デカルト - みる会図書館


検索対象: 世界の大思想9 スピノザ
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1. 世界の大思想9 スピノザ

のちには顧みられなくなる。この傾向はすでに『短論文」でも 窺われる。スビノザはトマスを引合いにこの証明法のア・プリ オリな証明法に劣る所以を述べていた さ一 ( 元五頁 ) この件りはやや理解に苦しむ。観念が真の場合 になぜ確実性も存しないのであるか。真の観念こそ確実性その ものだとはスビノザの努めて力説したところだからである ( 三 五・三六節 ) 。本節のように観念を単なる感知 sensa ( ぎとみな すのは、むしろス。ヒノザが反対する当のデカルトのいきかたで あって、観念のうちに判断を籠めようとするスビノザ本来の教 説に明らかに矛盾する。 査 ( 元五頁 ) 本節はきわめて興味深く読まれる。これは、い わゆる「デカルトの循環ーのスビノザ的解決である。デカルト にあって、神の存在と明晰判明知をめぐるこの循環が端的に露 呈するのは「方法序説」四部だが、事態は『省察』にあっても 本質的には変らない。そこでは新たに「欺く者ーとしての神が 想定され、これと共に、現前の明証性と、過去の明証性の想 起、を分っなどの新しい工夫の跡が窺われるが ( 五部 ) 、必す しも循環を避けえたとは思われない。い や率直にいえば、循環 の回避は意外に困難なのである。自己の存在をある意味で神と はりあう形で自覚的否定的に定立する以上、自己と神の間に懸 隔が生ずるのは事柄の本性上むしろ当然だからである。これに 論対して本節および『デカルトの哲学原理』序文におけるス。ヒノ ザは、デカルトにおける立体性をむしろ平面化し、形式的には ・改 性 もつばら、われわれがもっている神についての明晰で判明な 知 観念ーー神そのものではなく という次元で問題を処理しょ うとするわけたが、実は内容的には、自己と神の融和という根 本想定の上にたって、むしろ間題そのものを消去する方向に走 くだ るのである。この問題はそれ自身慎重な検討に価するものであ ろ - つ。 六四 ( 元六頁 ) 原語は suspensio animi である。 suspensio ・ suspendere は「差控える」・「保留する」ことをも意味するこ とデカルトの判断論で明らかなところだが ( 『省察』四部 ) 、デ カルトでは中心的な役割を果たすものは知性ではなく自由意志 の能力であった。しかしス。ヒノザは、知性とは独立な意志の想 定を否み、間題をあくまで知性 ( 認識 ) の領域でうけとめる。 同じ suspensio という語を用いながら、「判断の」 judicii とは せすに「心の」 animi としたのは、読者がデカルトを連想する ことを懸念したからであろう。したがって本節の suspensio とは、無論、デカルトの場合のような精神の積極的な働きを意 味するものではない。直ちに示されるとおり、本来ならば判断 が下せるはすであるのに、知識の不足ゆえにそれができないで いる状態、『エティカ』によれば「事物を充全に知覚していな いことに自ら気がついていること」である ( 二部定理四九備 考 ) 。それは働きではなく、あくまで状態である。 ( 元六頁 ) ゲーブハルトはこの注を本文に繰り入れるが、 ジョアキムの示唆にしたがって注にとどめておく ( 前掲書一八 二頁 ) 。もともと遺稿集では注であったのである。 奕 ( 元六頁 ) 共通感覚の考え方はアリストテレスに淵源する ( 「デ・アニマ」四二五一四—g 三、『記憶について」四五〇 ) 。すなわち、視覚・聴覚・嗅覚・味覚・触覚のいわゆる五 感がそれぞれその固有の対象をもつに反し、形・大きさ・運動・ こうした 静止・数などは一つの感覚に固有の対象ではない。 対象を感覚する能力として共通感覚が語られるのである。この 考えは中世スコラを経て ( 例えばトマス・アクイナス「神学

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452 であろう。 ち入ることは、もはやこの「解説ーに課せられた仕事では さて今まで見てきたス。ヒノザ思想の伝承は、早く言えば ないし、またその必要もないであろう。 『エティカ』一巻に説かれた思想に関するものであった。 哲学の古典は、時代を超えまたあらゆる環境に応じて、 極端な言いかたをすれば、各人それぞれ自分の解釈に従っ これに接する人々に、新たな思索のかてといのちとを与え て、好むところを読み取るという、伝承であったと言うこ うる点に、その意義があるということができる。そしてそ ともできるであろう。このこと自体はもちろん悪いことで の意味では、右に見てきた伝承の経過が示すように、『エ はない。そこに古典のよさがあるとも考えられるからであティカ』一巻も永遠の書であると言ってよいのではないか る。しかしへーゲル以後、いわゆる哲学史的研究が行なわと思われる。 れるようになって、スピノザについても神の「属性」の解 釈について、エルトマンとフィッシャーとの間に、有名な 論争が交され、ようやく歴史的なスビノザ自身の思想に興 味が向けられるようになった。 そして丁度そのころ、十九世紀の半ばごろに、それまで 所在が知られなかった前記「短論文』が発見され、これが スビノザ哲学の起源や形成について、今までの見解を大き く変える原因になったのである。ありていに言えば、それ まではスビノザの哲学は、。 テカルトの二元論を一元化する 方向に発展せしめたものと解されていた。しかしこの新た に発見された未定稿が、初期の習作と推定され、しかもそ れがすでに後の立場を素朴的な形で、明らかに示している とすると、スビノザ主義の着想は決してデカルトからでは なく、どこか他から得られたものであり、デカルト思想 は、むしろその整備に利用されたという見かたも成り立っ であろう。これは一例ではあるが、しかしこれらの点に立

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432 デカルト直後のふつうに機会因論と呼ばれる、マールブラ ンシの哲学もそうであるし、スピノザの場合も、一応こ の時代逆行とも思われる線に沿って、進んできたように見 えるかも知れない。しかしよく調べてみると、これは決し て時代逆行ではなく、むしろ時代と哲学とが深く結びつい てきたことを示すものなのである。というのは、デカルト 一時代と人 が知・信の分離を説いたのは、いわば知的な立場から、晢 学や科学の独立性を強調したのであって、それはそれなり 十七世紀とオランダ に当時として大きな意味をもっていたのであるが、しかし 時代の人々が人間として、これに満足したわけではなかっ スビノザは一六三一一年に生まれ七七年に死んでいるか ら、全く十七世紀の人であったと言「てよい。しかし後でた。なるほど知性の上では、新興科学やこれを取り入れた 述べるように、死後約百年の間早く言えば忘れられていた哲学に心ひかれながらも、心情的には今まで培われてきた 宗教的なものを、清算することはできなかった。宗教的な が、十八世紀末近くになって復活され、見直されてきたこ とから考えると、これにはほかにいろいろの事情もあった神への新たな哲学的洞察、端的に言えば哲学と宗教との間 の調停が、人々の哲学に期待するところであった。そして けれども、やはりそのうちに、十八世紀的なものを含んで これに答えようとするのが、十七世紀哲学の課題であった いたからだと、見ることもできよう。それ故に、ス。ヒノザ のであって、やがてこの知性が心情的なものに対して優位 思想の時代を考えるためには、単に十七世紀だけではな を占め、旧い信仰や習慣をば、新たな知性の光で見直そう く、十八世紀にも触れる必要があると思われる。 近世哲学史を学ぶ場合、誰しも奇異に感するのは、近世とするのが、十八世紀啓蒙であることは、あらためて言う 哲学を開いたと言われるデカレト。、、 / 力「我あり」から出発までもないであろう。 ところでスピノザの哲学は、一応は右に説いたように、 して、一応「知性」の立場で哲学体系を築きあげ、しかも はっきり「知識」と「信仰」、哲学と宗教とを切り離して形の上ではこの十七世紀的要求に応じようとするもので、 唯一絶対の神への信頼と信仰とを率直に表明している。し いるのに対して、彼の直後から再び神が哲学に入り込み、 哲学思想の前面に押し出されてきたということであろう。 かしそれはあくまで表面上のことであって、内容的には決 解説 桂寿一

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312 「規則論』五を参照。 ( 元 0 頁 ) 承認 assensus とはいってもこれは精神の能動 的な働きではない。すぐ引続いて示されるように、それはあく までも消極的に、認識の不足ないしは欠如という方向に解釈さ れていく。『エティカ」二部定理三五および備考を参照。しか し、誤謬がこれで充分説明されうるかどうかは改めて間題にさ れる価値があろう。 至 ( 一一九一頁 ) 演繹についてはデカルト「規則論」三・六を参 照。 至 ( 元一頁 ) 思惟の外的な特徴とは対象との一致または対応、 内的な特徴とは思惟の内容自身の充全性または明晰判明性のこ とである。両者はもちろん両立するものではあるが、スピノザ の場合重きは後者におかれる。思惟は対象に一致するゆえに真 なのではなく、むしろ、内的な特徴によって真なるがゆえに対 象とも一致すべきもの、といえる。なお「短論文』二部一五 章、『形而上学的思想』一部六章、『エティカ」一部公理六、二 部定義四を参照。 吾 ( 元一頁 ) 原語は fabrica0 機械と訳しておく。これはデ カルトの挙げた例を念頭におくものであろう。『省察』第一答 弁を参照。 芸 ( 元一頁 ) どの版にも data verae ideae norma となって いるが、スビノザのいいかたでは datae verae ideae norma とあるのが普通である ( 三八・四三・四九・七五節 ) 。暫く data を datae と読んでおく。 契 ( 元一一頁 ) 原文は si supponamus,intellectum ens ali ・ quod novum percepisse, quod nunquam exstitit, sicut aliqui Dei intellectum concipiunt. antequam res crearet (quae sane perceptio a nullo objecto oriri potuit), et•• : と続く。括弧のなかの文は、その位置からいって sicut•• crearet にかけ、世界創造に先だっ神の認識の説明と解するの が自然たが、ここには perceptio という語がないため intell- ectum••・・••percepisse にかけて読んでみた 老 ( 元一一頁 ) 初期の「短論文」では逆に、認識は純然たる受 動とされ、事物についての肯定・否定はわれわれではなく、も つばら事物そのものが行なうものといわれていた ( 二部一五・ 一六章 ) 。これをス。ヒノザの立場の転換とみなすか ( ゲーブハ ルト前掲書八一ー七頁 ) 、あるいは単に表現上の相違と考える か (WoIf 】 Spinoza's Short Treatise 一一一一一ー二頁 ) 、私は 前説をとる。 夭 ( 元三頁 ) 判断が概念と同じ領域たるべきことはデカルト も念じたところであり、『省察」四部の努力もこの点に集約さ れる。ただしデカルトの場合、自己否定的な意志の果たす役割 には充分注意すべきである。ス。ヒノザはこれを認めないのであ 発 ( 元三頁 ) 全体すなわち真、これが後のヘーゲル同様、ス ビノザの根本信条である。認識系の充全性・非充全性、ないし は全体性・部分性がとりわけその関心を惹く所以である。なお 「エティカ」二部定理一一系、定理二八証明、定理二九備考、 三部定義一を参照。 六 0 ( 元四頁 ) 神の属性とは思惟・延長などである。これに対 し唯一・無限などはもちろん神に属す性質ではあるが、神を神 たらしめるものではない。「短論文』一部一章注、三章注、七 章を参照。なお訳注 ( 会 ) をも参照。 査 ( 元四頁 ) いわゆる神のア・ポステリオリな証明であるが、

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311 知性改善論 01 づ ma : : ・ ostenderim という完了形の文章は、不合理に思え る。私はこの点まだ釈然としないので暫く間題を留め、今後の 検討にまちたい。訳出は否定語を補う通例の読み方に一応従っ ておく。 三九 ( 一一公一頁 ) 『エティカ」二部の説明がこれに該当する。なお 訳注 ( ニ五 ) 後半を参照。 四 0 ( 一一翁頁 ) idea ficta0 想像力により事物を想い浮かべてい る状態を考えればよい。たたし、その際その原囚が外部ではな く自分の内にあることは知っている。これを欠けば虚偽の観 念、すなわち誤謬となる ( 六四節原注を参照 ) 。なお、これらに 「疑わしい観念」を加えた三つは、一括して「想像力による観 念」と称してよいが、厳密な意味では律念 idea という名にも 価しない。 ( 一一八四頁 ) 原文は cujus quidem existentia, ipsa sua natura, non implicat contradictionem, ut existat aut non existat であるが、 existentia は essentia の ( 一であ ろうか。なお厳密には、可能的なものなどは一切ス。ヒノザにあ ってその場所をもたないといえるが、この点は語の定義次第で あろう。「形而上学的思想」一部三章、「エティカ」一部定理三 三備考一、四部定義四を参照。 四一一 ( 六四頁 ) ギリシャ神話にでてくる怪物で頭は獅子、身体 は羊、尾は龍の形をしているという。その本性上存在できない ものの例としてスビノザの時代ではしばしば引きあいにだされ たものである。なお『形而上学的思想」一部三章を参照。 四三 ( 一一尖頁 ) たからこれを虚構というならば、それは事実に ついての虚構ではなく、わすかに、当の相手に関するかぎりで の虚構にすぎない。 四四 ( 一一尖頁 ) 原語は aliquid operatum esse 「なにごとかを なした」、というきわめて漠然とした表現であるが、その解釈 はジョアキムに従った ( 前掲書一二〇頁 ) 。 ( 一一尖頁 ) 任意の学問領域におけるものを考えてよかろう。 デカルト ・一三を参照。 「規則論』一一一 哭 ( 一一条頁 ) 空虚な空間のことである。これはデカルトにと ってと同様ス。ヒノザにとっても認められない ( 「エティカ」一 部定理一五備考を参照 ) 。不可能な場合の仮定といわれる所以 である。 皂 ( 一一 0 頁 ) さりげない筆の運びにあって何か意図されてい ると思われてならない。それは、無からの創造、神の受肉、聖 霊が鳩の形をとる、といったキリスト教の玄義ないし奇蹟に対 する暗黙の批判ではあるまいか。元来ス。ヒノザは、のちの「神 学政治論」でその立場をはっきり披瀝したように、アベロイス ムの流れを汲み、キリスト教の神話を、率直にいえば、知性の 真理ではなく人間が想像力を駆使して摠ね上げた虚構産物にす ぎない、 ときめつけるひとなのである ( 同書七章を参照 ) 。な お bestia を動物と訳したが、 animal が人間をも含む動物で あるに対し、人間以外の動物の謂いである。 哭 ( 一一兊頁 ) 明晰・判明 clara et distincta ・ cla"e et distin- cte0 しばしば用いられる表現であるが、その説明はどこにも 与えられていない。恐らくデカルト哲学に関する知識を読者の 側に予想するからであろう。デカルト『哲学原理』一部四五節 を参照。 四九 ( 一一兊頁 ) 単純なものの御念についてはデカルト「規則論」 六・八・一二を参照。 吾 ( 一一兊頁 ) 「方法序説」二部格率二の教えに似ている。なお

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314 大全」一部七八問題三・四項を参照 ) 引続きス。ヒノザの時代で も屡々問題になったものと推察される。ス。ヒノザが「いわゆる 共通感覚ーと称する所以である。デカルトもこれに言及し ( 『規 則論」一 一 l) 、「想像的な能力」 potentia imaginatrix ともい っている ( 『省察』二部 ) 。 套 ( 元六頁 ) 原語は corporeus である。これは「精神的」に 対するよりも「物質的ーに対して、それとの区別において語ら れる。想像 imaginatio の場合はその語義からしても、関心の 赴くところがものの像 imago あるいは形 figura であるのは 当然で、デカルトも「想像するとは、物体的なものの形あるい は像をること , としている ( 『省察』二部 ) 。 穴 ( 元六頁 ) 『エティカ」五部定理二一 、二三備考を参照。 究 ( 一一頁 ) 記憶や想起については「エティカ」二部定理一 八備考を参照。 P0 ( 元七頁 ) 「自然から学んでいる」 a natura didicisse と は、理性ではなく生物的な本能によって知っている、という 意味である。そのように訳さなかったのは、デカルトにおける 「自然から教えられた」 a natura doctum という表現 ( 『省 察」三部 ) を連想し、「自然」という語を、その多義性にもか かわらす、留めておきたく思ったからにすぎない。 三 ( 元七頁 ) 遺稿集の原文は a quibusdam sensationibus fortuitis ()t sic loquar) atque solutis だが、ゲーブハルト ••atque ()t sic loquar) solutis と修正している。厳密 にいえば、一切は必然的に規定され相互に連繋されているので あるから、「偶運的」とか「ばらばらの」といったことは二つ とも語りえない。それは僅かに感覚的認識の段階でそのように 見えているにすぎない。私は「いうならば」 ut sic loquar を 二つにかけて読みたい。ゆえに遺稿集にしたがいゲーブハルト の読み方は採らない。 「規 ( 元八頁 ) 例えば幾何学における図形。なおデカルト 則論』一二を参照。そこでは「純粋な知性」と「想像のうちに 画かれた形象の助けを借りる知性」の区別が説かれている。今 の場合、後者が参考にされるべきであろう。 ( 一一犬頁 ) 『短論文』一部二章、「エティカ』一部定理一三・ 一五備考、『書簡』一二・三五などを参照。 茜 ( 一一犬頁 ) 言葉については「エティカ』二部定理四七備考 を参照。 芸 ( 一頁 ) 原文は簡単に・ : ・ multa, quae sunt revera affrmativa, negative exprimunt, et contra, tlti sunt in ・ creatum, independens, infinitum, immortale, et quia nimirum horum contraria multo facilius imaginamur 一 とあるが、 uti 以下の四つの例はすべて形式上は、じっさい は肯定的なものが否定的に表現される場合、のものだけであ る。 ( 従ってそのように訳出する。この点正確なのは、私の知 るかぎり畠中氏の訳だけである。 ) なお et contra で示される その反対の、すなわち、⑧じっさいは否定的なものが肯定的に 表現される場合、としては、とはうらはらに、創造される、 依存する、限りのある、可死的な、ということを考えればよ い。例えば限りのある〔有限な〕とは、その表現はたしかに肯 定的だが、ス。ヒノザによればその実、無限の否定にすぎないの である ( 「エティカ」一部定理八備考一、『書簡」五〇 ) 。なお また「反対の場合のほうが遙かに想像しやすい」とは、もちろ ん⑧の例を指すのである。 ( 一一究頁 ) 方法の任務は四九節によれば、一、真の観念と

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哲学」において説明するとしているのは、恐らく「精神の本性 を第一原因によって認識する」ことを指すのであろう。これは 方法論の範囲には属さない ( 同書簡 ) 。 = 六 ( 一一尺頁 ) 原語の opera intellectualia はべーコンから借 用したものといわれる。「ノヴム・オルガスム』序文を参照。 スビノザはこの語によって、精神かもろもろの明晰で判明な観 念を形成していくことを意味していると思われる。 ( 一一尺頁 ) 可理解的 intelligibilis とは元来、知性 intell ・ ectus によって認識されるべき、または、認識されうる、とい う意味である。これは感覚 sensus に対して可感的 sensibilis という語が語られるのと事情は同じである。 夭 ( 一一尺頁 ) 形相的本質 essentia formalis ・想念的本質 essentia objectivia ( 「エティカ」では esse formale ・ esse objectivum ともいわれる ) 。これはスコラに源をもち、私の 知るところでは特にデカルトによって頻繁に用いられた一対の 特殊な用語である ( ただしデカルトでは essentia. esse の代 りに realitas という語を用いて realitas formalis ・ realitas objectiva とするのが普通である ) 。前者は事物が現実にもっ ているとおりの、自体的な実在性、後者は事物が観念のうちに 表現されているかぎりにおいてもっ実在性、のことである。前 者を延長世界における事物の実在性と解せば明快とはなるが、 語厳密には適切でない。なぜなら、デカルトでも ( 『省察』三部 ) スピノザでも ( 本三三節 ) 、念そのものについて形相的な実 改 性在性ないし本質が語られるからである。これは念というもの の二重の性格に由来する。すなわち、観念は精神の働きという 観点からもみられーーここに観念の形相的実在性が語られる 、また観念によって表現された事物という観点からもみら れるーー・想念的本質が考えられるのはここにおいてである。こ のように形相的・想念的とは、必すしも思惟外・思惟内の意味 に全面的には合致しない場合もあるが、一応はしかし、そのよ うに解してよかろう。この用語法はきわめて重要なものであ り、かつまた今後もしばしば用いられるから、特に慎重に顧み られるべきである。なお『省察」三部、第二答弁付録定義三、 『短論文』付録二、『エティカ」二部などによって研究された 。また、形相的 ( に ) ・想念的 ( に ) といった形容詞ないしは副 詞も右に準じて理解されるべきである。 = 九 ( 一一尺頁 ) 実在的 realis とはます、精神の外 extra men ・ tem に存することを意味するのが普通だが、今の場合のように 念についても語られうるだけの幅の広さをもつ。これは観念 についても realitas を云々した当時の考え方に鑑み興味深い 事実である。 三 0 ( 一一芫頁 ) 「短論文』二部一五章、『エティカ」二部定理四 三備考を参照。 三一 ( 一一七九頁 ) 「正当な秩序で」 debito ordine0 もともと debi ・ tus ・ debitum とは法律とか正義といった分野で語られたもの と思われ ( 例えばトマス・アクイナス『神学大全』一部二一問 題一項を参照 ) 、「 : : : で然るべき」・「 : : : で当然な」ーー例え ば借金であればそれは返済されるのが当然なのであるーーーとい った厳しい意味をもっと推測される。認識の分野で「秩序」を 重視するのは一七世紀の哲学一般に共通の傾向だが、ここでは やはりデカルトが念頭におかれるべきであろう。『方法序説」 一一部、『知能指導の規則」ーー・以下「規則論」と略称ーー・五を 参照。 因みに「規則論』にまつわる文献上の問題について一言して

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307 知性改善論 ザの関心事は「もろもろの学問における真理ーではない。自ら の主著に「倫理学」という名を冠したひとであることがここで 想起されよう。 = ( 一石三頁 ) これは恐らくデカルトの暫定的道徳に倣ったも のであろう。『方法序説」三部を参照。 一 = ( 一一七三頁 ) これでスビノザの方法論の依拠するところのも のがほば察しられよう。これはのちに「本有的な力」 ( 三一 節 ) 、「われわれの有する真の観念」 ( 三三節 ) と次第に明確に されていく。と同時に、のち形式的には循環論となる ( 一 0 六・七節 ) 。 一三 ( 一石四頁 ) 当時にあっては知覚 perceptio ・ percipere と は、現今におけるより遙かに広義であったことを銘記すべきで ある。すなわち、デカルトの説明を借りれば、ます延長 exte ・ nsio に対して思惟 cogitatio が語られるが、これは「われわ れのうちにあってわれわれが直接に意識する一切のものー ( 「省 察』第二答弁付録定義一 ) 、したがって「思惟するもの res cogitans とは : : : 疑い、理解し、肯定し、否定し、欲し、欲 しない、なおまた想像し、感覚するもの」とされる (f 省察」一一 部 ) 。デカルトはこれらを二大別して認識作用 perceptio と 意志作用 volitio とし、前者に感覚、想像、純粋知性を配す る。ス。ヒノザは、意志作用の独立性を否定する点を除けば、こ のデカルトの用語法を踏襲しているといえる。したがって知覚 とはほば認識と同義である。 茜 ( 一一茜頁 ) 認識の区分については『短論文』二部一・二章、 『エティカ』二部定理四〇備考二を参照。そこでの区分が三種 であるのは、本一九節の一と二を形式上第一種の認識の細分と みなすからである。もっとも「短論文』でも実質上は四種の区 分を云々していたが ( 二部四章・二二章 ) 。だからここでの問 題設定としては、単純に認識の区分を三種であるか四種である かと問うよりはむしろ、通常蔑視されるこの種の経験的認識が 「知性改善論」において形式的にも独立のものとされ、二七節 原注に見られるように特にスビノザの関心を惹くに至った理由 は何か、ということであろう。それはやはりべーコンの影響で あると思われる。 Gebhardt 【 Spinozas Abhandlung über die Verbesserung des Verstandes 七六頁、また Joachim 】 Spinoza's Tractatus de lntellectus Emendatione 一一五頁 一五 ( 一一七四頁 ) 「いわゆる約東上の記号ー signum quod vocant- ad p 】 acitum ( 訳出は八二節の「いわゆる共通感覚」 sensus quem vocant communem の例に倣う ) 。これは、社会的な 慣習にしたがい、あるいは、あるとりきめを交した上で、用い られる人為的な記号のことである。したがってその意味すると ころはその記号にとって本性的なものではない。信号・合図な どは無論そうしたものだが、ここではわれわれが「聞いたり読 んだりする言葉」を指すと考えられる (f エティカ」二部定理 四〇備考一 l) 。なお八九節を参照。 元来こうした記号の考え方の淵源は、アリストテレスの ミ↓をにあるとされる (f 命題論』一六一九 ) 。す なわち、心の外の事物、それを表示している心の内の概念、こ の概念を外部に表出する言葉、の三者をめぐる古典的侖題であ る。時代を下ってオッカムに至れば、概念は事物を本性的な仕 方で表示するから「本性的な記号」 signum naturale である に反し、「発声され、あるいは書き記される言葉。が事物を表 示するのは自由なとりきめにしたがって secundum volun ・

9. 世界の大思想9 スピノザ

一六五三年 ドルトレヒトの法律顧問ャン・デ・ウィ 州会法律顧間となる。 一六五四年三月、父死ぬ。亡父の商館を引き継ぐ。 第一一次英蘭戦争。 一六五六年無神論者として告発され、 = ダヤ教会堂 に召喚のうえ、モルテイラの面前で訊問 される。すでにユダヤ教に対し疑問をい だいていたス。ヒノザはすすんで教団から 離脱しようとする。教団側は決裂を回避 するべく、教団に留まるならば年金を提 供しようと中し出るも、ス。ヒノザきか す。或る晩、何者かに短剣をもって襲わ れるが、着衣を切られただけでまぬがれ る ( ス。ヒノザはその上衣を終生記念とし て保存していた ) 。 七月一一十七日、ついにユダヤ教団はスピ ノザを破門に処し、破門状を布告する。 これに対してスビノザ、「ユダヤ教会離 脱に関し身のあかしを立てるための弁明 書」を書き送る。まもなくスビノザはア ムステルダムを引き払い、近村アウデル ケルクに移ったらしいが、以後一六六〇 年にかけての足跡は不明である。おそら く個人教授や光学用レンズの研磨によっ て生計を立てつつ、デカルト哲学をはじ め、新しい哲学や自然学の研究にふけっ たと推測される。 一六六〇年ライデンの近郊ラインスプルクにあっ て、コレギアント派 ( 厳格なカルヴィニ ズムに反対し、信仰の自由を標榜する俗 人たちの一団で、神秘主義的傾向を示 す ) と親しく交わる。ャーリッヒ・イエ レス、。ヒーテル・パリング、シモン ド・フリースらが主だった仲間である。 この時期に根本思想が確立し、『神と人 間と人間の幸福とについての短論文』を まとめる。これはラテン語原文が失わ れ、ようやく十九世紀後半になって、オ ランダ語訳の形で見いだされた。 一六六一年七月、イギリス王立協会の書記官ォルデ ンプルクの訪問を受ける。 この冬から翌年春にかけて、『知性改善 論』を執筆。つづいて『哲学』にとりか かる ( のちの『倫理学 ( エティカ ) 』第一 部の初稿である ) 。 一六六一一年同宿のライデン大学学生カセアリウスに デカルト哲学および新スコラ哲学を教 える。

10. 世界の大思想9 スピノザ

機的・人間性といった概念は第二概念である。つぎに出てくる 「超越的表現」も、第二概念の一種であるが、これは、経験を 「超えて」抽象されているのでとくに「超越的」と呼ばれるの である。中世紀では、 transcendentalia といわれスビノザの termini Transcendentales もそれをうけた表現であろう。 六 ( 公一頁 ) 『知性改善論」のことであろうが、じつはそこに は、はっきりそれに当たると思われる個所がない。 七 ( 公一頁 ) 第二部の訳注四を見よ。 ^ ( 九四頁 ) 意志のほうが活動の範囲が広いといったのはデカ ルトのこと。誤謬の原因を、知性より広い自由意志に認めてい るからである。 九 ( 殳頁 ) プリダンの驢馬というのは、十四世紀のフランス のスコラ哲学者ジャン・プリダンが比喩に用いた話に出てくる 驢馬のこと。驢馬には自由意志がないから、同じ食物を等距離 においておくと、驢馬はそのどちらも選ぶことができす、眼 前に食物を見ながら餓死してしまうだろうと説いたそうであ る。 第三部 一 ( 一一天頁 ) ローマの恋愛詩人オウイデイウス Ovidius, 43 B. C. ー 17 A. C. の「愛」 Amores II, 19 に出てくる。ス。ヒ ノザは、この詩人を愛読していたらしく、死後蔵書のなかに、 この詩人の作品が多く見いだされたという。 一一 ( 一六三頁 ) キケロ M. Tullius Cicero 18 ー 43 B. C. の言 葉。彼の演説集 0 at 一 0 pro Archia 11. を見よ。 第四部 一 (l<l 頁 ) オウイデイウスの言葉。「メタモルホーゼス」 Metamorphoses, VII. 20 ー 21 に見える。 = (l<l 頁 ) 旧約「伝道の書」一の一八。 三 ( 一九四頁 ) この約東はどこでも果たされなかったらしい ( べ ンシュによる ) 。 第五部 一 ( 一一三三頁 ) 「動物精気」 Esprits animaux spiritus animales は、主としてデカルトによって有名になった。心臓 内で、体熱のために血液から稀薄化されて生する微細な流動体 であると考えられた。これが脳から神経、神経から筋肉へと伝 わって身体を循環しながら身体を動かす働きをもつ。感情は、 この精気の運動によって支えられているのであるから、精神が 精気を支配するかぎり感情をも制御することができるというの がデカルトの主張であった。 一一 ( 一一契頁 ) 旧約聖書「イザャ書」六の三。