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検索対象: 世界の大思想8 パスカル
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1. 世界の大思想8 パスカル

解 407 説 0 十七世紀のポール・ロワイヤル・ド・バリ。ポール・ロワイヤル・デ・シャンの別院と してフォプール・ド・サン・ジャックに設けられた。正面右手の教会堂は , アントワー ヌ・ノレポ ートルの設計になる。 1669 年 , デ・シャンから分離した。 1790 年に廃院となり , 革命直後 , 一時 , 刑務所として使われたが , まもなく施療産院となった。 叫るないに大た ク もれる執正 め物 で を一結 目 、どかす 工人るか ァ め 魔こ い人欠の ド 保 し ( り は ユ ト堕もを カ : で人らか 々け治有 る は ヒ。 の と へカ : る て ′つ 、知人 ス落 あ ク 々得しき 餌にむ 育皀サ にた癒 ルあ 、たにな そ不は し信 しと人的 ら オよ のら 々 る テ る ソ る シ し、 う信きて 仰せ ト こ平れ 私 々効医は り み ) の のか る ナ つ い仰わいか 、て 、果者 る蒙 安る見だかは と ス と の し う 、ら し 彼 は藁を と をのをを不リを ら のを カ ; ス と める う か 身っ . 鷓てと 、屑上 出に ひ鼻う 彼カ 、益し、 とぬまら 巧 のちも カ 有いた 、ら 。よ け徳 のげ にちらき も え ル影に 、の そ し こ 生 う モ き に自み少は かあれなる う の像二れ な か の 、け見身だな ン に の方 洞 の で やら 力、 て、 つは そ傾あと オよー しく と に法察 あの ア理 る いに ふのカ、 れ向る 、は / い ー性人 似に を ナど そ私 や = 士 り本人 祝ら の か納正ニ め彼 らを カ : 々 す 圭 真てよ深 、質な な な のは ス 。さ のもも得 、カ 危そ信は さ 結がる 、の らし 珥 ~ し、 り し しははか傲ませカ ル 険う仰あをる 最 っし に果言神 物た ん 、に慢たる真 。大 十し、 幸は 驚 いをま見 力、 でいイ を人な い比迷を信 の福言 の嘆ああ な 比 ら う し 、け いり いく仰類奴 遠懸 っ有だ 、を・ 毋し 祝にいいカ、の る ら ス 。人 は む に効やじをな隷外ナ 念そ益すど 薬て にわ・ こき 完果すき除きて的 ま もを言すしキ うナ かか 々 、外技あなそ とわた に 全が い ぎが ぐと と批 酉己 っ るら リ モはなあも 、ら は 自 し術りもれ の判合たな ノ ) た ス 、も の説てを惨のら と ノ、 で的 ン し つ思 る いい ト そ 。で てあ 。統の に 真 精 々かわき の 、を の ェ めに フ - の すがせれな神最な ピでけあ 囿 の私な求書 ーを

2. 世界の大思想8 パスカル

べての民は、汝の永遠によそおうべき飾りとして汝に与えら 「そはわれ来りしにわれを迎うる者なく、われ呼びしに聞く れん。汝の荒れかっ廃れたるところ、毀たれたるすべての地者なかりしゆえなり。わが腕は短くして救う力なからんや。 は、こののち住まう者おおくして狭きをおぼえん。汝の生ま 「このゆえにわれわが怒りのしるしをあらわさん。われ暗黒 ざりし年に汝に生まれたる子らは、汝に言わん、この地はあをもて天をおおい、荒妙をもてこれをかくさん。 まりに狭し、境をひろくし、われに住むべきところを得しめ 「主は教えを受けし者のことばをわれに与えたまえり。そは よ、と。そのとき汝、心のうちに言わん。もはやわれ子を産悲しみのうちにある者をわがことばによりて慰むることを得 ます実りなくして移されかっ囚われおりしとき、誰かこれら しめんためなり。彼その教えにわが耳を傾けしめたまえり。 多くの子らをわれに与えしゃ。われ見棄てられて助けを得ざわれは師に対するごとく彼のことばを聞けり。 りしとき、誰かこれをわがために育てしゃ。これらすべての 「主はわれにそのみこころを示したまえり。われは逆らうこ 者よ、、 しずこより来りしや、と。主、汝に言いたまわん。見となかりき。 よ、われわが力を異邦人のうえにあらわし、わが旗をもろも「われ鞭うつ者にわが体をまかせ、侮辱する者にわが頬をま ろの民にむかいて立てたり。彼らはその腕とそのふところに かせ、恥と唾に対してわが顔をおおうことをせざりき。され きさ、き 子らをたずさえて汝のもとに来らん。もろもろの王と后は、 ど主われを支えたまいしにより、われは恥を受くることなか りき。 汝の養い親とならん。彼らはその顔を地につけて汝をあが め、汝の足の塵をなめん。しかして汝われは主なるを知り、 「われを義とする者、われとともにあり。誰かあえてわれを われを待ち望む者はとこしえに恥をこうむることなきを知ら咎めんや。誰か立ちてわれと争い、われを罪せんや。神みず ん。誰か強き力ある者より獲物を奪い返すことをえんや。さ からわれをまもりたまえばなり。 れど、たといそれを彼より奪い返しうるほどの者ありとも、 「人はみな過ぎ去り、時をへて消え失せん。されば神をおそ わが汝の子らを救い汝の敵をほろぼすことをさまたげうる者るる者よ、神のしもべのことばを聞け。暗きにありて悩める はなからん。かくてよろずの民、われは主にして、汝を救う者よ、主に依り頼め。されど汝らは、神の怒りをおのがうえ 篇者、ヤコブの強き贖い主なることを知るべし。 に燃え立たしむるのみなり。汝らは火のうえを歩み、汝の燃 + 「主かく言いたもう。わが汝らの会堂を棄てしときの去りぶやしたる烙のなかを歩む。これらのわざわいを汝らのうえに 第 みはいずこにありや。われこれを汝の敵の手に渡ししは何ゅ来らしめしはわが手なり。汝らは苦しみのうちにありて減び えそゃ。わがこれを棄てしはその不信とその罪のゆえならすん。 ゃ。 「汝ら、義を追い求め主を尋ね求むる者よ、われに聞け。汝 あらたえ

3. 世界の大思想8 パスカル

得べくば、或いはさいわいし、或いはわざわいせよ。さら 「われは汝らをして水のなか、海のなか、流れのなかをわた ば、われら見て、ともに論ぜん。されど汝らは無きもののご らしめ、汝らに逆らいし強き敵をとこしえに海に沈め、これ とし。汝らは憎むべきものにすぎざるなり、云々。汝らのうを減ぼせし者なり。 ち誰か ( 同時代の著者たちによって ) 開闢以来の出来事をわ 「されど、これらいにしえの恵みを思いいずるなかれ、過ぎ れらに教えしゃ。誰か、こは是なりとわれらに言わしめし しことに眼をそそぐなかれ。 ゃ。これにつきてわれらに教うるもの一人だになく、後に成「みよ、われ新しきことをなさん、やがて起るべし。汝らそ らんとすることを予言するもの一人だになし。」 れを知らん。われ荒野を人の住みうる美しきところとなさ 「イザャ書』四十一一章、「われは主なり。われはわが栄光をん。 ほかの者に与えず。さきにわが予言せしことすでに成れり。 「われおのれのためにこの民をつくり、わが讃美を告げしめ われまた新たに成らんとすることを予言す。全地の民よ、神んとてこの民を立てたり。云々。 にむかいて新しき歌をうたえ。」 「されどわれはわれみずからのために、汝の咎を消し、汝の・ しいださし ) 「眼あれども見ず、耳あれども聞かざる民をたずさえいで罪を忘れん。そは ( 汝らをして汝らの忘恩を思、 よ。もろもろの国びとは集まるべし。彼らのうちーー・ーまた彼め、汝らみずから是とするに値いするや否やを見せしめんた らの神々のうちーー・誰か過ぎしことと来らんとすることとをめに ) 、汝らの遠祖、罪をおかし、汝らの教師ことごとくわ 汝らに教えんや。もろもろの国びとはその証人をいだして、 れにそむきたればなり。」 おのれの是なるを示せかし。しからざれば、われに聞きてい 「イザャ書』四十四章、「主言いたもう。われは始めなり終・ 真理はここにありと一言うべし。 りなり。われにひとしからんとする者は、わがいにしえの民・ 「主、言いたもう。汝らはわが証人なり。汝らはわが選びを設けしよりこのかたのことの次第を語り、また来らんとす しもべなり。されば汝ら知りてわれを信じ、わが主なるをさ ることを告げよ。汝らおそるるなかれ。われこれらすべての とりうべし。 ことを汝らに聞かせたるにあらすや。汝らはわが証人なり。」一 篇 「われは予言し、われは救い、われのみ汝らのまえにてこれ クロスについての予言。 『イザャ書』四十五章四節、 + らのくすしきわざをおこなえり。汝らはわが神なることの証「わが選びしヤコブのゆえに、われ汝の名を呼べり。」 人なり、と主いいたもう。 『イザャ書』四十五章一一十一節、「汝ら来りて、ともに論ぜ よ。誰か始めよりこのかたのことを聞かせしゃ。誰かそのと 「われは汝らを愛すればこそ、ビロ = ア人の力をうちくだ きよりこのかたのことを予言せしゃ。そは主なるわれにあら きたり。われは汝らを潔め汝らを創造せし者なり。

4. 世界の大思想8 パスカル

そこて、すべての幾何学者は、彼らがよい眼をもっている ならば、繊細でありうるであろう。彼らは自分の知っている 原理について誤った推理をするようなことはないからであ る。また繊細な精神の人は、慣れない幾何学的原理の方へ眼 を向けることができるならば、幾何学者になれるはずであ る。 * * e 三四九五一二九一 0 二一 したがって、或る人々が繊細な精神をもちながら幾何学者 になりえないのは、彼らがまったく幾何学的原理の方へ向か 幾何学的な精神と繊細な精神との違い 前者において うことができないからである。しかし幾何学者でありながら は、原理は明白であるが、しかし通常の使用から離れて よ繊細でない人があるのは、彼らが眼の前にあるものを見ない る。したがってその方面へあたまを向ける人はあまりいオ からである。また、彼らは幾何学の明白で大きな原理に慣れ 慣れていないからである。しかし少しでもその方へあた ており、それらの原理をよく見て、確かめたのちでなけれ まを向けるならば、完全にそれらの原理を見てとることがで きる。ほとんど見のがすことができないほど大きなそれらのば、推理しない習慣になっているので、そのように原理を確 原理について、誤った推理をする人があるならば、よほど精かめるわけにいかない繊細な事物にぶつかると、彼らは迷っ てしまうのである。この方の原理はほとんど眼に見えない。 神がどうかしている人にちがいない。 けれども繊細な精神においては、原理は通常使用されておそれは、見るよりもむしろ感じるものである。それを自分で 感じない人に、感じさせるのは、非常に骨がおれる。それは り、すべての人の眼の前にある。あたまを向けるまでもない し、努力する必要もない。ただ問題は、よい眼をもっことで徴妙なものであり、数も多いので、それを感じとるにはきわ ある。眼を利かさなければならない。な。せなら、この方の原めて微妙な澄んだ感覚を必要とする。また、この感じにした がって正しく率直に判断する必要がある。そこでは、多くの 理はきわめて微妙であり、数も多いので、ほとんど見のがさ 篇ないことが不可能なくらいだからである。ところで、原理を場合、幾何学におけるように秩序立ててそれを証明するとい 一つでも見落せば、誤謬におちいる。だから、すべての原理うようなことができない。というのも、われわれは原理をそ 第を見てとるためには、よく澄んだ眠をもたなければならな ういうしかたで所有しているのではないからであり、そうい 。それから、既知の原理について誤った推理をしないためうことを企てると、際限がなくなるからである。とっさに、 には、正しい精神をもたなければならない。 一目で事物を見てとらなければならない。少なくとも或る程 第一篇

5. 世界の大思想8 パスカル

「ダニエルの見しことこれなり。彼その解き明かしを求めし ちかっ砕かん。 一つの声ありてかく叫びぬ。ガブリエルよ、彼をしてそ 「汝、その像の足と足のゆびを見たまいしに、一部は土、一 の見たるまぼろしをさとらしめよ、と。かくてガブリエルい 部は鉄なりしとは、その国の分たれて、鉄のごとく堅きとこ わく。汝が見たる牡羊はメデアとベルシアの王なり。またか ろと土のごとく脆きところとなるべきを示すなり。 「されど鉄は土とかたく結合することあたわざるごとく、鉄の牡山羊はギリシアの王、その眼のあいだの大いなる角はこ の国の最初の王なり。 と土とによりてあらわされたるものは、たとい婚姻によりて 「またこの角折れて、代りに四つの角生ぜしとは、この王を 結ばるるとも、長き盟いを保つことあたわざるべし。 「しかるに、この王たちの日に、神ひとつの国を建てたまわっぐこの国の四人の王をいうなり。されどこれらは最初の王 の権力には及ばざるなり。 ん。これはいつまでも減ぶることなく、他の民に帰すること なかるべし。この国は他のもろもろの国を散らし、これを減「しかるに、彼らの王国の末期にいたり、不義の増し加わる イ冫いたらん。さきの におよびて、一人の王おこらん。彼は不遜にして強力なれ ぼさん。されどこの国は存続して玉遠こ 石、人手によらずして切りいだされ、山よりまろびて鉄と土ど、おのれの能力によるにあらず。彼はよろずのことを意の ごとくなさん。彼は聖なる民を荒らし、たくみなる偽りの心 と銀と金とをうち砕きしを、汝が見たまいしはすなわちこの ことなり。かく神は後の日に起らんとすることを汝にあらわをもてそのはかりごとをなしとげ、多くの人々を殺さん。か くてついには君の君たる者に逆いて立たん。されど彼は荒き したまえるなり。この夢はまことにして、この解き明かしは 人手によらずして、いたましくも減び去るべし。」 確かなり。 『ダニエル書』九章一一十節。「われ心をつくして神に祈り、 「ここにおいてネブカドネザル王ひれ伏して、云々。」 おひつじおやぎ 『ダニエル書』八章、「ダニエル、牡羊と牡山羊との戦いをわが罪とわがすべての民の罪を懺悔し、わが神のまえにひざ まずきおりしとき、わがはじめよりまぼろしのうちに見たる 見たりしが、牡山羊、牡羊に勝ちて地を治めたり。しかるに その大いなる角折れ、代りに他の四つの角生じて天の四方に人ガブリエル、晩の供物をささぐるころわがもとに来り、わ 篇 向かえり。また、その角の一つよりして一つの小さき角いでれに触れ、われにさとらしめていわく。ダニエルよ、われい ま汝にことがらのさとりをえさせんとて来れり。汝の祈りの 十きたり、南に向かい、東に向かい、イスラエルに向かいては 第よはだ大きくなり、天軍に及ぶまでに高くなり、星々を投げはじめより、われは汝の願うところを汝に示さんとて来り居 おろしてこれを踏みつけ、ついに君主を打ち倒し、常の供物たるなり。汝は祈りの人なればなり。さればこのことばをき き、まぼろしの意義をさとれ。汝の民と汝の聖なる都のため を取りのそき、その聖所を荒廃せしめたり。

6. 世界の大思想8 パスカル

させることができないなどと、どうして彼は思いこんでいるて、われの汝に教えることがらを信じさせようというのであ のか ? 彼は少なくとも自己が存在していることを知っておる。そのときには、汝はそれらのことがらがはたして存在す るか否かを汝自身では知りえないというだけで、そのほかに り、自己が何ものかを愛していることを知っている。このこ にそれらを拒否する理由を、汝はそこに見いださない とは疑いえない。それゆえ、もし彼が自己の置かれている暗は、」 黒のなかで何ものかを見ているならば、また地上の事物のあであろう。」 いだで愛する何ものかを見いだしているならば、ましてや神 が彼に神自身の本質を示す何らかの光を与え給う場合、神が 神は人間の罪をあがない、救いを求める人たちにそれを与 われわれに神自身を知らせるのを自らよしとし給うようなし えようと欲した。しかし人間は自らそれに値いしない者とな かたで、神を知り神を愛することが、なぜ彼にできないわけっているので、神は、当然のことながら、彼らに与える理由 があろうか ? してみると、この種の考えは、たというわべ のない慈悲によって、或る人々には与えることをよしとし給 は謙虚にもとづいているように見えても、その実、我慢のな うものを、他の人々には彼らの頑固さのゆえに拒絶し給うの らない不遜がそこにひそんでいることは、疑いをいれない。 である。もし神が最も頑固な者どもの強情さをうち砕こうと われわれはわれわれ自身では自己の何ものであるかを知るこ欲し給うたのならば、神は、彼らが神の本質の真理を疑うこ とができないから、それを神から教えてもらうほかはない、 とができないほど明白に、神自身を示すことによって、そう ということをわれわれに告白させるような謙虚でなければ、 為し給うことができたであろう。さながら、最後の日におい 本心からの謙虚とはいえないし、正しい謙虚とはいえない。 て、死者もよみがえり盲人もそれを見るであろうほどの、激 「われは汝をして汝の信仰を理由なくわれに従わせようとは しい雷鳴と天地の崩壊をともなって、それがあらわれるであ 思わない。また、暴君のようなしかたで汝を服従させようと ろうように。 いうのではない。われは、すべての事物の理由を汝に示して ところが神が現われようと欲したのは、そのようなしかた やろうというのではない。ただ、これらの相反を調和させるではなく、柔和な来臨においてであった。というのも、かく 篇 ために、われは、わがうちにある神的なしるしを、説得的な も多くの人々が神の寛大さに値いしないものとなっているの 証拠によって、汝に明らかに見させようというのである。そで、神は、彼らの欲しない善は欠如のまま、そのなかに彼ら 第れらのしるしは、われの何ものであるかを汝に納得させ、汝を放っておこうとした。それゆえ、神が明らかに神的なしか の拒否しえないもろもろの驚異や証拠によって、われに権威たで、すべての人を絶対的に納得させうるようなしかたで、 をもたせるであろう。そして、しかるのち、われは汝をし現われるのは、正しいことではなかった。しかし、神が、心

7. 世界の大思想8 パスカル

へ向かって連ばれていく。このような驚くべき運行を、誰がれうるにしても、われわれの感覚がもはやそれを超えると何 も認めえなくなる点を、不可分な点と呼んでいるように、わ 辿って行けるであろうか ? これらの驚異を創造した者は、 れわれは理性にとってそう見えるものを、最後のものと見な それを知っている。その他の者は誰も知らない。 している。 これらの無限をよく考えてみなかったので、人間はあたか 学問がとり扱うこれらの二つの無限のうちでは、大の無 も自然と何らかの均衡を保っているかのように、大胆にも自 然の探究にのりだした。奇怪なことに、人間はその対象と同限の方が感知されやすい。したがって、あらゆる事物を知ろ うというような考えをおこす者は、稀れにしかいない。私は じように無限に僭越な態度で、事物の始原を把握しようと し、そこからすべてを知るまでにいたろうと欲した。な、せなあらゆることについて語ろうと思う、とデモクリトスは言っ ら、自然と同様に無限な能力あるいは無限な僭越さをもってた。 いるのでないならば、人間がこのような企図をいだきうるは けれども、小の無限は、それほどたやすくは認められな い。誰よりも哲学者たちは、そこに到達してみせると称し ずはないからである。 た。しかし、そこで躓いてしまった。『事物の原理について』 誰でも教えられればわかることであるが、自然はあらゆる とか『哲学の原理について』といったようなたぐいの有りふ 事物のうちにそれ自身の像とその創造者の像とを刻みつけた のであるから、それらの事物は、ほとんどすべて、自然の一一れた書名が生じたのは、そのためである。それらは、外見上 はともかく、事実上、『人の知りうるすべてのことについて』 重の無限性にあずかっている。したがって、われわれの知っ というあの人目をうばう書名と同様、虚栄的なものである。 ているように、あらゆる学問は、その探究の領域に関しては 無限である。たとえば幾何学が解かなければならない命題 われわれは、事物の周囲をつつむよりも、事物の中心に到 は、無限に無限であることを、誰が疑うであろうか ? それ達する方がはるかに容易だと思いこみがちである。眼に見え らの命題は、その原理の多い点、細かい点でも、また無限で る世界の拡がりは、明らかにわれわれを超えている。しか ある。な。せなら、最後のものとして提出される命題は、それし、小さな事物はわれわれの方がそれを超えているので、 自身によって立っているのでなく、他の命題によって支えら っそう容易にそれを所有することができるとわれわれは思い れているのであり、この命題もさらにまた他の命題を支えと こむ。しかしながら、無に到達するには、やはり、全体に到 、 0 、 0 してもっているのであるから、けっして最後のものではあり 達するのと同じだけの能力がなければならなし しすれの場 えない、ということを知らない者があろうか ? 合にも、無限の能力が必要である。そして私の見るところで は、事物の究極の原理を把握した人は、同時に、無限を認識 しかし、物質的な事物の場合に、本性上では無限に分割さ

8. 世界の大思想8 パスカル

大のゆえに驚くべき一方の驚異と同様、徴小のゆえに驚くべ 人間は無限のうちにおいて何ものであろうか ? きこの驚異のうちに、彼は自己を失うであろう。なぜなら、 けれども、人間にいま一つの驚くべき不可思議を見せるた さきに万有のふところにあってそれ自体眼につかないほどの めに、人間は自分の知っているもののなかで、最も徴小なも のをさがしてくるがいい。たとえば、一びきのだには、その宇宙のなかで、有るか無きかのものにすぎなか「たわれわれ の身体が、いまや、何びとも到達しえない虚無との比較にお 微小な身体において、くらべものにならないほどいっそう小 いては、一つの巨像、一つの世界、あるいはむしろ一つの全 さな諸部分を、関節のある脚を、人間に示すであろう。さら に、その脚のなかに血管を、その血管のなかに血を、この血体である。誰か、これに驚かない者があろう ? このようにして自己をかえりみる者は、自己自身に対して のなかに液を、この液のなかに滴りを、この滴りのなかに蒸 気があるのを示すであろう。この最後のものをさらに分析し恐怖を感じるであろう。そして、自然によって与えられた全 ていくならば、人間は自己の力をこのような思考のうちに使体のなかに、無限と虚無とのこの二つの深淵のあいだに、懸 い果さなければならない。かくして彼の到達しうる最後の対けられている自己をかえりみて、彼はこの驚異のまえに恐れ おののくであろう。私の思うに、彼の好奇心は驚嘆にかわ 象、それがわれわれのいま問題にしている対象であるとしょ り、彼は僭越にもそれらを探究しようとするよりも、むしろ う。彼はおそらく、これこそ自然のうちで極小のものである 沈黙のうちにそれらを熟視しようという気持になるであろ と思うであろう。 私はそこに一つの新しい深淵があるのを彼に見せてやりた なぜなら、そもそも人間は自然のうちにおいて何ものであ い。私はこのアトムの略図ともいうべきものの内部に、眼に 見える宇宙ばかりでなく、およそ自然について考えられるかろうか ? 無限に比しては虚無、虚無に比しては全体。無と ぎりの広大無辺なものを描いてみせたい。彼はそこに無数の全体とのあいだの中間者。両極を把握することからは無限に 宇宙を見るであろう。しかもその各々には、それぞれの大空遠く隔てられているので、事物の終極やその始原は、人間に と遊星と地球とが、見ゆるこの世界におけると同じ割合で属と「ては、しよせん、底しれぬ神秘のうちに隠されている。 篇しているのを見るであろう。彼はその地上にもろもろの動物彼は自分がそこから引き出されてきた虚無をも、そこへ呑み 二を、ついにはだにを見るであろう。そしてこのだにのうちこまれていく無限をも、ともに見ることができない。 そうだとすれば、人間は事物の始原をも終極をも知りえな 第に、最初のだににおいて示されたすべてのものを、ふたたび い永遠の絶望のうちにあって、ただ事物の中間の姿を認知す 彼は見いだすであろう。なおその次のもののうちにも、果て しなく休みなくそれと同じものを見いだしていくならば、広るほかに、何をなしえようか ? 万物は虚無から発し、無限

9. 世界の大思想8 パスカル

真の神をまつるエジ。フトの祭壇。 のが魂をへりくだらしむる者、異邦人に侮られ忌みきらわる えき 一「その日エジプトの地のなかにエホ・ハをまつる一つの祭壇あり、その境 る者、地の長たちに役せらるる者にむかいて、主はかく言い にエホ・ハをまつる一つの柱あらん。」 たまえり。もろもろの君と王は汝を拝すべし。汝を選びたま * * 」五二五四八三六六 いし主は、まことある者なればなり。 七ニ六 五三二、五三三、五三五 「主、さらに言いたもう。われ救いと恵みの日に汝にこたえ 予言。 二一五、エジプトにおける。 』、「メシアが来臨すたり。われ汝を立てて民の契約となし、汝をして豊かなる国 『。フギオ』六五九ページ、『タルムード るであろうとき、そのことばをひろめるために定められた神を嗣がしめん。そは汝、縛しめられたる者にむかいて、出で の家は、汚れと不浄に満ち、律法学者たちの知恵は堕落し腐て自由なれと言い、暗きにおる者にむかいて、光に来れ、し かして豊かなる肥えたる地を嗣げと言わんためなり。彼らは 敗するであろう、罪をおかすことを恐れる者は、民よりしり ぞけられ、狂愚と見なされるであろう、というのがわれわれもはや飢えと渇きと太陽の熱によりて苦しなことなかるべ し。彼らをあわれむ者これをみちびきたもうべければなり。 のあいだの伝承である。」 『イザャ書』四十九章「きけ、遠きところのもろもろの民主は彼らを生ける泉にいたらせ、もろもろの山を彼らのまえ に平らかならしめたまわん。見よ、もろもろの民、東より西 よ、汝ら海の島々に住む者よ、主はわが母の胎をいするより わが名によりてわれを呼びたまえり。彼はその手のかげにわより北より南より、あらゆるところより近づき来らん。天 よ、神をほめたたえよ。地よ、よろこべ。主はその民を慰さ れをかばい、わがことばを利き剣のごとくなしたまえり。ま たわれに言いたまわく、汝はわがしもべなり、われは汝によむることをよろこび、主に望みをおく貧しき人々をついに憐 りてわが栄光をあらわさん、と。されどわれ言えり、われはれみたまいたればなり。 「されどシオンはなおも言えり、主はわれを棄て、われを忘 いたすらにはたらきしや、むなしくわが力をついやしぬる ゃ。主よ審きをおこないたまえ。わが労苦は汝のまえにあれたまえり、と。母おのが子を忘れ、おのが胸にいだける子 り、と。ヤコブとイスラエルを立ち返らせんとて、母の胎をを愛せざることあらんや。たとい彼ら忘るることありとも、 いでしよりわれを立てておのがしもべとなしたまえる主、そシオンよ、われは汝を忘るることなかるべし。われつねにわ が両手もて汝をいだく。汝の石垣はつねにわが眼のまえにあ のときわれに言いたもう、汝はわがまえに栄光ある者なり、 われみずから汝の力とならん。汝がヤコブの種族を悔い改めり。汝を建て直さんとする者は急ぎきたり、汝を毀つ者は遠 しむるはいと軽きことなり。われ汝を立てて異邦人の光となざからん。汝、眼をあげて四方をみまわし、これらの群みな し、わが救いとなして地の果てにまでいたらしめん、と。お集りて汝のもとに来るを見よ。われ誓いて言う。これらのす おさ

10. 世界の大思想8 パスカル

ることを命じるが、われわれの邪欲がわれわれをそこからそ 一断章二四二、二四四を参照。一一断章四二四、四三〇を参照。 むけさせるので、われわれは不義に満ちているということ e 四八五三〇一 P-:»-A 三六九 四ニ九 を、認めるものでなければならない。真の宗教は、われわれ 禽獣に屈服してそれを崇拝するまでになっている人間の下 が神に対しわれわれ自身の真の善に対して、このように反抗 劣さ。 していることの理由を、明らかにしてくれるものでなければ 一「第一写本」ではこの断章は第一部第三綴「悲惨」という見出しのもと ならない。真の宗教は、われわれの無能をいやす薬と、その 一八一、三七九、三三二、二九 に置かれており、以下、一一二、 薬を手に入れる手段を、われわれに教えてくれるものでなけ 六、二九四、三〇九、一七七、一五一、二九五、一一五、三二六、八七九、 、一一〇、四五四、三八九、七ればならない。そのような点について、われわれは世界のあ 二〇五、一七四乙、一六五乙、四〇五、六六 三の諸断章が同じ綴におさめられている。 らゆる宗教を検討してみよう。そして、キリスト教以外に、 e 一四一一四九三〇九 四三〇 それらの点を満足させるような宗教が他にあるかどうかを考 四八三 A. P. R. 始め。不可能であることを説明したのち。ーー人えてみよう。 われわれのうちにあるもろもろの善を、そのまま善として 間の偉大と悲惨はかくも明白であるから、真の宗教は必ずわ れわれに、人間のうちには何らかの偉大の根原があるととも提示する哲学者たちは、どうであろうか ? それがはたして に何らかの悲惨の根原があるということを、教えるものでな真の善であろうか ? 彼らはわれわれの悪をいやす薬を見い ければならない。さらに、真の宗教はそれらの驚くべき矛盾だしたであろうか ? 人間を神とひとしくさせたことによっ て、彼らは人間の不遜をいやすことができたであろうか ? の理由をわれわれに説明してくれるものでなければならな われわれを禽獣にひとしいと見た人々、地上の快楽を永遠の 世界においてもそのまま善としてわれわれに与えたマホメッ 人間を幸福にするために、真の宗教は人間に対してひとり ト教徒たち、彼らはわれわれの邪欲をいやす薬をもたらした の神が存在するということ、人はこの神を愛する義務をもっ ているということ、われわれの真の幸福はこの神のうちに生であろうか ? それではいかなる宗教が、われわれの傲慢と きるにあり、われわれの唯一の災いはこの神から離れ去るに邪欲をいやす方法を、われわれに教えてくれるであろうか ? 要するに、いかなる宗教が、われわれの義務、われわれをそ あるということを、示してくれるものでなければならない。 真の宗教は、われわれが暗黒に満たされており、そのためにれからそむけさせる弱さ、その弱さの原因、それをいやしう る薬、その薬を手に入れる手段などを、われわれに教えてく われわれは神を知り神を愛しようにもそれが妨げられている ということ、かくしてわれわれの義務はわれわれに神を愛すれるであろうか ?