それでもよかった。その女学校全体が友江のように思われた。 豊作はオレンジ色のカー。ヘットの上にアグラをかいて、長い間ぼんやりしていた。 「そうか、独身だったのか」 しやみせん っふや と彼は呟いた。家の中には謳もいない。彼の妻は高校生の娘を連れて知人の三味線の温習会に 出かけていた。温習会に出る前に美容院へ行き、それから呉服屋へ寄って正月の晴着を見るのだ といっていた。 「夜はひとりで食べて下さいね」 と妻はいった。 「よしちゃん、任せるよって頼みまっせ。昼はきつねうどんでええやろ」 さばみそに 家事手伝いのよし子は、夕飯にまた鯖の味噌煮を作るだろう。よし子は鯖の味噌煮が好きなの きら だだが彼の妻が鯖が嫌いなので、留守になるとよし子は鯖を食うのを楽しみにしているのだ。 彼は妻と同じように鯖が嫌いだったが、彼は何もいわなかったのでよし子はそのことを知らなか 眠 「日一那さん、お昼はけつねうどんでよろしい ? 」 老よし子が盆の上にうどんを乗せて居間〈入って来ながらいった。よし子は妻がいないと急に馴 れ馴れしい口を利く。 「いかんというても、もう作ってしもとるんやないか」
「その当時のことや、好きやと思うても口に出したり、つき合うたりは出来んわな。心の中で 想い合うとるだけや。目と目でいい合うだけや」 「ほんなら、この人、旦那さんの初恋の人 ? 「うん、まあ、そうや。 「向うも旦那さんのこと好きやったん ? 」 「うん : : : 」 うなず 豊作は頷いた。 「なんで結婚しはらへなんだん ? 」 よし子は熱心な顔になって豊作を見た。 「好き同士があっさり結婚出来るような時代やなかったんや。よしちゃんにはわからんよ」 やますそ そういうと、あるやるせなさが胸を締めつけた。彼は思い出した。 << 市の山裾にある友江の家 まわ せんたくもの のまわりを目的もなく歩き廻ったこと。裏の物干しに干してある洗濯物の中に、裾にレースのつ いたズロースがあったこと。あのズロースを何とかして手に入れる方法はないものかと考えたこ と。友江に会うよりもそのズロースを見たくて家のまわりをうろうろしたこと。 よし子はいった。 「ほんなら、この人、旦那さんのこと想うて、独身通さはったん ? 」 豊作はためらった後でいった。
118 すわ 彼はカー。ヘットの上に坐ったまま、ものぐさげにい・つた。 「ここへ持って来てくれ。ここで食うわー 彼は椅子の生活が嫌いだった。しかし彼の妻は新築のこの家を全部洋風にしつらえた。四畳半 でいいから茶の間を作ってくれという彼の意見は無視された。新築の費用の半分は妻の実家から 出るのだ。そうして彼は妻の父が会長をしている食品会社の専務だった。 「お前は運のええ奴ゃなあ、お前みたいな劣等生がなんで、味の都食品の専務になれたん や ? びようぶ 中学時代の友達がそういうとき、彼は片手を口もとで屏風にしていった。 「ヨメはんのおかげーー」 「奴は達観しとるわ , 友人連は彼のことをそういった。 「あの境地に行くには、なかなか凡俗では出来んことやー 豊作はオレンジ色のカー。ヘットの上にアグラをかいて、きつねうどんを食べた。 「よしちゃん、これ見てみイ」 豊作はよし子に新聞をさし出した。 「何ですのん ? どこ ? 」 「そこに出てるやろ。女の人の写真が。柴田友江と書いてあるやろー す
「旦那さん、電話です。柴田さんという人から」 豊作の胸はドキンと強くひと打ちした。 「柴田 ? ああ、会社の柴田か 「いいえ、女の人」 よし子は大声でいい足した。 「あの人とちがいますか。柴田友江いう人 : : : 」 彼は妻と娘とよし子の毒矢のような視線を背中に感じながら、部屋隅の電話に向った。 「もしもし、私、宮本ですが」 「おなっかしゅうございます。柴田友江でございます」 落ち着いたアルトがいった。 いや : : : どうも・ : ・ : はあ・・ その返事は友江にというより、背後に並んでいる妻と娘とよし子に対していわれたものといっ てよかった。 「今日、会場の方へお越し下さいましたそうで有難うございました。村安さんに伺ったのです けれど、あのう、ク浜辺の恋りという作品をお気に召して下さいましたそうで : : : 」 「はあ・ : ・ : いやまあ 「私、とても嬉しゅうございましたの、あの作品は私、気に入っておりまして、展示するだけ
「やつばり気に止めとったんか」 村安はいった。 「どや、会うて見る気ないか。今度、うちで彼女の新作発表会ちゅうのをやるんや。来週の土、 日と二日間、新神戸ホテルでやるんやがな、その時は彼女も東京から出てくるんや」 「土、日か、よし、わかった」 妻の手前、彼は言葉少なに答えた。 「都合っけてなるべく顔出す」 電話を切ると彼はそしらぬ顔をして、カー。ヘットの上のいつもの場所にアグラをかき、ゴルフ の道具に手入れをした。 「今度の日曜は久しぶりでゴルフへ行こかな」 ひとりごと 彼は独言のようにいった。妻はそ知らぬ顔でテレビを見ている。返事をしないがそれは妻の耳 に入っている。彼はそれで日曜日の外出の口実は立った、と思った。 日曜日、彼は早くから目が覚めた。ゴルフへ行く時はいつも早く起きる。妻は彼が家を出る時 は大てい寝ているから、彼はよし子を相手に軽い朝食を取って車で家を出た。呉服の新作発表へ 出かけるには早過ぎる時間である。彼はゴルフの道具を車の中に置いて、開いたばかりのコーヒ ーショッ。フに入り、そこから村安に電話をかけた。 「彼女、来てるか」
「はあ。何や賞もらわはったんですね」 「その人、よう知っとるんや。中学生の頃からな : : : 」 「きれいな人ですねえ」 「きれいか ? そう思うか ? 」 勢いづいて豊作はいった。 「若い時はもっときれいやったでえ」 「えらい力いれはって : : : 日一那さん、怪しいわ」 「怪しい ? 何がや ? 」 工へへとよし子は笑った。 「この人、旦那さんの何やったん ? 」 「何やて : : : けったいな目工すんなよ」 豊作は少し浮き立って来た。 鏡 「中学の時、この人と毎朝、同じ電車に乗っとったんや。時々、チラ、チラと、こう目と目を 眼見交わしてな」 老「好き同士やったん ? 」 「うん : : : まあ、な」 豊作は友江と二人の友達が、豊作を見てクスクス笑ったことを思い出しながらいった。 ころ
て来る間も待てずに、非常階段を駆け下りた。 「今日、お父ちゃんの初恋の人とかいう人、見て来たわー かすこ 夕飯の時、娘の和子はいった。 「新神戸ホテルで新作発表があったんよ。なあ、お母ちゃん」 しばらそしやく 妻はすぐには返事をせず、皿の中の肉を切ってロへほうりこんで、暫く咀嚼してから吐き出す ようにいった。 「しよもない人やなあ。たいした染物やないわ。 「なんや、あの人えらい威張ってたねえ、お母ちゃん」 「たかが染物屋のくせに、先生先生いわれてからに : 妻はすべてのことに抑制ということをしたことのない女だった。妻は友江の悪口をいいはじめ 鏡た。その間、彼は友江と会う方法のことを考えていた。今日で会は終ったから、友江は明日にで 眼も東京へ帰ってしまうかもしれない。出来れば今夜のうちに村安に頼んで明日にでも友江と会え 老 るようにとりはからって貰わなければならない 夕飯を終ると彼は暫くの間テレビを見るふりをし、村安に公衆電話をかけるために家を出るロ 実を考えだした。その時、電話が鳴った。よし子が電話口に出て、大声で彼を呼んだ。
「あほらしい、こんなオールドミス、どこがええのん。四十六にもなって独身やなんて、カタ ワゃないの , それから妻はいった。 「あんた、何やしらん、自惚れたことよし子にいうたらしいけど、ええ年して、アホみたいな こというのもええ加減にしときなさいや」 豊作は沈黙した。 「ほんまにアホらしいわ。好き同士やったやて。あの頃のあんたが女の子にモテるわけない わ」 妻はいい捨てて向うへ行ってしまった。妻は豊作の隣家の娘だった。豊作の妹と仲よしで始終、 家へ遊びに来ていた。妻は不器量で気が強いので嫁の貰い手がなかった。彼女は豊作の部屋へ始 終やって来るようになった。そうしてある日、豊作は不意に夢遊病者のようになって彼女を抱い てキスしてしまったのだった。彼女は待ち構えていたレスラーのように彼にしがみつき彼を押し 倒し、自ら。ハンティをかなぐり捨てて彼に身を捧げたのだ。そうだ、ク 身を捧げたクという言葉 を彼女は使った。そうして三か月後に彼はその責任を取るべく結婚式を挙げたのだった。 彼は妻が投げ捨てた週刊誌が、まだ友江の笑顔の頁を開いているのを横目で見た。 ーー俺の人生は失敗だった : 豊作は思った。 うぬぼ
恋の男のために結婚しなかったといっている。それは誰だったのか。俺ではないのか。いや、俺 だ、と彼は思った。俺であるという確証もないが、俺でないという確証もない。あるタ方、柴田 友江は白ザルとノッポと一緒に豊作の家のまわりを歩いていたことがあった。彼はそれを思い出 した。彼は二階の自分の部屋で、カンニング。へ ーパーを作っていた時、ふと外を見ると彼の家の 塀の外を、三人の女学生が歩いていたのだ。それは後姿だったが、彼は間違いなく友江と二人の 友人だと確信した。彼は思わず立ち上って窓を開けた。三人は彼の家を見に来たのだ。もしかし たら豊作に会えるかと思って、家のまわりをウロウロしていたのかもしれない。豊作はそう思っ た。窓を開ける音にノッポがふり返った。ノッポは「キャア , というような声を上げて友江を突 ついた。友江は一瞬ふり返り、そうして三人は同時にけたたましく笑いながら、彼の家の前を走 って行ってしまったのだ。 「あんた、さっきから何見てるのんー さくれつ いきなり妻の声が頭の上で炸裂した。 鏡 「ひとが話しかけてるのに返事もせんと : 眼豊作は慌てて週刊誌を投げ出した。妻はす早く拾い、友江の写真に一瞥をくれてジロリと豊作 老を見た。 「この人やね。あんたの初恋の人たらいう人 , 豊作は息を呑んだ。よし子がもう妻にしゃべったのだ。妻は週刊誌を床に投げた。 おれ いちべっ
観 「さあ ? 犬飼は首をかたむけた。 「それはわかりませんね。しかし、あの人はいざとなると逃げ出す人ですよ。ぼくにはわかる そむ んです。あの人はご主人を愛しているんですよ。いくら背こうとしても、あの人には出来ませ ん」 大飼はいった。 「では仕事の話をしましようか。六時に彼女と食事をする約東になっているんです」 「あらまあ、では急がなくては : : : 」 打ち合わせが終わると犬飼は腕時計を見ていった。 「やあ、三十分も遅れてしまった」 「どちらで待ち合わせ ? 」 「ヨコハマホテルです。あすこのフランス料理は割り合い、うまいんですよ。ぼくは高校の嶼、 ちょっと、彼女を好きだったことがあるんです。その時のよしみに、出来る範囲で彼女を慰めた いと思っているんです , 大飼はそういうと、片眼をつぶってみせて店を出て行った。波は気が抜けたような気持でそこ に残って、もう一杯、コーヒーを注文した。コーヒーを一口飲むと、波は急に笑い出したくなっ た。それからもう一口飲むと、笑いは引っ込んで何となくものがなしい気分になった。