193 は ( 第四部、定理・四の系によって ) 人間の能力または 徳を遙かに上廻る感情 ( 第四部、定理・六による ) に屈 従せしめられているので、しばしばあらぬ方向へと引 きずられ ( 第四部、定理・三三による ) 、実際は、相互 扶助が欠くべからざるものなるにもかかわらず ( 第四 部、定理・三五の備考による ) 互いに反目しあっている というのが実情なのである ( 第四部、定理・三四によ それゆえ、人間が一致協同して生活し、相互に扶けあ えるためには、彼らが自己の自然権を断念し、互いに安 心しあい、他人の害になることは一切しないような人に なることが必要だ。しかし、いったいどうすれば、感情 に隷属する人間たち ( 第四部、定理・四の系による ) 、 したがってまた不安定で変りやすい人間たち ( 第四部、 定理・三三による ) が、互いに保証を与えあい、互い に信頼を示しあうようにすることができるか、これは、 第四部、定理・七および第三部、定理・三九から明らか になると思う。つまり、或る感情は、それと矛盾するヨリ 強力な感情によってしか阻止されないということ、また、 人間はだれしも、自分がヨリひどい損害を受けることが 恐いので、他に損害を与えようとしても、これを思いと どまるものだということ、などが分れば、ここから説明 がつくであろう。そこで、社会は、こういう法則にした がって始めて確定されうるわけであるが、しかしそれに は、社会が、各人の有する復讐の権利と、善悪を判断す る権利とを自らに取りもどし、これによって社会自身が 共通の生活方式を規定し法律を制定する権利を手中に収 め、感情を阻止することのできぬ理性 ( 第四部、定理・ 一七の備考による ) によってではなく、刑罰の威嚇によ ってこの法律や生活方式を確固不動のものとするように しなければならぬのである。自己の法律と自己保存力と によって確立した社会を国家という。そして、国家の権 能によって保護される者を市民と呼ぶ。ここから私たち は容易に、自然的状態のなかには、万人の一致によって 善または悪と見なされるような何ものも存在しないもの であることを理解する。なぜなら、ひとが自然的状態に あるばあいには、もつばら自己の利益のみを計り、ただ 自己の利益という見地から、思うがままに善悪を決定 し、 いかなる法律をもってしても自己以外の他人に服従 すべく義務づけられないからである。だから、自然的状 態では、犯罪は考えられない。それが考えられるのは、 一般的合意によって善悪が決定され、各人が国家に服従 するように義務づけられるところの国家的状態において である。それゆえ、犯罪とは、不服従のことに他なら ず、したがってそれは国家の機能によってのみ罰せられ る。それに反して服従は、市民の功績に算えられる。な ぜなら、市民は、まさに服従によって、国家の利益を受 けるに値するものと見なされるからである。
186 他のいかなる原理も考えられす、また、もしこの原理が しつつあるのである。 C ・・・ なけれ、 をいかなる徳も考えられないからである ( 第四 定理ニ四 部、定理・二一による ) 。 絶対に徳を基にして行為するということは、われわれ人 間においては、理性の導きにしたがいながら、自己の利益 人間が、不十全な観念をもっているために、或る行為を追求を根底として行為し、生活し、自己の有を保持する しなければならぬとすれば、そのかぎり、彼が徳を基にし ( 三つは同一のものだ ) こと以外の何ごとでもない。 証明 て行為しているのだとは本当ならいいえない。そういえる のは、彼が認識を通じて決定されているばあいにかぎるの 絶対に徳を基にして行為するということは ( 第四 である。 部、定義・八による ) 自己の本性の法則にしたがって 行為するということである。しかるに私たちの行為す 人間は、彼が不十全な観念をもっているために行為 るのは ( 第三部、定理・三により ) ただ私たちが認識 しなければならぬとすれば、そのかぎり、他から働き をもっているばあいにかぎられている。それゆえ、徳 かけられているのだ ( 第三部、定理・一による ) 。す を基にして行為するということは、私たち人間では、 なわち ( 第三部、定義・一および二により ) 彼は、た 理性の宰領にしたがいながら、しかも自己の利益追求 だ彼の本質によるだけでは理解されぬ何ごとかを、つ を土台にして ( 第四部、定理・二二の系により ) 行為 まり ( 第四部、定義・八によれば ) 自己の徳からは生 し生活し、自己の有を維持するということ以外の何ご とでもないのである。 C ・・・ じない何ごとかを行なっているのである。それに反し て、彼が認識を通じて或る行為をするように決定され 定理ニ五 ているばあいには、そのかぎり彼は ( 第三部、定理・ 一により ) 働きかけているのだ。換言すれば ( 第三 何人も、或る他の事物のために、自己の有を維持しよう 部、定義・二により ) 自己の本質によるだけで理解さ と努力しはしない。 れるような何ごとかを、つまり ( 第四部、定義・八に 証明 各事物が、自己の存在に踏みとどまろうとする努力 よって ) 彼の徳から十全に生じてくる何ごとかを行為
201 倫理学 ( ェティカ ) 力を減退させまた阻止する感情の一種だ。それゆえ まい。が、迷信屋に、新しい穿鑿の材料を手わたしては ( 第四部、定理・三八により ) 喜びはそのまま善であ ならぬと思うので、私はむしろこの問題はここで打ちき っておこう。 定理四ニ 定理四〇 快活さには過度ということはなく、つねに善である。こ 人間の国家協同体に貢献するもの、または、人間が一致 協同して生活するように働きかけるものは有益である。反れに反して、憂愁はつねに悪である。 証明 対に、国家のなかへ不和をもちこむものは有害である。 快活は喜びの一種であって ( 第三部、定理・一一の 証明 備考にある快活の定義を見よ ) 、この喜びは、それが なぜというに、人間を一致協同して生活をさせるも 身体と関係あるばあいには、身体の全部分を平等に刺 のは、同時にまた、人間を理性の導きにしたがって生 激する。換言すれば ( 第三部、定理・一一により ) 身 活するようにさせる ( 第四部、定理・三五による ) 。 体の全部分が運動および静止の比率を変えない範囲 だから、それは善なのである ( 第四部、定理・二六お で、身体の作用能力を増進させ促進させる。だから、 よび二七による ) 。反対に、不和分裂を引きおこすよ うなものは悪である ( 同一の理由による ) 。・・ 快活は ( 第四部、定理・三九により ) つねに善であり、 過度ということを知らない。それに反し憂愁は ( 第 三部、定理・一一の同じ備考に出てくるその定義を見 定理四一 よ ) 悲しみの一種であって、この悲しみは、それが身 体と関係あるばあいには、あらゆる点で身体の作用能 喜びは、そのままでは悪でなく善である。しかるに、悲 力を減退させるか阻止するかする、したがって憂愁は しみは、そのままで悪である。 ( 第四部、定理・三八により ) つねに悪である。 C ・ 証明 喜びは、身体の作用能力を増加させまた促進させる 感情の一種である ( 第三部、定理・一一およびその備 定理四三 考による ) 。それに反して、悲しみは、身体の作用能
快感は過度になりうるし、悪でありうる。それに反して 苦痛は、快楽または喜びが悪であるばあいにかぎり、善で ありうる。 証明 快楽は喜びの一種であるが、この喜びは、それが身 体と関係があるばあいには、身体の一部分を、他の部 分よりつよく刺激する ( 第三部、定理・一一の備考中 の快楽の定義を見よ ) 。だから、この感情の力は ( 第 四部、定理・六により ) 身体の他の行為を凌駕し、執 拗に身体にこびりついて離れないほど大きなものとな ることがある。そのために、ごくいろいろな仕方で刺 激される身体の能力が阻害される。したがって快楽は ( 第四部、定理・三八により ) 悪でありうるのだ。っ ぎに苦悩は、悲しみの一種なのであるから、それだけ 見れば善ではありえない ( 第四部、定理・四一によ る ) 。けれども、苦悩の力とその発育とは、人間の能 力になそらえてみた外部的原因の力によって規定され ているから ( 第四部、定理・五による ) 、この感情に ついては無限に多くの強度差と種差とが考えられる ( 第四部、定理・三による ) 。したがって苦悩は、過度 になりつつある快楽を阻止し、その意味で、これ以上 身体の無能力化するのを防ぐようなカ ( この定理の前 部による ) をもつものと考えられる。だから、そうい うばあいにかぎって苦悩は善であるだろう。 C ・・ 定理四四 愛および欲望には過度のばあいがありうる。 証明 愛とは ( 感情の定義・六により ) 外的原因の観念を 伴う喜びの一種だ。それゆえ ( 第三部、定理・一一の 備考により ) 外部原因の観念を伴うところの快感も愛 の一種である。とすれば、愛は過度になりうる ( 前定 理による ) 。つぎに欲望は、欲望を生む感情が大きけ れば大きいほど自らも大きくなる ( 第一二部、定理・三 七による ) ものだ。したがって、ある感情が人間の他 の諸行為を凌駕しうると同様 ( 第四部、定理・六によ る ) 、かかる感情を基にする欲望もまた、他の諸欲望 を凌駕しうるであろう。だから、欲望は、央感にかん する前定理中に指摘したと同じ意味で、過度になりう 備考 快活は、私がのべたように、善である。だから快活に ついては、それを観察するよりも、概念的に思惟するほ うがずっとやさしい。日常、私たちを圧迫している諸感 情は、たいていのばあい身体の一部分にしか関係しな 、そして、この一部分が、他部分より強く刺激される のである。したがって、そうした感情は過度になるもの
180 ことが分っている偶然的事物にたいする感情は、たと え他の情況の上では変りないにせよ、過去の事物にた いする感情と比較してさえョリ徴弱なものにちがいな い ( 第四部、定理・九による ) 。 C ・・・ 定理一四 善および悪にたいする真の認識は、その認識が真の認識 であるかぎり、或る感情を阻止することはできないが、 識がもし感情と見なされるばあいにだけは阻止できる。 感情は ( 感情の一般的定義によって ) 一種の観念で ある。この観念によって精神は、自己の身体が、以前 よりョリ大きい、もしくはヨリ小さい作用能力をもっ ことを肯定する。それゆえ、感情は ( 第四部、定理・ 一により ) 真なる事物の現存によって排除されうるよ うな積極的なものは一つとして含んではいない。だか らこそ、善および悪についての真の認識もそれが真の 認識であるかぎりは、感情を阻止できないのである、 ところがこれに反して、例の認識が感情であるならば ( 第四部、定理・八を見よ ) そのかぎりにおいてはそ の認識は、阻止される感情より強力でありさえした ら、感情を阻止できるであろう ( 第四部、定理・七に 定理一五 善および悪にたいする真の認識から生ずる欲望は、われ われを圧迫しつつある諸感情から生ずる他の多くの欲望に よって抑圧されたり阻止されたりすることがありうる。 証明 善および悪にたいする真の認識が、感情の一種であ るばあい ( 第四部、定理・八による ) 、そこから必然 的に或る欲望が生じてくる ( 感情の定義・一による ) 。 そしてこの欲望は、自己を生みだした感情の大きさに 比例して大きくなる ( 第三部、定理・三七による ) 。 ところがさて、上述の欲望は ( 仮定により ) 私たち が何ものかを真に認識して生じたのであるから、私た ちが働きかけるばあい私たちのなかに生ずる欲望なの である ( 第三部、定理・三による ) 。ゆえに、それは、 ただ私たちの本質を通して理解されるものでなければ ならぬ ( 第三部、定義・二による ) 。したがって、こ ういう欲望のカ、成長なども、もつばら人間の力を通 して規定されているにちがいないのである ( 第三部、 定理・七による ) 。 つぎに、私たちにのしかかってくる諸感情から生じ る諸欲望は、これまた、感情の激しさに比例して大き くなる。だから、こうした欲望のカまたは成長は、私 たちの力に比較すれば、限りなくそれを凌駕する ( 第
246 た、愛する神が、神でないことを望むにちがいない ( 第五部、定理・一七の系による ) 、したがって、彼は 自分を悲しませることを望むことになる ( 第三部、定 理・一九による ) 。こういうことは条理に合わない ( 第 三部、定理・二八による ) 。だから神を愛するひとは 定理ニ〇 神への愛は、憎しみに変ずることができない。 神へのこの愛は、嫉妬の感情によっても、また愛ゆえの こういう主張にたいして、おそらくひとは抗議するで憎しみによっても汚されえない。むしろ、この愛は、われ あろう。私たちは神を万物の原因として認識しているのわれが、人間を、同じ愛の絆によって神と結ばれてあるも であるから、実際、神を悲しみの原因として認めているのと考えれば考えるほど、いよいよ育ってくる。 わけではないか、と。しかし、それにたいして私はこう 答える、悲しみは、その原囚が分れば、受動態であるこ 神へのこの愛は ( 第四部、定理・二八により ) 私た とをやめる ( 第五部、定理・三による ) 、すなわち、そ ちが理性の指示にしたがって望みうる最高の善であ の限りは、悲しみであることをやめてしまうのだと ( 第 る。この善はすべての人間に共通である ( 第四部、定 三部、定理・五九による ) 。だから、神が悲しみの原因 理・三六による ) 。そして私たちは、全人間がこの善 であると認識すれば、私たちは喜びを感するのである。 によって喜ばされることを望んでいる ( 第四部、定 理・三七による ) 。それゆえ、神への愛は、嫉妬の感 定理一九 情によって汚されえないし ( 感情の定義・一一三によ 神を愛するひとは、神が彼を愛しかえすことを野望して る ) 、また愛ゆえの憎しみによっても同様である ( 第 はならない。 五部、定理・一八および、第三部、定理・三五の備考 証明 中にあるその定義による ) 。むしろ反対に、この愛は、 もし人間が、こういう野望を抱くとしたら、彼はま 私たちが、愛を楽しみつつある人間をョリ多く思いう わけだ ( 第三部、定理・三による ) 。したがって、神 の観念を伴うようないかなる悲しみも存在しえない ( 第三部、定理・五九による ) 。換一言すれば、何びとも 神を憎むことはできないのである ( 感情の定義・七に 系
241 倫理学 ( ェテ 4 カ ) れることも少なく、また、原因の一つ一つから私たちの受 ける刺激も少ない。 証明 一つの感情は、それが精神の思惟を妨げるばあいに かぎり、悪であり、有害である ( 第四部、定理・一一六 と二七による ) 。したがって、精神に多くの対象を同 時に眺めさせる感情は、ただ一つまたは少数の対象に 精神を固定させ、その他の対象は考えられなくしてし まう同じ大きさの感情と比較すれば、精神を妨害する 度合いもずっと少ない。以上が第一の要点であった。 つぎに、精神の本質、すなわち ( 第三部、定理・七によ る ) 精神の能力は、もつばら思惟することにあるのだ から ( 第一一部、定理・一一による ) 、そこで精神は、 ただ一つまたは少数の対象に精神を固定させてしまう 同じ大きさの感情からよりは、多くの対象を同時に眺 めさせる感情からのほうが、働きかけを受けることも 少ないのだ。以上が第一一の要点であった。最後に、上 述のような感情は、それが多くの外部原因を原因とし てもっているかぎり、原因の一つ一つから受ける刺激 も少ないのである ( 第三部、定理・四八による ) 。・ 定理一〇 われわれの本性と矛盾する感情によって圧迫されないで いる間は、身体変容を、知性の秩序にしたがって秩序づ け、結びあわせることは、われわれの意のままになる。 証明 私たちの本性と対立する諸感情、つまり悪しき諸感 情 ( 第四部、定理・三〇による ) が悪なのは、精神の 識活動を妨害するばあいにかぎられている ( 第四 部、定理・二七による ) 。それゆえ、私たちが、自分 の本性と矛盾する感情から圧迫されてない間は、事物 を認識する精神の力は妨害されない ( 第四部、定理・ 一一六による ) 。だから、その間、明晰で判明な観念を 構成したり、甲の観念から乙の観念を導きだしたりす ることは、精神の欲するままになるわけだ ( 第一一部、 定理・四〇の備考・一「定理・四七の備考を見よ ) 。 したがって、その間、知性の秩序に準じて身体変容を 整頓したり、連結させたりすることは、私たちの自由 になるのである ( 第五部、定理・一による ) 。 身体変容を整頓したり、連結させたりするこの能力を 借りて私たちは、悪質の感情には、容易に刺激されない ようにすることができる。なぜというに ( 第五部、定 理・七により ) 知性の秩序にしたがって整頓され連結さ れている感情を阻止するためには、不確実で不安定な感 情を阻止するばあいより、ずっと大きな力を要するから である。だから、私たちの感情について完全な認識をも
187 は ( 第三部、定理・七によれば ) 当該の事物の本質そ ( 第三部、定理・九の備考中にある衝動の定義を見よ》 のものによって定められている。だから、人間が各自 能力、をもっているものと考えられるからである。し、 に自己の有を維持しようと努力するということは、何 かるに、理性の本質と「明晰かっ判明に認識するばあ , か他の事物の本質から必然的に起きてくるのではなく いのわれわれの精神とは、けっして別ものではない ( 第三部、定理・六による ) 、もつばら、自己の本質が ( 第一一部、定理・四〇の備考・二り精神にかんする 与えられていることがその原因となるのである。 義を参照せよ ) 。それゆえ ( 第一一部、定理・四〇によ・ なお、この定理は、他に第四部、定理・一三の系から り ) 理性を根源とする人間の努力は、認識だけを目標、 も証明される。というのは、もし人間が、何か他の事 とするのである。さらにまた、理性的に思惟するばあ一 物のために、自己の有を維持する努力をしているとす いの精神が、自己の有を維持しようとする努力は ( こ、 れば、 ( 自明なように ) その事物が、当該人間の徳の の証明の前部により ) 認識することに他ならないので 第一基礎だということになるだろうからだ。こういう あるから、したがってこの認識努力が ( 第四部、定 ことは条理に合わない ( いま引用した系による ) 。ゅ 理・一三の系により ) 徳の第一にして唯一なる基礎な えに、何人も・ : : ・後略。 C ・・・ のである。また私たちは ( 第四部、定理・二五によっ て ) 何か或る目的のために事物を認識しようと努力す 定理ニ六 るのではあるまい、むしろ反対に、精神は、それが理 理性を根源とする一切の努力は、認識を唯一の目標とす 性的に思惟しているかぎり、認識に役だつものだけ る。そして、精神は理性を使用するかぎり、認識に役だっ を、自己に有益なものとして把握できるにすぎないで のものだけが、精神に有益であると判断する。 あろう ( 第四部、定義・一による ) 。 C ・・・ 証明 定理ニ七 自己保存の努力と ( 第三部、定理・七により ) 事物 理 の本質自体とは別ものではない。なぜなら、事物は事 われわれは、真に認識に役だつもの、または認識を阻止 物として存在しているかぎり、その存在に踏みとどま しうるもの、そういうものにかんしてのみ、善であるか亜 る能力 ( 第三部、定理・六による ) 、そして与えられであるかを確実に知っている。 証明 た自己の本性から必然的に生じてくるところをなす
193 倫理学 ( ェティカ ) ぎって、働きかけつつあるといわれる ( 第三部、定 理・三による ) 。それゆえ、人間の本性が理性によっ て規定されているばあい、そういう本性から生ずる一 切のものは、その至近原囚としての人間本性によって のみ理解されるはずだ ( 第三部、定義・二による ) 。 しかるに各人は、自己の本性の法則にしたがって、自 分が善と判断するものを追求し、自分が悪と判断する ものを忌避する ( 第四部、定理・一九による ) もので あるから、いやそればかりか、私たちが理性の命令に したがって善または悪と判断するものは ( 第一一部、定 理・四一によって ) また必然的に善または悪なのであ るから、そこで、人間は、彼らが理性の導きにしたが って生きるばあいにかぎり、人間の本性のため、した がってまた各人のため必然的に善なるもの、換言すれ ば ( 第四部、定理・三一の系により ) 各人の本性と一 致するものを必然的に行為する結果になるのである。 それゆえ人間は、彼らが理性の導きにしたがって生き るばあいにかぎり、つねに、そして必然的に、一致し あうのだ。・・・ 物体的自然のうちで、理性の導きにしたがって生きて いる人間ほど、人間にとって有益な個物は存在しない。 なぜかといえば、人間にとって一番有益なのは ( 第四 部、定理・三一の系によって ) 人間の本性と最もよく一 致するもの、つまり ( 自明であるように ) 人間だからで ある。ところが、人間が無条件的に自己の本性の法則ど おり行動するのは、彼が理性の導きにしたがって生活す るばあい ( 第三部、定義・二による ) であり、そして、 そうしたばあいにかぎり彼は ( 前定理により ) いつでも 他の人間の本性と必然的に一致しあう。それゆえ、個物 のなかで、理性にしたがう人間ほど、人間にとって有益 麦略。・ なものは一つも存在しないのである。 もし各人の最も追求するものが、各自の利益であると すれば、人間こそは互いに最も有益である。なぜなら、 各人が自己の利益を追求すればするほど、そしてまた自 己自身を維持しようと努めれば努めるほど、彼はそれだ け多くの徳を恵まれていることになるからだ ( 第四部、 定理・二〇による ) 。或いは、同じことだが ( 第四部、 定義・八により ) 彼は、自己の本性の法則にしたがって 行為する力を、換言すれば ( 第三部、定理・三により ) 理性の導きにしたがって生きる力を、それだけ拡大され るわけだからである。しかるに人間が ( 前定理により ) 本性的に最もよく一致するのは、彼らが理性の導きにし たがって生活するばあいだ。それゆえ ( 前系により ) 人
よう、憂惧から解放されるよう、またできるだけ運命を したがえ、私たちの行動を理性の決然たる指示によって 律するよう努力するのである。 定理四八 買いかぶりと見縊りの感情はつねに悪である。 証明 これらの感情は理性に背馳するからである ( 感情の 定義・二一および一三による ) 。だから悪なのだ ( 第 四部、定理・二六および二七による ) 。 C ・・・ 定理四九 買いかぶりは、買いかぶられた人間を高慢にしやすい 証明 だれかが、愛情からではあるが、私たちを正当以上 に買ってくれているとする。すると私たちは、すぐ得 意になるか ( 第一二部、定理・四一の備考による ) 、う れしくなるか ( 感情の定義・三〇による ) してしま う。また、自分たちのよい評判には信頼しやすい ( 第 三部、定理・二五による ) 。それゆえ、私たちは、自 分のことを、愛情からではあるが、正当以上に評価す る、換言すれば、すぐ高慢になりたがるのである ( 感 情の定義・二八による ) 。 C ・・・ 定理五〇 同情は、理性の導きにしたがって生きているひとにあっ ては、それ自体、悪であり、かっ無用である。 証明 なぜなら、同情は悲しみの一種であり ( 感情の定 義・一八による ) 。したがって、それ自体、悪だから だ ( 第四部、定理・四一による ) 。しかるに、私たち が、とくに気の毒に思う人間をその惨めさから解放し ようという同情から生まれる善 ( 第三部、定理・一一七 の系・三による ) を、私たちは ( 第四部、定理・三七 によって ) ただ理性の命令をきくだけですでに完遂し ようと望むのである。のみならず、それが善であるこ とを確実に知っているような或る物を行なうことがで きるのは、私たちがもつばら理性の命令に服したとき にかぎられている ( 第四部、定理・二七による ) 。そ れゆえ、理性の導きにしたがって生きるひとにあって は、同情は、それ自体、悪でありかっ無用なのであ ここから、理性の命令にしたがって生きる人間は、で きるだけ同情によって動かされないように努力するとい う結果が出てくる。