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検索対象: 世界の大思想9 スピノザ
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1. 世界の大思想9 スピノザ

り、それの概念は、他の事物の概念から形成される必要の あるそういう他の事物の概念を必要としないようなもの、 のことである。 四属性によって私は、知性が実体について、あたかも実 体の本質を構成しつつあるものの如く把握するところのも の、を理解する。 定義 一自己原因によって私は、それの本質が、それの存在を五様態によって私は、実体の諸変容、もしくは、他者の うちに在り、それを通じても実体が把握されるもの、を理 含んでいるようなもの、もしくは、それの本性が、存在し つつあるものとしてしか考えられないようなもの、のこと解する。 を理解する。 六神によって私は、絶対に無限な有、すなわち、それの 二同じ本性の他の事物によって限定されうる事物は、自一つ一つが永遠かっ無限な本質を現わしているところの無 限な諸属性を通じて確立している実体を、理解する。 己の属しているその類のなかで有限である、といわれる。 説明 たとえば、物体は、いつも、それより大きいもう一つの物 体を私たちは考えることができるから、それゆえ有限であ 私はここで、「自己の属しているその類のなかで」 る、といわれるのである。同様に、或る思想は、他の思想 無限だといわないで、絶対に無限だという言葉を使っ カ によって限定される。これにたいして、物体が思想によっ ている。なぜかといえば、自己の属する類のなかだけ テ で無限なものは、それについて私たちは、無限の属性 = て限定されたり、思想が物体によって限定されたりはしな を否定することができる、ところが、絶対に無限なも 学いものである。 理 のの本質は、本質を表現し、いかなる否定も含まない もの、だからである。 三実体によって私は、それ自らのなかに存在し、しか も、それ自らで理解されるもののことを理解する。つま 第一部神について

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これは、第一部、公理・四からして明瞭である ( な ぜかなら、すべて結果されたものの観念は、それの原 因の認識に依存するものだからだ。 系 このことから、神の思惟する能力は、神の行為する現 実的能力に等しい、という結論が出てくる。別の言葉で いえば、およそ神の無限な本性から、形式的に生じるも のはすべて、神のうちに、神の観念から、それと同じ秩 、序、同じ結合の仕方で、客観的に生じるのである。 備考 ここで私たちは、先へ進む前に、以前説明した点をも う一度思い返してみなければならぬ。それは、無限なる 知性によって、実体の本質を形成するものと認識されう る一切は、唯一つの実体に属しているということ、した がって、思惟する実体と延長をもっ実体とは、一つの同 じ実体であり、それが或るときにはこの、また或るとき にはあの属性のもとに把握されるにすぎないのだという ことである。同様に、延長の様態とその様態の観念と は、これまた、一にして同じ事物で、ただ、二つの仕方 で表現されたものにすぎないのである。この事実は、二、 三のヘブライ人によっても、おぼろげながら、洞察され ていたようだ。というのは、こう主張しているからだ、 神、神の知性および、その知性によって認識された諸事 物、これらはすべて同じものである、とたとえば、自 然のうちに存在する円と、神のなかにもあるこの円の観 念とは、異なる属性によって説明される同一物なのであ る。だから、私たちが、自然を、延長の属性のもとに理 解しようが、思惟の属性のもとに、或いはそれとも他の 何かの属性のもとに理解しようが、いつも私たちの見い だすのは、諸原因の一つにして同じ秩序、でなければ諸 原因の一つにして同じ結合であるだろう。換言すれば、 私たちは、そこに、同じ事物が相互に継起するのを見る であろう。私が、神は、彼が思惟する事物であるばあい にかぎり、たとえば円の観念の原因であり、また彼が延 長をもつ事物であるばあいにかぎり、円の原因であると いったのは、別に他の理由からではなく、もつばらつぎ の理由によるのである。すなわち、円の観念の形相的存 在は、その最も近い原因としての思惟の様態によって、 そしてこの思惟の様態はまた他の様態によってといっ たエ合に無限に進みながら知覚されうるものだからなの である。だから私たちは、事物が思惟の様態と見なされ るあいだは、全自然の秩序または諸原囚の結合を、ただ 思惟の属性によってのみ説明しなければならないし、ま た、事物が延長の様態と見なされるあいだは、全自然の 秩序も延長の属性によってのみ説明されなければならぬ わけだ。そして、これと同じことが、他の諸属性につい ても当てはまる。それゆえ、神は、無限に多くの属性か

3. 世界の大思想9 スピノザ

われわれの知性が、実体について、その本質をなす ものとして理解するところのものこそ、とりもなおさ ず属性である ( 定義・四による ) 。したがって属性は、 それ自らによって理解されなければならぬ ( 定義・三 による ) 。 備考 このことからして明らかなことは、もし二つの属性 が、現実に相異なったものとして理解されるにしても、 換言すれば、一方が他の援助なしに考えられるにしても、 私たちは、そこから、かれらが二つの有もしくは二つの 異なった実体を構成していると推論することは断じて許 されないということである。なぜといって、実体のもっ すべての属性は、あらかじめその実体のうちにいっしょ に存在していたのであり、一つの属性が他の属性によっ て産みだされるということはありえなかった。しかし、 その一つ一つが、該実体の実在性もしくは存在を表わし ているのであるから、各属性はそれそれに、それ自体に よって理解されるということが実体の本性になっている からである。だから、一つの実体に多くの属性を考える ことはけっして不条理ではない。それどころか、あらゆ る有は、それそれある属性のもとに理解されねばならぬ ということ、そして、それが、ヨリ多くの実在性もしく は存在をもてばもつほど、それだけ多くの属性ーーこれ は、必然性すなわち永遠性と無限性を表わしているーー をもっことになる、自然のうちでこれほど明らかなこと があろうか。したがってまた、無条件に無限な有 ( 定 義・六でのべたように ) は、無限に多くの属性、その一 つ一つが、ある永遠にして無限な本質を表わしているよ うな属性、からできている有として、必す定義されなけ ればならぬーーーこれほど明白なこともないであろう。と はいえ、もしだれかが、それなら諸実体の差異は、どん な標識で知られるかと問うとすれば、かれはつぎにでて くる諸定理を読んでほしい。それらの諸定理は、自然の うちにはただ一つの実体しか存在しないこと、そして、 このような実体は無条件的に無限であること、したがっ ていうような標識を求めてもむだであろうということ、 を論証するはずである。 神は必然的に存在する。別言すれば、それぞれに永遠・ 無限の本質を表わしている無限に多くの属性からできてい る実体、は必然的に存在する。 証明 これを否定するものは、もしできるなら、神は存在 しないと考えよ。そう考えるなら ( 公理・七によっ て ) その本質は、存在を包含しないわけだ。ところ が、これは、 ( 定理・七によって ) 不条理である。そ れゆえ、神は必然的に存在している。 C ・・・

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だ。なぜかというに、そこで私たちは、神が、彼の本 証明 質の観念と同時に、その観念から必然的に生じるもの なぜなら、すべての属性は ( 第一部、定理・一〇に すべての観念をも形成しうるものであるということ より ) 他の属性の援助なしに、それ自身を通じて理解 を、神が彼の観念の対象だからではなく、ただ、神が される。それゆえ、任意の属性の諸様態は、その属性 思惟する事物であるという理由から結論している。そ の概念を包含しているが、他の属性の概念はこれを含 れゆえ、観念の形相的存在は、神が一個の思惟する事 んでいない。したがって、諸様態は ( 第一部、公理・ 物であるばあいにかぎり、神を原因と認めるのであ 四によって ) 神が、その様態をもっ属性のもとに考え る。だが、この命題は、なお他に、つぎのようにも論 られるばあいにかぎり、神を原因にもつが、神が他の 証できる。諸観念の形相的存在は ( 自明なように ) 思 属性のもとに考察されるばあいには、神を原因にもた ないのである。 C ・・・ 惟の一様態である。別の言葉でいえば、 ( 第一部、定 理・二五の系によって ) 神が思惟する事物であるばあ 系 いにかぎり、一定の仕方で神の本性を表現し、それゆ えまた ( 第一部、定理・一〇により ) 他のいかなる属 ここからして、思惟の様態でない事物の形相的存在 は、神の本性がその事物を前もって認識していたという 性 ( 神の ) 概念も含まず、したがって ( 第一部、公理・ 理由で、神の本性から生ずるのではなく、むしろ、観念 四により ) 思惟以外のいかなる属性の結果でもない一 の対象たる事物は、思惟の属性から生じるのだと私たち 様態なのだ。そこで、観念の形相的存在は、神が思惟 が説明したと同じ方法、同じ必然性でもって、事物の属 する事物と見られるばあいにかぎり、その神を原因と 性から生じそして結論されるのだ、ということがいえる 認め、そして : : : 後略、・・・ のである。 テ 定理六 定理七 学任意の属性の諸様態は、その様態をもっ属性のもとに神 諸観念の秩序と結合は、事物の秩序と結合と同じもので 倫が考えられるばあいにかぎり、その神を自己の原因にも つ。しかし、神が、何か他の属性のもとに考えられるばあある。 証明 、には、そうでない。

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らに、私は、神の永遠性を、別の仕方でも ( 『デカルト れらの属性が、存在の点で変化するとすれば、本質の点 の哲学原理』第一部、定理・一九 ) 証明したわけだ。 でも ( 前定理によって ) 変化しなければなるまい。これ が、その仕方をいまここで繰り返す必要はあるまい。 は ( 自明なように ) 真のものが偽のものになることを意 味するのであるから、いうまでもなく不条理である。 定理ニ〇 神の存在とその本質とは、一にして同じものである。 証明 神の或る属性の絶対的な本性から生ずるものはすべて、 神と、神のあらゆる属性とは、 ( すぐ前の定理によ恒常かっ無限なものとして存在しなければならなか 0 た って ) 永遠である。換言すれば、神の諸属性はそれぞし、いまもしなければならない。換言すれば、それらす れ存在を表現している ( 定義・八による ) 。それゆえ、 べては、まさにその属性ゆえに、永遠かっ無限なのであ 神の永遠なる本質を表現しているところの神的諸属性る。 ( 定義・四による ) は、また同時に、神の永遠なる存 証明 在を表現しているわけだ。すなわち、神の本質を形作 この定理を否定したいなら、そしてもしそれができ っているものこそ、同時に、神の存在を形作っている るなら、神のある属性のなかで、この属性の絶対的な のである。したがって、この神の存在と神の本質と 本性から、有限で、そして限定された存在、すなわち は、一にして同じものなのである。・・・ 限定された持続性をもっ何物か、たとえば、思惟のな かにおける神の観念といったふうのものがでてくると 考えてみるがよい。 ところで、思惟は、 ( 定理・一一 ここから第一に、神の存在は神の本質と同じく、永遠 により ) 神の一属性と考えられるのであるから、その な真理であるという帰結が生ずる。 本性上、必然的に無限なものである。しかるに、その 思惟は、それが神の観念をもつものであるかぎり、有 限のものと見なされる。ところが、思惟が有限と考え また、ここから第二に、神つまり神のあらゆる属性 られるのは ( 定義・二によって ) それが、思惟自身に は、不変であるという帰結が生する。なぜなら、もしそ よって限定されるばあいにかぎられている。しかし、

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29 倫理学 ( ェティカ ) 神の観念を構成しているかぎりの思惟によって限定さ れるのではあるまい。なぜなら、その思惟は、前提に よって、有限とされているからである。したがって、 神の観念を構成していないばあいの思惟によって限定 されるということになる。しかるに、このような思惟 は、 ( 定理・一一によって ) 必然的に存在しているは ずである。それゆえ、神の観念を構成しない思惟は存 在しており、したがって、絶対的な思惟であるかぎり の思惟の本性から神の観念は、必ずしも必然的にはで てこないことになる ( なぜなら、思惟は、神の観念を 構成しているとも、いないとも、どちらでも考えられ るからだ ) 。これは、前提と矛盾する。それゆえ、神 の観念が思惟のなかで、或いは一般的に或る何ものか が ( この証明は普遍的なものであるから、何をとろう と同じことだ ) 神の一属性のなかで、この属性の絶対 的本性の必然からでてくるとしたら、そのでてきたも のは、必然的に無限でなければならぬ。これが、第一 の要点であった。 つぎに、ある属性の本性の必然性から、上のように してでてくる何ものかは、限定された存在、すなわち 限定された持続性をもっことはできない。なぜといっ て、これを否定するつもりなら、一属性の本性の必然 性からでてくるようなもの、たとえば思惟のなかにお ける神の観念といったものが、神のある属性のなかに あると仮定してみたらよかろう。そして、このような 観念は、かって存在していなかった、或いは存在しな くなると、仮定してみたらよかろうと思う。ところが さて、思惟は、神の属性と見なさるべきものなのだか ら、 ( 定理・一一と定理・二〇の系・二により ) 必然 的なものとしても、また不変なものとしても存在して いなければならない。それゆえ、思惟は、神の観念の もっ限定された持続の外において ( この観念について は、かって存在していなかった或いは存在しなくなる と仮定されているのだから ) 、神の観念なしに存在し てなくてはならぬであろう。しかし、これは仮定と矛 盾する。などといっても、もし思惟が存在するとした ら、そこから必然的に神の観念がでてくると仮定され ていたのだから。かくて、思惟のなかの神の観念、或 いは、一般に、神の或る属性の絶対的本性から必然的 にでてくる何ものかは、限定された持続をもっことは できない。それはむしろ、神の属性を通じて永遠なの である。これが、第二の要点であった。なお、これと 同じことが、神の属性のなかで、神の絶対的本性から 必然的にでてくる一切のものについて肯定されなけれ ばならぬ、ということに、注目されたいと思う。 神の一属性が、他ならぬこの属性によって必然かっ無限

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証明 これもまた、定義・三から明らかである。という 0 は、実体はそれぞれ、自らのうちにあり、かっ、自ら を通じて考えられなければならぬものだからである。 別一言すれば、一方の実体の概念は、他の実体の概念を 包含してないからである。 定理三 互いに共通性をもたぬ二つのものの一つは、他のものの 原因であることはできない。 証明 もし、それらのものが、互いに共通性をもたないと すれば、 ( 公理・五によって ) 互いに一方を通じて他 方が認識されることもできない。したがって ( 公理・ 四によって ) その一方が、他方の原因であることは できないのである。 C ・・ 定理四 相異なる二つ、もしくは多くのものは、実体の属性の差 異によってか、でなければ、実体の諸状態の差異によって 学か、いずれかによって相互に区別される。 理 証明 およそ存在する一切のものは、自らのうちに在る か、他のもののうちに在るか、である ( 公理・一によ る ) 。ということは、 ( 定義・三と五によって ) 知性の 外には、諸実体および諸実体の諸変容をのそいて何物 も存在しない、ということである。それゆえ、知性の 外には、諸実体、或いは同じことだが ( 定義・四 ) 、 それらの属性と諸変容のほかに、多くのものを互いに 区別することのできる何物も存在しないのである。 定理五 自然のうちには、同じ本性もしくは同じ属性をもっ二 つ、または、多くの実体というものはありえない。 証明 かりにもし、 ( 同じ本性、同じ属性をもっ ) 多くの 異なる実体があるとしたら、それらの諸実体の相互に 区別される所以は、彼らの諸属性の差異によるか、彼ら の諸変容の差異によるか、そのいずれかでなければな るまい ( 前定理による ) 。けれども、もし、諸属性の 差異によって区別されるとすれば、同じ属性をもっ実 体は、一つしか存在しないということが容認されるわ けである。また、もし、諸状態の差異によって区別さ れるとすれば、実体はその本性上、変容に先立っ ( 定 理・一 ) のだから、状態を度外視し、実体そのものを 観察しなければならない。つまり ( 定義・三、公理・ 六によって ) 実体を、その在りのままに考察しなけれ

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も、神こそが、自らの本性の必然性ゆえに ( 定理・一一ゆく。 五と一六による ) 作用因なのである。これが、第一の 要点だった。 : 、 カここから、この定理の第一一部分もま た、きわめて明瞭にでてくる。なぜなら、神によって 決定されていない事物が、もし自己自身を決定しうる としたら、この定理の第一部分は誤りとなるわけであ る。が、私たちがすでに明らかにしたように、これを 誤りとするほうが不条理である。 定理ニ七 或る作用をするように神から定められた事物は、自己 を、決定されていない情態にもどすことはできない。 証明 この定理は、公理・三から明らかである。 すべての個物、換言すれば、有限で、限定された存在し かもたぬところの事物は、同様に有限で、限定された存在 性しかもたぬ他の或る原囚によって、存在し作用するよう に決定されぬかぎり、存在にも作用にも決定されること はありえない。そして、この原因もまた、同様に有限で、 限定された存在しかもたぬもう一つ他の或る原因によっ て、存在と作用に決定されぬかぎり、これまた存在にも作 用にも決定されえないのである。こうして、無限に進んで 証明 存在し作用するように決定されているものは、神か ら、そう決定されているのである ( 定理・二六およ び、定理・二四の系による ) 。しかるに、有限で、限 定された存在しかもたぬものは、神の属性の絶対的本 性から産みだされたものではありえなかった。なぜと いって、神の属性の絶対的本性から生ずるものは ( 定 理・二一によって ) 無限であり永遠であるからだ。そ れゆえ、存在し作用するように決定されているもの は、或る様態によって変容されたと見られるばあいの 神、すなわち神の属性から生じたものでなければなら なかった。というのは、 ( 公理・一と定義・三および 五によって ) 実体および様態以外には何物も存在せ ず、かっ、 ( 定理・二五の系によって ) 様態とは、神 の属性の変容に他ならない。しかるに、永遠かっ無限 な変容によって変容されたばあいの神、すなわち神の 属性から、それは生じたものではありえなかった ( 定 理・一三による ) 。それゆえ、それは、有限で限定さ れた存在しかもたぬ変容によって変容されたばあいの 神、すなわち神の属性から生じたもの、すなわちその 属性によって存在と作用とに決定されたもの、でなけ ればならなかった。これが第一の要点であった。 さらに、 この原因またはこの様態もまた ( 私たち

9. 世界の大思想9 スピノザ

152 は出てこない。そこで、こうした意識の原因をもいっ しょに含めるために「人間の本質が、本質に与えられ たすべての変容によって決定されているばあいのーと いう条件を付加する必要があったのである ( 同定理に よる ) 。なぜかというに、人間本質の変容というのは、 一般に、本質のあらゆる状態のことだからなので、そ れが生得的のものであろうが後天的のものであろう が、或いは単に思惟の属性として考えられようが単に 延長のそれとして考えられようが、或いはまた同時に 二つの属性と関係するものとして考えられようが、そ ういうことはどちらだっていい。 ゆえに私は、欲望と いう言葉で、人間の一切の努力、一切の衝迫、一切の 衝動、一切の意志昻動を理解する。これらは要するに 同一人間の異なった状態に対応して異なれるものとな ったのであり、往々にして同一の人間をさまざまの方 向に引きよせ、どこへ行こうかに迷わせるほど相互に 対立しあうばあいもあるのだ。 一一喜びとは、人間が小さな完全性からョリ大きな完全性 へと移ることを意味する。 三悲しみとは、人間が大きな完全性からョリ小さな完全 性へ移ることを意味する。 説明 私は、ここに移り行きという言葉を使っている。な ぜかというに、喜びが完全性そのものなのではないか らだ。もし人間が、そこへ移行するはずの完全性を生 まれながらにもっているとしたら、彼は、喜びの感情 もなしにそれを所有しているわけだ。この事情は、喜 びに対置される悲しみの感情を見ればいっそうはっき りする。な。せかというに、悲しみは、ヨリ小さい完全 性への移り行きのうちに成立するもので、ヨリ小さな 完全性そのもののうちに成立するものではないという ことを否定できるものはないはすだからだ。人間は、 何かの完全性に参与してさえいれば、そのかぎりは、 悲しみを感ずるなどという気分にはならないのであ る。また、悲しみはヨリ大きな完全性の欠乏によって 成立するなどともいわれない。欠乏は無に他ならない ; 、悲しみの感情は実在の現象の一つだからだ。ゆえ に悲しみの感情は、ヨリ小さな完全性へ移る現象、換 言すれば、人間の作用能力を、減退させたり阻止した りするところの現象に他ならない ( 第三部、定理・一 一の備考を見よ ) 。 快活、快感、憂愁および苦痛の定義はのべないでお く。これらの諸感情は主として身体に属し、いわば喜 びまたは悲しみの或る種類にすぎないからである。 四驚嘆とは、ある事物の表象が特殊なもので他の表象と

10. 世界の大思想9 スピノザ

に存在する変容性に変容されるかぎりは、その属性から生 ずるものはすべて、これまた必然かっ無限に存在しなけれ ばならぬ。 この定理にたいする証明は、前定理にたいするそれ とまったく同様に行なわれるであろう。 必然かっ無限に存在する様態のすべては、神の一属性の 絶対的本性から必然的に生じたものであるか、或いは、必 然かっ無限に存在する或る変容性によって変容せしめられ た或る属性から必然的に生じたものであるか、そのいずれ かである。 証明 なぜといって、様態は ( 定義・五により ) 他者のう ちに在り、その他者を通じて理解されなければなら ぬ、換言すれば、 ( 定理・一五により ) 様態は、ただ 神のうちにのみ在り、ただ神を通じて理解されうるの である。したがって、もし、様態は、必然的に存在し かっ無限なものとして考えられるとすれば、必然と無 限というこの二つのことは、無限性と、存在の必然性 すなわち永遠性 ( これは存在の必然性と同じである。 定義・八による ) とを表わしていると考えられるかぎ りの、換言すれば、 ( 定義・六、定理・一九によって ) 絶対的な仕方でみられるかぎりの神の或る属性を仲立 ちにして必然的に、結論もしくは認識されるはずのも のでなければならない。それゆえ、必然かっ無限に存 在する様態は、神の或る属性の絶対的本性から生じた ものでなければならぬ。しかも、生するにあたって は、直接的にか ( これについては定理・二一をみよ ) 、 でなければ、属性の絶対的本性から生ずるところの或 る変容性、換言すれば、必然かっ無限に存在するとこ ろの変容性 ( 前定理による ) の仲立ちによって間接的 にか、どちらかによったのである。・・・ 定理ニ四 神から産出された諸事物の本質は、存在を包含していな 証明 これは、定義・一からして明瞭である。というの は、その本性 ( それ自体として考察された ) が存在を 包含しているような事物は、自己原因であり、みずか らの本性の必然性によってのみ存在しているものなの だからだ。 系 以上からでてくる帰結は、神は単に、事物が存在し始 めるための原因であるばかりではなく、事物がその存在