ればならない。 つまり、精神のうちに、観念が観念であ るかぎりは自らのうちに含んでいる肯定または否定の外 になお別の肯定または否定があるかどうかを検討しなけ ればならぬと私はいっているのである。これについて は、つぎの定理ならびに、第二部の定義・三を参照し て、思惟が画に陥らないようにしてもらいたい。という のは、観念という言葉で私の理解しているのは、眼底 に、といって悪ければ、頭脳のまっただ中にといっても ししが、ともかく、そういうところに築きあげられるよ うな表象像ではなく、思惟の概念だからだ。 定理四九 精神のうちには、観念が観念であるかぎり自己のうちに 含んでいるところの意志昻動または肯定および否定の外 にいかなる意志昻動もなく、また肯定も否定もない。 証明 前定理によって、精神のうちには、意志したり、意 志しなかったりするための絶対的な能力はない。むし ろ在るのは、個々の意志昻動、すなわち、これまたは かの肯定および、これまたはかの否定だけである。そ こで私たちは、一つの個別的な意志昻動、たとえば、 精神がそれによって、三角形の三つの角の和は一一直角 に等しいということを肯定するところのあの思惟の様 態を考えてみるとする。この肯定は、三角形の概念ま たは観念を自らのうちに含んでいる。つまり、三角形 の観念なしには、この肯定は考えられない。なぜかと いうに、私が、は概念を含まなければならぬとい うのと、 < はなしには考えられぬというのは同じこ とだからである。つぎに、この肯定は ( 第一一部、公理・ 三によって ) 、三角形の観念なしには存在することも できない。それゆえ、この肯定は、三角形の観念なし には、存在することもできず、考えられもしないので ある。 つぎに、この三角形という観念は、これと同じ肯 定、すなわちその三つの角の和が一一直角に等しいとい う肯定を自らのうちに含まねばならぬ。したがって、 また、逆に、三角形の観念は、この肯定なしには、存 在もできず、考えられもしない。それゆえ、この肯定 は ( 第一一部、定義・二により ) 三角形の観念の本質に 属し、その観念とならぶところの別の何ものかではな い。さて、私たちが、こうした意志昻動について語っ たことは、同様に一切の意志昻動についても当てはま る ( というのは、私たちはここで任意に、意志昻動の 例を選びだしたから ) 。すなわち、意志昻動とは観念 以外の何ものでもないと。 C ・・・ 系 意志と知性とは同じ一つのものである。
91 倫理学 ( ェティカ ) らして、たいていの論争は、彼らが他人の精神を正しく 表わさないか、相手の精神を誤って解するから起こるこ とが分る。なぜというに、もし彼らが、互いにはげしく 対立しあうばあいでも、実際には、まったく同じことを 考えているか、でなければ、全然ちがったことを考えて いるかであり、したがって、彼らが相手の誤謬または不 条理と考えているところも、事実はそうでないことがあ・ るからだ。 定理四八 精神のうちには、絶対的な、或いは自由な意志というも のはない。むしろ精神は、或る原因によって、これこれを 意志するように決定されている。そして、この原因は、こ れまた他の原因によって決定されており、これはまた再び 他から決定されるといったエ合で無限に進む。 証明 精神は、 ( 第一一部、定理・一一により ) 思惟の確実 かっ特定な様態であり、したがって ( 第一部、定理・ 一七の系・二により ) 自己の活動にたいする自由な原 因ではありえない。換言すれば、精神は、意志するた めの、また、意志しないための絶対的能力をもちえな 、 0 むしろ、これこれのことを意志するためには、精 神は ( 第一部、定理・二八により ) 或る一つの原因に よって決定されなければならぬ。しかし、この原因は また他の原因に決定され、この原因もまた再び他の原 因からというふうに無限に進む。 c ・・ A ・ 備考 同じようにして、精神のうちには、認識し、欲求し、 愛する、等々の絶対能力はないということが証明され る。ここから、これらならびにこれと似た能力は、純然 たる構想物であるか、でなければ私たちが普通、個別的 なものから構成するに慣れている形而上学的有または普 遍概念以外の何ものでもないということが帰結される。 したがって、知性および意志の、しかじかの観念または しかじかの意志昻動にたいする関係は、「石というもの」 が、かれこれの石にたいする関係、または「人間」が、 。へトルスや。ハウルスにたいする関係と同様である。が、 人間がなぜ、自己を自由と考えるかについては、第一部 の付録のところで説明した。 しかし、先へ進む前に、私はここで、意志を、肯定ま たは否定する能力と考え、精神がものを望んだり嫌った りする欲望のことを考えているのではないということを 注意しておきたい。ところが、すでに私たちは、これら の諸能力が普遍概念であり、かっ普遍概念は、そこから 私たちが普遍概念を構成するところのその個物と、別に 異なるところのないものであることを証明したのである から、以後はむしろ、個々の意志昂動が、諸事物の観念 とは異なる何か特別なものであるかどうかを検討しなけ
まざまな態度をとる。そして、動物精気をここまで駆りたの腺連動を、別の思想と結びつけることも習慣によってで てたさまざまな外部対象のさまざまな痕跡が、腺の上に刻 きなくはない。 これを彼は『情念論』第一部、第五〇節で みつけられる。その結果、これこれの刺激を受けた動物精論証しようと試みている。 気によって、腺がすでに一度つれてこられたことのあるこ 要するにデカルトは、以上によって、。 とんな精神も、指 れこれの立場へ、こんどは精気にかわって精神の意志が導さえ誤らなければ、その受動態 ( 情念 ) にたいして、絶 なぜなら意志は腺をさまざまに動かしうるのだから対的な支配権力をえられないほど非力ではないと結論する 腺を動かすとすれば、腺は、精気が前に腺の位置からわけだ。なぜというに、情念は、彼の定義によれば、「知 押しかえされたと同じ方法で、精気を押し動かし、そして覚、或いは感覚、或いは精神の運動であり、これらはもっ 精気の動きを指揮するようになる。 ばら精神と関係する。のみならず、これらは ( よく注意さ さらにまたデカルトの意見では、精神の個々の意志は、 れよ ! ) 動物精気の或る運動によって産出され、維持さ 本性上、松果腺の特定運動と結びついているという。たとれ、そして強化される」ものなのである ( 『情念論』第一 えば、或る人が、遠方にある或る対象を眺めようという意部、第二七節参照 ) 。ところで、さらに彼の意見によれば、 志をもったとすれば、この意志は、瞳孔が大きくひらくよ私たちは、松果腺の、したがってまた動物精気の運動な うに作用するわけだ。ところが、彼の考えによれば、瞳孔 ら、任意に意志と結びつけることができ、しかも意志の決 を拡大しようと考えるばあい、その意志をもつだけでは何定は、もつばら私たちの権能に依存しているのであるか にもならない。なぜなら、われわれの自然は、動物精気をら、もし私たちが、日常行為の規準としている一定の規 督励して、瞳孔が開いたり、つぼんだりするように視神経 則、確実かっ堅固な判断にしたがって、意志を決定し、こ を作用させる役目をもっ腺運動と、瞳孔を開かせたりつぼ の判断と、私たちがもちたいと思う情念の運動とを結びつ ませたりする意志とを連結させないで、むしろ、遠くの或けるならば、私たちは、自分の情念にたいして絶対的支配 いは近くの対象を見ようとする意志のほうにそれを連結さ権を獲得することができるだろう、というのだ。 せてしまっているからだ、というのである。 最後にもう一度彼の意見によれば、この腺のあらゆる運 以上が、かの高名な人士の見解である ( もっともこれ 動はそれそれ、私たちの生まれたとき以来、私たちの思想は、私が彼の言葉から読みとった限りでの話だが ) 。とこ と自ら結合されているように見えるけれども、実際は、こ ろが、もしこの見解が、もう少し不手際にのべられていた
の無限かっ永遠な本質を表わす一属性をもつものとし て決定しているのである ( 定理・二三による ) 。それ ゆえ、意志は、たとえどう考えられようと、無限であ ろうとなかろうと、 いかなるばあいも、存在し作用す るように決定するところの原因を必要とする。したが って意志は、 ( 定義・七によって ) 自由な原因とは呼 ばれえず、ただ必然的原因、もしくは、強された原 因としかいえないのである。 C ・・・ 以上から第一の帰結として、神は、意志の自由によっ て行為するものではない、ということがでてくる。 また、第二に、意志ならびに知性が、神の本性にたい する関係は、運動ならびに静止、一般的にいえばなんら かの仕方で存在し作用するように神から決定されなけれ ばならぬ一切の自然物 ( 定理・二九 ) が、神の本性にた いする関係と同様だ、という帰結もでてくる。なぜかと いうに、意志は、他のあらゆるもの同様、なんらかの仕 方で存在し作用するように決定を与えてくれる原因を必 要とするからだ。そして、たまたま或る意志または知性 から、無限に多くのものが生じるにせよ、だからといっ て私たちは、神が、意志の自由によって行為したとはい 諸事物は、それらが現に産出されてしまっているとは別 の仕方、別の秩序で、神から産出されるようなことは、断 じてありえなかった。 証明 すべての事物は、神の与えられた本性から必然的に 生じたもの ( 定理・一六 ) であり、かっ、神的本性の 必然性によって ( 定理・二九により ) 、なんらかの仕 方で存在し作用するように定められている。したがっ て、もし諸事物が、現在とは異なった性質のものであ ったり、異なった仕方で作用するように決定されたり して、その結果、自然の秩序までが異なった秩序にな るようなことがあるとしたら、神の本性もまた、ただ いえないのである。これはあたかも、神が、運動と静止 から生じたものゆえに ( これからもまた無限に多くのも のが生じる ) 、運動と静止の自由によって行為したとは いえないようなものだ。したがって、意志は、他の自然 物同様、もはや神の本性には属せず、むしろ、神の本性 にたいしては、運動と静止および、すでに上で説明した ように、神的本性の必然性から生じなんらかの仕方で存 在し作用するように決定されているもの一切が、神の本 性にたいして立っ関係と精確に同じ関係に立つのであ る。
るだろう。そして、もし神に別の意志、別の知性を帰す ることが許され、しかも、そのために、彼の本質や彼の 完全性が、いささかも変化を受けないとしたら、神が被 造物についてもっていた決意をいま変更してもなお依然 として完全たりえない理由があるだろうか。なぜなら 被造物およびその秩序に関連して、神の知性、神の意志 が、どう考えられるかは、神の本性と完全性にとっては 影響はないからである。 それからなお、私の知っている哲学者たちはだれも、 神のうちには可能的知性はなく、在るのはただ現実的知 性ばかりだということを容認する。しかし、彼らも、ま た認めているように、神の知性も意志も、神の本質から 区別されないものなのであるから、もし神が、他の現実 的な知性や他の意志をもっとしたら、神の本質もまた必 然的に別の本質であることになる。また、もし諸事物 が、現にいま在るとは別な仕方で神から創造されたとす れば、 ( 始めから私が推論していたように ) 神の知性も 意志も、換言すれば ( 一般に容認されているように ) 神 カ の本質はいまとは別のものでなければならないことにな テ 工 る。こんな条理に合わぬことはないのである。 学 かくして、諸事物は、神から、他のいかなる方法によ 理 倫 っても、また、他のいかなる秩序のなかにも創造されえ なかったのであり、しかも、この命題の真理は、神の最 高完全性から結論されているのであるから、神は、彼の ( 四 ) 知性のうちにあるすべてを、彼がそれを認識すると同じ 完全さで創造する意図を、必ずしももってなかったよう に私たちを説得することは、健全な理性ならできるわけ はないのである。 ところがさてそうなると彼らはまた主張する、諸事物 のなかには、完全性も不完性もない、なかに在って、事 物を完全もしくは不完全ならしめ、事物を善もしくは悪 と呼ばしめるものは、もつばら神の意志にかかる、した がって、神は、もし欲すれば、いま完全であるものがご く不完全になり、いまごく不完全であるものが完全にな るよう作用することもできるだろう、と。ところが、こ う主張することは、とりもなおさず、神は、彼の意図す るところのものを必然的に認識しているから、彼の意志 を働かせて、現にかれが認識しているとは別の方法で事 物を認識するようにすることもできるのだ、ということ を公然と肯定するに他ならない。が、これは ( ついいま しがたのべたとおり ) 不条理きわまる話である。そこで 私は、彼らの論拠を、彼ら自身に向け、こう主張するこ とができる。いわく、一切は神の力に依存する。したが って、もし諸事物が、他の態度をとりうるにしても、そ れには、必然的に神の意志もまた別の態度をとるのでな ければなるまい。しかるに、 ( すぐ前に、神の完全性を 根拠にして、ごく明瞭に説明したとおり ) 神の意志は、 別の態度をとることはできぬ。したがって、諸事物もま
35 倫理学 ( ェティカ ) 実において有限であれ無限であれ、神の諸属性と神の 諸変容とを把捉すべきであり、それ以外の何物も把捉 すべきではないのである。 C ・・・ 定理三一 現実に働いている知性は、それが有限であれ無限であ れ、意志や欲望や愛などと同じように、所産的自然に数え らるべきであり、能産的自然に数えらるべきではない。 証明 なぜなら、私たちが、知性の下に理解するのは、絶 対的な思惟のことではなく、むしろ、欲望や愛のよう な他の様態とは区別されるところの思惟の一様態のこ とにすぎない ( これは、直接明瞭だ ) 。つまり、絶対 的思惟を通じて把捉されなければならぬ様態 ( 定義・ 五による ) にすぎない。さらに換言すれば、 ( 定理・ 一五、定義・六により ) 思惟の永遠かっ無限なる本質 を表現する神の或る属性を通じて把捉せらるべき様 態、しかも、その属性なしには、存在もできず考えら れもしないところの様態であるにすぎないのである。 それゆえ、知性は ( 定理・一一九の備考によって ) 所産 的自然に数えらるべきであり、能産的自然に数えらる べきではないのである。これは、思惟の、他の諸様態 についても同断である。 C ・・ A ・ 備考 私が、なぜここで、現実の知性を問題にするのか、と いえば、それは、私が、単に可能性でしかないような知 性を容認しているからではない。むしろ、一切の混乱を さけるために、非常に明瞭に知覚されるもの、すなわ ち、知るというそのことにかんして以外には語りたくな かったからである。けだし、知るということ以上に明瞭 に知覚されているものはあるまい。なぜといって、私た ちは、知るということについての認識をョリ完全にする ために役立たないような何物も理解することはできない わけだからだ。 私たちは、意志を自由な原因と呼ぶことはできない。で きるのは、ただ必然的な原因、とだけである。 証明 意志は、知性と同様に、思惟の或る様態にすぎな したがって、 ( 定理・二八により ) 個々の意志昻 動は、他の原因によって決定されなければ、存在する ことも、また作用するように決定されることもできな 、。そして、この原因もまた他の原因から決定され、 かくて無限に遡るであろう。もし、意志を無限である と仮定しても、その意志はやはり、神から、存在し作 用するように決定されなくてはならぬ。しかも、その ばあい、神は絶対に無限な実体としてではなく、思惟 ( 三 )
りのものと、一姿 Q が、この種の会議体の力はそれと反対に、 。民衆は審議にあずかることも票決に加わることも認め つねに同一不変である。第四に、一人の人間の意志はきわられていないのだから。それゆえ、貴族制が実際上は絶対 めて変わりやすく不安定であり、このため ( 前章の一節で的なものでない理由としては、民衆が支配者たちによって くらかの自由を手のう 言ったように ) すべての法が王の明示した意志であるに怖れられており、ために民衆が、い しても、逆に王のすべての意志が法であるというわけにはちに残していて、それを、はっきりした法律によってでは ゆかぬのであるが、充分な大きさの会議体の意志についてないが、暗黙の一致によって、擁護し確保している、とい 同じようなことを言うことはできない。なぜなら、会議体うことのほかにはありえないのである。 自身は ( いまさき示したように ) 顧問官などを少しも必要 五 としないゆえ、それの明示したすべての意志が必然的に法 でなければならぬからである。かくて私は結論する、充分 こういう次第であるから、貴族制のあり方が最善のもの な大きさの会議体にゆだねられている統治権は絶対的なも となるのは、それが絶対制に最も近づくように組織された の、あるいはそれにきわめて近いものである、と。なぜな 場合であることは明らかである。すなわち、民衆ができる ら、絶対的な統治権というものが存在するとすれば、それ だけ恐怖の的とならず、かつまた、国家の政体そのものに はまさしく、民衆全体によって堅持されている統治権なのよって必然的に配分されねばならぬ自由だけをしか保有せ であるから。 ず、したがってこの自由も民衆の権利というよりはむしろ 国家全体の権利であり、もつばら選良たちによってわが物 として擁護され維持される、といったぐあいに組織された しかし、このような貴族制は、その統治権が ( いまも示場合のことなのである。こういうふうにすれば実際が理論 されたように ) 決して民衆のもとに立ち返らず、かつまた と最もよく一致することは、前節から明らかであり、また 論 そこでは、民衆になんの相談もかけられず、会議体の意志 ことがら自体によっても明白である。なぜなら、庶民が自 がすべて無条件に法とされるというふうであるかぎり、全己のために擁護するところの権利ーー低ドイツにおいて、 く絶対的なものと見なすべきである。したがって、そうい ふつうギルドの名で呼ばれる、職人たちの組合が、たいて 5 う貴族制の基本法は、もつばら会議体の意志と判断とにも い所有しているような諸権利・ーーが多ければ多いほど、選 とづくべきであって、民衆の監視などに依存してはならな良の手中にある支配権がそれだけ少なくなるということ 四
だ。たとえば、翼をもっ馬を想像しているひとは、だか らといって、そういう馬の実在することを認めているわ けではあるまい。換言すれば、彼は、まだそのために誤 っているのではなく、もし誤るとすれば、彼が翼のある 馬の実在をも同時に容認したばあいの話なのだ。こうい うわけで、意志または同意の能力は自由であり、知性の 能力とは区別されるということほど経験に訴えて明白な ことはないように思われる、と。 第三に、 こういう非難もある。どこから見ても、或る 肯定が他の肯定より余計に実在性をもっているとは見え ない。ということはとりもなおさす、われわれはどこか ら見ても、真なるものを真として肯定するのに、偽なる ものを真として肯定する以上の能力を必要とするとは思 えない、ということだ。これに反して、われわれは、一 つの観念が、他の観念より、ヨリ多くの実在性または完 全性をもっているということなら大いによく分る。なぜ というに、或る対象が他より価値が多いばあい、その多 さの程度だけ、前者の観念は後者の観念よりョリ完全だ カ からである。ここからしても知性と意志との区別はでて テ 工 くるように思われる、と。 学第四に、またこういう非難もある。もし人間が意志の 倫自由から行動するものでないとしたら、どういうことに なるだろう ? たとえば彼が、・フリダンの驢馬のよう ( 九 ) に、どっちつかずの状態におかれるとしたら ? 彼は、 空履と渇のために死んでしまいはしないだろうか ? も し私が肯定してその人間は死ぬといえば、ひとびとはい うにちがいない、君の考えているのは生きた人間のこと じゃなくて、おそらく驢馬か人間の彫物のことでも考え ているのだろうと。ところが、もし私が否定して、その 人間は死なないというなら、それにたいしてはすぐこう いわれるにちがいない、そんならその人間は自分で自分 を決定しているのだ、だからその人間は歩いてゆく能力 と、彼が欲したところをなす能力をもっているのだ、 と。 これ以外にも、おそらくなお別の反対論をもちあげる ことはできよう。しかし、私は、ひとが勝手に夢みてい るものをみんなここへもちださなければならぬというほ どの義務は感じない。そこで、ここに引用した反対論に たいしてだけ答弁を試みよう、ができるだけ簡潔にであ る。 まず第一の反対論にかんしていえば、ひとが知性を、 明晰かっ判明な観念だと了解するかぎり、知性より意志 のほうがおよぶ範囲が広いという点は認める。しかし、 意志が、知覚または把握能力より遠くにおよぶという点 は反対する。また、何ゆえに、意志能力が、感覚能力よ り、無限といわれるに値するか、この点も私には呑みこ めない。なぜかといえば、私たちは、無限に多くのもの を、同一の意志能力で肯定しうるように ( といっても順
順にである、なぜなら、そんな無限に多いものを一挙に 肯定することはできないから ) 、また無限に多くの物体 を ( もちろん順々に ) 同じ感覚能力で感じたり知覚した りできるからだ。これにたいして、彼らがもし、われわ れの知覚しえない無限に多くのものがあると反駁してく るなら、私は答えよう、まさにそれこそ、私たちが、い かなる思惟をもってしようが、したがってまたいかなる 意志能力をもってしようが到達できないところのものな のではないかと。が、彼らはさらに反駁するだろう、も し神が、これらをもわれわれに知覚できるようにしてく ださるお思召しなら、われわれにとっていまより大きい 知覚能力こそ必要なれ、もっと大きな意志能力を恵まれ る必要はさらにおありなさるまいにと。ところが、これ を換言すればこうなる、もし神が、われわれに他にも無 限に多くの存在物を認識できるようにしてやろうと考え るなら、われわれが、それらを把握するために現在もっ ている以上の知性を神がわれわれに与える必要はあるか もしれない、が、存在物についてのもっと広汎な観念は これを与える必要がないのだ、と。なぜというに、私こ ちのすでに明らかにしたところによれば、意志とは、一 般的な有、もしくは私たちがそれを用いて一切の個々の 意志昻動 ( すなわち、すべての個々の意志昻動に共通な 要素 ) を説明するところの観念に他ならないからであ る。もし反対者たちが、あらゆる意志昻動に共通な、或 いは普遍的なこの観念を、一つの能力と考えるならば、・ 彼らがさらに、この能力は知性の限界をはるかに超え、 無限にわたると主張したとてなんの不思議があろう。な ぜなら、普遍的なものなら、一個体についても、多くに ついても、はたまた無限に多くの個体についても、平等・ に妥当するのが当たりまえだからだ。 第二の非難にたいしては、私は、私たちの判断を差し ひかえる自由な能力を否定することをもって答える。と いうのは、もし私たちが、だれそれが自分の判断を差し ひかえたというとすれば、それは、彼がことがらを十全 に知覚してないことを彼は気づいているというに他なら ないからだ。判断の抑制は、したがって、実際には一種 の知覚なのであり、けっして自由な意志なのではない。 これをはっきり洞察するために、たとえば、翼のある馬・ を表象していて、他には何も知覚してない少年があると 想像してみよう、この表象は ( 第一一部、定理・一七の系・ によって ) 馬の存在をうちに含んでおり、少年は、その - 馬の存在を止めさせるなんらかの知覚ももってはいない のであるから、少年は当然、その馬を現在眼の前にいる ものと考え、その存在については確実でないにもかかわ らず、ともかく存在について疑うことはできまい。私た ちは、この種のことを実際、毎々夢のなかで経験してい る。そして、ひとは夢みているあいだ、夢のなかの像に 反対して判断を差しひかえ、現に夢のなかで見ているも
らざるものであるはすなのに、一般には全然知られない ままになっているからである。彼らは例外なく、観念と いうものは、物体の影響によってわれわれのなかに成立 する表象像からできていると決めこんでいるので、私た ちに想像もできぬような事物の観念は観念でない、むし ろ観念とは、私たちが勝手気ままに構想できる表象像の ことにすぎないのだと、確く信じて放さない。だから、 そういうひとたちは、観念を、あたかもカイハスに塗ら れた語らざる画のようなものと考えており、こんな偏見 の虜になっているので、観念がまさに観念であるかぎり は自らのうちに肯定と否定とを含んでいることなど気づ くはすはないのである。つぎに、観念または観念に含ま れている肯定を、言葉と混同しているひとたちは、彼ら が実際感じているところに逆って、ただ言葉のうえで然 りとか否とかいいさえすれば、彼らが実際感じているも のに逆ってでも、何かを意欲することはできるのだと信 じて疑わないのである。 しかしながら、この種の偏見は、延長の概念を微塵も 含まない思惟というものの本性に注意しているひとな ら、だれでも容易に却けることができる。この注意さえ 怠らなければ、観念は ( 思惟の一様態なのだから ) 事物 の表象像によっても言葉によっても形作られるものでは ないという事情をはっきり認識するに至るであろう。な ぜかといえば、言葉と表象像の本質は、思惟の概念を全 然含んでいない単なる身体の運動によって形作られるも のにすぎないからだ。 が、これらの点については以上二、三の注意で充分で あろう。そこで今度は、予告しておいた諸々の反対論の ほうへ移ることとする。 反対論の第一は、意志は知性より活動の範囲が広い、 だから、意志と知性とは別物だということを既成事実と して信じこんでいる。ところが、意志は知性より広きに . およぶと信じるに至った理由というのがこうなのであ る。われわれ自らの経験の教えるところによれば、と彼 らはいうのであるが、われわれが現在ちっとも知覚して いない無限冫 こ多くの事物に同意するためには、われわれ が現にもっているよりもっと大きな同意能力、または ~ 日 定および否定の能力は必要としない、が、それにはもっ と大きな知性能力は必要だろう。したがって、意志と知 性とは、知性は有限で意志は無限だということによって 区別されるのだ、と。 第二に、ひとびとはこう私たちを非難することがあ る、われわれは、われわれの判断を差しひかえ、知覚し つつある事物に同意を与えない能力をもっている、経験 によってこんな明白なことはないと思われる。これはま た、何かを知覚するかぎりひとは誤る、とは一般にいわ れないで、同意または非難をいい現わすからこそ誤る、 といわれているところから見てもたしかめられること ( 八 )