314 大全」一部七八問題三・四項を参照 ) 引続きス。ヒノザの時代で も屡々問題になったものと推察される。ス。ヒノザが「いわゆる 共通感覚ーと称する所以である。デカルトもこれに言及し ( 『規 則論」一 一 l) 、「想像的な能力」 potentia imaginatrix ともい っている ( 『省察』二部 ) 。 套 ( 元六頁 ) 原語は corporeus である。これは「精神的」に 対するよりも「物質的ーに対して、それとの区別において語ら れる。想像 imaginatio の場合はその語義からしても、関心の 赴くところがものの像 imago あるいは形 figura であるのは 当然で、デカルトも「想像するとは、物体的なものの形あるい は像をること , としている ( 『省察』二部 ) 。 穴 ( 元六頁 ) 『エティカ」五部定理二一 、二三備考を参照。 究 ( 一一頁 ) 記憶や想起については「エティカ」二部定理一 八備考を参照。 P0 ( 元七頁 ) 「自然から学んでいる」 a natura didicisse と は、理性ではなく生物的な本能によって知っている、という 意味である。そのように訳さなかったのは、デカルトにおける 「自然から教えられた」 a natura doctum という表現 ( 『省 察」三部 ) を連想し、「自然」という語を、その多義性にもか かわらす、留めておきたく思ったからにすぎない。 三 ( 元七頁 ) 遺稿集の原文は a quibusdam sensationibus fortuitis ()t sic loquar) atque solutis だが、ゲーブハルト ••atque ()t sic loquar) solutis と修正している。厳密 にいえば、一切は必然的に規定され相互に連繋されているので あるから、「偶運的」とか「ばらばらの」といったことは二つ とも語りえない。それは僅かに感覚的認識の段階でそのように 見えているにすぎない。私は「いうならば」 ut sic loquar を 二つにかけて読みたい。ゆえに遺稿集にしたがいゲーブハルト の読み方は採らない。 「規 ( 元八頁 ) 例えば幾何学における図形。なおデカルト 則論』一二を参照。そこでは「純粋な知性」と「想像のうちに 画かれた形象の助けを借りる知性」の区別が説かれている。今 の場合、後者が参考にされるべきであろう。 ( 一一犬頁 ) 『短論文』一部二章、「エティカ』一部定理一三・ 一五備考、『書簡』一二・三五などを参照。 茜 ( 一一犬頁 ) 言葉については「エティカ』二部定理四七備考 を参照。 芸 ( 一頁 ) 原文は簡単に・ : ・ multa, quae sunt revera affrmativa, negative exprimunt, et contra, tlti sunt in ・ creatum, independens, infinitum, immortale, et quia nimirum horum contraria multo facilius imaginamur 一 とあるが、 uti 以下の四つの例はすべて形式上は、じっさい は肯定的なものが否定的に表現される場合、のものだけであ る。 ( 従ってそのように訳出する。この点正確なのは、私の知 るかぎり畠中氏の訳だけである。 ) なお et contra で示される その反対の、すなわち、⑧じっさいは否定的なものが肯定的に 表現される場合、としては、とはうらはらに、創造される、 依存する、限りのある、可死的な、ということを考えればよ い。例えば限りのある〔有限な〕とは、その表現はたしかに肯 定的だが、ス。ヒノザによればその実、無限の否定にすぎないの である ( 「エティカ」一部定理八備考一、『書簡」五〇 ) 。なお また「反対の場合のほうが遙かに想像しやすい」とは、もちろ ん⑧の例を指すのである。 ( 一一究頁 ) 方法の任務は四九節によれば、一、真の観念と
になればなるほど、そうなのである。それゆえ、人が自 己自身を見て最も喜びを感じるのは、他の人間にはない ものを自己についてはあると見るときであろう。反対 に、自己について肯定されるものが、人間もしくは生類 の一般的観念に属しているとしか見られないとき、彼は それについてはあまり喜びを感じないにちがいない。の みならず、自己の行為を他人のそれと比較して見た結 果、ずっと貧弱だと考えたとすれば、逆に彼は悲しみに 襲われるであろう。そしてこの悲しみを彼は ( 第三部、 定理・二八により ) 遠ざけようと努めるにちがいない。 しかも遠ざけるには、同類の行為を曲解するか、自己の 行為をできるだけ飾り立てるのである。であるから、人 間が、生来、憎しみと嫉みへの傾向をもっていることは 疑いない。そして、この素質にもってきて、教育がつけ くわわる。実際、両親が子供たちを鞭撻しようとすると きには、たいてい栄誉と嫉妬の拍車だけで徳へと駆りた てるのが普通なのだ。 カ さて以上説いてきたが、これにたいしては恐らくまだ テ疑念が残っていて、私たちが、人間の徳に驚嘆したり、 人間を尊敬したりすることもたまにはあるじゃないかと 学 いわれるかも知れない。そこで、こうした疑念を免れる 理 意味から、私はつぎの点を補っておきたいと思う。 何人も、自分と同類でない人を、その徳のゆえに嫉妬 することはない。 証明 嫉妬は憎しみである ( 第三部、定理・一一四の備考参 照 ) か、或いは、悲しみである ( 第三部、定理・一三 の備考による ) 。もっと別の言い方をすれば ( 第三部、 定理・一一の備考によって ) 、人間の作用能力または 彼の努力を阻害する変容の一種である。ところで人間 は ( 第三部、定理・九の備考により ) 彼の与えられた 本性から生ずるものだけをなそうと努力しかっ欲求す るものだ。それゆえ、他人の本性には特有であるが彼 の本性には無縁であるような作用能力または ( 同じこ とだが ) 徳を自分に付加されることは、人間には有難 くないはすである。したがって、彼の同類でない他人 について、或る徳を見たからといって彼の欲望が、そ のために阻止されるというようなことはないわけだ。 換言すれば ( 第三部、定理・一一の備考によって ) 彼 自身は、別に悲しみを感じることはないだろう。であ るから、徳のためにその他人を嫉妬することもありえ ないのだ。だがしかし、仮定によって、彼と同じ本性 をもっ同類であったら、徳のために嫉妬することもあ りえないわけではない。 C ・・・ 備考 そこで、上述の第三部、定理・五二の備考のとき、人
118 精神のこの努力を阻害するのであるつまり ( 上掲と された事物のなかで大きくまたは小さくなるにつれ、愛す 同じ備考により ) そういう表象像は精神を悲しませるもののなかでも、大きくまたは小さくなるであろう。 る。であるから、自己の愛するものが破壊されるとこ ろを表象するひとは : : : 後略。 c ・・・ 愛された事物の存在を定立する事物の表哽像は ( 第 三部、定理・一九で論証したとおり ) 精神が、愛された 定理ニ〇 事物そのものを表象しようとするその努力を促進させ 自己の憎むものが破壊されるところを表象するひとは、 る。ところで、喜びは、喜ぶ事物の存在を定立するも 喜ぶであろう。 のであり、しかも、喜びの感情が大きければ大きいだ 証明 け、その定立も大きくなる。といったふうのものだ。 精神は ( 第三部、定理・一三により ) 身体の作用力 なぜというに、喜びは ( 第三部、定理・一一の備考に を減らしたり妨げたりする事物の存在を排除するもの より ) ョリ大きな完全性への移り行きのことだからで を表象しようと努める。換言すれば ( 同定理の備考に ある。それゆえ、愛するひとのなかに在る、愛された より ) 精神は、自己の憎む事物の存在を排除するもの 事物の喜びの表象像は、愛するひとの精神の努力を促 を表象しようと努力する。したがって、精神の憎むも 進させる。換言すれば ( 第三部、定理・一一の備考に のの存在を排除する或る事物の表象像は、精神の努力 より ) そうした表象像は、愛するひとを喜ばせるばか を促進させる。換言すれば、 ( 第三部、定理・一一の りか、愛された事物のなかで、この感情が大きければ 備考により ) そういう表象像は精神を喜ばせる。ゆえ 大きかっただけその喜ばせ方も大きくなるのだ。以上 に、自己の憎むものが破壊されるところを表象するひ が第一の問題だった。つぎに、或る事物が、悲しみの とは、喜ぶであろう。 C ・・・ 感情に刺激されるとき、そのかぎり、その事物は ( 第 三部、定理・一一の同じ備考により ) 破壊される。し 定理ニ一 かも、悲しみが大きくなればなるほど、その破壊もま た大きくなるだろう。だから、自己の愛するものが悲 自己の愛するものが、喜ばされまたは悲しまされている しまされているところを表象するひとは、同じように のを表象するひとは、同じように喜ばされ、また、悲しま ( 第三部、定理・一九により ) 悲しまされ、しかも、 されるであろう。そして、この二つの感情は、感情が、愛
228 これは、ちょうど、同情というものが、表面は義移 項目一四 感の外衣をまとっているにもかかわらす、理性にとって益一 こうして、人間は、たいていのばあい、自己の好みにま がないのと同様である。 かせて一切を処理してゆくものではあるが、それにもかか 項目一七 わらす、国家共同体からは、損害より遙かに多くの利益の ほうが引きだせる。したがって、望ましいのは、他から受 つぎに、人間は、施しものによっても参ってしまう。と ける無法を平静に辛抱し、むしろ協同一致と友情とを招来 くに、自分の暮らしに必要なものを調達できないような人 させるに役だっことのほうへ熱意を注ぐことである。 間において然りだ。しかし、困っているひとを捕えてだれ・ にも援助の手を差しのべるということは、一私人の力にあ 項目一五 まることであり、その利益をも遙かに超えた話だ。なぜと 協同一致を生みだすものは、正義・公平・道義などの徳 うこ、一私人の富の力は、そういう援助をするところま である。なぜなら、人間を傷けるのは、単に不正・不当な ではとてもおよばないからだ。のみならす、個人の機能 ものばかりではなく、非礼なことや、国家で認められてい は、万人と友情を結びうるとしては、あまりにも制限され る慣習を蹂躪することなども、やはり人間の心を傷ましめすぎている。だから困窮者への配慮は、社会全体の責任で るからだ。しかし、愛を獲得するには、宗教心や義務感なあり、公共の福祉という点から考うべきことなのだ。 どと関係あることがらが非常に役だつであろう。この点に 項目一八 ついては、第四部、定理・三七の備考・一および一「定 理・四六の備考、定理・七三の備考を参照されたい。 親切を受けいれ、感謝を表示するに当たっては、私たち の配慮は、以上とは全く別のものにならなければならな 項目一六 これについては、第四部、定理・七〇の備考と、定 その他、恐怖もまた、たいていのばあい、協同一致を生理・七一の備考を参照されたい。 みだす基になる。 ; 、 がこういう協同一致は、誠実さのない 項目一九 協同一致だ。のみならす、恐怖は元来、精神の無能力から 生ずるものであり、したがって理性にとっては何の利益も 感覚的な愛情、つまり外的形姿から生する情欲、もっと一
144 精神の努力または能力は、精神それ自体の本質その ものである ( 第一二部、定理・七による ) 。しかるに、 精神の本質とは ( 自明なように ) 精神があるところの もの、そして、精神ができるもの、すなわち肯定する もの、ただそれだけである。それに反して、精神がそ れでないもの、精神ができないものは本質ではない。 だから、精神は、自己の作用能力を肯定しまた定立す るものだけを表象しようと努めるのだ。・・・ 定理五五 精神が、もし自己の無力を表象したとすれば、精神は、 まさにそのために悲しみを感するであろう。 証明 精神の本質は、精神でありかっ精神のできるものだ けを肯定する。換言すれば ( 前定理により ) 精神の本 性は、自己の作用能力を定立するものだけを表象する ことにある。それゆえ、精神が、自己を観察してそこ に自己の無力を表象しているといわれるとすれば、そ れは、精神が、自己の作用能力を定立する何ものかを 表象しようとする努力の阻止されているのを経験しつ つある、もしくは、精神は悲しみを感じている、とい うことに他ならない ( 第三部、定理・一一の備考によ この種の悲しみは、人間が他から非難されていると表 象すればするほど、ヨリ多くの養い分を見いだす。この ことは、第三部、定理・五三の系と同様に証明される。 備考 われわれの菲力という観念を伴うこの種の悲しみは、 謙虚と呼ばれる。これにたいして、自己自身を観察して そこから生する喜びを自愛または自己満足という。そし て、この種の喜びは、人間が自己の徳または自己の作用 能力を観察するたびごとに繰りかえされるものであるか ら、だれでも、自己の業績を語ったり、自己の身体や精 神の力を誇ったりしたくなるし、結局それを原因とし て、互いにうるさく感じだしたりもする。またさらに ( 第三部、定理・二四の備考、および定理・三二の備考 参照 ) 人間は性来、妬きもちやきだとか、同類の菲力を 喜び、同類の徳を悲しむとかも、ここからの結果だ。な ぜかというに、だれでも、 ( 第三部、定理・五三により ) 自己の行為を表象するたびに喜びを感じ、そしてその行 為がより多くの完全を表わしていると考えれば考えるほ ど、そしてその行為をはっきり表象すればするほどこの 喜びは大きくなる。換言すれば ( 第一一部、定理・四〇の 備考でのべたところにより ) 彼が、自己の行為を他のそ れから区別し、それを独特なもののように考えうるよう
証明 定理五 0 私たちの表象の上での自由な事物は、 ( 第一部、定 あらゆる事物は、偶然によって、或る希望または憂惧の 義・七により ) 他の事物なしに、それ自体によって知 覚されねばならぬ。それゆえ、かかる事物が或る喜び原因となりうる。 証明 または悲しみの原因だと考えられるとすれば、それだ この定理は、第三部、定理・一五と同じ方法で証明 けで私たちはそれを愛し、或いは憎む ( 第三部、定 されるが、なお同時に第三部、定理・一八の備考・二 理・一三の備考による ) 。しかも ( 前定理によって ) を検べてほしい そのときの感情から生じうる最大の愛或いは憎しみ 備考 で、それを愛し、或いは憎むであろう。それに反し、 偶然によって、或る希望または憂惧の原因である事物 この感情の原因である事物が、私たちの表象によれば は、善い前兆または悪い前兆と呼ばれる。ところで、こ 必然的であるとすれば、その事物は ( 第一部、同じ定 れらの前兆が或る希望または憂惧の原因であるかぎり、 義・七により ) 自分一個ではなく、他の諸事物と共同 そのかぎりは或る喜びまたは悲しみの原因である ( 希望 して、この感情の原因になっているのだと私たちは表 および憂惧の定義による。この定義は第三部、定理・一 象するであろう。したがって、この事物にたいする愛 八の備考・二で検べてほしい ) 。だから、私たちは、そ も憎しみも、ヨリ小さなものであるにちがいない ( 前 のかぎりにおいて、それらの前兆を愛したり憎んだりす 定理による ) 。・・・ るのだ ( 第三部、定理・一五の系による ) 。それゆえ私 備考 たちは、努めてそれらを、私たちの希望するものを達成 ここから、人間は、自己を自由だと考えている結果と するためのいわば手段として近づけたり、或いは、障害 してお互いに、他の事物より強く愛しあったり憎みあっ テ 工 または憂惧への原因として遠ざけたりするのである ( 第 たりしているのだという帰結が出てくる。なおここに感 三部、定理・二八による ) 。そのうえ、第三部、定理・ 理情の模倣というものが付けくわわってくるが、これにつ 二五からも分るとおり、私たちは、希望するものは容易 いては、第三部、定理・二七、三四、四〇、四三などを オしつま に信ずるが、怖気をもづものは容易には信じよ、、 検べてほしい。 り、いずれも正当以上もしくは以下に考える天性に生ま
れ自身を喜びをもって眺めるにちがいない ( 第三部、 に優先して、喜ばせようと努めるだろうし ( 第一二部、 定理・三〇による ) 。したがって、われわれにたいし 定理・一一九による ) 、或いは、その愛された事物に、 てその事物が抱いていると思われる感情が大きければ 私たちの観念を伴う喜びの感じを与えるようできるだ 大きいほど、それだけ大きな喜びをもって、われわれ け努力するであろう。換言すれば ( 第三部、定理・一 はわれわれ自身を眺めるであろう。つまりわれわれは 三の備考により ) それが私たちを愛しかえすように努 ( 第三部、定理・三〇の備考によって ) それだけ大き めるであろう。 C ・・・ な誇りを感ずるであろう。 C ・・・ 定理三四 定理三五 愛する事物が、われわれにたいして抱いていると思われ る感情が大きければ大きいほど、それだけわれわれの誇り 人は、自分の愛する事物が、いままで自分の独占してき も大きくなるであろう。 たと同じ友情、或いはもっと緊密な友情で他人がその事物 証明 と結ばれているのを思いうかべるとき、愛する事物そのも のにたいしては憎しみを感じ、その他人にたいしては嫉妬 われわれは ( 前定理により ) できるだけ努力して、 愛する事物がわれわれを愛しかえすようにしようとすを感ずるであろう。 る。換言すれば ( 第三部、定理・一三の備考により ) 愛する事物が、われわれの観念を伴う喜びの感情に刺 人は、自分の愛する事物が自分にたいして抱く愛情 激されるよう努力する。それゆえ、愛する事物がわれ を大きく考えれば考えるほど、彼の誇りの感情は大き われゆえに刺激されたと思われる喜びが大きければ大 くなるであろう ( 前定理による ) 。つまり ( 第三部、 きいほど、それだけこの努力もまた促進されるのだ。 定理・三〇の備考によって ) それだけ大きな喜びを感 つまり ( 第三部、定理・一一とその備考によって ) そ ずるであろう。そこで、できるだけ彼は ( 第三部、定 れだけ大きい喜びの感情をわれわれは抱くようになる 理・二八により ) 自分の愛する事物と最も緊密に結ば のである。ところが、われわれに似た或る他の事物に れているのだと、考えようと努力をするであろう。の 喜びを与えたというその理由でわれわれは喜びを感じ みならず、この努力または衝動は ( 第三部、定理・三 ているのであるから、そのかぎりわれわれは、われわ 一により ) 、他人がその事物を自分のほうへ獲得しょ
148 の本質と後者の本質とが異なるように異なるものである。 この定理は、第二部、定理・一三の備考の後の補助 定理・三のつぎにあたる公理・一によって明らかだ。 しかし、それにもかかわらず、私は三つの根源的な感 情の定義から、これを証明したいと思う。 一切の感情は、欲望・喜び・悲しみに基礎をもって いる。これは、この三つについて与えられた定義の示 すとおりだ。けれども、欲望は、各人の本性または本 質そのものである ( 第三部、定理・九の備考に出てく る欲望の定義を見よ ) 。それゆえ、各個人の欲望と他 の個人の欲望とは、ちょうど前者の本性または本質が 後者のそれと異なるように異なるのだ。つぎに、喜び と悲しみとは ( 第三部、定理・一一およびその備考に よって ) 自己の存在にかじりつこうとする各人の能力 または努力を、増加させたり減退させたり、促進した り阻止したりする受動態〈激情〉なのである。ところ が自己の存在にかじりつく努力というのは、それが身 体と精神と同時に関係するかぎり、衝動および欲望の ことに他ならない ( 第三部、定理・九の備考を見よ ) 。 それゆえ、喜びと悲しみとは、外部的な原因によって 増加したり減少したり、促進されたり阻止されたりす るかぎりの衝動そのもの、または欲望なのだ。換言す れば ( 同じ備考により ) 喜びと悲しみとは、各人の本 性そのものに他ならぬ。したがって、各個人の喜びま たは悲しみと、他の個人の喜びまたは悲しみとは、前 者の本質と後者のそれとが異なるように異なる。だか ら一般に、各個人の感情と他の個人のそれとは : : : 後 考 このことから、理性をもたぬといわれている生物たち の感情 ( なぜといって、動物が感覚をもっていること は、すでに精神の起源を認識したわれわれとして絶対に 疑うことができないからだ ) と人間の感情とは、生物の 本性が人間の本性と異なるように異なっているというこ とは明らかだ。そこで、もちろん馬も人間もたしかに生 殖への情熱に駆られはする。しかし馬の衝動は、馬の本 性にふさわしい情欲からきているが、人間はそれと反対 に、人間的な情欲に駆りたてられているのである。同し 理由から、昆虫、魚類、鳥類の情欲または衝動は、それ ぞれに異なったものでなければならぬはずだ。したがっ て、各個体は自己を形作る本性に満足して生活し、本性 に喜びを感じているにもかかわらず、各個が満足する生 活と喜悦とは、まさにこの個体の観念または精神に他な らない。したがって、各個体の喜びと他の個体の喜びと は、その本性上、前者の本質が後者のそれと異なるよう に異なるわけだ。最後に、前定理からして、こうした喜 び相互間にはきわめて著しい差異があると帰結される。
を捉えて、とても害悪を防止しきれないようにさせて 間は、彼は必ず同時に、功名欲によって捉えられてい るからだ。キケロはいっている「世の最良のひとびと しまう恐怖に他ならないのである。私がここに驚愕し といえども、なかんずく功名心には支配される。名誉 た人間というのは、害悪を防止しようという彼の欲望 が、驚愕のために阻止されていることがよく洞察でき が軽蔑に価するものであることをのべた書物にさえ、 るような人間のことを指している。それにたいして、 哲学者は自己の名を記することを忘れないのである、 動揺しつつある人間というのは、彼にとって同じく苦 云々 [ と。 痛であるように見える他の害悪にたいする不安のため に欲望が阻止され、二つの害悪のうちいずれを避けた四五食道楽とは、美食にたいする節制のない欲望または らよいか分らなくなってしまっているのがわれわれに愛好のことである。 はよく分っているようなばあいにいうのである。この 点については、第三部、定理・三九の備考、および定四六飲酒癖とは、飲酒にたいする節制のない欲望または 理・五二の備考参照。なおこの他、小心と大胆につい 愛好のことである。 ては、第三部、定理・五一の備考を見よ。 四七貪欲とは、富にたいする不節制な欲望または愛好の 四三愛嬌または鄭重とは、ひとの気に入ることをなし、 ことである。 ひとの気に入らぬことを抑制しようとする欲望のこと。 四八情欲とは性交にたいする欲望または愛好のことであ 四四功名欲とは名誉にたいする行きすぎた欲望のことでる。 テある。 説明 ひとは通常、性交にたいする欲望を、節制・不節制 説明 学 の別なく、一般に情欲と呼びならわしている。 理 功名欲は ( 第三部、定理・二七および三一により ) 以上五つの感情は ( 第三部、定理・五六の備考での あらゆる感情を育くみ、強化するところの欲望の一 つである。したがってこの感情は、殆んど克服しがた べたとおり ) 反対感情をもたない。というのは、たと 8 い。なぜといって、人間が或る欲望に捉えられている えば鄭重は功名心の反対ではなく、その一種であるご ( ニ )
114 神はすぐさま、他の感情、すなわち、精神の思惟能力 の系 ) する、換言すれば、それを愛したり憎んだりす を増したり減らしたりする感情、もう一度換言すれば る ( 第三部、定理・一三の備考による ) ことになるの である。 ( 第三部、定理・一一の備考により ) 喜びまたは悲し みの感情によって刺激されるにちがいない。それゆ 備考 え、あらゆる事物は、それ自体によってではなく、偶 ここからして、私たちは、私たちに知られた原因は一 然によって、或る喜びや悲しみの原因となることがあ つもないのに、ただ同感と反感 ( 一般にこう呼んでいる ) るのだ。そして、これとまったく同じ方法により、一 だけから、いろいろなものを愛したり憎んだりするよう 切の事物が、偶然によって欲望の原因となりうるもの なことになりうるかを理解する。なお、ここに加えらる であることも容易に証明されるであろう。・・・ べき対象としては、平常、私たちを喜ばせたり悲しませ たりする対象にそれがどこか似ているという、ただそれ だけの理由で、私たちを喜ばせたり悲しませたりする、 私たちは、或るものを、それ自身は喜びや悲しみの作 そういう対象もあるが、これはつぎの定理で論証しょ 用因でなくとも、喜びもしくは悲しみの感情のなかで眺 う。とにかく、この同感および反感という言葉を最初に めてきたので、ただその理由のために、愛したり憎んだ 採用した著作家たちが、それで事物のなかに秘められた りすることがある。 或る性質をいいあらわすつもりであったことは私も承知 している。しかし、それにもかかわらず、その一 = 〔葉を、 なぜなら、ただこのことのために、 ( 第三部、定理・ よく知られた明瞭な性質の言葉として理解することも私 一四により ) 精神が後になってこの事物を表象するば たちには許されてよいと思うのである。 あい、喜びもしくは悲しみの感情に襲われるというこ とになる。換言すれば ( 第三部、定理・一一の備考に より ) 精神と身体の能力が増したり減ったりする等々 或る事物が、平常、精神を喜ばせたり悲しませたりする ということになる。したがって、精神はこうした事物慣習になっている対象と、どこか似ていることをわれわれ を表象しようという欲望を感じたり ( 第三部、定理・ が表象しているという、ただそれだけの理由で、よしんば 一一 l) 表象しまいと忌避したり ( 第三部、定理・一三事物と対象とが似ている点が、その感情の作用因でないば