245 倫理学 ( ェティカ ) 証明 自己と自己の感情を、明晰かっ判明に認識するひと は、喜びを感ずる ( 第一二部、定理・五三による ) 。の みならずこの喜びは ( 前定理により ) 神の観念を伴 う。したがって彼は神を愛し ( 感情の定義・六によ る ) 、しかも自己と自己の感情とを認識すればするほ ど、 いっそう愛するようになるわけである ( 前と同一 の理由による ) 。 C ・・・ 神へのこの愛は、最も多く精神を領有するにちがいな 証明 なぜなら、この愛にはあらゆる身体変容が結びつけ られており ( 第五部、定理・一四による ) 、それらす べてによってこの愛は培われているからだ ( 第五部、 定理・一五による ) 。だからこの愛は精神を最も多く 領有するのである ( 第五部、定理・一一による ) 。・ 定理一七 神は、いかなる受動態とも関係がない。そして神は、ど んな喜びまたは悲しみの感情によっても動かされることが 証明 神に関係する一切の観念は真である ( 第一一部、定 理・三二による ) 。つまり十全である ( 第一一部、定義・ 四による ) 。したがって神は、どんな受動態とも関係 : ない ( 感情の一般的定義による ) 。また神は ( 第一 部、定理・二〇の系・二により ) ョリ大きな完全性へ も、またヨリ小さな完全性へも移ることができない。 だから神は ( 感情の定義・二と三により ) どんな喜び または悲しみの感情によっても動かされないのだ。 系 本来からいえば、神はだれをも愛せず、だれをも憎ま ない。なぜというに、神は ( 前定理により ) どんな喜び または悲しみの感情によっても動かされないからだ。し たがって、神は、何びとも愛せず、また憎まないのであ る ( 感情の定義・六および七による ) 。 何びとも神を憎むことはできない。 証明 私たちのなかにある神の観念は十全であり、完全で ある ( 第一一部、定理・四六および四七による ) 。だか ら、私たちは神を見ているかぎり、働きかけつつある
120 憎まれた事物が悲しまされているかぎり、その事物 れば、喜びを感ぜざるをえないはずだからだ。ただし、 は ( 第三部、定理・一一の備考により ) 破壊され、そ 私たちはここでは、ただ憎しみだけを念頭においていっ して、それが陥らしめられた悲しみが大きくなればな ているのである。 るほどその破壊も大きくなる。それゆえ、自己の憎む 定理ニ四 事物が悲しまされているさまを表象するひとは、逆に 喜びを感じるであろう ( 第三部、定理・一一〇による ) 、 だれかが、われわれの憎んでいる事物に喜びを感じさせ しかも、憎まれた事物を悲しませるその悲しみが、彼ているのをもしわれわれが表象するとすれば、われわれは の表象に大きく映れば映るほど、その喜びは大きくな彼にたいしてもまた同じように憎しみを感じるであろう。 るであろう。以上が、第一の間題点であった。つぎ反対に、その同じ事物に悲しみを感じさせるのを表象する に、喜びは ( 第三部、定理・一一の同じ備考により ) とすれば、われわれは彼にたいして愛情を感じるであろ 喜ぶ事物の存在を定立する。しかも、喜びがより大き いと考えられるにしたがって、その定立の度も強くな 証明 る。もし、自分の憎む事物が喜ばされているさまをだ この定義は、第三部、定理・一三と同様に証明され れか表象するとすれば、この表象は ( 第三部、定理・一 るから、そこを検べてほしい。 三により ) 彼自身の努力を阻害するであろう。換言す 備考 れば ( 第三部、定理・一一の備考により ) 憎むひとは悲 憎しみのこうした情感、或いはこれと類似の感情は、 しみに陥らしめられるであろう : : : 後略。 C ・・・ ひっくるめて嫉妬にはいる。嫉妬は、であるから、人間 をして他人の不幸を喜び、他人の幸福を悲しむようにさ この喜びは緊密な喜びではほとんどなく、また心情の せるものと見られるばあいの憎しみ以外の何ものでもな 葛藤を伴わずには存在しがたい。というわけは、私たち いのである。 自身に似ている事物が悲しまされているさまを私たちが 定理ニ五 表象するかぎり、私たちも悲しみを感ぜざるをえないし ( 第三部、定理・二七でまもなく論証されるはすだが ) 、 われわれは、それがわれわれ自身およびわれわれの愛す また反対に、それが喜びを与えられているさまを表象する事物に喜びを与えるとわれわれに表象させる一切のもの
機的・人間性といった概念は第二概念である。つぎに出てくる 「超越的表現」も、第二概念の一種であるが、これは、経験を 「超えて」抽象されているのでとくに「超越的」と呼ばれるの である。中世紀では、 transcendentalia といわれスビノザの termini Transcendentales もそれをうけた表現であろう。 六 ( 公一頁 ) 『知性改善論」のことであろうが、じつはそこに は、はっきりそれに当たると思われる個所がない。 七 ( 公一頁 ) 第二部の訳注四を見よ。 ^ ( 九四頁 ) 意志のほうが活動の範囲が広いといったのはデカ ルトのこと。誤謬の原因を、知性より広い自由意志に認めてい るからである。 九 ( 殳頁 ) プリダンの驢馬というのは、十四世紀のフランス のスコラ哲学者ジャン・プリダンが比喩に用いた話に出てくる 驢馬のこと。驢馬には自由意志がないから、同じ食物を等距離 においておくと、驢馬はそのどちらも選ぶことができす、眼 前に食物を見ながら餓死してしまうだろうと説いたそうであ る。 第三部 一 ( 一一天頁 ) ローマの恋愛詩人オウイデイウス Ovidius, 43 B. C. ー 17 A. C. の「愛」 Amores II, 19 に出てくる。ス。ヒ ノザは、この詩人を愛読していたらしく、死後蔵書のなかに、 この詩人の作品が多く見いだされたという。 一一 ( 一六三頁 ) キケロ M. Tullius Cicero 18 ー 43 B. C. の言 葉。彼の演説集 0 at 一 0 pro Archia 11. を見よ。 第四部 一 (l<l 頁 ) オウイデイウスの言葉。「メタモルホーゼス」 Metamorphoses, VII. 20 ー 21 に見える。 = (l<l 頁 ) 旧約「伝道の書」一の一八。 三 ( 一九四頁 ) この約東はどこでも果たされなかったらしい ( べ ンシュによる ) 。 第五部 一 ( 一一三三頁 ) 「動物精気」 Esprits animaux spiritus animales は、主としてデカルトによって有名になった。心臓 内で、体熱のために血液から稀薄化されて生する微細な流動体 であると考えられた。これが脳から神経、神経から筋肉へと伝 わって身体を循環しながら身体を動かす働きをもつ。感情は、 この精気の運動によって支えられているのであるから、精神が 精気を支配するかぎり感情をも制御することができるというの がデカルトの主張であった。 一一 ( 一一契頁 ) 旧約聖書「イザャ書」六の三。
一般にいえば、精神の自山より他に原因を認める愛情はすのみならず、自卑心は高慢心と対置されているにもかかわ べて、憎しみに移行しやすい。もっともこれは、愛情が錯らず、自卑者は高慢者に最も近く立っている。第四部、定 乱の一種でないばあいのことであるが、錯乱だとしたら事理・五七の備考を見よ。 態はもっとひどくなる。そして愛が憎しみに移れば、それ 項目ニ三 は一致協同どころか、不和分裂に油を注ぐことになるであ つぎに、羞恥心も協同一致に役だっ。が、これは、ひと ろう。第三部、定理・三一の備考を参照されよ。 に匿すことのできぬことがらについてだけだ。また、羞恥 項目ニ〇 は悲しみの一種であるから、これは理性に仕えることはで 結婚についていえば、もし肉交にたいする欲望が、外的きない。 な形姿によってばかりではなく、子供を生み、賢く育てよ 項目ニ四 うという愛情によっても誘発されているとしたら、そのば 他人に向けられた悲しみの感情は、正義・正当・道義・ あいには理性と一致した結婚だということが確実にいえ 義務感および宗教心の正反対を形作っている。そして、憤 る。なおそのうえ、夫妻の愛情が外的形姿ばかりでなく、 いっそう確慨は、正当性の外観をもっているが、各人が勝手に他人の とくに精神の自由を原因としているとしたら、 行為に批判を加えて自己もしくは他人の権利を擁護してよ 実だの いなれば、ひとはたしかに無法律の状態で生活することに 項目ニ一 なるだろう。 さらに、諛らいもまた協同一致を生むことがある。が、 項目ニ五 - テそれは醜い奴隷的な精神や不誠実によってである。諛らい 工 謙譲、つまりひとの気に入ろうという欲望は、それが理 に最も参りやすいのは、つねに好んで第一人者たろうとす 学 性によって規定されているときは ( 第四部、定理・三七の 理るが、実際はそうなれない高慢ちきな人間であろう。 備考・一でのべたとおり ) 義務感の一種だ。それに反し 項目一三 て、或る感情から生じているときは、それは功名欲また は、にせの義務感の外衣をまとって、多くのばあい人々 自卑は、にせの義務感や宗教心の外衣をまとっている。
間は、各人が自己自身の利益を最も強く追求するとき が、互いに最も有益であるときであろう。 C ・・・ 備考 いましがた、ここに指摘されたことがらは、毎日の経 験もまた、眼を射るような多くの証拠によって実証して いる。だからこそ、殆んど全部といっていいひとびとが 「人間は人間にとって神である」という格言を口にする わけだ。たしかに、人間が理性の導きにしたがって生活 することはまれではある。かえって実情は、彼らがたい ていのばあい嫉視しあい、そして互いに不快がっている ことのほうが多い。しかしそれにもかかわらず、彼らは 孤独な生活に堪えす、それゆえに、人間は社会的動物なり という定義が、多くのひとから大いに歓迎されるゆえん なのである。そして実際、人間が国家協同体を形成して いるとき、そこから害悪よりは利益を引きだすことのほ うが遙かに多いというのが事実だ。だから、諷刺家は、思 うがまま、人間のことがらを嘲笑するがよかろうし、神 学者はそれを呪詛するがよかろう。また、世すねびとだ ったら、未開、蒙昧な生活を精いつばい讃美して、人間 をけなし、理性なき野獣に驚嘆することも結構だ。しか し、その彼らといえども、人間が相互扶助によって、自 分らの必要をどんなにやさしく調達することができ、ま た、四方八方から襲いかかる危険を、ただ力を合わせる ことによってのみ、いかに回避しえているかを、自ら経 験しているにちがいない。理性なき野獣の行動よりも人 間の行動を観察するほうが、遙かに価値があり、またわ れわれの認識にふさわしいことであることは、ここでは いわないことにしておこう。が、それは他のどこかで、 うんとくわしく取りあげられずにはいまいと思う。 徳の道を歩むひとびとにとっての最高善は、あらゆるひ とびとにとって共通であり、あらゆるひとを同じように喜 ばせることができる。 証明 道徳的に行為するということは ( 第四部、定理・二 四により ) 理性の導きにしたがって行為するというこ とだ。そして私たちが、理性にしたがってなそうと努 力するのは ( 第四部、定理・二六により ) ものを認識 するためである。それゆえ ( 第四部、定理・二八によ り ) 徳の道を歩みゆくひとびとにとっての最高善は、 神を認識するということである。これは ( 第一一部、定 理・四七およびその備考によって ) あらゆる人間に共 通な善、そして、同一本性をもっかぎりの人間なら、 すべてが同じ仕方で所有しうるところの善なのであ 備考 けれども、もしひとが「徳の道を歩むひとびとにとっ
る ) 。だが、ここで注意しておきたいのは、もし最高の 理・三によって ) 彼の認識能力から生ずるものだけで 国家権力が、自己の使命にしたがい平和を確保する意図 しかない ( 第三部、定義・二による ) 。したがって、 のもとに、他人に不正を働いた一市民を罰するとして かかる自己観察からのみ、在りうる自己満足のなかで も、そのばあい私は、国家権力が市民にたいして憤って の最高のものが生まれてくるのである。・・・・ いるとはいわない、ということだ。なぜなら、国家権力 が市民を罰するのは、その市民にたいする憎しみから、 実際、自己満足は、私たちの望みうる最高のものだ。 彼を傷つけるためではなく、むしろ義務感から行なわれ なぜなら、何人も、何か任意の目的ゆえに、自己の有を ることだからである。 維持しようとは求めないからである ( 第四部、定理・一一 五で示したとおり ) 。そして、この満足は ( 第三部、定 定理五ニ 理・五三の系により ) 他人から賞讃されるたびに、だん 自己満足は、理性から起こることもある。しかし、理性 だん成長しそして強められ、逆に、他人から非難されれ から起こるこの自己満足は、在りうる自己満足のなかで最 ば、だんだん崩れさる ( 第一二部、定理・五五の系によ 高のものだ。 る ) 。それゆえ、私たちの生活は、大部分、名声によっ て導かれ、恥辱のなかでの生活には殆んどたえきれな 自己満足は、人間が自己自身および自己の作用能力 を眺めたとき、そこから生じてくる喜びの一種である 定理五三 ( 感情の定義・二五による ) 。しかるに、人間の真の作 用能力または徳は、人間がそれを明晰かっ判明に眺め 謙虚は、全然、徳ではない。別言すれば、謙虚は、理性 る ( 第一一部、定理・四〇と四三による ) ばあいの理性からは生じないものなのである。 そのものに他ならない ( 第三部、定理・三による ) 。 証明 それゆえに、自己満足は、理性から生まれるものなの 謙虚は ( 感情の定義・一一六により ) 人間が自己の である。つぎに、人間が自己自身を眺めているとき 力を眺めたとき、そこから生する悲しみの一種だ。し に、明晰かっ判明、或いは十全に認識するのは、自己 かし、人が、真の理性によって自己自身を認識してい の作用能力から生するもの、換言すれば ( 第三部、定 るかぎりは、彼が自己の本質、つまり ( 第三部、定
果が生まれる。そのばあい、そうした精神は、自分が働き理・三および定理・四の備考を見よ ) 、少なくも感情が、精 かける事物によ「てよりは、自分に働きかける事物によっ神のほんの一部分しか構成しないように工作することはで てョリよく認識されることになる。また、反対に、大部分きる ( 第五部、定理・一四を参照 ) 。とすれば、この認識 十全な観念からできている精神が、最もよく働きかけるも こそは、不変で永遠な事物 ( 第五部、定理・一五を見よ ) 、 のだという結果も生まれる。このばあい、精神は、たとえ真にわれわれの所有である事物 ( 第一一部、定理・四五を見 他の精神同様に不十全観念を含んでいようと、人間の無力よ ) への愛情を生みだすものだ。したがって、この愛は、 を示すそうした不十全な観念によってよりも、人間の徳の卑俗な愛情のなかに巣食うあらゆる欠点から汚されないで 一種である十全観念によって、ヨリよく認識されるのであ いることができる。汚されないのみか、いよいよ大きくな る。 りまさる一方であり ( 第五部、定理・一五による ) 精神の つぎに注意しなければならぬのは、心情の病気や不幸最大部分を領有し ( 第五部、定理・一六による ) 、広汎な は、たえず変化する事物、一度も確実に所有しえない事影響を与えることもできるのである。 これで私は、眼の前にある生活に関するかぎり一切のこ 物、こうした事物にたいする過度の愛のうちに、主として とをのべおわった。というのは、この備考の当初でのべた その根源をもっている。ということだ。というのは、もし この僅かな定理のなかに、感情にたいする抵抗手 それにたいする愛情がなければ、だれだって、その事物のように、 ことを心配したり、そのために不安になったりするもので段のすべてが総括されているからだ。これは、本備考での はないからである。こうして、世の不法、疑惑、敵意などべたことと同時に、精神とその感情の定義、第三部の定 はすべて、何びとも確実には所有しえないような事物にた理・一および三、などをよく考量しておられる方には容易 に分っていただけると思う。 いする愛情からのみ発生するのである。 そこで今度は、身体との関係をもたぬ精神の持続につい 以上に基づいて、私たちは、明晰かっ判明な認識や、と くに、神の認識をその基盤とするところのかの第三種認識ての問題へ移らねばならない。 ( これについては、第二部、定理・四七の備考を見よ ) や 定理ニ一 が、感情に抗して何をなしうるか、をたやすく理解でき 精神は、身体が持続している間だけ、或るものを表象し る。というのは、それらの認識は、たとえ受動態としての 感情を、絶対的には除去しえないにしても ( 第五部、定うるのであり、また過ぎさった事物を回想することができ
いう数が与えられているとせよ。だれでも第四の比例数 が 6 であることは分る。のみならす、上にあげた三つの ばあいより遙かに明瞭なのだ。これは思うに私たちが、 第一数の第一一数にたいする比を「直観」で見てとり、そ こから第四数そのものを推理するからによるのである。 定理四一 第一類の認識。 よ、虚偽の唯一の原因であるが、それに反 して、第二、第三類の認識は、必然的に真である。 証明 第一類の認識に属するものとして、私たちが前の備 考であげたところのものは、不十全かっ混乱した観念 のすべてであった。それゆえ、この類の認識こそ、虚 偽の唯一の原因なのである ( 第一一部、定理・三五によ る ) 。さらに、第二、第三類の認識に属するものとし てあげたのは、十全な諸観念であった。それゆえ、そ れらは ( 第一一部、定理・三四によって ) 必然的に真な のである。 C ・・・ カ 定理四ニ 学第一類の認識ではなく、まさに第一「第三類の認識こそ 間ヾ、、 カわれわれに、虚偽と真理との区別を教える。 この定理は、これ自体明瞭である。なぜなら、真と 偽とをどう区別するかを知っているものならだれで も、真と偽について或る十全な観念をもっているはず だからだ。換言すれば、 ( 第一一部、定理・四〇の備考・ 二によって ) 彼は、第二、第三類の認識によって、真 と偽を認識しているはすだからである。 定理四三 一つの真なる観念をもっているものは、同時にまた、彼 がそれをもっていることを知っており、かっ、そのことが らの真理について疑うことができない 証明 われわれのなかの真なる観念とは ( 第一一部、定理・ 一一の系により ) 人間の精神の本性によって説明され るばあいの神のなかで十全であるところの観念のこと である。そこでいま、人間精神の本性によって説明さ れるばあいの神のなかに十全な観念があるとせよ。 この観念については ( 定理・二〇の証明が共通だか ら、それによって ) と同じ仕方で神に帰せられると ころのもう一つの観念も、必然的に神のうちにはある はずである。ところが、仮定によれば、観念は、人 間精神の本性によって説明されるところの神に帰せら れている。したがって観念の観念もまた、同じよう に、神に帰せられなければならぬ、換言すれば ( 第一一 部、定理・一一の系により ) 観念の十全な観念は、
260 定理四一 たとえわれわれが、自分の精神の永遠であることを知ら ないとしても、われわれはやはり、義務感や宗教心を、一 般的にいえば、われわれが第四部で勇気および慈愛の一部 として示した一切を、最も大切なものと考えるであろう。 証明 徳の、或いは正しい生活方式の、第一にして唯一の 基礎は ( 第四部、定理・二二および一一四により ) 自己 の利益を追いもとめることにある。しかも、理性が何 を有益なものとして掲げるかを決定するのに、私たち は精神の永遠性のことを考慮していなかった。なぜな ら、第五部に入ってやっと私たちは、永遠性のことを 問題にしはじめたからである。それゆえ、私たちはあ の当時、精神が永遠であることは知らなかったけれど も、勇気や慈愛の一部として説明されたものが、最も 大切なものだとは考えていたわけだ。したがって、も それが認識 するものであるかぎりは思惟の永遠なる様態 であること、そしてこの様態は、また他の永遠なる思惟 様態によって規定されており、これはまたもう一つ別の 様態から、といったエ合に、結局は無限に進むものであ ること。そしてその結果、これら全部の様態は、同時 に、神の永遠にして無限なる知性を形作るものであるこ と。 し、永遠性のことがいまでもなお私たちに分ってない としても、私たちは、それとは関係なく、理性の命ず るところを、最も大切なものと考えるにちがいない。 備考 ところが、大衆たちの卑俗な考え方は、これとはちが うように思われる。なぜというに、彼らは、自分たちが 快楽を擅にできるかぎり自由だと信じており、神の法律 が命するように生活しなければならぬようなら、それは 自分たちの権利を放棄するものだと考えているらしいか らだ。だから、彼らは、義務感や信仰心やその他一般 に、精神の強さに帰せられる一切のことがらを重荷のよ うに考え、死んだらこうした重荷をおろし、自分たちの 屈従 ( と彼らは考えているが、つまり義務感や信仰心の ことなのだ ) にたいする報酬を受けたいものだと望んで 、る。だが、こういう希望ばかりではなく、じつは、死 後になって戦慄すべき責苦で罰せられるのではないかと いう恐怖もまた、彼らを促して神的法律の命令にしたが わせ、少なくも自分たちの微力と無能な精神の許すかぎ り、忠実に生活せざるをえないように仕むけているの だ。だからもし、この希望や恐怖が、人間の内部に巣食 っていないとしたら、いやむしろ反対に、精神は肉体と ともに減び、義務感の重圧で圧しつぶされた薄倖者にと っては死後の生活なんそ待ってはいないんだと信じこま
111 倫理学 ( ェティカ ) 証明 この定理は第一一部、定理・七もしくは、同部、定 理・一四からも明瞭である。 これによって私たちは、精神がさまざまな大きさの変 化を受け、或るときはヨリ大きな完全性へ、或るときはヨ リ少ない完全性へと移行しうるものであることを知る。 そして、この受動状態が、喜びと悲しみの感情を私たち に説明してくれるのだ。そこで、爾後、私は、喜びとは 精神をョリ大きな完全性へと移行させる受動状態である と理解し、それに反して悲しみとは、精神をョリ少ない 完全性へと移行させる受動状態だと理解しようと思う。 さらにまた私は、精神と身体と同時に関連する喜びの感 情を、快感または快活と呼び、それにたいして、同様な 関連にある悲しみの感情を、一苦痛、または憂愁と呼ぼ う。そのさい、留意しなければならぬのは、快感と苦痛 とは、人間の一部分が、他部分よりよけいに刺激されて いるばあいの人間に関連し、それに反して、快活と憂愁 とは、人間のあらゆる部分が平等に刺激されているばあ いだ、ということである。つぎに、欲望とは何であるか については、第三部、定理・九の備考で説明しておい た。そして、この三つの感情〈喜び・悲しみ・欲望〉以 外に私は、他の基本的感情を認めない。すなわち、ほ かの一切の感情は、この三つから成りたつのである。こ れは、後に説明したいと思っている。しかし、前へ進む に先だって、私はここで、第三部の定理・一〇を、もう 少し詳細に説明しておきたい。そうすれば、一つの観念 が、どんなふうに他の観念と矛盾するものか、この点を もっと明瞭に分ってもらえるだろう。 第二部、定理・一七の備考において、私たちは、精神 の本質をなす観念は、身体そのものが存在している間、 身体の存在を自らのうちに含むものであることを指摘し た。さらにまた、第二部、定理・八の系およびその備考 で指摘したところから、その帰結として、われわれの精 神の現在の存在は、精神が身体の現実的存在を自らのう ちに含むという事実にもつばら依存しているものだ、と いうことが出てくる。第三に、私たちは、精神が事物を 表象したり、それを想起したりする力もまた同様にもっ ばら、精神が身体の現実的存在を自らのうちに含むとい う事実に依存するものであることをも指摘 P た ( 第一一 部、定理・一七と一八およびその備考をみよ ) 。 これら一切のことから、精神の現在的存在と精神の表 象能力とは、精神が、身体の現在的存在を肯定しなくな るや否や、消減してしまう、という帰結が出てくる。と ころが、精神が、身体のこの存在を肯定しなくなる原因 は ( 第三部、定理・四によって ) 精神それ自体ではあり えない。と同様に、身体が存在をやめるということが原 因なのでもない。なぜなら、精神をして、身体の存在を