第四部 - みる会図書館


検索対象: 世界の大思想9 スピノザ
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1. 世界の大思想9 スピノザ

一つの感情は、その実態が私たちに明らかになればな るほど、私たちのカのなかに落ち、精神はそれだけ、感 情に悩まされなくなる。 テ 定理四 学 理われわれが、それについて、明晰かっ判明な概念を全然 倫 構成しえないような身体変容は一つも存在しない。 証明 すべての事物に共通なものは、それが認識されると 受動態の感情は、われわれがそれについて、明晰かっ判 明な観念を構成するや否や、受動態であることをやめる。 証明 受動態の感情は ( 感情の一般的定義により ) 混乱し た観念である。したがって、もし私たちが感情につい て、一個の明晰かっ判明な観念を構成したとすれば、 この観念と、精神だけに関係するばあいの ( 第一一部、 定理・二一とその備考により ) 感情とを区別するの は、見方の相違だけだ。とすれば、感情は受動態であ ることをやめるにちがいない ( 第一二部、定理・三によ きにはつねに十全な認識となる ( 第一一部、定理・三八、 による ) 。だから、それについて私たちが、明晰かっ 判明な概念を構成しえないような身体変容は一つだっ て存在しない ( 第一一部、定理・一三・備考の後にあを 補助定理・二および第一一部、定理・一二による ) 。 C ! 系 この結果、それについて私たちが、明晰かっ判明な概〕 念を構成しえないような感情は、一つも存在しないとい うことになる。なぜなら、感情は ( 感情の一般的定義に より ) 或る身体変容の観念に他ならす、したがって、自 らのうちに、明晰かっ判明な概念を含んでいるはすだか らだ ( 前定理による ) 。 なんらの結果も出てこないようなものは絶対に存在し ないし ( 第一部、定理・三六による ) 、また、私たちの なかの十全な観念から生する一切を私たちは明晰かっ判 明に認識する ( 第一一部、定理・四〇による ) のであるか ら、その結果として、各人は自己および自己の感情を、 たとえ絶対的にではなくても、少なくとも部分的には明 晰かっ判明に認識する力をもっており、したがって、自分 が感情によって悩まされないように働きかける力をもっ ているということになる。それゆえ、私たちは、各感情

2. 世界の大思想9 スピノザ

のぞかれてしまうようなもの、そういうものが事物の本質 には含まれている、と私はいいたい。換言すれば、それな しには事物は存在もできず考えられもしないし、逆に、事 物なしには、それは存在もできず考えられもしないような 或るもののことである。 三観念とは、精神が思惟するものであるゆえに、精神が さてこれから、私は、神、すなわち、永遠にして無限な る存在者としての神の本質から必然的に生じなければなら形成するところの精神の概念のことだと私は理解する。 説明 ぬものの説明に移ろう。が、そのすべてについてではな 私は、知覚というより、むしろ概念といいたしな い。なぜなら、第一部、定理・一六で証明したように、神 ぜなら、知覚という言葉は、精神が対象から働きかけ の本質からは、無限のものが、無限の方法で生じてくるは を受けているのを暗示しているように見えるが、それ ずだからだ。そこで、ここでは、私たちの手をとるように に反して、概念は、精神の或る働きかけを表現してい して、人間精神とその最高の幸福を認識するように案内し ると思われるからだ。 てくれることのできるものについての説明だけを試みよ 四十全な観念とは、ある観念がそれ自体で、対象への閃 定義 係なしに考察されたとき、真の観念のあらゆる特性または 一物体とは、神の本質が、延長をもつものと考えられる内的特徴をもっているならば、そういう観念のことである カ イばあい、その本質を特定の仕方で表明するところの様態のと私は理解する。 テ 工 説明 ことであると私は理解する。第一部、定理・二五の系を見 私がここに、内的特徴という言葉を用いるのは、外 理 的な特徴、すなわち、観念とその対象の合一を、この 際除外して考えるためである。 二それが与えられると、事物が必然的に定立されるし、 また、もしそれが取りのぞかれると、事物も必然的に取り 第二部精神の本性および起源について

3. 世界の大思想9 スピノザ

性を分ちもっことになるからである。そのうえ、喜びは、 四喜ぶひとびとの利益について、正しい顧慮が払われている かぎり、断じて悪ではありえない。しかし、逆に、恐布の ため、悪を回避しようとして善をなすひとは、理性の指示 にしたがってはいないのである。 項目三ニ しかし、ともかく、人間の能力はきわめて制限されたも のであり、外部原因の力によって涯しなく打ちまかされて ゆく。したがって、私たちは、私たちの外にある事物を使 用に供するために絶対的な権能をもっているわけではな 。しかし、私たちの利益にたいする顧慮が要求するとこ ろと反するような事態に遭遇したとしても、私たちはなす べき一切をなしたことが分っており、それにもかかわらす 私たちの能力がその不幸を避けるまでにはおよばなかった こと、そして、私たちは全自然の一部分に過ぎないからそ の秩序にはしたがわねばならぬことさえ分っているなら ば、平然としてそれにたえうるであろう。そして、私たち が、このことを明晰かっ判明に認識しているとすれば、こ の認識冫 こよって規定される私たちの一部分、すなわち、ヨ リよき部分は、それにまったく満足し、この満足のなかに いつまでもとどまろうと努めるにちがいない。なぜなら、 私たちは、十全に認識するかぎりは、必然的なものしか求 めることができないし、一般に、ただ真なるものにおいて しか満足を見いだせないからである。それゆえ、私たち が、このことを正しく認識すれば、そのかぎり私たちのヨ リよき部分の努力は、全自然の秩序と一致するのである。 第四部の終り

4. 世界の大思想9 スピノザ

れ自身を喜びをもって眺めるにちがいない ( 第三部、 に優先して、喜ばせようと努めるだろうし ( 第一二部、 定理・三〇による ) 。したがって、われわれにたいし 定理・一一九による ) 、或いは、その愛された事物に、 てその事物が抱いていると思われる感情が大きければ 私たちの観念を伴う喜びの感じを与えるようできるだ 大きいほど、それだけ大きな喜びをもって、われわれ け努力するであろう。換言すれば ( 第三部、定理・一 はわれわれ自身を眺めるであろう。つまりわれわれは 三の備考により ) それが私たちを愛しかえすように努 ( 第三部、定理・三〇の備考によって ) それだけ大き めるであろう。 C ・・・ な誇りを感ずるであろう。 C ・・・ 定理三四 定理三五 愛する事物が、われわれにたいして抱いていると思われ る感情が大きければ大きいほど、それだけわれわれの誇り 人は、自分の愛する事物が、いままで自分の独占してき も大きくなるであろう。 たと同じ友情、或いはもっと緊密な友情で他人がその事物 証明 と結ばれているのを思いうかべるとき、愛する事物そのも のにたいしては憎しみを感じ、その他人にたいしては嫉妬 われわれは ( 前定理により ) できるだけ努力して、 愛する事物がわれわれを愛しかえすようにしようとすを感ずるであろう。 る。換言すれば ( 第三部、定理・一三の備考により ) 愛する事物が、われわれの観念を伴う喜びの感情に刺 人は、自分の愛する事物が自分にたいして抱く愛情 激されるよう努力する。それゆえ、愛する事物がわれ を大きく考えれば考えるほど、彼の誇りの感情は大き われゆえに刺激されたと思われる喜びが大きければ大 くなるであろう ( 前定理による ) 。つまり ( 第三部、 きいほど、それだけこの努力もまた促進されるのだ。 定理・三〇の備考によって ) それだけ大きな喜びを感 つまり ( 第三部、定理・一一とその備考によって ) そ ずるであろう。そこで、できるだけ彼は ( 第三部、定 れだけ大きい喜びの感情をわれわれは抱くようになる 理・二八により ) 自分の愛する事物と最も緊密に結ば のである。ところが、われわれに似た或る他の事物に れているのだと、考えようと努力をするであろう。の 喜びを与えたというその理由でわれわれは喜びを感じ みならず、この努力または衝動は ( 第三部、定理・三 ているのであるから、そのかぎりわれわれは、われわ 一により ) 、他人がその事物を自分のほうへ獲得しょ

5. 世界の大思想9 スピノザ

るかぎり、彼は ( 前定理により ) 相手を憎みかえさざる をえなくされる。しかるに、彼はそれにもかかわらず愛 しているのだ ( 仮定による ) 。そこで彼は、憎しみと愛 とから同時に圧迫されるにちがいないのである。 自分が以前には別に何の感情も抱かなかった他人が、 憎しみから彼に何か禍いを与えたとすれば、彼はすぐさ まその人に同じ禍いを返そうと努力するであろう。 証明 他人が自分を憎んでいると考えるひとは、この他人 を憎みかえし ( 前定理による ) 、そして、その他人に 悲しみを与えうるようなものをすべて思いだそうと努 めるにちがいない ( 第三部、定理・二六による ) 。そ して思いだしたものを、彼に加えようと骨を折るだろ う ( 第三部、定理・三九による ) 。ところで ( 仮定に よれば ) こうして思いだされる第一のことは、自分自 身に加えられた禍いのことである。そこで、彼はすぐ さま、それを他人にも返報しようと努力しはじめるの 私たちの憎む相手に禍いを加えようとする努力を怒り という。しかし、私たちに加えられた禍いをやり返そう とする努力は、復讐心と呼ばれる。 定理四一 だれかが、自分は或る他のひとから愛されているとは考 えるが、その原因を与えたとは信じられないとき ( これ は、第三部、定理・一五の系および第三部、定理・一六に よれば不可能なことではない ) 彼はその他人を愛しかえす であろう。 証明 この定理は、前定理と同じ方法で証明される。前定 理の備考を見よ。 備考 別のばあい、 すなわち、愛される正当な原因を与えた と信ずるならば、彼は ( 第三部、定理・三〇およびその 備考によって ) 誇りを感ずるにちがいない。しかも、こ うした例は、この反対の例、すなわち上述のように、他 人から憎まれていると考えたばあいに ( 前定理の備考を 見よ ) 起こる例よりもしばしば現われる ( 第三部、定 理・二五による ) 。この相互からの愛情、したがって ( 第 三部、定理・三九により ) 私たちを愛し私たちに親切を ( 第三部、同定理・三九による ) しようと努めるひとに 親切を返す努力を、感謝または感恩と呼ぶ。これからし て、人間は親切に報いるよりも仕返しをするほうに、ず っと気構えていることが分る。

6. 世界の大思想9 スピノザ

証明 定理五 0 私たちの表象の上での自由な事物は、 ( 第一部、定 あらゆる事物は、偶然によって、或る希望または憂惧の 義・七により ) 他の事物なしに、それ自体によって知 覚されねばならぬ。それゆえ、かかる事物が或る喜び原因となりうる。 証明 または悲しみの原因だと考えられるとすれば、それだ この定理は、第三部、定理・一五と同じ方法で証明 けで私たちはそれを愛し、或いは憎む ( 第三部、定 されるが、なお同時に第三部、定理・一八の備考・二 理・一三の備考による ) 。しかも ( 前定理によって ) を検べてほしい そのときの感情から生じうる最大の愛或いは憎しみ 備考 で、それを愛し、或いは憎むであろう。それに反し、 偶然によって、或る希望または憂惧の原因である事物 この感情の原因である事物が、私たちの表象によれば は、善い前兆または悪い前兆と呼ばれる。ところで、こ 必然的であるとすれば、その事物は ( 第一部、同じ定 れらの前兆が或る希望または憂惧の原因であるかぎり、 義・七により ) 自分一個ではなく、他の諸事物と共同 そのかぎりは或る喜びまたは悲しみの原因である ( 希望 して、この感情の原因になっているのだと私たちは表 および憂惧の定義による。この定義は第三部、定理・一 象するであろう。したがって、この事物にたいする愛 八の備考・二で検べてほしい ) 。だから、私たちは、そ も憎しみも、ヨリ小さなものであるにちがいない ( 前 のかぎりにおいて、それらの前兆を愛したり憎んだりす 定理による ) 。・・・ るのだ ( 第三部、定理・一五の系による ) 。それゆえ私 備考 たちは、努めてそれらを、私たちの希望するものを達成 ここから、人間は、自己を自由だと考えている結果と するためのいわば手段として近づけたり、或いは、障害 してお互いに、他の事物より強く愛しあったり憎みあっ テ 工 または憂惧への原因として遠ざけたりするのである ( 第 たりしているのだという帰結が出てくる。なおここに感 三部、定理・二八による ) 。そのうえ、第三部、定理・ 理情の模倣というものが付けくわわってくるが、これにつ 二五からも分るとおり、私たちは、希望するものは容易 いては、第三部、定理・二七、三四、四〇、四三などを オしつま に信ずるが、怖気をもづものは容易には信じよ、、 検べてほしい。 り、いずれも正当以上もしくは以下に考える天性に生ま

7. 世界の大思想9 スピノザ

71 倫理学 ( ェティカ ) 序づけた仕方に応じて、或る思想から他の思想へと入り こんでゆくであろう。たとえば、軍人は、砂のなかに馬 の足跡を見て、馬の思想からすぐさま騎士の思想へ、騎 士の思想から戦争の思想へと入りこんでゆくであろう。 ところが、百姓になると、馬の思想から鋤へ、畑へ : こうして、各人は事物の像 と入りこなにちがいない。 を、これこれに結合もしくは連結させる慣習に応じて、 一つの思想から、これまたほかの思想へと入りこんでゆ くであろう。 定理一九 人間の精神は、人間の身体を認識し、その存在を知って いるが、これは身体が受ける変容の観念を通じてのみ起こ ることなのである。 証明 なぜなら、人間の精神は、人体の観念 ( 第一一部、定 理・一三による ) もしくは認識である。この観念は、 神が、個物の或る他の観念によって変容されたと見な されるばあいの神のうちにある ( 第一一部、定理・九に よる ) 。もっと精確にいえば、人体は ( 第一一部、要請・ 四により ) 不断にいわば新しく産出されるために、き わめて多くの物体を必要とするし、また、観念の秩序 と結合は原因の秩序と結合と同じものであるから ( 第 二部、定理・七による ) 、人体の観念は、神が、きわ めて多くの個物の観念によって変容されていると見な されるばあいのその神のうちにあるであろう。かく て神は、人間の精神の本性を成すばあいにではなく、 きわめて多くの他の観念によって変容されたばあい に、人間身体の観念をもち、或いは人間身体を認識す る。換言すれば、 ( 第一一部、定理・一一の系により ) 人間精神は人間の身体を認識しないのである。それに たいし、人体の変容についての観念は、神が人間の精 神の本性を成しているばあいのその神のうちにある。 すなわち ( 第一一部、定理・一二によって ) 人間精神 は、この変容を知覚し、したがって ( 第一一部、定理・ 一六により ) 人体をも知覚する。しかも ( 第一一部、定 理・一七によって ) それを現実に存在しつつあるもの として知覚するのである。それゆえ、まさにこのかぎ りにおいてのみ、人間精神は、人間の身体を知覚する わけである。・・・ 定理ニ〇 人体の観念または認識と同じ方法で神のうちに生じ、同 じ方法で神に帰せられるところの精神の観念または認識 は、同様に神のうちに在る。 思惟は神の一属性である ( 第一一部、定理・一 ) 。し たがって、思惟については、思惟のあらゆる変容それ

8. 世界の大思想9 スピノザ

130 悲しみを願望という。 証明 人が、自分の享楽した事物と同じときに見たすべて 定理三七 のものは、偶然によって、彼のためには喜びの原因と 悲しみや喜び、憎しみや愛情から生ずる欲望は、感情が なるであろう ( 第三部、定理・一五による ) 。それゆ え、彼は ( 第三部、定理・二八により ) 享楽した事物大きくなるにつれて大きくなる。 証明 といっしょに、それらすべてのものを再び所有したい と切望するであろう。換言すれば、彼はその事物を、 悲しみは ( 第三部、定理・一一の備考により ) 人間 最初享楽したときと同じ事情のもとに、再び手に入れ の活動力を減殺したり阻止したりする。別の言い方を たいと切望するであろう。 C ・・・ すれば ( 第三部、定理・七により ) その悲しみは、人 間が自己の存在に齧りつこうとする努力を減殺したり 阻止したりする。そこで、この悲しみは ( 第一二部、定 理・五によって ) 努力に矛盾するものである。そし それゆえ、もし愛する当人が、こうした周囲の事情の て、悲しみに沈む人間がえたいと努力する一切は、悲 一つが欠けていることに気づけば、彼は悲しみを感ずる しみを遠ざけるためのものである。しかるに、その悲 にちがいない。 しみは、大きくなるにつれ、それだけ人間の活動力の 証明 大きな部分にたいして、どうしても矛盾関係に立たざ なぜといって、彼が、事情の一つでも欠けているの るをえない ( 悲しみの定義による ) 。だから、悲しみ に気づくかぎり、愛する事物の存在を排除する何もの が大きければ大きいだけ、人間は、ヨリ大きい活動力 かを表象しているからである。ところが、彼は、この でもって、悲しみを遠ざける努力をするにちがいな 事物または事情を、愛情から切望している ( 前定理に い。別のいい方をすれば ( 第三部、定理・九の備考に よる ) のであるから、事情に欠陥があることを思いう より ) それだけョリ大きい欲望または衝動をもって彼 かべるかぎり、彼は悲しみに陥らざるをえまい ( 第三 は、悲しみを遠ざける努力をするにちがいないのであ 部、定理・一九による ) 。・ #-2 ・・ る。さらに、喜びは ( 第三部、定理・一一の同じ備考 備考 により ) 人間の活動力を増したり促したりするものな 私たちの愛するものの不在という点から見たこの種の

9. 世界の大思想9 スピノザ

部、定理・七によって ) 自己の有を、もつばら自己の本 性の法則にしたがって維持しようと努力しているのであ るから、そこでつぎのような帰結が出てくる 第一、徳の根底は、自己の有を維持せんとする努力そ のものにあり、したがって人間が自己の有を維持できる という点に人間の幸福は成立する。 第一「徳は、徳自身のために求めらるべきである。そ のために徳が追求されねばならぬような徳以上の価値あ るもの、徳以上に私たちに有益なものは何一つ存在しな 、 0 第三、自殺者は、無力な精神の持主であり、自己の本 性に抗う外部原因の前で完全に屈服せるひとである。 さらにまた、第二部、要請・四からして、自己の有を 維持するためには自分自身以外の何ものも必要としない とか、私たち以外の事物と交渉なしにも生きられると か、そこまではけっしてもってゆかれないことが分る。 その他、自分で自分の精神を観察してみるに、もし精神 : 、ただ自分ひとりだけでおり、自分自身以外の何もの も認識しないとしたら、私たちの知性は、もっと不完全 工 であっただろうと思う。だから、私たちの外には、私た 曜ちにとって有益で、それゆえにまた追求されなければな らぬいろいろな事物がたくさん存在しているのだ。そし 圏て、こうした事物のうちで、考えられるかぎり価値多き もの、それは、私たちの本性と完全に合致するところの ものである。なぜかというに、たとえば、まったく同じ 本性をもっ二つの個体が互いに結合しているとすれば、 二つは合して一つの個体、つまりそれそれの前個体にた いして一一倍も強力な一個体を形成するわけだからだ。か くて見れば、人間にとって人間以上に有用なものは何一 っ存在しない。あえていうが、人間は自己の有を維持す るために、すべての人間がすべての点で一致すること以 上に価値あることを望むことはできない。そうすればす べての人間の精神と肉体とが合していわば一つの精神と 一つの肉体とを形成するようになり、すべての人間が一 つになって自己の有をできるかぎり維持しようと努め、 すべての人間が一つになって全部に共通な利益を求める ようになるであろう。この結果、理性の導きにしたがう 人間、換言すれば、理性の導きにしたがって自己の利益 を追求する人間なら、他の人間のために望ましくないこ とは自分のためにもえようとはしなくなり、したがって 彼らは、公正で誠実で高邁な人間となるであろう。 こ取りかかる前に、簡 以上が、細かく秩序だてた論証冫 略ながら報告しておきたいと思った理性の命令なるもの の概要である。私が、こうした道筋を辿った理由は、自 己の利益を求めようというこの原則が、徳や義務感の基 礎となるどころか、没義道の基礎となると信じているひ とたちの注意を、できれば私のほうへ引きよせたかった からだ。ところで、事実はまさに彼らの憂うるところと

10. 世界の大思想9 スピノザ

124 能力は、身体の努力乃至その行為能力と等しく、し かも本性上、同時的なものである ( 第一一部、定理・七 の系、定理・一一の系からして明らかなように ) 。そ れゆえ、私たちは、それが存在してくれるように、百 . 方手をつくす。別の言葉でいえば ( 第三部、定理・九 の備考によれば、同じわけだが ) 私たちは、努めてそ れを獲ようとし、それを目ざして進もうとする。以上 が第一の問題点だった。つぎに、悲しみの原因と考え られるもの、すなわち ( 第三部、定理・一三の備考に よれば ) 私たちの憎むものが破壊されるのを私たちが 表象するとすれば、私たちは喜ぶであろう ( 第三部、 定理・二〇による ) 。したがって、私たちは ( 本証明 の第一部により ) それを破壊したり、或いは ( 第三部、 定理・一三によって ) 私たちから遠ざけたりして、現 前に見られぬように努力するであろう。以上が第一一の 問題点。そこで、私たちは、喜びのために役だっと考 えられるようなもの一切を表象しようと努力し : : : 後 定理ニ九 ひとびとが喜びをもって眺めるのを思いうかばせるよう なもの一切を、われわれもまたなそうと努力するであろ う。そして反対に、ひとびとが嫌悪するのを思いうかばせ るようなもの一切をなすことは嫌悪するであろう。 証明 ひとびとが何かを愛したり憎んだりするのを、もし 私たちが表象するとしたら、私たちも ( 第三部、定 理・二七により ) それを、彼らが愛したり憎んだりす るまさにその理由から、愛したり憎んだりするであろ う。換言すれば ( 第三部、定理・一三の備考によっ て ) 私たちは、すでにその理由で、そうしたものの現 在を喜んだり悲しんだりするだろう。だから、私たち は ( 前定理により ) ひとびとがそれを愛したり、喜び をもって眺めたりするのを私たちに思いうかべさせる ようなもの一切を、私たちもなそうと努力するであろ 備考 ひとびとの気に入ろうというただそれだけの原因で、 或ることをなそうとしたり、なすまいとしたりするこの 種の努力のことを功名欲という。とくに、大衆の気に入 ろうと熱心に努める結果、自己自身にも他人にも、いろ いろ迷惑になるのもかまわす、なしたりなさなかったり するようなばあいがそれに当たる。こんなにまで熱心で ないときには、この努力は、愛嬌、と一般にはいわれて いる。つぎに、私たちを喜ばせようと努める他人の行為 を思いうかべるときに感する喜びを、私は賞讃と呼び、 反対にその行為を忌避するときに感ずる悲しみを非難と 呼ぶ。