当である。 一アウグスチヌス「書簡」一二二ノ五、コンセンチウス宛「信仰が理性に 先行すべきであるということは、そのまま理性の原理である。」 七八八二一七二四六四 知恵はわれわれを幼児にかえらせる。「幼児のごとくなら ずば。」 一「マタイ伝』一八章三節。 一六七一八二三六七 :-2 四六五 このような理性の否認ほど、理性にとってふさわしいこと 学 / 「し 一「第一写本』にはたぶん = コールと思われる筆蹟で「ただし、それは信 仰に関することがらにおいてである。信仰にかかわりのないものにおいて は、このような理性の否認ほど、理性に反することはない」という付加がな されている。 もしわれわれがすべてを理性に従わせるならば、われわれ の宗教には、何も神秘的なもの、超自然的なものがなくなる であろう。 もしわれわれが理性の原理にそむくならば、われわれの宗 教は、不条理で笑うべきものとなるであろう。 ニ七四 三五四五三〇二四七四 われわれのあらゆる推理は、結局、感情に従わざるをえな 四 だが、気分は感情に似ていて、しかも反対のものである。 したがって、人はこの相反するものを見わけることができな 。或る人は言う、私の感情は気分である、と。他の人は一言 、 0 、 0 う、私の気分は感情である、と。一つの基準が必要になって くる。理性は自らその役を買って出る。しかし理性はどちら の方向へもなびく。したがって基準はないことになる。 一モンテーニ = 『随想録」二巻一二章「各人が自己のうちで捏ね上げるこ の見かけの理屈を私もやはり理性と呼ぶが、この理性は、その本性上、同一 の主題をめぐって百の対立意見が出るくらいであるから、鉛か蝋で作った道 具のようなものでどうにでも変り、どうにでも屈し、どんな恰好や寸法に でも合わせられる。それを捏ねまわすことのできる能力さえあればいし 五三八»-a 九七五一〇〇 ニ七五 P•-:= 四七五 人間はしばしば自分の想像を、自分の心情と取り違える。 そして、回心しようと思うやいなや、すでに回心したと信じ る。 一これは一六七八年のポール・ロワイヤル版において増補された断章であ るが、その草稿は失われた。「草稿原本」にも「第一写本」にも欠如してい る。 * * * * 五三四九八一 1 九四七三 ド・ロアンネス君は言った。「理由はあとになってわかる のだが、はじめはなぜかわからずに、私を愉快にさせ、ある いは私に腹を立てさせる事物がある。それにしても、腹が立 つのは、あとでようやくわかるその理由によってである。」 だが、私の思うに、人はあとでわかるそれらの理由によって 腹が立つのでなく、腹が立つのでそれらの理由を見つけるに すぎない。 一この断章は『草稿原本』にも『第一写本』にも欠如しており、「ゲリエ 写本』に依拠するものである。 四九〇四二三二二四 ニ七七 P-»--: 四七七 心情は、理性の知らないそれ自身の理性をもっている。わ
かった。また、精神を納得させてくれるよりもむしろ往々に的真理に依存しており、そのなかに存立しているのであっ して精神を混乱させるような形而上学的推理に拠ろうともし て、この一なる原初的真理がすなわち神と呼ばれるものであ なかったし、自然のさまざまな結果から引き出される一般的る、ということを或る人が納得させられたとしても、私は、 な理由に拠ろうともしなかった。むしろ反対に、彼は《精神彼が彼自身の救いに向かって大いに前進したとは思わないで よりも心情に訴える道徳的な証拠を、拠りどころにしようとあろう。」 たいいかえれば、彼は、精神を説得し精神を納得させる また、この文集のうちにかくも種々雑多な思想がふくまれ よりも、心情に触れ、心情を動かそうとしたのである。とい ていて、なかにはパスカルが取り扱おうと企てた主題とはず うのも、心情や意志を堕落させる邪悪な情念や執着は、信仰 いぶんかけ離れているように思われるものさえ数多くあるの に対してわれわれのもっ最大の障碍であり主要な妨害であつを見て、不思議に思う人があるかも知れない。けれども、彼 て、これらの障碍を取り除くことができさえすれば、精神をの意図は、人々が想像するより以上に広くかつ大きなもので 説得するに足る光と理由とを、精神に受けいれさせるのはさあって、単に、無神論者たちの理屈や、キリスト教的信仰の して困難ではない、ということを彼は知っていたからであ幾つかの真理を攻撃する人々の理屈を、論破するだけにとど る。 まるものではなかった、ということを考慮にいれなければな これらの文書を読んでくだされば、すべてそれらのことは らない。彼は、この宗教に対していだいていた大いなる愛と 容易に納得していただけるであろう。けれども、パスカル特殊な尊敬のゆえに、ただ単に、人がこの宗教をまったく破 は、この文集には入れられなかったが他の草稿のあいだに見壊したり絶減したりしようとするのを黙って見ていることが いだされた或る断章のなかで、やはりそのことについて、彼できなかったばかりでなく、いささかでも人がこの宗教を傷 自身の意見を述べた。「私はここに、自然的な理由によって、 つけたり歪めたりするのを見すごしにするわけにいかなかっ 神の存在、三位一体、霊魂の不死、その他この種のことがら た。したがって、彼はこの宗教の真理もしくは神聖さを攻撃 を、証明しようと企てはしないであろう。それは単に、頑冥するすべての人々に対して、戦いを宣するつもりであった。 な無神論者たちを説得しうる何ものかを、自然のうちに見い いいかえれば、理性のいつわりの光を信仰に従属させること だすだけの力が、私にないと思うからではない。むしろ、そを拒み、信仰の教える真理を認めることを拒む無神論者、不 のような認識は、イエス・キリストなしには、無益であり無信仰者、異端者たちに対してばかりでなく、真の教会の肢体 駄であるからでもある。たとえば、数の比例関係は非物質に属しておりながら、われわれがわれわれ自身を律しわれわ 的、永遠的な諸真理であるが、それらの諸真理は一なる原初れの行為を規制するときの模範として福音書のなかに示され
e 一二八»-a 一三六一一六九 が何の気ばらしもなく、自己が何ものであるかについて沈思 »-ä二〇五 気ばらし。 私は、人間のさまざまな動揺、人間が宮廷黙考させられているとしたら、このわびしい幸福は彼をカづ や戦争において身をさらす危険や苦労、そこから生じる幾多けることができないであろう。彼は起りうべき反逆や、避け の争いや情欲、大胆で時には邪まな企図などを、ときおり考えない死や病気など、彼をおびやかす物思いに、、 しゃ応なし 察してみたが、そのとき私は、人間のあらゆる不幸が一室に におちいるであろう。したがって、いうところの気ばらしな じっと休息していることができないという、この唯一のこと るものがないならば、彼は不幸である。賭事や気ばらしをす から、来るのを発見した。生活に困らないだけの財産をもっ ることのできる臣下の最も卑賤な者よりもいっそう不幸であ ている人は、自宅で安楽に暮していくことができさえすれる。 ば、何もわざわざ出かけて行って、航海をしたり城塞の包囲 そこからして、賭事、女たちとの談話、戦争、顕職などが に加わったりしなくてもよさそうなものだ。町にじっとして大いに求められることになる。といっても、そこに事実上、 いるのがたまらないのでなかったならば、誰も軍人の地位を幸福があるからではない。賭事で得られる金や、追いかけら あんなに高価に買わないであろう。また、自宅で安楽に暮しれる兎のうちに、真の幸福がある、と考えているからでもな ていることができないのでなかったならば、誰も談話や気ば そういうものは、遣ろうといわれたならば、欲しくない らしの遊びを求めはしない。 であろう。われわれが求めるのは、そのような張りあいのな しかし、いっそう立ちいって考えたとき、 しいかえればわ い平穏な所有ではない。というのも、そういう所有は、われ れわれのあらゆる不幸の原因を見いだしたあとで、その理由われをわれわれの不幸な状態に思いいたらせるからである。 を発見したいと思ったとき、私は、そこに一つのきわめて決われわれが求めるのは、戦争の危険でも、職務の苦労でもな 定的な理由があるのを、見いだした。それは、弱、 し死すべきく、そういう物思いからわれわれの心をそらせ気をまぎらせ われわれ人間の状態、それをまともに考えれば何ものもわれてくれる騷がしさなのである。なぜ人は獲物よりも狩猟をこ われの慰めにならないほど惨めなわれわれ人間の状態の、生のむかという理由が、そこにある。 まれながらの不幸のうちに存する理由である。 そういうわけで、人間は騒ぎや動ぎをこのむ。そういうわ いかなる身分を想像するにせよ、われわれの所有しうるあけで、牢獄は恐るべき刑罰となる。そういうわけで、孤独の らゆる財産を一つに集めた身分としては、世に国王の身分ほ楽しさは理解されがたいものになる。そして、国王の身分が どすばらしい地位はない。しかしながら、国王が彼の受けう幸福である最大の理由は、結局、そこにある。なぜなら、人 るあらゆる満足によってとりまかれているとしても、もし彼人がたえず国王の気をまぎらし、国王にあらゆる種類の快楽
139 第五篇 しのびましよう。現に、それが貴方のお役に立たないときにざるをえないだろう。彼は四人の下僕をもっている。私は一 人しかもっていない。それならば、はっきりしている。かぞ も、私はそうしているのですから。」ーーさらに、尊敬は、 貴族を見分けるために役立つ。ところで、もし尊敬が安楽椅えさえすればいい。譲るべきは、私の方である。私がそれを 子に腰かけていることであるならば、人は誰に対しても尊敬拒むならば、私が馬鹿である。そのような手段によって、わ するであろう。したがって、見分けることをしないであろれわれは平和を保っている。これは最大の幸福である。 この断章は『草稿原本』にも「第一写本』にも欠如している。ポール・ う。反対に、不便な思いをするからこそ、人はよく見分ける ロワイヤル版「パンセ』第二九章「道徳的思想」四一節に収められている のである。 が、出所は明らかでない。 一「第一写本」ではこの断章は第一部第五綴「現実の理由」という見出し e 二七三〇六七 のもとに置かれており、以下二九九、二七一、三二七、七九、八七八、一一 人は船を操縦するのに、船客のうちで最も家柄のよい者を 九七、三〇七、三〇二、三一五、三三七、三三六 、三三五、三二八、三一三、 、三二九、三三四、八〇、五三六、四六七、三二四、七五九、二九選びはしない。 八、三一三の諸断章が同じ綴におさめられている。なお、この見出しの「現 一二七注 *-a 九七七二〇八 三ニ〇乙 *-a 二九六 実の理由ー raison des effets は、「外部にあらわれた諸結果の背後にかくさ 世の中で最も不合理なことが、人間の狂気のゆえに、最も れた真の理由」というほどの意味であるが、これは論理的な理由とは異なっ て、現実のもっ理由である。パスカルは「心情は、理性の知らないそれ自身合理的なこととされている。国家を統治するのに、王妃の長 の理性をもっている」 ( 二七七 ) と言ったが、同様に、「現実は、論理の知ら 子を選ぶことほど不合理なことがあろうか ? 人は船を操縦 ないそれ自身の論理をもっている」と言うこともできよう。 するのに船客のうちで最も家柄のよい者を選びはしない。そ 三一七乙二九三二六九三〇三 のような法律は笑うべきであり、不正である。しかし人間は 空虚。ーーー・尊敬は「不便をしのべ」という意味である。 狂気じみており、 いつの世にもそうなので、このような法律 一二六一九五六 ノ 三〇二 が合理的であり正当であることになる。なぜなら、最も高徳 彼は四人の下僕をもっている。 有能な人物を誰が選ぶか ? われわれはたちまちつかみあい 版、版、とも欠三〇二 をはじめる。各人は自分こそ高徳の者だ、有能な者だと主張 人々が内的な性質によってでなく、外的なものによ 0 て人する。そこで、この資格を誰か争う余地のない者に帰した方 し力にも当然なことである。われわれ二 間を見分けるのは、、、 、力しし 。それが国王の長子である。これならば明瞭で、論争 人のうち、どちらが先に通るべきか ? どちらが相手に席をの余地がない。理性はそれ以上のことを為しえない。なぜな 譲るべきか ? 教養のない方がそうすべきか ? だが、私も ら内乱は最大の災いであるからである。 彼と同様に教養がある。そうすると、そのことで争いが起ら 一この断章は、「ヴァラン稿本』のなかに保存されている写本に依拠する
この世の空しさ : 人間の悲惨 : 第三篇信仰なき人々を駁す〔賭の必然性について〕 「無神論者たちの反駁ー 第四篇「信仰の手段」〔信仰の手段について〕 : 理性 感情 : ・ 第五篇法律〔正義、および現実の理由〕・ 正義とカ : ・ 健全な民衆の意見 : ・ 現実の理由・ 第六篇思考の尊厳〔哲学者〕 : ストア派 : 。ヒロニスム : 人間の偉大と悲惨 : ・ 第七篇キリスト教の教理〔道徳と教理〕 : ・ 人間の相反と、神の知恵 : ・ 原罪 : ・ 「自我」と、三つの邪欲・ ・一五九 ・一 0 六 ・一 0 九
は当然であった。ところで、イエス・キリストの奇蹟は偽キ リストによって予言されていないが、偽キリストの奇蹟はイ エス・キリストによって予言されている。それゆえ、もしイ エス・キリストがメシアでなかったならば、彼は誤謬にみち びいたことであろうが、偽キリストは誤謬にみちびくことが できない。イエス・キリストが偽キリストの奇蹟を予言した とき、彼は彼自身の奇蹟に対する人々の信仰を破壊すること になると思ったであろうか ? モーセはイエス・キリストを予言し、彼にしたがうことを 命じた。イエス・キリストは偽キリストを予言し、これにし たがうことを禁じた。 モーセの時代には、まだ人々に知られていない偽キリスト への信仰を保つことは不可能であった。偽キリストの時代に は、すでに知られているイエス・キリストを信じることはき わめて容易である。 偽キリストを信じる理由にはなるが、イエス・キリストを 信じる理由にはならないような、いかなる理由もない。しか し、イエス・キリストを信じる理由にはなるが、偽キリスト を信じる理由にはならないような、理由はいくらでもある。 一「ヨハネ伝』一二章四一節。 = 「コリント前書」一章一一二、二三節。 屋「ヨハネ伝』一〇章一一六節。 四一〇節「彼らは真理を愛する愛をうけずして、救わるることをせざれば なり。」 工「マタイ伝」二四章二四節「偽キリスト、偽予言者おこりて大いなるし るしと不思議をあらわし、為しうべくば選民をも惑わさんとするなり。」そ の他、同上一一節、「マルコ伝」一三章一三節。 六「申命記」 - 一八章一五節「汝らこれに聴くことをすべし。」 七「マタイ伝』二四章一一三節、『マルコ伝』一三章二一節「そのとき汝ら に、見よキリストここにあり、見よかしこにあり、と言う者ありとも信ず な。」 e 四五四八三九八七七 八ニ七 七五六 『士師記』十三章一一十三節、「主もしわれらを殺さんとおも いたまわば、これらのすべてのことをわれらに示したまわざ りしなるべし。」 ヒゼキャ、セナケリプ。 『エレミャ記』偽予言者ハナニヤは七月に死んだ。 『マカべャ第一一書』三章、神殿がまさに掠奪されようとし て、奇蹟的に救われた。 『マカべャ第一一書』十五章。 『列王紀略上』十七章。寡婦は、その子をよみがえらせたエ リヤに向かって、「これによりてわれは汝のことばの真なる 五 を知る。」 『列王紀略上』十八章。エリヤと、・ハアルの予言者たち。 真の神に関する論争、宗教の真理に関する論争において は、誤謬の側に奇蹟が起ったためしはなく、真理の側に奇蹟 が起らなかったためしはない。 一「列王紀略下」一八、一九章。ヒゼキャはユダの王アハズの子。在位紀元 前七二一ー六九三年。セナケリ・フはアッシリアの王サルゴンの子。在位紀元 前七〇五ー六八一年。七〇一年、セナケリ・フはユダの諸市を攻囲したが、ヒ ゼキャは予言者イザヤのことばにしたがってエホ・ハの救いを祈り求めた。 「その夜工ホ・ハの使者いでてアッシリア人の陣営の者十八万五千人をうち殺 せり。」 ( 一九章三五節 ) そこでセナケリ・フは囲みをといて帰国したという。 一一「エレミャ記」一一八章一五、一六節。三ヘリオドロの奇蹟。マカ ・ハイオスの夢。 ) 五一七章一七ー一一四節。 六一八章二〇ー四〇節。エリヤ一人と、・ハアルの予言者四百五十人が争っ たが、しるしはエリヤの側にしかあらわれなかった。
させることができないなどと、どうして彼は思いこんでいるて、われの汝に教えることがらを信じさせようというのであ のか ? 彼は少なくとも自己が存在していることを知っておる。そのときには、汝はそれらのことがらがはたして存在す るか否かを汝自身では知りえないというだけで、そのほかに り、自己が何ものかを愛していることを知っている。このこ にそれらを拒否する理由を、汝はそこに見いださない とは疑いえない。それゆえ、もし彼が自己の置かれている暗は、」 黒のなかで何ものかを見ているならば、また地上の事物のあであろう。」 いだで愛する何ものかを見いだしているならば、ましてや神 が彼に神自身の本質を示す何らかの光を与え給う場合、神が 神は人間の罪をあがない、救いを求める人たちにそれを与 われわれに神自身を知らせるのを自らよしとし給うようなし えようと欲した。しかし人間は自らそれに値いしない者とな かたで、神を知り神を愛することが、なぜ彼にできないわけっているので、神は、当然のことながら、彼らに与える理由 があろうか ? してみると、この種の考えは、たというわべ のない慈悲によって、或る人々には与えることをよしとし給 は謙虚にもとづいているように見えても、その実、我慢のな うものを、他の人々には彼らの頑固さのゆえに拒絶し給うの らない不遜がそこにひそんでいることは、疑いをいれない。 である。もし神が最も頑固な者どもの強情さをうち砕こうと われわれはわれわれ自身では自己の何ものであるかを知るこ欲し給うたのならば、神は、彼らが神の本質の真理を疑うこ とができないから、それを神から教えてもらうほかはない、 とができないほど明白に、神自身を示すことによって、そう ということをわれわれに告白させるような謙虚でなければ、 為し給うことができたであろう。さながら、最後の日におい 本心からの謙虚とはいえないし、正しい謙虚とはいえない。 て、死者もよみがえり盲人もそれを見るであろうほどの、激 「われは汝をして汝の信仰を理由なくわれに従わせようとは しい雷鳴と天地の崩壊をともなって、それがあらわれるであ 思わない。また、暴君のようなしかたで汝を服従させようと ろうように。 いうのではない。われは、すべての事物の理由を汝に示して ところが神が現われようと欲したのは、そのようなしかた やろうというのではない。ただ、これらの相反を調和させるではなく、柔和な来臨においてであった。というのも、かく 篇 ために、われは、わがうちにある神的なしるしを、説得的な も多くの人々が神の寛大さに値いしないものとなっているの 証拠によって、汝に明らかに見させようというのである。そで、神は、彼らの欲しない善は欠如のまま、そのなかに彼ら 第れらのしるしは、われの何ものであるかを汝に納得させ、汝を放っておこうとした。それゆえ、神が明らかに神的なしか の拒否しえないもろもろの驚異や証拠によって、われに権威たで、すべての人を絶対的に納得させうるようなしかたで、 をもたせるであろう。そして、しかるのち、われは汝をし現われるのは、正しいことではなかった。しかし、神が、心
144 動の支配者でしかない。 だから次のように言うのは誤り るであろう。「そういう方々を感心させた君の真価を私に見 である : せてくれ。そうすれば、私もやはり君を尊敬するであろう。」 圧制。ーー・圧制とは、他の道によってのみ得られること 九三 s-: 九七 '-•一八七二四七 三三四 を、或る道によって得ようと欲することである。われわれは 現実の理山。 欲望と力とは、われわれのあらゆる行為 それぞれの価値に対して、それぞれの敬意を表する。快さに のみなもとである。欲望は意志的な行為をさせ、カは不本意 対しては愛の敬意を、カに対しては恐怖の敬意を、知識に対な行為をさせる。 しては信頼の敬意を表する。 われわれはこれらそれぞれの敬意を表するべきである。そ 現実の理由。 したがって、世間の人々がみな錯覚のな れらを拒むのは不正である。だが、他の敬意を求めるのも不かにあるということは、真実である。なぜなら、民衆の意見 正である。それゆえ、次のように言うのは誤りでもあり、圧は健全であるとはいえ、それは彼らの頭のなかで健全なので 制的でもある。「私は美し い。だから人は私を恐れるはすだ。 。ない。なぜなら、彼らは真理のないところに真理があると 私は強い。だから人は私を愛するはすだ。私は : ・。」また、考えているからである。真理はたしかに彼らの意見のなかに 次のように言うのも、同様に誤りであり、圧制的である。 あるのであるが、彼らがそう思い做しているような点にある 「彼は強くない。だから私は彼を信頼しない。彼は教養がな のではない。なるほど貴族は尊敬されてしかるべきである い。だから私は彼を恐れない。」 が、それは家柄が現実的な優秀さであるというような理由に よるのではない。 一 chambres は「部屋ーの意であるが、 cercles の意味をもつ。ポール・ ロワイヤル版では classes と校訂している。 八七 *-; 九一一八一三一一 = cc 版ではここに注三に当る箇所を入れているが、版にしたがう。 現実の理由。 背後の思想をもたなければならない。そ 三版にしたがう。 して民衆と同じように語りながらも、背後の思想によってす g 前の句の中の beau と crainc're および fort と aimer が交錯してい るように、この場合も、ま 4 と ectimer および habile と craindre には べてを判断しなければならない。 交錯した意味をもたせなければならない。 一断章三一〇注三を参照。「かくされた思い」「裏側のいっそう深い考え」 という意味である。 e 三八五»-a 六五〇九五三〇一 君があまり彼らを重んじないのを相手は不満に思って、自 分を尊敬してくれる高位の方々を引き合いに出すような人た 現実の理由。 慚届呷法。 民衆は家柄のよい人をうや ちに、君は出あったことがないか ? 私なら彼らにこう答えまう。なま半可な識者は、家柄はその人自身の優秀さでなく 三三三
63 第二篇 「まったく動物的の意味で用いているように思われる。注釈者は『創世記」 が、それを決定する。 七章一四節「彼らおよびすべての獣その類に従い : : : 」や「教会書」 ( ・ヘン・ 兵士をつくり、屋根職人をつくる。 習慣が石工をつくり、 シラの知恵 ) 一三章一五節「すべての生物はその同族を愛し、すべての人は 「あれは立派な屋根職人だ」と或る人は言う。また兵士のこ その隣人を愛す」を引照しているが、この断章はこれらの聖句と特に関係が あるわけではない。 とを、「奴らはばかだ」と或る人は言い、他の人は反対に「戦 * * * 三八九六六四—一六五 九四乙 争ほど偉大なものはない。兵士にならない奴は、人間の屑 人間は、本来、まったく動物的である。 だ」と言う。人は子供のときに、これこれの職業が称讃さ 一この断章は「草稿原本』に欠如しており、「第一写本」に依拠するものれ、それ以外のすべての職業が軽蔑されるのをたびたび聞か である。 されたあとで、職業を選ぶ。なぜなら、人は徳を好み、愚を 三八三»-2 六四六—九一四 九五 嫌う性向をもっているので、それらのことばがわれわれを動 記憶や喜びは感情である。また、幾何学的命題でさえも、 かすからである。人は適用の点で、しくじることがあるだけ 感情になる。なぜなら、理性は感情を自然的ならしめること である。 もあるし、自然的感情は理性によって消されることもあるか 習慣の力は非常に大きいので、自然がただ人間たらしめた らである。 にすぎないものから、人はあらゆる身分の人間をつくり出し 四二二七三六二〇一一 九六 た。なぜなら、或る地方では皆がみな石ェであり、他の地方 人は自然の作用を証明するのに悪い理由を用い慣れているでは皆がみな兵士であるからである。いうまでもなく、自然 ときには、良い理由が発見されても、それを受けいれようと はそんなに一様ではない。してみると、そうさせたのは、習 しないものである。そのことについてのいい実例は、血液の慣である。なぜなら、習慣は自然を東縛するからである。し けっさっ 循環に関するもので、結紮で縛ると血管がふくらむのはなぜ かし、往々にして自然は、習慣にうちかち、あらゆる善い習 であるかを説明したものである。 慣、悪い習慣に反して、人間をその本能のうちにひきとどめ リエの筆蹟である。 一この断章の『草稿原本』はジルベルト・ る。 ーヴェーはその理由として、熱、苦痛などと並んで「真空に対する嫌 一版は「真理ーと読んでいるが、版、版にしたがう。 悪」を挙げたが、それは。ハスカルの承服しえないところであった。真空嫌悪 一一版にしたがう。版は「それらのことばそののが決定するであろ 説は、パスカルからみれば、単に習慣によって受けいれられているにすぎな う」と読んでいる。 い「悪い理由」であった。 一七八一九三三八四 九八 一二四 三八二六三四二五四 九七 誤謬に導く先入見。ーー嘆かわしいことに、すべての人は »-ä一二七 一生のうちで最も大事なことは、職業の選択である。偶然手段だけを考えて、目的を考えない。各人はそれそれの職務
13 ] 第み しかに彼らはそのことを執拗に主張することができたであろに従うのだといって服従している人は、自分の想像する正義 だが、滑稽なことに、人間の気まぐれはあまりにもまちに服従しているのであって、法律の本質に服従しているので はない。法律はまったくそれ自身のうちに集約されている。 まちなので、そのような普遍的法律は一つも存在しない 掻払い、近親相姦、幼児殺し、父親殺しなどが、すべて徳法律は法律であって、それ以上の何ものでもない。誰でも思 い立って法律の動機をしらべてみるならば、それがいかに薄 行のうちにかぞえられたことがあった。或る人が川の向こう 弱なものであるかがわかるであろう。そしてもしその人が 側の住人だという理由で、また彼の主君が私の主君と争って いるという理由で、私と彼とのあいだには何の争いもないの人間の想像の不思議な力を見なれていないならば、わずか一 に、彼が私を殺す権利をもっということほど、おかしなこと世紀のあいだに、その薄弱な動機がなぜこのように粉飾され 尊敬されるようになったのか、驚くほかはないであろうし謀 があるだろうか ? ・ なるほど、自然法というものがある。しかし、この立派な反を起し国家を顛覆するには、既成の習慣の源にまでさかの 理性が堕落したために、すべてが堕落した。「われわれ本来ぼってそれを動揺させ、それがもともと権威をも正義をもも たないことを示せばいい。或る人は言う。不正な習慣のため のものは何もない。私がわれわれのものと呼んでいるのは、 に廃絶された国家の根本的原初的な法律にまで復帰しなけれ 人為的なものである。」「元老院や人民議会の決議によってな された犯罪がある。」「われわれは昔は悪徳に苦しんだが、今ばならない、と。それはすべてを失うこと必定の遊びであ る。この秤にかけて正しいとされるものは、一つもない。そ は法律に苦しんでいる。」 このような混乱のため、或る人は、正義の本質は立法者のれにしても、民衆はそういう言説に容易に耳を貸す。彼らは くひき 権威であると言い、他の人は、君主の便宜であると言い、ま軛に気づくやいなや、それを投げすてる。貴族たちは、それ た他の人は、現在の習慣であると言う。いちばん確かなのはを利用して民衆を破減させ、また既成の習慣を吟味する物好 きな人々を破減させる。そういうわけで、立法者のなかで最 こういうことである。ただ理性だけに従って、それ自身正し いというようなものは、一つもない。すべては時とともに変も賢明な人は言った。人々の幸福のためには、時に彼らを欺 動する。習慣は、それが受けいれられているというただそれかなければならない、と。また他のすぐれた政治家は言っ だけの理由で、まったく公正なものとなる。これがその権威た。「民衆は自己の救いとなるべき真理を知らないから、民 衆にしてみればむしろ欺かれている方がいい」と。法律が簒 の神秘的な基礎である。それをその起原までつきとめていく と、それは消減してしまう。まちがった法律を改める法律く奪であるという事実を民衆に感づかせてはならない。法律は らいまちがったものはない。法律は正義であるがゆえにそれかって何の理由もなしに持ちこまれたものであるが、今では