て、この仕事の創始者の意図が一軒の家を建てるにあると 知ったとすれば、家はまだ未完成だと彼はいうであろう。 ところが、仕事が製作者の意図した最後の仕上げまでやり とげられてしまった様子を見たとすれば、忽ち彼は完成し たというにちがいない。しかるに、もしかれがいままでそ ういう種類の仕事には接したことがない仕事を見、かっ製 作者の精神も分らないといったばあいがあるとすれば、そ まえおき のひとはもちろん、この仕事が完成しているかどうかを知 ることはできないであろう。そして、これが、完全とか不 諸感情を制御したり抑匍したりすることにたいする人間 完全とかいう言葉の最初の意味であったと思われる。とこ の無力を私は屈服という。なぜかといえば、自己の感情に 支配される人間は、自己に固有の力によって行為しているろが、人間が一般的な観念を形成し、家とか建造物とか塔 とかの典型を案出し、甲の典型を乙の典型より優れたもの のではなく、自分でヨリよいものを見ながらしばしばョリ として選ぶようなことをやり始めてからは、ある事物につ 悪しきものにしたがわざるをえないような運命のカの下に いて自ら形成した一般的観念と一致したものを完成したも 立たされてしまっているからだ。そこで、こういうことに うまでも の、完全なものというようになってしまった。い なる原因を検べ、そして感情が、どんな善または悪をもっ なく、逆に、自分の前もって形成した典型と、少ししか一 ているか、を説明するのにこの第四部をあてようと思う。 が、それに着手する前に、完全とか不完全とか、善とか悪致しないと見たものは、よしんば製作者の眼には完全に完 とかについて、一「三注意しておきたいことがある。 成していると映っていても、不完成もしくは不完全だとい テ もしある男が、或る事物を作りあげようと企て、それをわれることはもちろんだ。そこで、かの自然物、すなわち 完成したとするに、そのとき彼自らが、完成したというの人間の手によって創られたのではない自然物さえ、通常、 学 理みならす、この仕事の創始者の思想および目的を正当に理完全または不完全とよばれる理由も、ここにあるように思 解しているひと、もしくは理解していると信ずるひとなわれる。なぜかなら、人間たちは、自然的事物について ら、だれしも同じことをいうにちがいない。たとえば或る も、人工的な事物についてと同様、一般的観念を形成する習 男がある仕事 ( まだ仕あがっていないと仮定しよう ) を見わしになっており、それを彼らは、いわば事物の典型だと 第四部感情への屈従あるいは感情のカ について
るだろう。そして、もし神に別の意志、別の知性を帰す ることが許され、しかも、そのために、彼の本質や彼の 完全性が、いささかも変化を受けないとしたら、神が被 造物についてもっていた決意をいま変更してもなお依然 として完全たりえない理由があるだろうか。なぜなら 被造物およびその秩序に関連して、神の知性、神の意志 が、どう考えられるかは、神の本性と完全性にとっては 影響はないからである。 それからなお、私の知っている哲学者たちはだれも、 神のうちには可能的知性はなく、在るのはただ現実的知 性ばかりだということを容認する。しかし、彼らも、ま た認めているように、神の知性も意志も、神の本質から 区別されないものなのであるから、もし神が、他の現実 的な知性や他の意志をもっとしたら、神の本質もまた必 然的に別の本質であることになる。また、もし諸事物 が、現にいま在るとは別な仕方で神から創造されたとす れば、 ( 始めから私が推論していたように ) 神の知性も 意志も、換言すれば ( 一般に容認されているように ) 神 カ の本質はいまとは別のものでなければならないことにな テ 工 る。こんな条理に合わぬことはないのである。 学 かくして、諸事物は、神から、他のいかなる方法によ 理 倫 っても、また、他のいかなる秩序のなかにも創造されえ なかったのであり、しかも、この命題の真理は、神の最 高完全性から結論されているのであるから、神は、彼の ( 四 ) 知性のうちにあるすべてを、彼がそれを認識すると同じ 完全さで創造する意図を、必ずしももってなかったよう に私たちを説得することは、健全な理性ならできるわけ はないのである。 ところがさてそうなると彼らはまた主張する、諸事物 のなかには、完全性も不完性もない、なかに在って、事 物を完全もしくは不完全ならしめ、事物を善もしくは悪 と呼ばしめるものは、もつばら神の意志にかかる、した がって、神は、もし欲すれば、いま完全であるものがご く不完全になり、いまごく不完全であるものが完全にな るよう作用することもできるだろう、と。ところが、こ う主張することは、とりもなおさず、神は、彼の意図す るところのものを必然的に認識しているから、彼の意志 を働かせて、現にかれが認識しているとは別の方法で事 物を認識するようにすることもできるのだ、ということ を公然と肯定するに他ならない。が、これは ( ついいま しがたのべたとおり ) 不条理きわまる話である。そこで 私は、彼らの論拠を、彼ら自身に向け、こう主張するこ とができる。いわく、一切は神の力に依存する。したが って、もし諸事物が、他の態度をとりうるにしても、そ れには、必然的に神の意志もまた別の態度をとるのでな ければなるまい。しかるに、 ( すぐ前に、神の完全性を 根拠にして、ごく明瞭に説明したとおり ) 神の意志は、 別の態度をとることはできぬ。したがって、諸事物もま
によっては自然物にあって偶有性しか知覚できないが、こ真理探索の最良の方法を見出すには、この真理探索の方法 の偶有性も、あらかじめ本質が認識されていなければ明瞭そのものを探索するための別の方法がいり、この第二の方 に理解されることはない。だからこの様式もまた排除され法を探索するには第三の方法がいるのであって、このよう なくてはならない。 にして無限に進む、などといったことは決してないのであ * ここでは経験についていくらか立人 0 て論じ、経験論者る。まったくのところ、このような仕方では決して真理の たち、および、このごろの哲学者たちの、進歩の方法を検討忍籤こ、、 やおよそいかなる認識冫 こも、到達することはな するであろう。 いであろう。むしろ事情は物体的な道具におけるのと全く 同じなのである。この場合でも同様に論をはこぶことはで ( 二八 ) ところが、第三の様式についてであれば、ある意きよう。つまり、鉄を打っためにはハンマーが必要である 味で、事物の観念がこれでえられ、さらにはまた、誤謬のが、これを手に入れるにはこしらえなくてはならない。そ のためには別のハンマーと別の道具が必要であるが、それ 危険なしに結論をくだしうる、ということができる。とは いえ、この様式も、やはりそれ自身では、われわれの完全らのものを手にするにはさらに別の道具が必要となり、こ のようにして無限に進む、と。しかしながら、こうしたや 性を獲得するための手段とはならないであろう。 ( 二九 ) ひとり第四の様式にかぎり事物の十全な本質を掌り方で、人間は鉄を打っ能力をもたない、などと立証しょ 握し、しかも誤謬の危険がない。だから、何よりもこの様うと努めるのは無駄である。 ( 三一 ) たしかに、人間は、 式が採用されなくてはならない。では、未知の事物をこの初めにあってはもって生まれた道具〔手〕によって幾つか 種の認識によって理解し、同時にまた、これをできるだけのしごくたやすいものを、苦労して、しかも不完全にではあ ったが、とにかく造ることができた。そしてこれを造りあ 端的直截になすには、この様式をどのように働かせるべき であるか、これを説明したいと思う。 ( 三〇 ) 〈いいかえれげてしまうと、今度はより困難なものを、以前よりは少な 論 ば〉われわれにとって必要な認識。 よどの種のものであるか い労力で、しかももっと完全に、造りあげたのである。この 善 ようにして、もっとも簡単な作業から道具へ、 この道具か 性が判ったからには、認識されるべき事物をこの種の認識に 知よって認識するための道と方法がはかられなくてはならな らまた別の作業と別の道具へ、と一歩一歩進んでゆき、結 いのである。このため、まず顧慮されるべきことは、この局、あれだけ多くの、あれほど困難なものごとを僅かの労 場合無限に進む探求はありえないことである。すなわち、 力で完成するに至ったのである。ちょうどこれと同様に、
獲得、あるいは快楽および名声などというものは、それ自得にたちはだかるものを何もみないので、自分をこの完全 身のために求められ他のものに対する手段として求められ性にまで導いていってくれる手段を求めよう、という気に ( 七 ) るのでないかぎり、有害であると判ってからは。だがこう なるのである。そして、そこに到達するための手段となり したものでも、手段として求められるのであるなら、そのうるものがすべて、真の善と呼ばれるのである。最高の善 ときにはほどほどの度をもっているから、決して害にはな とは、しかし、こうした本性を、できることならば、他の らない、い や反対に、その求められる当の目的にとって貢ひとびとと共に享受するに至ることである。ところで、そ 献するところが多いことは、いずれ適当な場所でわれわれの本性とはどのようなものであるかは、いずれしかるべき の示すとおりである。 場所で示すであろうが、それはとりもなおさす、精神と全 ( 九 ) ( 一一 l) ここでほんの手短かに、私のいう真の善とはどの自然との合一の認識にほかならない。 ( 一四 ) こうした次 ようなもののことであるか、と同時に、最高の善とは何で第で私のめざす目的とは、この本性を獲得すること、あわ せて、多くのひとびとが私といっしょにそれを獲得するよ あるか、を述べるとしよう。これを正しく理解するには、 う努めること、である。 善とか悪とかはただ相対的な仕方で語られるだけであり、 いいかえれば、他の多くのひとた したがって、同一のものであっても、観点が異なれば、そちが私と同じものを理解するよう、そしてその結果、彼ら れに応じて善とも悪ともいわれうる、ということに留意し の知性と欲望が私の知性と欲望に完全に合致するよう、は なくてはならない。 この点は完全とか不完全とかいう場合げむことがまた、私の幸福の一部でもある。そして、そう と同じなのであって、じっさい、何ものも、その本性におなるためには、〈まず第一に〉この本性を獲得するのに充 いてみられるならば、完全であるとか、あるいは不完全で分なだけのものを自然に関して理解しなくてはならない。 あるとか、いわれることはないであろう。とくに、すべて次には、できるだけ多くのひとびとができるだけ容易に、 生起するものはことごとく、永遠の秩序に従い自然の一定また安全に、そこに到達できるように、それに願わしいよ ( 一五 ) さらに〈第 の法則に従って生起するのである、ということをわれわれうな社会を形成しなくてはならない。 が知るに至ったのちには。 ( 一 lll) ところで人間は、微カ三に〉、道徳哲学、それに児童教育学にも力を注がなくては ならない。なお、健康はこの目的を達成するためにゆるが なために、その思惟によってこの秩序を辿りつくすわけに ーし力ないのだが、 せにはできない手段であるから、〈第四に〉全医学をとと それでも他方、自分の本性よりは遙か に強大な、ある人間的本性を認め、しかも、この本性の獲のえなくてはならない。また、技術によっては困難な多く ( 八 )
原因によっても生ぜしめられることのない実体 ( 定理・ 六 ) についてであるということを注意するだけで充分で ある。なぜなら、外的原因から生ずる事物は、その有す ある実体の属性を理解するにあたって、実体が分割でき る部分の多少にかかわらず、自らの完全性または実在性るものであるかのように考えるとすれば、そういう理解の の一切を、その外的原因の力に負っている、したがっ仕方は正しいとはいえない。 て、彼らの存在は、外的原因の完全性だけに由来し、自 証明 己自身の完全性に負っているものではない。 これに反し そのように考えられた実体の諸部分は、実体の本性 て、実体のもっ完全性はすべて、なんら外的原因に負う を保持しているか、いないか、そのいずれかであろ ものではない。したがって、ただその本性から、その存 う。保持するとすれば ( 定理・八によって ) 各部分は とすればこの存在 在もまたでてこなければならない。 無限であり、また ( 定理・六によって ) 自己自身の原 は、実体の本質と別物ではないのである。かくて、ある 因でなければならぬ、のみならず、 ( 定理・五によっ 事物の完全性というものは、その事物の存在を排除する て ( 他の部分の属性とは異なった属性から成りたって ものではなく、逆にそれを定立するものなのだ。ところ いなければならぬはすだ。しかし、もしそうだとすれ が、不完全性は、それを逆に排除する。したがって、私 ば、一つの実体から多くの実体が成立することになる たちは、無条件に無限かっ完全な存在者、すなわち神の だろう。これは、 ( 定理・六によって ) 条理に合わな 存在より確かな、いかなる事物の存在をも知らないので 、。のみならず、諸部分は ( 定理・二によって ) 彼ら ある。なぜなら神の本性は、あらゆる不完全性を除外 のなす全体と、なんらの共通性をももたぬことにな し、絶対的な完全性を包含せるものであるから、まさに り、延いては、その全体が ( 定義・四と定理・一〇に カ そのことによって、神の存在を疑う一切の原因を排除 よって ) 部分なき全体として存在もし、理解もされる テ ということになるだろう。これは、疑いもなく条理に ←し、そして、その存在について最高の確実性をあたえ 学る、このことは、多少とも注意しているひとにとって 合わない。 は、きわめて明瞭であろうと私は信ずる。 また、第二のばあい、つまり、各部分が、実体の本 性を保持しないばあいを想定してみるに、実体の全体 が、それらの諸部分に分割されているのだから、実体
79 倫理学 ( ェティカ ) っ完全であるようなすべての観念は真である。 証明 私たちのうちに、十全かっ完全な観念がある。とい えば、それは ( 第一一部、定理・一一の系により ) 、神 が私たちの精神の本質を成しているばあいのその神の なかには十全かっ完全な観念がある、というのと別の ことをいっているのではない。それゆえ、結局は、こ のような観念は真である、といっているのと同じであ る ( 第二部、定理・三二による ) 。・・・ 定理三五 虚偽は、不十全な、或いは、欠損だらけの混乱した観念 が自らのうちに含むところの、認識の欠乏によって成立す る。 証明 観念のなかには、虚偽の形相を形作る積極的なもの は何もない ( 第一一部、定理・三三による ) 。しかるに、 虚偽は、絶対的な欠乏のなかには成立することはでき ぬ ( なぜなら、誤るとか欺かれるとかいわれるのは、 精神であつで、身体ではないからだ ) 。また同様に、 完全な無知のなかにも成立しえない。なぜなら、知ら ないということと、誤るということとは別ものだから だ。それゆえ、虚偽は、不十全な認識、 または不十全 な混乱した観念がもっているところの認識の欠乏のな かにこそ成立するのである。・・・ 第二部、定理・一七の備考において、私は、誤謬がど の程度、認識の欠乏によるものかを説明した。しかし、 ことがらをもっと精しく説明するために、一つの例をあ げたいと思う。たとえば人間は、自己を自由であると考 えるなら、自己を欺いているのである。そして、この考 えは、人間を決定する諸原因についての知識なしに、自 分の行為だけを意識しているからこそ成りたっているの である。それゆえ、自由という観念は、人間が自己の行 為の原因を知らぬという観念である。なぜかというに、 もし人間の諸行為は意志に依存するといってみたところ で、それは言葉にすぎず、一つも観念が結びついてない からだ。すなわち、意志とは何か、どうして意志は身体 を動かすか、について彼らはだれも何も知らないし、ま た、いささか得意になって、たましいの座や住家を空想 してみるものがあっても、一般人がこれをきけば、笑 いだすか、とどのつまりは吐気を催すのが普通である。 また、私たちが太陽を見ているとき、太陽は、私たちか ら約二百フィートのところにあると表象する。この誤謬 は、この表象そのもののなかにあるのではなく、私たち が、一方、太陽をこのような姿で表象しながら、その真 の距離とこの表象の原因とを知らないから起こるのであ る。なぜかというに、私たちが後になって、太陽は、地 ( 三 )
245 倫理学 ( ェティカ ) 証明 自己と自己の感情を、明晰かっ判明に認識するひと は、喜びを感ずる ( 第一二部、定理・五三による ) 。の みならずこの喜びは ( 前定理により ) 神の観念を伴 う。したがって彼は神を愛し ( 感情の定義・六によ る ) 、しかも自己と自己の感情とを認識すればするほ ど、 いっそう愛するようになるわけである ( 前と同一 の理由による ) 。 C ・・・ 神へのこの愛は、最も多く精神を領有するにちがいな 証明 なぜなら、この愛にはあらゆる身体変容が結びつけ られており ( 第五部、定理・一四による ) 、それらす べてによってこの愛は培われているからだ ( 第五部、 定理・一五による ) 。だからこの愛は精神を最も多く 領有するのである ( 第五部、定理・一一による ) 。・ 定理一七 神は、いかなる受動態とも関係がない。そして神は、ど んな喜びまたは悲しみの感情によっても動かされることが 証明 神に関係する一切の観念は真である ( 第一一部、定 理・三二による ) 。つまり十全である ( 第一一部、定義・ 四による ) 。したがって神は、どんな受動態とも関係 : ない ( 感情の一般的定義による ) 。また神は ( 第一 部、定理・二〇の系・二により ) ョリ大きな完全性へ も、またヨリ小さな完全性へも移ることができない。 だから神は ( 感情の定義・二と三により ) どんな喜び または悲しみの感情によっても動かされないのだ。 系 本来からいえば、神はだれをも愛せず、だれをも憎ま ない。なぜというに、神は ( 前定理により ) どんな喜び または悲しみの感情によっても動かされないからだ。し たがって、神は、何びとも愛せず、また憎まないのであ る ( 感情の定義・六および七による ) 。 何びとも神を憎むことはできない。 証明 私たちのなかにある神の観念は十全であり、完全で ある ( 第一一部、定理・四六および四七による ) 。だか ら、私たちは神を見ているかぎり、働きかけつつある
169 は、私たちが事物を、とくにそれ自体で観察するかぎり 定義・六 ) 、実在性と完全性とは同じものと解せられるとい は、なんら事物のなかにおける積極的なものを表わしては ったのもこの理由による。すなわち、私たちは、普通、自 いない。それらもまた、いわば、私たちが事物を互いに比 然中のあらゆる個体を、最も普遍的と呼ばれるところの一 つの類の下に還元する習わしをもっているのだ。換言すれ較することによって構成した思惟の様態または概念にすぎ に、自然中のあらゆる個体を包括する有の概念の下に還元ないのである。というのは、同一事物が同じ時に、善でも するのである。したがって、自然の諸個体をこの類に還元あり悪でもありうるし、また善でも悪でもない、いわ中 立物でもありうるからだ。たとえば、或る音楽は憂愁なひ し、それらを相互に比較することによって、一部の個体は、 とには善いばあいでも、傷心のひとには悪く、つんぼには 他の個体よりョリ多くの存在性または実在性を有するとい 善くも悪くもないだろう。しかし、実情はたとえかくのご うことに気づいたとすれば、そのかぎり、前者は後者より ョリ完全だというわけなのだ。また、私たちがそれら個体とくだとしても、私たちはともかくこれらの言葉を保存せ について、うちに否定を含む何ものか、たとえば限界、終ざるをえない。なぜなら、私たちは、人間本性の典型とし 末、無力、等々を見いだしたとすれば、そのかぎり、それて仰ぐに足る一種の観念を構成しようと目論んでいるので あるから、これらの言葉を前にのべたような意味で保存し らは不完全と呼ばれるのである。なぜというに、それらは、 ておくほうが、私たちにとっても好都合にちがいないから 私たちの精神を刺激するに当たって、私たちが完全と呼ん だ。そこで以下においては、善といえば、私たちが掲げた でいるものと同じようには作用しえないからだ。しかし、 一般に信じられているように、本来具わっているはずのも人間本性の典型にだんだん近づくための手段であることが のが欠けているとか、自然が一種の誤りを犯したとか、そ確実に分っているようなもののことと考えたい。それに反 んなことが理由となっているわけではないのである。なぜして、悪といえば、私たちがこの典型にふさわしくなるの テかというに、ある事物の本性は、作用因の本性に具わる必を阻止すると確実に知れているようなものを考えたい。さ らにまた、人間が、この典型に近づく距離の多少に応じ 然性から出てくるもの以外には何ものももっておらす、し て、ヨリ完全とか、ヨリ不完全とか呼びたいと思う。なぜ かも、作用因の本性に具わる必然性から生ずるものすべて かというに、だれかがヨリ小さな完全性からョリ大きな完 は、一切が必然的に生起するものなのだからである。 全性に移りつつあるとか、或いはこの逆を行きつつあると つぎに、善および悪にかんしていえば、これらの表現かいわれるばあい、それは、彼が或る一つの本質または形
十全な観念をもつ人間精神のうちにあるであろう。 それゆえ、十全な観念をもつもの、換言すれば ( 第一一 部、定理・三四により ) あることがらを真に認識して いるものは、同時に彼のその認識についての十全な観 念または真の認識をもっているにちがいない。別言す れば ( 自明のことだが ) 彼は同時に、自分の認識につ いて確実であるはずである。 C ・・・ 備考 第二部、定理・二一の備考のなかで、私は、観念の観 念とは何であるかについて論議した。しかし、前の定理 は、それ自体で充分明白であることを認めざるをえな い。なぜかというに、或る真の観念をもつものは、それ が自らのうちに最高の確実性をもっていることを精しく 知っているからだ。というのは、一つの真なる観念をも つ、ということは、或ることがらを完全に或いは最もよ く認識している、ということ以外に何も意味してないか らなのである。この点について疑いうるものはたしかに 一人もいない。観念がカン・ハスの上の画のように無言な ものであり、けっして思惟の一様態すなわち理解そのも のではないと信じているなら別だが。 そこで、私は敢えて問うてみたい。だれが、前もって あることがらを理解しているのでなければ、理解してい ることを知ることができるだろうか、つまり、前もって そのことがらについて確実でなければ、それについて確 実だということをだれが知りうるか、というのだ。さら に、真理規準に役だつものとして、真なる観念以上に明 晰で確実なものがありうるかどうか、というのだ。たし かに、光が自己自身および闇をはっきりさせるように、真 理は、自己自身および偽の規準である。したがって、私 はこれですでに、つぎのような疑問には答えたものと確 信すゑいわく、もしひとが、真の観念について、それ が対象と一致しているといえるばあいにかぎり、それを 偽の観念から区別するとすれば、真の観念は、偽の観念 にたいして、実在性の点でも或いはまた完全性の点で も、一つも優先するものをもっていない ( なぜなら、ひ とはそれを、まったく外的な標識によってしか区別して ないからだ ) ではないか、とすれば、真の観念をもった 或る人物は、偽の観念しかもたぬ人物に比して、実在性 と完全性の点で、なんら優れたところもないことになり はしまいか、さらに、人間が偽の観念をもつのはどこに 原因があるのか、そして最後に、ひとが対象と一致する 観念をもっているということを彼はどこから確実に知る ことができるのか、等々。 すでにのべたとおり、これらの諸疑問には、すでに答 えたと思う。なぜといえば、真と偽の観念の間の差異に ついては、第二部、定理・三五によって、真の観念の偽 のそれにたいする関係は、有の無にたいするそれだとい うことが確立されている。偽の諸原因については、定
ある。その他の欲望は、これに反して、精神が事物を不十 全にしか把握してないばあい、そうした精神だけに関係を もつ。こうした欲望のカおよび発育は、人間の能力によっ 付録 ては規定されず、むしろ私たちの外にある事物の力によっ て規定されざるをえない。したがって、前の欲望は、能動 と呼ばれるのが正しく、後の欲望には受動の名がふさわし 第四部で私が、正しい生活の仕方について報告したこと い。なぜなら、前者はつねに私たちの能力を示しているに は、一系列のうちに見わたせるようには秩序づけられてい たいして、後者は私たちの無力と不具の認識をしか示して ない。むしろ、ありていは、甲から乙を導きだしたほうが いないからである。 やさしくやれるというわけで、そのまま分散して論証され 項目三 ている。そこで、私は、、 しま、それを総括して主要項目に 還元してみようとしたわけだ。 私たちの能動、すなわち、人間の能力または理性によっ て規定される欲望は、つねに善であるが、他の欲望は、そ 項目一 れに反して、善でも悪でもありうる。 私たちの一切の努力或いは一切の欲望は、最も近い原因 項目四 としての本性だけによって認識されうるか、それとも、私 たちが、他の個体なしにそれだけでは十全に理解されぬ自 それゆえ、人生において、知性または理性をできるだけ っ然部分であるばあいに認識されうるか、そのいずれかの仕完成させることが、なかんずく有益であり、この点にこそ っ方で、私たちの本性の必然性から生ずる。 人間の最高なる幸福または福祉は成立する。なぜという に、福祉とは、神の直観的な認識から生まれる心情の満足 項目ニ 学 理 に他ならぬからだ。ところが、知性を完全化するというこ 私たちの本性から、本性を通じてのみ理解されうるよう とは、神の属性および神の本性の必然性から生する神の行 % な仕方で生じる欲望は、精神が、十全な観念から構成され為を理解するということに他ならぬ。したがって、理性に ていると考えられるばあいの精神に関係をもっ欲望なので よって導かれる人間の終極目的、換言すれば、彼が他のあ