れわれは幾千の実例によってそれを知る。 私は言う。心情が生来、普遍的存在を愛するのも、また生 来、自己自身を愛するのも、心情がどれだけそこに専念して いるかによるのであり、また心情がそれらのいずれかに対し て無感覚になるのも、心情の選択によるのである。君は一方 を棄てて、他方を保った。君が君自身を愛するのは、はたし て理性によってであろうか ? 四九〇四二四二二五 ニ七八 四八一 神を感じるのは、心情であって、理性ではない。信仰とは そのようなものである。理性にではなく、心情に感じられる 神。 一マダム・ド・セヴィニエは一六九二年十月二十九日付マダム・ド・ ー宛の手紙に書いている。「心情に感じられる神。これがあなたの幸福な状 態です。私はいままでにこのようなことばを見たことがありません。けれど も、これもまたパスカル氏のことばです。」 三六九五八八三七六 ニ七九 »-: 四八〇 信仰は神の賜物である。信仰は推理の賜物であるなどと、 われわれが言っていると思ってはならない。他の諸宗教は、 彼らの信仰について、賜物であるとは言わない。それらの諸 宗教は、信仰に到達するために推理だけしか与えなかった が、推理は、それにしても信仰にまでは到らせない。 パスカルは、一六四六年、フレール・サン・タンジュの名で呼ばれてい た修道士ジャック・フォルトンをルーアンの大司教に告発したことがある。 この人は信仰の真理を推理によって証明しうると称していたのである。しか しそのパスカルも、ポール・ロワイヤルの眼から見れば、あまりに理性の人 であった。パスカルは一六四八年、アントワーヌ・ド・ルプールに面会した とき、次のような意見を述べたために、彼の疑念を招いた。「それらのこと がらは、本来、推理の力をかりずに信じられるべきではあるにしても、推理 は導かれよう一つで、それらのことがらを信じるようになる。」 二九一»-a 三七七七一一七 ニ八〇 ;•«:--2 四七六 神を知ることから、神を愛するまでには、何と遠いへだた りがあ一ることかー 一「第一写本』ではこの断章は第一部第二十七綴「結論」という見出しの もとに置かれており、以下四七〇、八二五、二八四、二八六、二八七の諸断 章が同じ綴におさめられている。 一四七»-a 一五五三三一 四七八 心情、本能、原理。 一「原理」はここでは複数になっている。「心情と本能、これが二つの原理 である」という意味であろう。シュヴァリエは、ここにいう本能を説明して 次のように言っている。「パスカルは、場合に応じて本能を、時には理性と、 時には経験と対立させているが、この本能とは善への憧れであって、これこ そは神がわれわれのうちに置き給うたもの、われわれの最初の偉大の名残り ともいう・ヘきものである。それは。ヒロニスムによっても如何ともしがたい真 理の観念である。」 一〇四»-a 一一〇二一四 g-s»--a 四七九 われわれが真理を知るのは、ただ理性によってのみでな く、また心情によってである。この後者によって、われわれ は第一原理を知る。それにあすからない推理が、この第一原 理をくつがえそうとしてもむだである。それをくつがえすの を唯一の目的としている。ヒュロンの徒は、いたずらに努力を しているにすぎない。われわれは、自分が夢みているのでな いことを知っている。それを理性によって証明することが不 可能であるにしても、この無能は、ただわれわれの理性の弱 さの証拠となるだけであって、彼らの言うようにわれわれの
は『テサロニケ後書』二章で言っている。「彼はサタンの働であるというのは、一つの真理であるが、しかしそれは、教 芻きにしたがいて、ほろぶる者どもを惑わさん。そは彼ら真理理を冒漬するのに用される。そして、いざ奇蹟が起ると、 を愛する愛を受けずして、救わるることをせざればなり。こ奇蹟は教理なしには十分でない、と人々は言う。それは他の のゆえに神は、彼らが偽りを信ぜんために、惑いを彼らのう一つの真理ではあるが、奇蹟を冒漬するのに濫用される。 イエス・キリストは、安息日にもかかわらず、生まれなが ちに働かせたもう。」 らの盲人をいやしたり、多くの奇蹟をおこなった。そのこと 「見よ、われはあらかじめ汝らに告げおくなり。されば汝ら によって、イエス・キリストは、奇蹟を教理から判断しなけ 見よ。」 一「ルカ伝』二二章六七節。 = 「ヨ ( ネ伝」一〇章一一五ー一一七節。三同、ればならないと説く。ハリサイ人らを = 目目にした。 三章二節。四「マタイ伝』一二章一一一九節。五「マルコ伝』六章五節。 「われらにはモーセあり。されどこの人の何処よりかを知ら 六「マタイ伝」一二章四〇節「ヨナが三日三夜、大魚の腹のなかにありし ず。」君たちは彼がどこから来たのか知らないのに、彼はか ごとく、人の子も三日三夜、地のなかにあるべきなり。」 セ「ヨハネ伝」四章四八節。 ^ 九ー一一節。九「マタイ伝」二四章一一 かる奇蹟をおこなう。これはまさに驚くべきことである。 五、三三節。 イエス・キリストは、神に反すること、モーセに反するこ H 四五四»-a 八四〇八七六 とは、何も語らなかった。 八四三 P-•Ä七五四 旧約や新約聖書に予言されている反キリスト、偽予言者た 地上には真理の国はない。真理はまだ知られずに人々のあ いだをさまよっている。神は真理を面衣で覆った。そのためちは、神に反し、イエス・キリストに反することを公然と語 るであろう。神にもキリストにも逆らいはしないが、隠れた に、真理の声を聞かない人々は、真理を見そこなう。そこに 敵となるような者が、公然と奇蹟をおこなうのを、神は許し は冒漬の余地がある。少なくとも十分に明らかな真理につい てさえ、そうである。福音書の真理が公表されると、その反はしないであろう。 公けの論争において、二つの派がいずれも、神に、イエ 対のことも公表される。問題は曖昧になり、したがって民衆 ス・キリストに、教会に属していると自ら称する場合、偽キ は見分けることができなくなる。そこで、人々はたずねる。 リスト教徒の側に奇蹟が起ったためしはない。反対に、真の 「他の人たちと違って、君たちがそう信じるのは、どんな理 由によるのか ? どんなしるしを、君たちは示すのか ? 君キリスト教徒の側に、奇蹟が起らなかったためしはない。 たちはことばだけしかもっていない。それならば、われわれ「彼は悪鬼に憑かれたり。」『ョ ( ネ伝』十章一一十一節。他の ももっている。君たちの方に奇蹟があったなら、よかったで人々は言った、「悪鬼は盲人の眠を開けえんや。」 イエス・キリストと使徒たちが聖書から引き出す証拠は、 あろうと。なるほど、教理が奇蹟によって支えられるべき
141 第五篇 てわれわれは何の知識ももっていないということを知り、か 三、頬打ちをくらえば怒る、或いは大いに栄誉を欲するな どの点。だが、栄誉は大いに望ましいものである。というのくしてただ既存の法律に従うほかはないということを知るの も、それには、他の本質的な善が結びついているからであは、よいことである。そうすれば、人々は既存の法律をけっ して棄てないであろう。けれども、民衆はとうていこのよう る。また頬打ちをくらわされても何とも思わないような人間 な説を受けいれるものではない。しかも民衆は、真理は見い は、侮辱と貧窮におしつぶされる。 四、不確実なもののために働く点。航海に出たり、板の上だされうるものであり、その真理は法律や習慣のうちにある と信じているので、彼らはそれらの法律や習慣を信じ、それ を渡ったりなど。 一モンテーニュ「随想録』一巻三一章に出てくる話。シャルル九世の頃ル らの古さがそれらの真理の証拠であると考える。 ( 真理をも 1 アンの町にやって来た三人の人食い人種は、国王に謁見したあとで、「王 たないただ権威だけの証拠と考えるのではない。 ) かくして のまわりにいる武装した髯面のたくましい大男たちが、一人の子供に平身低 民衆はそれらに従っている。しかし、それらがあまり価値の 頭する」のを不思議に思うと語った。 ニ断章二三四参照。 ないものだということを見せられるや否や、民衆は反抗しが 三五三五二五一九五 ちである。或る方面からそれらを考察すると、このことはす P- 二八七 べての法律や習慣について見られうる。 モンテーニュはまちがっている。習慣はそれが習慣である 一この一句をアルノーははじめ「モンテーニュはまちがっていない。 がゆえにのみ従われるべきで、それが合理的であるとか正し ヘリエに問い合わせるのに手間どっ 云」と訂正した。その点をジルベルト・ いということのゆえに従われるべきではない。けれども民衆 たため、この断章は一六七〇年のポール・ロワイヤル版には収録されず、一 六七八年版にいたってはじめて載せられた。モンテーニュは「随想録」三巻 がそれに従っているのは、それを正しいと信じているからこ 一三章で、習慣を「われわれの本性を思うように変えるキルケの魔酒」にた しくら習慣でも、それに従いは そである。そうでなければ、、 とえて、習慣の不合理なことを笑っている。 しないであろう。なぜなら、人々は理性もしくは正義にしか = 草稿では qu'il süt になっているが、これはパスカルがこの段落の文章 を、はじめ「 peuple で書き出し、あとでそれを消したのを忘れて、書き 服従しようとしないからである。習慣も、それなしには、圧 つづけたためで、 qu'on süt の意に解してよい。 制と見なされるであろう。反対に、理性や正義の支配は、歓 喜の支配と同様、けっして圧制的ではない。それらは人間に 不正。ーー・民衆に向かって、法律は正義でないと言うの とって自然的な原理である。 してみると、人々が、法律であるがゆえに法律や習慣に従は、危険である。なぜなら、民衆はそれを正義だと信じるが っているのは、よいことである。人々が、取りいれるべき真ゆえにこそ、それに従っているのだからである。それゆえ、 民衆に向かっては、同時に、「法律は法律であるがゆえにそ なる法律や正しい法律は一つもないということ、それについ
22 聖書の二つの意味 聖書の唯一の目的は愛である 隠れている神 なにゆえ神は隠れようとしたか 第二章新約聖書。イエス・キリスト 緒論。神人イエス・キリスト。万物の中心 イ壬ス・キリストの証拠 彼はもろもろの予言と型とを成就する 571 , 3 , 664 , 662 , 573 , 574 , 575 , 576 , 578 670 , 671 , 672 , 673 , 8 , 5 , 7 , 757 751 , 752 , 753 , 7 , 7 田 1 , 田 2 , 5 , 田 6 737 , 765 , 5 , 557 , 8 , 511 , 559 784 , 5 , 739 , 768 , 770 , 727 , 735 , 730 , 9 , 773 , 7 , 736 , 7 838 , 830 , 1 , 829 , 811 , 812 , 815 , 808 , 8 , 837 2 3 4 5 6 7 8 9 彼は奇蹟をおこなった イエス・キリストの曖昧さ。聖体の秘蹟 787 , 7 , 794 , 7 % , 764 , 763 , 792 , 795 , 789 , 万人の贖い主イエス・キリスト 贖いの効果。恩寵 祈りといさおし 救い 恩寵と律法。義人 道徳 普遍的正義の秩序。自己放棄 思考する肢体 神の愛 救いの道。真理と愛 悔い改め イエス・キリスト イエスの秘義 512 517 , 771 , 513 , 777 459 , 460 9 , 0 , 1 , 545 , 6 , 467 , 466 , 422 , 3 , 2 , 4 田 , 5 , 524 , 5 , 528 , 529 , 530 , 4 , 5 , 532 , 537 , a38, 522 , 516 , 520 , 519 , 5 , 502 , 83 , 521 514 , 1 , 518 , 5146n , 744 , 515 6 , 782 , 772 , 783 , 769 , 87 , 88 , 5 , 85 0 , 767 , 774 , 775 , 755 , 780 , 4 5 , 555 549 , 548 , 7 , 785 , 550 , 1 , 554 , 552 498 , 661 , 497 , 604, 605 5 開 , 495 , 4 % , 81 , 4 , 9 , 544 , 6 484 , 481 473 , 474 , 475 , 476 , 480 , 482 , 483 , 943 , 485 470 , 4 , 478 , 472 , 477 , 6 第三章教会 2 3 4 キリスト教はいかにして成立したか。福音の歴史の真理。使徒たら 802 , 801 , 6 , 800 , 798 , 799 , 797 キリスト教はいかにして維持されたか 奇蹟と恩寵。超自然的な宗教の超自然な基礎 805 , 8 , 851 , 807 , 813 時と場合によって奇蹟と教理を見分けること 803 , 836 , 5 , 9 , 843 , 8 , 8 820 , 永続性。存続する真理 821 , 8 , 826 , 824 , 825 , 822 , 850 , 852 , 1 , 851 , 846 , 別 8 , 別 7 851 , 852 , 646 , 616 , 617 , 613 , 614 真理の歴史。もろもろの異端。相反の一致 8 田 , 747 , 255 , 2 , 0 , 861 , 9 , 857 , 579 , 2 , 3 , 田 5 , 7 , 5 , 4 , 895 , 893 , 894 , 897 , 898 , 8 % , 8 , 5 , 田 9 , 8 , 9 教会の教理的無謬性。教皇と単一 9 , 田 0 , 876 , 874 , 871 , 872 , 879 , 877 , 875 , 1 , 83 , 867 , 1 , 870 , 905 教会を通して神にいたらなければならない。味方でないものは敵である。 田 9 , 878 , 949 , 945
ら、民衆は、儀文のもっ精神を、理解しなければならない しなければならない。それは、無理をせす、技巧を用いず、 し、教養ある人々は彼らの精神を儀文に服従させなければな議論もせずに、われわれにことがらを信じさせ、われわれの らないからである。 あらゆる能力をこの信仰に傾かせ、かくしてわれわれの魂を 四五〇»-; 八一一一七四七〇 自然にそこへ落ちこませる。人が信念の力だけで信じている とき、自動機械がその反対のことを信じる方へ傾くというの な。せなら、われわれは自己を見あやまってはならないから では、十分だとはいえない。それゆえ、われわれの二つの部 である。われわれは精神であると同様に、自動機械である。 分を信じさせなければならない。すなわち、一方では精神 したがって、人を納得させる手段は、単に証明だけではない を、一生に一度見たら十分であるような理由によって信じさ ということになる。証明される事物などというものは、、、 に少ないことか ! 証拠は精神を説得するだけである。習慣せ、他方では自動機械を、習慣によって、反対の方へ傾くこ とを許さないようなしかたで、信じさせなければならない。 こそ、われわれにとって最も有力な最も信頼される証拠とな る。精神を知らず知らずのうちにひきずっていく自動機械「神よ、わが心を傾かせたまえ。」 理性はゆっくりと、いろいろなものに眼を注ぎながら、多 に、動きを起させるのは習慣である。明日は来るであろう、 われわれは死ぬであろう、などということを誰が証明したでくの原理にもとづいて働く。しかもそれらの原理はつねに現 あろうか ? また、それ以上に深く信じられていることがあ存していなければならない。そこで、それらの原理が現存し ていないときには、理性はいつも眠ったり、迷ったりする。 るだろうか ? してみると、われわれにそれを納得させるの は、習慣である。かくも多くのキリスト教徒をつくったの感情はそのようなしかたで働くのではない。それは一瞬に働 き、つねに働き出そうと身構えている。それゆえ、われわれ は、習慣である。トルコ人、異教徒、職人、兵士等々をつく ったのは、習慣である。 ( 洗礼によって信仰を得るという点の信仰を感情のうちに置かなければならない。そうでない で、異教徒よりもキリスト教徒の方がすぐれた信仰をもってと、信仰はつねに不決断のままにとどまるであろう。 一断章二四六に見える「機械」と同義である。ラ・プリュイエールは、精 いる。 ) 要するに、ひとたび精神が真理の在り場所を知った 神よりもむしろ自動機械にすぎないような人間について語っている。「愚人 ならば、たえずわれわれから逃れ去ろうとするこの信仰にわ は自動機械であり、機械であり、ゼンマイである。おもりが彼を運び、彼を れわれを浸らせ、われわれにそれを染みこませるためには、 動かし、彼を転向させる。云々。」 = これは欄外に記されたことばである。洗礼によって信仰を得る方がいっ 習慣に助けを求めなければならない。なぜなら、真理の証拠 そうすぐれているというのは、ユダヤ教の割礼に対して言われたものであろ をつねに眼前に保つのは、わすらわしいことだからである。 う。シャロン「知恵について』二巻五章九に「ユダヤ教徒とキリスト教徒 われわれは、、 しっそう容易な信仰、習慣による信仰をものに は、自分が人間であることを知る以前に、一方は割礼を、他方は洗礼を受け
テルトウリアヌス、「教会はけっして改革されないであろ 対する神の摂理の欠如を示すものであると言うべきいかなる 理由をももたない。というのも、教会は本来、聖職制度の全 三三八九八六八三九 八九一 体のうちにあるのであって、事態の現状からして、神は教会 »-a (XLIX) ジェズィットの教理を誇っている異端者たちに知らせなけ を堕落のなかに置き去りにしたなどという結論をひき出すこ とができるどころか、むしろ反対に、神が教会を明らかに堕ればならないのは、それが教会のそれ〔教会の教理〕ではな いということ、そしてわれわれの分離は祭壇からの分離では 落から守っているということが、今日ほどよくあらわれたこ ないということである。 とはかってなかったからである。 一この断章は「草稿原本』にも「第一写本』にも欠如しており、「ゲリエ 思うに、異常な召命によって、普通のキリスト教徒よりも 写本」によってのみ伝えられる。 いっそう完全な状態のうちに生きようとして世間を離れ修道 H 三一三九八七七八〇 八九ニ (XI, LXVII) 士の衣服をまとうことを誓ったそれらの人々の幾人かが、普 「もし相違することによってわれわれが断罪したのならば、 通のキリスト教徒に嫌悪を起させるような迷妄におちいり、 貴方がたの方が正しいであろう。多様のない統一は他の人々 かってユダヤ人たちのあいだにあらわれた偽予言者のような にとっては無益であり、統一のない多様はわれわれにとって 者にわれわれのあいだでなったのは、実に嘆かわしい特殊な は破減的である。一方は外部的に有害であり、他方は内部的 個人的な不幸であるが、しかしそのことから、神が教会に対 に有害である。」 していだいている配慮を否定するような結論をひき出すこと 一この断章は「ゲリエ写本』によってのみ伝えられる。 はできない。というのも、すべてそれらのことは明らかに予 一一・フランシュヴィックは、この断章を、。ハスカル自身に向けたジェズィッ 言され、そういう誘惑がこの種の人たちの側から起るであろ トの反駁と解している。 (--«四五四八四七八一五 うということは、すでにずっと以前から予告されていたの 八九三 七九五 で、正しい教えを受けさえすれば、誰でもそのことのうち 人は真理を示すことによって、それを信じさせる。けれど に、われわれに対する神の忘却のしるしよりも、むしろ神の も、人は主人の不正を示すことによって、それを矯正させる 導きのしるしを見ることができるからである。 ことはできない。人は虚偽を示すことによって良心を確保す 一この断章は抹消や書き直しの箇所が非常に多く、「第一写本」にも欠如 るが、人は不正を示すことによって財布を確保することはで しているので、編纂者は文脈の整理に苦心している。なおこの断章の内容 きない は、「パリの司祭たちのための第五文書」 ( 一六五八年六月十一日 ) および ス決疑論者のための弁護》を駁する司教教書の草案」と密接な関連がある。 一版、版にしたがって m 尊 ( 主人 ) と読む。版は m ぎ尊 e 四五四八六八八五五 ( 聖職者 ) と読んでいる。 八九〇
349 十四篇 以て引きよせようと欲し給うときには、自由に、かっ謬っことなく、神のも ター派に対抗して自然の能力を、他方。ヘラギウス派に対抗して自然の無能力 とへ向かう。」 を、またルター派に対抗して恩寵の力を、ペラギウス派に対抗して恩寵の必 要を、しかも、ルター派のように恩寵によって自由意志を破壊するのでな e 四二七七五二—八六四 *--ä一瓦 八六六 く、ペラギウス派のように自由意志によって恩寵を破壊するのでなく、それ 一一種類の人々が、たとえば祭日と勤労日、キリスト教徒と らをともに全体的に擁護することを学・ほう。そして、真理のうちにあるため には、これらの結論のいずれか一方をのがれるたけで十分であるなどと考え 司祭たち、彼らのあいだのすべての罪など、そういうことが ないようにしよう。」 らを、みな等しいものと見なす。そこからして、一方の人々 四二二七三九八六三 八六四 七九三 は、司祭にとって悪いことはキリスト教徒にとっても悪いと 真理はいまの時代にはかくも曖昧であり虚偽は明確である 結論し、他方の人々は、キリスト教徒にとって悪くないこと から、われわれは真理を愛するのでないかぎり、真理を知る は、司祭にも許されると結論する。 ことができないであろう。 一この「二種類の人々」が何を意味するか明らかでない。この断章は「草 一この断章の草稿はジル・ヘルト・・ ヘリエの筆蹟である。 稿原本』でも「第一写本』でも、版断章三の直後に置かれており、そこで 四三八七八六九四七 は「感情によって判断することに慣れている人々」と「原理によって推理す 八六五 七九〇 ることに慣れている人々」とが対比させられているが、それと関連があるよ 一一つの相反する点を告白すべき時があるとしたら、それ うには思われない。 は、その一方を除外することが非難される時においてであ 八六七 二五 9 二八五五四四 る。してみると、ジェズィットもジャンセニストも、それら もし古代教会が誤謬におちいっていたならば、教会は没落 の相反する点を隠していることにおいて誤っている。しかし したであろう。今日、教会が誤謬におちいることがあって ジャンセニストの方がいっそう多く誤っている。なぜなら、 も、事情は同じではない。なぜなら、教会は、古代教会から ジェズィットの方が、どちらかといえば、二つを共に告白し 受けついだ聖伝というすぐれた原則をつねにもっているから ているからである。 一断章七八一およびその訳注参照。イ = ス・キリストは全人類のために死である。それゆえ、古代教会に対するかかる服従と一致は、 んだという全般性と、ジャンセニストの主張する除外性とが、この場合の問 優越的であり、すべてを矯正する。けれども古代教会は、わ 題であろう。また恩寵と自由意志の問題にも関連してくる。ジェズィットは れわれが古代教会を予想しそれに眼を向けるように、未来の 自由意志を強調するあまり、恩寵の有効性を隠しており、ジャンセニストは 恩寵の有効性を主張するあまり自由意志を隠している。パスカルはジャンセ教会を予想したりそれに眼を向けたりはしなかった。 三七二五九八八三三 ニスト的見解の行き過ぎに気づいた。すでに『プロヴァンシアル第十八書 八六八 八〇三 簡』において次のように言っている。「かくて神は必然性を課することなし かって教会のなかでおこったことと、現に教会のなかで見 に、人間の自由意志を左右し給う。また、つねに恩寵に逆らいうるが必ずし られることとを比較するのに、われわれの邪魔になるのは、 もつねに逆らうことを欲しない自由意志は、神がこれを有効な霊感の快さを
410 人は教会内で恐るべき順倒がジェズィットによって行なわれ書簡ーー十一一月四日付第十六書簡 ) を発表したのち、。 ( スカ ていることに気づいた。というのも、ジェズィット側の神学 ルは第十七、第十八書簡 ( 一六五七年一月二十三日、三月二 者たちの術策にかかると、古代の教父たちにあっては正統で十四日付 ) において、ふたたび神学論争に立ち返った。つい で彼は第十九書簡の草稿を作った。しかしそのころにいたっ あった教理がアルノー氏においては異端とされ、反対に半ペ て、ジェズィットの策謀がしだいに功を奏し、ジャンセニス ラギウス派の場合には異端とされていたものがジェズィット トに対する迫害はいっそう激しさを加えてきた。出版には必 においては正統となるからである。 ず国王の認可を要することになり、『プロヴァンシアル』の 三月一一十日付の第五書簡以後、パスカルは問題を転じて、 刊行もいよいよ困難になった。。ハスカルは未刊の草稿を残し ジェズィットの倫理、特にその決疑論に批判の矢を向けた。 たまま、ついにそこで筆を投じた。 そして彼らの決疑論がいかに甚だしい御都合主義に堕してい 恩寵と自由意思の関係はたしかにキリスト教の教理におけ るかをあばいてみせるために、調子に乗って何でもしゃべる る最も困難な問題である。われわれの善きわざの原因を、或 お人好しの神父さんを登場させ、ルイ・ド・モンタルトとこ るときには神に、或るときにはわれわれ自身に帰するこの矛 の神父さんとの一門 口一答を生々と描いた。ジェズィットの倫 理的教説のばかばかしさを暴露することによって、『プロヴ盾はいかに解決されるべきであろうか ? パスカルは第十八 アンシアル』の効果はますます大きくなった。このパンフレ書簡のなかで、聖アウグスチヌスにならって次のように言っ ットはパリだけでも数千部を売りつくし、地方へも送り出さている。「われわれの行為は、それを生み出す自由意志のゆ れた。かくして諷刺や諧謔を自由に駆使したその表現と、軽えにわれわれ自身のものであり、しかもわれわれの意志をし 快で素直なその文体とは、すばらしい人気を呼び、いたるとてそれを生み出させる恩寵のゆえに神のものである。」パス ころでむさぼり読まれた。 カルに言わせれば、真理は二つの相反する原理、すなわち人 間の意志のうえに働く恩寵と、それに抵抗することもできる ジェズィット側では、形勢が逆転しそうになったので俄か にあわて出した。彼らは覆面の筆者ルイ・ド・モンタルトの自由意志との、一致のうちに存する。しかるにカルヴィニス 正体をつきとめようとして八方に探索の手をのばしたが、む トとペラギウス派は、二つの原理のいずれか一方に偏したた モンタルトことパス だであった。皮肉なことに、ルイ・ド・ め誤謬におちいった。前者は自由意志を否定し、後者は恩寵 カルは、ソル飛ンヌのすぐ裏手ボワレ街のダビデ王館に宿をを否定する結果になった。聖アウグスチヌスおよび公会議の 取っていたのである。その後ひきつづいてジェズィットの倫認めるところによれば、恩寵は人間の意志のうえに働いてこ 理問題を批判する十一通の書簡 ( 一六五六年四月十日付第六 れを自由にかっ有効に同意させるが、人間の意志はそれに対
176 れの哀れむべき正義の基準に反するものが、またとあろう はわれわれにそのことをはっきり言明し、或る個所ではこう か ? たしかにこの教理ほど、はなはだしくわれわれを傷つ 言っている。「わが喜びは人の子らとともにあるにあり。」 けるものはない。にもかかわらす、あらゆるもののうちで最「われ、わが霊をすべての人に注がん。」「汝らは神なり。」 も不可解なこの秘義がなければ、われわれがわれわれ自身に等。また他の個所ではこう言っている。「人はみな草なり。」 対して不可解なものとなるのである。 「人は心なき獣にくらべられ、そのたぐいとなりぬ。」「われ、 われわれの状態の結び目は、この深淵のなかで縺れあい絡わが心に言う、人の子らは云々。」〕 みあっている。かくして人間は、この秘義なくしては、この 〔以上のことからして明らかであると思うが、人間は、恩寵 秘義が人間にとって不可解であるより以上に、、 しっそう不可によれば、いわば神に似たものとされ、その神性にあずかる 解である。 ものとされるが、恩寵なしには、いわば野獣に似たものであ 〔してみると、神は、われわれの存在についての困難をわれる。〕 ここで「それらの原理」といっているのは、断章三九二で「それらの事 われ自身に理解できないようにさせようと欲して、その結び 物」といっているのと同じく幾何学の基本的な原理、もしくはその他の認識 目を、われわれの到達しえないほど高いところに、あるいは の基本的な原理を指しているのであろう。 むしろ、それほど低いところに、隠したかのようにも思われ = 「草稿原本』にはここに「信仰と啓示を除いて」という但し書があとか ら書き加えられている。 る。そういうわけで、われわれが真にわれわれ自身を知るこ 三デカルト『省察』第一「そこで私は、真理の最高の源泉であるきわめて とができるのは、われわれの理性の高慢な興奮によってでは 善なる神がではなく、狡猾で欺瞞的でしかも有力な或る悪しき霊が、彼のあ なく、かえって理性の単純な服従によってである。〕 らゆる策略を用いて私を欺いているのだと仮定しよう。天、空気、地、色、 形、音、われわれの見るすべての外的事物は、この悪しき霊が私の軽信につ 〔宗教のおかすべからざる権威のうえにかたい基礎をもっこ けこんで私をだますために用いた幻影であり欺瞞であるにすぎない、と私は れらの根拠は、ひとしく不変な信仰上の真理が二つあること 考えよう。」パスカルがここで邪悪な悪匱 ( デモン・メシャン ) と呼んで をわれわれに知らせる。その一つは、人間は創造の状態もし るのは、明らかにデカルトの悪しき霊 ( モーヴェ . ・ジェニ ) に対応するもの である。 くは恩寵の状態にあっては、あらゆる自然のうえに高めら 四これもあとから書き加えられた但し書である。夢と覚醒の区別が確実に れ、いわば神に似たものとされ、その神性にあすかるものと つけられないということについては、デカルト「省察』第一に書かれてい される、ということであり、いま一つは、堕落と罪の状態に る。断章三八六の注参照。 五この一節はパスカルが線をひいて消した箇所である。テキストの復元は おいては、人間はさきの状態から失墜し、禽獣に似たものと ここでは»-a 版にしたがう。 なっている、ということである。〕 六このあとに次のような数行があるが、・ハスカルは線をひいて消してい 〔これら二つの命題はひとしく堅固であり確実である。聖書 る。「いまかりに、われわれが誰かといっしょに夢路に入り、よくあること
159 第 篇 の事物」といわれているのは、空間、時間、運動、数、同等といったような 基本的原理的な概念であることがわかる。「人間のあいだで最も完全なこの 秩序 ( 幾何学の秩序 ) は、すべてのことを定義しすべてのことを論証すると ころにも、また何ごとをも定義せず何ごとをも論証しないところにも存せ ず、すべての人々に了解されている明白な事物を定義しないでその他のすべ ての事物を定義し、人々に知られているすべての事物を論証しないでその他 のすべての事物を論証するという、かかる中間にとどまるところに存する。 : : : これこそ幾何学が完全に教えてくれることである。幾何学は、空間、時 、運動、数、同等といったような事物のいずれをも、また多数に存在する というのも、それらの語は、言語のわかる人 同様の事物をも、定義しない。 人に、それらが意味している事物をきわめて自然に指示するので、それらを 説明しようとすると、かえって教示よりもむしろ曖昧さをもたらすことにな るであろうからである。」そのあとでパスカルは、「光とは光れる物体の光る 運動である」と定義したノエル神父の不条理を、指摘しており、さらに「わ れわれは同様な不合理におちいることなしに存在を定義しようと企てること ができない。な・せなら、われわれは、はっきり言いあらわすにせよ言外に含 ませるにせよ、「それは : : : である』 c'est という語で始めずには、一つの語 を定義することができないからである。それゆえ、存在を定義するために は、「それは : : : である』と言わなければならず、かくして定義されている 語を定義のなかで用いなければならないことになるであろう。」 = 版、版の読みにしたがう。 三以上はパスカルが線を引いて消している箇所である。 用語の一致から観念の一致を引き出すこと。 五「自然の光」とは独断論者の拠りどころとなる「理性」をいう。 六アカデメイア派の祖ともいうべきアルケシラオスは、行為の基準を蓋然 性 ( エウロゴン ) に置き、後のカルネアデスは確からしさ ( ピタ / テース ) にそれを求めた。したがって、アカデメイア派の人々は、。ハスカルが断章三 七五で言っているように、独断論者に逆戻りしたともいうことができる。こ こでパスカルが言おうとしているのは「アカデメイア派の人々ならば、用語 の一致から観念の一致への推定を肯定する方の側に、賭けたことであろう」 という意味である。 セ断章三七三注参照。パスカルは、ピュロンの判断中止 ( 工ポケー ) のこ とを言おうとしているのである。 四四 0 >-ä七九四二〇五 三九三 二八六 神や自然のあらゆる法則を放棄しておいて、自分で法律を つくり、それにはきちんと従っている人間がこの世にあると いうことは、考えてみると、面白いことだ。たとえば、マホ メットの兵士、盗賊、異端者など。論理学者も同様である。 彼らがかくも正当でかくも神聖なものをかくも多く踏み破 ったところを見ると、彼らの放縦には、思うに、限度も限界 もないにちがいない。 ペリエの筆蹟である。 一この断章の草稿はジル・ヘルト・ e 三七七»-a 六一九二九三 三九四 三八九 ピュロンの徒、ストア派、無神論者等、すべて彼らの原理 としているところは、真である。けれども彼らの結論は誤っ ている。なぜなら反対の原理もまた真であるからである。 四八〇四〇六二八七 三九五 >-ä二七三 。し力なる独断論によっても 本能、理性。ーーわれわれよ、、、 克服されえない証明の無能を負っている。われわれは、い、 なる。ヒロニスムによっても否定されえない真理の観念をもっ ている。 一この後半の一句はパスカル自身の筆蹟ではない。 一二二一二八二四三 三九六 *-ä二七一 二つのものが、人間に彼の全本性を教えてくれる。本能と パスカルが本能と呼んでいるのは、善への渇仰、われわれの原初的完全 性の思い出である。また経験と呼んでいるのは、われわれの悲惨、われわれ の失墜の自覚である。 (--* 一〇八»-a 一一四二一八 三九七 »-a 二五五 経験。