・・・・ 28 , 5 418 , 421 , 423 , 425 , 4 , 4 四 , 430 , 431 , 433 , 434 , 438 , 439 , 囀 3 , 4 絽 , 450 , 4 , 489 , 4 , 508 , 58 , 510 , 511 , 512 , 525 , 534 , 5 , 557 , 559 , 533 , 認識・・・・・・ 72 , 73 , 208.255 叫 430 , 560bis, 807 , 田 2 ネプカドネザル・・・・・・ 632 , 639 , 熱・・・・・・ 72 , 8 ネストリウス・・・・・ 7 れ 722 ノア・・・・・・ 613 , 632 , 6 能力・・・・・・ 514 , 2 眠り・・・・・・ 434 ニカイア会議・・・・・・ 832 〃 肉体 ( 肉的 , 肉 ) ・・・・・・ 4 田 , 460 , 7 翫 人間 ( 性 ) ・・・ ニネべ人・・・・・ 497 846 , 852 日食月食・・・・・・ 173 434 〃 , 444 〃 , 524 二重 ( 性 ) ・・・ 849 〃 , 92 コーノレ・・ ニコラウス コテ。モ・・ 553 , 571 ・・・ 829 偽キリスト・・・・・ 826 , 8 , 842 , ・・・ 31 , 41 初 , ・・・ 25 , 31 , ・クザーヌス・・ ・・・四 , 37 , 41 , 60 , 347 , 3 田 , 378 , 3 町 , 398 , 3 的 , 146 , 168 , 169 , 194 , 1 , 339 , 72 , 94 , 94bis, 111 , 115 , 125 , ノエル神父・・・・・ 82 ら 21 五世・・・・・・ 925 馬鹿・・・・・・ 233 , 6 ハガイ・・・・・ 715 バリサイ人・・・・・・ 4 的 , 8 四 , 8 四 126 , 1 幻 , 139 , 140 , 141 , 144 400 , 402 , 403 , 409 , 416 , 417 背後の思想・・・・・・ 310 , 3 , 337 パウルス四世・・・・・ 951 409 , 410 / ヾウノレス・エミ 配置・・・・・・ 22 , リウス・・ パウロ・・・・・・ 2 , 533 , 5 田 , 616 , 墓・・・・・・ 552 蠅・・・・・・ 3 , 367 851 , 853 670 , 673 , 674 , 683 , 8 , 842 , 発明 " ・・・・ 302 , 354 , 793 バビロン ( 捕囚 ) ・・・・・・ 459 , 571 , バロニウス・・・・・・ 632 ハナニヤ・・・・・・ 827 , 828 話・・・・・・ 34 , 35 , 47 , , 72 ノヾ - ーノレコスノヾ・・ / ヾルイエス・・ 9 , 843 パラドクス・・・・・ 434 63 , 637 ・・・ 753 ・・・ 828 , 制 3 バルザック ( ゲ・ド・ ) ・・・・・・ 2 ・・・ 4 田 ノヾロ・ バン・・・・・・ 675 , 679 , 7 , 田 2 バン ( 牧羊神 ) ・・・・・・ 695 反キリスト・・・・・・ 843 判断・・・・・・ 1 , 2 , 4 , 5 , 30 , 37 , 82 , 105 , 287 , 2 % , 323 , 327 , 380 判断中止・・・・・・ 73 , 39 ・・・ 60 , 100 , 139.167 , 168 , 秘義・・・・・・ 434 , 552 , 制 3 435 , 田 4 , 別 8 光・・・・・・ 72 , 194 , 242 , 8 , 430 , 美・・・・・・ 31 , 32 , 33 , 82 , 3 四 693 悲惨・・・ 秘蹟・・・・・・ 2 , 923 550 , 5 , 2 , 田 6 , 640 , 678 48 , 494 , 510 , 527 , 546 , 547 , 411 , 416 , 430 , 435 , 437 , 3 , 397 , 398 , 3 的 , 405 , 4 , 48 169 , 171 , 174 , 174bis, 194 , びっこ・・・・・・ 80 , 234 513 , XIIIApp. 被造物・・・・・・ 430 , 431 , 439 , 4 田 , ヒゼキャ・・・・・・ 827 , 852 不安・・・・・・ 59 , 127 , 191 , 2 四 , 4 フアプリキウス・・・・・・ 91 434 〃 , 461 れ 3 & 新 , 38 , 391 , 392 , 395 , 432 , 373 , 374 , 377 , 378 , 3 新 , 7 , ビロニスム ( ヒ。ロニアン ) ・・ ヒラリウス・・・・・・ 632 , 849 ビラト・・・・・・ 744 , 791 , 798 病気・・・・・・ 82 , 18 , 4 392 , 394 , 434 63 〃 , 73 な , 1 別 , 373 , 374 , 375 , ・・・ 51 , 61 , ヒ。ュロン ( の徒 ) ・・ ヒ。ュロス・・・・・・ 139 ・・・ 921 , 9 日向ばっこ・・・・・・ 295 人食い人種・・・・・・ 324 否定すること・・・・・・ 260 必然 ( 的存在 ) ・・・・・・ 469 , 513 フイロン・・ 611 、 620 , 632 ,
三「詩篇』一一九篇三六節。 e 一六八一八三三六八三 二つの行き過ぎ。理性を排除すること、理性だけしか認め ないこと。 一七二八七三七二 ニ五四 二八〇 あまりに従順すぎる点で人々を責めなければならない場合 も、稀れではない。それは、不信仰と同様、自然的な悪徳で あり、しかも有害である。迷信。 一六六一八一三六六 ニ五五 七八〇 信仰は迷信と異なる。 信仰を迷信にいたるまで固守することは、それを破壊する ことである。 異端者たちは、われわれがかかる迷信的服従におちいって いる、といって非難する。 ( 服従すべき場合でないことがら においてそのような服従を要求するのは ) 、彼らがわれわれ に対して非難している通りのことをすることである。 聖体を信じない不信仰。それが見えないということで。 ( そこにイエス・キリストが見えないということで。なぜな ら、たとい彼がそこにいるにしても、それが見えるはずはな いからである。 ) 四 それらの諸命題を信じる迷信。 ( それらの諸命題が一つの 書物のなかに見られないにしても、それらはその書物のなか 幻にあると信じる迷信。なぜなら、もしそれらがあるならば、 それらは見えるはすだからである。 ) 信仰云々。 、 = 、三「第一写本』では別人の手蹟でこのように補なわれている。たぶ んこれは一六七〇年のポ 1 ル・ロワイヤル版のためにニコールが補足したも のであろう。 一一ここで「それらの諸命題」といっているのは、いわゆるジャンセニウス の五カ条の命題のことである。「プロヴァンシアル第十八書簡』でパスカル は次のように言っている。「しからば、われわれは、何によって、事実の真 理を知るのでしようか ? 神父さん。それは、その真理の正当な判断者たる 眼によってです。ちょうど、理性が自然的合理的事物の判断者であり、信仰 が超自然的啓示的事物の判断者であるのと同様です。な・せか、とおっしやる なら、申しますが、神父さん、教会の二人の最大の博士たる聖アウグスチヌ スと聖トマスの意見によれば、感覚、理性、信仰は、われわれの認識の三つ の原理であり、おのおの独自の対象領域を持ち、その領域内での確実性をも っているからです。 : : : そこで、以上のことからこう結論しましよう。何ら かの命題を検討する必要が起った場合、われわれはその命題を以上の三つの 原理のいずれに帰すべきであるかを知るために、まずその命題の性質を認識 しなければなりません。もし超自然的な事物が問題であるならば、われわれ はそれを感覚や理性によってではなく、聖書と教会の決定とによって判断し ましよう。もし啓示に関することでなく、自然的理性に相応した命題が問題 であるならば、自然的理性がその本来の判断者であるでしよう。最後に、事 実の点が問題であるならば、本来その認識をつかさどる感覚に、われわれは 信頼しましよう。」聖体の秘蹟の場合と、五カ条の命題の有無に関する場合 とは、まさに対照的である。前者については信仰がその判断者であり、後者 については感覚がその判断者である。 四トウ 1 ルヌールは「信仰は、理性の服従とその運用のうちに存する」と いう句を想定している。 H 一六四一七九三六四 ニ五六 七八一 真のキリスト者は少ない。しかも信仰に関して、私はそう 言う。信じている者は多いが、迷信によってである。信じて いない者も多いが、放縦によってである。両者のあいだにあ る者は少ない
である。理性は事物を評価することができない。 いならば、何と無力なことであろうか ! 理性の敵であり、理性を制御し支配することを好むこの尊 諸君はこう言うかもしれない。「畏敬すべき老齢のゆえに 大な能力は、自分がいかに万能であるかを示すために、人間全民衆の敬意のまとであるこの法官は、純粋至高な理性をも のうちに第一一の本性をつくった。それは人間を、幸福だと思 って自ら律しており、弱者の想像をゆがめるにすぎないよう わせ、不幸だと思わせ、健康だと思わせ、病気だと思わせ、 な些細な事情などにはとらわれずに、事物をその本性におい 富めると思わせ、貧しいと思わせる。それは理性をして、信て判断するであろう」と。この法官が説教を聴きに行ったと じさせ、疑わせ、否定させる。それは感覚を、中断させた しよう。彼はその堅固な理性をその熱烈な愛によっていよい り、働かせたりする。それは人間を、自ら愚人だと思いこま よ強固にし、敬虔な心ばせをいだいて列席している。彼は模 せたり、賢者だと思いこませたりする。そして何より癪にさ範的な尊敬をも 0 て説教をきこうと待ちかまえている。そこ わるのは、それがその主人公の心に理性とは違ったしかたで へ説教者が現われたとしよう。この説教者は生まれつき嗄れ 充実した完全な満足を与えることである。想像によ「て自ら声で、珍妙な顔つきをしていたとしよう。また理髪師が彼の 有能だと思いこんでいる者は、分別ある人が適度に自ら楽し顔を剃りそこなっていたとしよう。そのうえ何かの拍子で顔 むのとはまったく違ったしかたで、ひとりよがりをしてい が汚れていたとしよう 。いかなる大真理をこの説教者が語っ る。彼らは威ば「て、人々を見さげる。彼らは大胆に、自信たにせよ、われわれの老法官の謹厳さが崩れることは請けあ をもって、議論をする。分別ある人の方が、かえって恐る恐 いである。 る疑いながら議論をする。また、その容貌の快活さは、しば 世の最大の哲学者が、身を置くに十分すぎるくらいの板の しば聴者の意見を、彼らの有利な方へ傾かせる。想像によっ上に乗って、その下に断崖をひかえているとしたら、いかに て自ら賢者だと思いこんでいる者は、同様の性質の判断者か彼の理性が身の安全を保証しても、彼は想像にうちまかされ ら、ひいきを受ける。想像力は愚人を知者にすることはできてしまうであろう。たいていの人はそれを考えただけでも、 ないが、愚人を幸福にすることができる。それに反して理性色を失い、冷汗をもよおさずにはいられない。 は、その味方を不幸にするだけである。想像は人々を栄光で 私は想像の結果をすべてかぞえあげようというのではな おおい、理性は人々を恥辱でおおう。 評判を配分するのはいったい誰か ? 人物や作品や法律や 猫や鼠を見かけたり、炭がはねたりしたために、理性が度 貴族に、尊敬と名声を与えるのは、この想像力でなくて何でを失うことがあるのを、知らない者があろうか ? 声の調子 あろうか ? 地上のあらゆる富も、想像力の同意が得られな は、どんな賢者をも欺き、演説や詩の効果を変える。
ちにあると言い、また他の人々は、自然にしたがうことにあると言う。或る 者は、知識のうちにあると言い、或る者は、苦痛をもたないことにあると言 い、或る者は、外観にうちまかされないことにあると言う。そしてこの思想 に近いもので、古代のビュタゴラスに由来するもう一つの思想がある。「何 ものにも驚かないことこそ、ヌマキウスよ、幸福を生みそれを保つほとんど 唯一の方法である。」これは・ヒュロンの徒の目標である。アリストテレスは、 何ものにも驚嘆しないことを心の広さに帰している。さらにアルケシラオス は、判断の中正不偏な状態とその堅持とが善であり、同意と追随が不徳であ り悪である、となした。ビュロンの徒は、最高善とはアタラクシアであり、 それは判断の中止であると言うが、その場合にも彼らはそれを断言的なしか たで言おうとはしなかった。・ ^ この見出しは、この一節に関して、欄外に書かれている。「法律」とい っているのは、断章二九四を指す。 九これらの数字は一六五二年版モンテーニュ「随想録」のページを示した ものである。いずれも二巻一二章「レイモン・スポンの弁護」のなかであ る。「ところで、人間の理性は自己および霊魂について何をわれわれに教え たかを、次に見よう。ただし、それはほとんどすべての哲学が天体や原子に われわれ も行きわたっているとしている普遍的霊魂についてではなく、 : : : に属する霊魂、われわれが最もよく知らなければならない霊魂についてであ る。クラテスやディカイアルコスには、霊魂などというものはなく、身体は ただ自然的な動きによってかく動いている、と理性は教えた。プラトンに は、それは自ら動く実体である、と教えた。タレスには、休むことのない一 つの自然である、と。アスクレピアデスには、諸感覚の動きである、と。へ シオドスおよびアナクシマンドロスには、土と水とから合成されたものであ る、と。パルメニデスには、土と火とから合成されたものである、と。エン : ポセイドニオス、クレアンテス、ガレ ペドクレスには、血である、と。 ノスには、一種の熱もしくは熱のある複合体である、と。ヒボクラテスに は、身体中にひろがっている精気である、と。ヴァロには、ロから入り、肺 で温められ、心臓で潤おされ、身体中に行きわたる空気である、と。ゼノン には、四元素の精髄である、と。ヘラクレイデス・ポンティコスには、光で ある、と。クセノクラテスやエジプト人には、動的な数である、と。カルデ : アリストテレスを忘れては ア人には、定形のない一つのカである、と。 ならない。物体を自然的に動かすものを、彼はエンテレケイアと名づける。 ・ : ラクタンテイウス、セネ力、その他、独断論者のなかのすぐれた人々 は、それは自分たちにはわからないものであると告白した。またキケロはす べてこれらの意見を列挙したのち『これらの諸説のなかでどれが真であるか は、何らかの神に判断してもらうほかはない』と言った。・ 一 0 同上「霊魂の所在についても、それにおとらぬ異論や論争がある。ヒポ クラテスやヒェロフイロスは霊魂を脳室に置く。デモクリトスやアリストテ ・スト レスは、全身にあると言う。 : : ・ ・エビクロスは、胃にあると言う。 : ・ : ア派の人たちは、心臓の周辺およびその内部にあると言う。エラシストラト スは、頭蓋被膜に付着していると言う。エンペドクレスは、血のなかにある と言う。モーセもそう考えた。・ ・ : ガレノスは、身体の各部がそれそれ霊魂 ・ : ・ : クリュンツ をもっていると考えた。ストラトンはそれを眉間に置いた。 ポスが霊魂を心臓の周辺にあると論じる場合の理由は、忘れられてはならな = 同上「或る人々は言った。普遍的な一つの霊魂が、いわば一つの大きな かたまりとして存在する。そして個々の霊魂はすべてそこから引き出され、 またふたたびそこへ帰って行って、その普遍的な質料と永久に混りあう、 と。 : : : 他の人々は言った。個々の霊魂は、ただその普遍的霊魂に付着し、 結合しているだけである、と。また他の人々は、それらは神的な実体から生 じてくる、と。他の人々は、天使によって火と空気とから作られる、と。或 る者は、ずっと大昔からあったと言い、或る者は必要に応じてその時々に生 まれると言う。或る者は、月の輪から降りてきて、ふたたびそこへ帰る、と 言う。古代人は、一般に、それらの個々の霊魂は、父から子へと生み出され ていくと信じていた。 : ・ところで、この問題に関する人間的な議論の無力 さは、われわれの不死とはいかなる状態であるかを示すためにこの説のあと に付け加えられた物語的な事情からしても、はっきり認められる。 : : : 最も 広く信ぜられ、今日までにあらゆる場所に伝わっている説は、ピュタゴラス にはじまるといわれるもので、それによると、霊魂はわれわれのもとを去る と、一つの身体から他の身体へ流転して行くだけであり、獅子から馬へ、馬 から王へと、たえずその棲家を変えて行く、と言う。或る人々はこれに付け 加えて、それらの同じ霊魂が、或るときには天にのり、またふたたび降り てくる、と言う。 : ・ ・ : オリゲネスによれば、霊魂はい状態と悪い状態のあ いだを往復する。ヴァロの伝える説によると、四百四十年を一周期として、 霊魂は最初の身体にもどる。クリュシッポスは、不定の期間ののちにそうな
一「草稿原本』では、この断章は線をひいて消してある。ついでこのあと から逃げ去ってしまうことがある。だが、このことは私に、 に ( e 版三〇八、版五四一一 l) 無学な下僕の代筆と思われる筆蹟で 私はいつも忘れてばかりいるという私の弱さを、思いおこさ 枝葉なことがら。 せる。それは私の忘れ去った思想に劣らず、私にとって有意 こまかい調子、それが似つかわしい 私があまり用心するというので、貴方がたは私を悪く思っているのです義である。なぜなら、私は私の無を知ろうとしか思わないか か ? 諸教父や : ・ らである。 という意味に解読される ( 版、版による ) 覚え書があり、これも線で抹 一版の読みにしたがう。 消されている。「第一写本」「第二写本」とも、この部分は省略しており、プ e 三五六五三二四四七一 三七三 ランシュヴィックもこれを解読しがたいものとして、最初の「枝葉なことが ら」の一語だけしか再現していない。この部分の最後の箇所は草稿が切断さ 。ヒロニスム。 私はここに私の思想を無秩序に書いてい れていて不明であるが、「諸教父や公会議や聖書云々」と書かれていたもの こうと思う。しかしそうはいっても、おそらく無計画な混乱 であろう。さらに、そのあとに、・ハスカル自身の筆蹟で ( 版、版の解読 のままにではないであろう。これこそ、真の秩序であり、ま によれば ) 、 それ以来、私はそれらを書き取った、な・せなら私はそれらを : : : に持たな さに無秩序そのものによってつねに私の対象を特徴づけてく かったから。 れるであろう。もし私が秩序をもってそれを取り扱ったなら という意味の覚え書があり、最後の箇所は切断されている。・フランシュヴィ ば、私は私の主題にあまりに尊敬をはらいすぎることになろ ックは、別の読みかたをしており、この一句を単独に断章九三八として生か う。というのも、。ヒロニスムには秩序が不可能であること している。版九三八によれば、 それ以来、私はそれらを再読した。な・せなら私はそれらを : : : していなか を、私は示したいのだからである。 ったから。 一ビロニスムはビュロンを祖とするギリシアの懐疑論で、後には懷疑論 とあり、フォージェールにならって、この欠如部分を「私はそれらを十分に ( セプティシスム ) 一般の代名詞となる。ビュロンは西暦前三六〇年頃エリス 読んでいなかったから。」と補なっている。 に生まれ、アレクサンドロス大王の同時代人で、その軍に従ってインドまで e 三六〇五五六七五四九九 遠征した。帰還後エリスに学校を開いた。彼の説はその弟子チモンによって 伝えられたが、それによると、感覚も理性もわれわれに確実な認識を与えな 〔幼なかったとき、私はよく私の本を抱きしめたものだ。そ 。それゆえ、哲学者のとるべき正しい態度はあらゆる判断をさしひかえる して、時には : : ことがあったので、それを抱きしめている こと ( 工ポケー ) であると説いた。 篇と思いながらも、私は疑念をいだくのであった。〕 * * 三〇三三七〇八五 三七四 一「草稿原本」ではこの断章は線をひいて消してある。欠如の箇所ははさ 私が何より驚くことは、世間の人が自己の弱さに驚かずに みで切断されたためで、フォ 1 ジェールは「思い違いをする」という語を補 なっている。 いるということである。人はしかつめらしく行動し、各自そ 三八七六五六四六 の身分に従っている。しかも、そういう慣わしだからそれに 私の思想を書きとめようとするとき、往々にしてそれが私従うのが事実上よいのだというのではなく、あたかも各自が
て、またわれわれが設定したのとは別の事情によって相手の不運も、それとはあまり関係がない。私はときどき自分で自 うちに醸し出された状態にしたがって、判断する。少なくと分の運命にさからうことがある。運命にうちかっ光栄にうな も、われわれの方では、何もそこに醸し出しはしなかったわがされて、私は快く運命にうちかつ。その反面、私は幸運の さなかで、ときどきいや気をもよおす。 けである。ただし、相手が、向うの気分でこちらの沈黙にど 一モンテーニュ「随想録』二巻一章または二巻一二章の一節を指示したも ういう意味や解釈を与えるか、または人相見のように、こち のであろう。ホメロス『オデュッセイア』一八巻一三六の句であるが、キケ らの動作や表情や声の調子などからその沈黙をどう推測する 口がこの句をラテン語に移し、アウグスチヌスが『神の国』五巻二八章に引 か、それ次第で、沈黙もまたその効果をあらわすというなら 用している。モンテーニュでは二箇所に出てくるが、二巻一章では「われわ ば別である。一つの判断を、それの自然的な位置から引きお れの気分は天気とともに変る。「ジュピテルが光で豊饒な大地を照らしたと きのその光のように、人々の心は変る。ヒ二巻一二章では「大気や晴天も、 カくもむすかしいことである。 ろさないようにすることは、、 われわれに若干の変化をもたらす」の次に「ジュビテルが炬火をもって大地 というよりもむしろ、判断は、固定し安定した位置をもっこ を照らした、云々」の句が引用されている。 とがそれほど少ないのだ。 = モンテ 1 ニュ三巻九章に「大気や気候の変化は私に少しも影響しない。 四四二 >-a 八〇五九六二 いずこの空も、私にとっては一つである。私が自分のうちに生み出す内的変 一〇六 »-a 一六二 化によってしか、私は打撃を受けない。」 各人の支配的な情念を知っていれば、きっとその人に気に 四二二七四二四九 一〇八 入られる。とはいえ、各人は、幸福についてもっている観念 一七四 たとい人々が彼らの言うことがらに利害関係をもっていな のうちですら、自分自身の幸福に反する気まぐれを起す。こ いときでも、そのことから、彼らは嘘を言わないと絶対的に れこそ、われわれを当惑させる不可思議である。 一モンテーニュ「随想録』三巻一三章「二人の人間が、同一の事物につい 結論してはならない。なぜなら、ただ嘘を言うのが目的で嘘 て、同様の判断を下したためしはない。またまったく相似した二つの意見を を言う人もあるからである。 見ることも不可能である。異なった人々のあいだでならばまだしも、同一人 リエの筆蹟である。 一この断章の「草稿原本』は、ジルベルト においてさえ、時が異なれば、そういうことは不可能である。」ラ・ロシュ 三八三 s-a 六三八、六三九一四四、 フコー「箴言集』四五「われわれの気分の気まぐれは、運命の気まぐれより 一〇九 一四三 \-a 一六六、 も、いっそう奇妙である。」 健康なときには、もし病気になったらどうなるだろうと案 三五九五五一一七五三 一〇七 一六三 じるが、病気になればなったで、人はよろこんで薬をのむ。 「炬火をもって大地を照らした。」 病気がそうさせるのである。健康のときに起るような情念 天気と私の気分とのあいだには、あまり関係がない。私は も、娯楽や散歩の欲望も、もはや起らなくなる。そういうも 私のうちに、私の曇天と晴天をもっている。私の仕事の運、 のは、病気のときの必要とは両立しない。そのときには、そ
158 いうことは、不幸だからである。しかるに人間は幸福でありそれらの事物を、同じように解しているものと思い做してい たいと思い、何らかの真理を確保したいと思う。それにしてる。けれども、われわれはただ理由もなくそう思い做してい も、彼は知ることもできす、さりとて知ることを欲しないでるだけである。なぜなら、われわれはそのことについて何ら もいられない。彼は疑うことさえできない。 の証拠ももっていないからである。もちろん私は、これらの 一旧約聖書「伝道の書』八章一七節。 語が同じ場合に適用されるのを知っている。また一つの物体 四五八八九六九八 >-2 三八五 三九〇 が位置を変えるのを二人の人が見るときには、彼らは一一人と 神よ、こういう言いぐさは何と愚かな議論であろうか ? もこの同じ対象の眺めを、同じ語を用いて表現し、一一人とも 「神が世界を造ったのは、それを罰するためであろうか ? 「それは動いた」と言う。そこで、われわれは、かかる用語 神はかくも弱い人間に、、 カくも多くのことを要求するのであの一致から、観念の一致という強い推定を引き出す。だが、 ろうか ? 等々。」。ヒロニスムはかかる病いに対するいやし このことは、肯定の側に賭ける方に分があるとしても、最後 であり、かかる虚栄をうちゃぶるであろう。 的な確信をもって絶対的に納得させるほどのものではない。 パスカルはここで、理性主義もしくは独断論の立場からキリスト教ある というのも、われわれは、しばしば異なった前提から同一の いはジャンセニスムに加えられるであろう反駁を、想定している。しかし、 結果が引き出されるのを知っているからである。 神の正義についてこのように判断を下すことは、絶対的正義の基準が人間の うちにあるという思想を前提としている。ビロニスムはかかる傲慢や虚栄を 以上のことは、少なくとも問題を混乱させるのに十分であ 打破するのに、最も有効である。 る。といって、そのことは、それらの事物をわれわれに確認 三八七六五八二九四 させる自然的な光を、絶対的に消し去ってしまうわけではな s-ä三八七 ( アカデメイア派の人々ならば、〔肯定の側に〕賭けたこ 会話。ーー宗教に対する大言壮語。「私はそれを否定する。」 とであろう。 ) むしろ、以上のことは、ピュロンの徒の名誉 会話。 ピロニスムは宗教の役に立つ。 一版、版による。版によれば、「大言壮語。「宗教、私はそれを否定 のために、自然の光を曇らせ、独断論者を困惑させる。ビュ する」」となる。 ロンの徒の本質は、この曖昧な曖昧さと、或る種の疑わしい 一〇三 i.-ä一〇九二一三 暗さのうちに、存する。そこでは、われわれの疑いがあらゆ 三八三 。ヒロニスムを駁す。 〔それゆえ、人がそれらの事物をる光を除き去ることもできないし、さりとて、われわれの自 然的な光があらゆる暗黒を追いはらうというわけにもいかな 定義しようとすれば、かえってそれらが曖昧になってしまう ということは、奇妙なことである。われわれはいつもそれら の事物を口に出して語っている。〕われわれはすべての人が ・ハスカルの「幾何学的精神」のなかの叙述から推して、ここで「それら 五