9 九回裏 史は道端に立ってタクシーを探しながら、ぶつぶっと毒づく。 「いったい、誰のために、作家らしくなくなっているのか、考えたことがあるのか ! 」 史が毒づくのは、早く怒りを燃焼させてしまわねばならぬからだった。仕事にとりかかる前に、 燃え尽してしまわねばならぬ。そのため史は道端で寝そべっているクリーニング屋の大を蹴飛ば した。 わいしよう こ出演した。相談者は二十八歳の人妻で、夫の性器が矮小で 史はテレビ局へ行き、身の上相談ー 性的満足が不十分であるために離婚したい、といった。 「小さいっていうけど、ほかの人のとくらべてみたことがあるんですか ? 」 と史は聞いた。見学の主婦たちから失笑が洩れている。 「小さいって、どれくらい ? 」 「子供のより少し大きい程度です」 相手はいった。 「男の人の親指くらい : 「はあ、そうですか。男の親指ねえ : : : 」 史は投げやりにいった。 「あなたのご主人はほかにいいところないんですか ? 」 「ええ、ないんです」
つの心、 「じゃあ、ご主人が女の人とホテルから出て来たら ? 」 静子はたたみ込んだ。 「それでも町子さん、平気 ? 」 「だってこの頃はホテルで仕事の打ち合わせなんかするし、食事をすることもあればパーティ の招待だってあるし : ・ 「そんなパーティなんかやるようないいホテルじゃないのよ。二流のホテル」 静子は町子の方へ身を乗り出した。 「この間、夜遅く、主人がアジアホテルでご主人を見かけたっていうのよ。女の人と一緒だっ たらしいんだけど、その時、私、何となしにハッとしたわ。怖ろしいものね。よその且那さんの ことでも私はそんな時にハッとする習慣がついてしまってるのよ。そのことに気がついて、私、 町子さんならどうだろう、と思ったの 「アジアホテルってどんなホテルか知らないけれど : : : でも主人は出版関係の仕事で女の編集 者とか女子学生とか、いろいろと女友達が多いのよ」 「信用してるのね。たいしたものだわ」 静子はちょっとアテが外れたような、口惜しそうな表情になっていった。 「私だったら今頃、もう大騒ぎよ」 町子はそんな静子を見てゆったりと笑ってみせた。
市村さんは本当に後藤田さんを愛しているのかどうか、私には疑問に思われますわ。どんなこと をしてでも奥さんを追い出してみせるとか、ご主人の教育者としての立場を犠牲にさせてでも一 緒になってみせるとか : : 聞いていますと、市村さんは後藤田さんの家庭を壊すことばかり考え ているんです。結婚出来なくてもいい、結婚しなくてもいいから、とにかく奥さんと後藤田さん を引き放せばそれで満足だなどと : : : ご主人はたいへんな人に引っかかっています」 「まあ ! 」 後藤田の妻はキイキイ声で叫んだ。 「まあ、なんてろしい人なんでしよう ! 」 ・こ、を」ら 「私、世の中で曲ったことが大嫌いなんです。不正を見ると私の正義心が黙っていられなくな るんです。私、奥さまの味方をしたくなりましたの。後藤田さんが市村さんのために破滅して行 くのを見てはいられませんわ。世の中の秩序を守るためには、ひとのことだからといって、ほう っておいてはならないと思うんですのよ。私ってそんな人間なんです [ 春 「それにしても、後藤田は、まあ、なんてバカなんでしよう。教育者ともあろうものが : た後藤田の妻は君子の述懐を半分も聞かずにわめいた。 「奥さま、お教えしましよう。ご主人は辞表を出して、何もかも捨てて、市村さんと都落ちす るといっておられますよ」 「まあ ! そんな ! 恥かしいことを。主人は狂ってるんです ! 気違いだわ ! 」
192 落ち着いた中年女の声が出て来た。 「奥さまでいらっしゃいますか」 君子は同じように落ち着いた中年女の声でいった。 「突然、お電話で失礼でございますが、ちょっとご注意をしておきたいことがございまして」 君子はいった。 「お宅のご主人さまはこの頃、特に親しい女の人が出来ておりますですね。奥さま、ご存知で いらっしゃいますか」 「は、あの : ・いいえ」 相手は思わずそういってから、気を取り直したようにいった。 「失礼ですがどちらさまでいらっしゃいますかー 君子はそれには答えずに一息にしゃべった。 「ご主人さまは海軍時代の初恋の人とめぐり会って、深い仲になっていらっしゃいます。余計 : ご主人さまの なことのようですけれど、奥さま、しつかりなさらないとどんなことになるか : お勤め先は何といっても、ああいうお堅いところでございますから、こういうことが聞えてはこ れから重役におなりになるという方がご損なさると思うのですけれど : : : ちょっと老婆心までに ご忠告を : : : 」 君子は電話を切った。それから急に立ち上って部屋の掃除を始めた。もう三日も掃除をせずに
「ジジムサイという言葉は、うちの主人のために作られた言葉じゃないかと思うわ」 町子はシクラメンにコップの水をかけ、 「全く : : : 京子よりも手がかかるんだから」 と顔をしかめて奥を向いた。 るす 「日曜日はこれだからイヤなのよ。亭主は丈夫で留守がよレカ 、、、。けだし至言だわ」 「うーん」 うな と布団の中で敬太郎が唸った。 「おーい、腹が減ったそウ」 「これだからいやだというのよ。まるで大食いの蟻くいと一緒に暮らしているみたい : 町子は台所に立って昨夜のハンバーグの残りを天火に入れた。昨夜、敬太郎は家でタ食を食べ なかった。敬太郎が帰って来たのは夜中過ぎである。町子は眠っていたのではっきりした時間は わからなかったが、多分、一時か二時頃ではなかったかと思う。 「まあ ! 町子さんは御主人が帰っていらっしやるまで起きてないの ? 」 いっか静子がびつくりしていったことがあった。 「あたしなんか、寝ようとしても気になって眠れないのに : 「そりゃあ、お宅の旦那さまとうちの主人とでは違うもの」 町子はいった。 ふとん あり
なさいよ。きっとあなたは文句をいうわ , 「そうかしら : 「そうですとも。悪いところばかり見ないで、いい所を見るようにするのよ。自分で自分をコ ントロールしなくちやダメよー うらや 「あなたはいいわねえ。あんな真面目なご主人持って : : : ホントに私、羨ましくてしようがな いわ」 ためいき と、やがて静子は溜息をつき、その台詞は落ち着くところに落ち着く。それはいわば第一幕が 終わりに近づいたことを告げる台詞なのである。そうしてお互いの時間にまだ余裕のある時は、 そこから引きつづき第一一幕の幕が開く。第二幕は哲夫の女関係から隣り近所の夫たちの女関係の うわさよなし 噂話へと移るのだ。 だが今日はその第二幕を始める前に、ふと思い出したように静子はいった。 「町子さん、もしご主人が女の人と仲よく歩いているのを見たら、どうする ? 」 「どうするって : : : どうもしないわ。あら、こんにちは、とでもいうかしら : : : 」 不愉快じゃない ? 」 「そのとき、何とも思わない ? 「何ともないわ。どうして不愉快なの ? 」 「じゃあ、ご主人がもし女の人と楽しそうにお酒飲んでたら ? 」 「お酒、飲んだっていいじゃないの。どうしていちいち、こだわらなければならないの ? 」 まじめ
「主人たら : : : どうやらまた、新しいのが出来たらしいのよ」 静子は眼をむいて町子に向かって顔を突き出した。 「いつだったかの日曜日、私、いってたでしよう。あの時どうもいやな予感があったのよ。主 人が自分の方から食事に行こうとか子供に何か買ってやるとかいい出すときは、必ず何か悪ダク ミをしている時なのよ。私、ちゃんと統計を取ってあるんだもの : : : 」 静子はいった。 「今度の女はねえ、誰だと思う。モデルやホステスなんかじゃないのよ。お汁粉屋の女主人な ハーかと思ってマッチにあ のよ。いつもポケットにク嵯峨クってマッチが入ってるじゃないの。 った電話番号を廻してみたら、お汁粉屋なのよ」 しようこ 「でもマッチぐらいではそんな証拠にはならない しろうとしあわ 「と思うでしよう ? そこが素人の倖せなところよ。私くらいのべテランになると、一瞬で。ヒ、 ビ、ビーと来るのよ。いっか主人がいってたことがふーツと浮かんで来たのよ。もと会社にいた しんじゅく 心秘書課の女の子が新宿でお汁粉屋を開いたってこと。あれはちょっと色つぼい女だから、社長が っ金を出してやったんじゃないかな、なんていってたことがあったのよ」 「でも、その人と同一人物かどうか」 「確証があるのよ . 静子はいった。
「多分、そうだと思いますねー 「まあ ! 」 後藤田の妻は心そこ打ちのめされたという声を出した。 「まあ、あの人ったら、教育者でありながらそんなことをして : : : いったい、どういう考えな んでしよう ? 」 そのあからさまな興奮は君子を満足させた。後藤田の妻は世間知らずの感情家らしかった。彼 女は君子が何者であるかを聞くのも忘れて夢中になった。 レ / レ・ 「市村さんと主人とはいったい何時頃からそんな関係になったんでしようか ? いったい : : : 主人の方からナニしたんでしようか」 「さあ、それはどうですか。私は現場に立ち会っていたわけではありませんからね」 君子はゆったりと笑った。 「とにかく奥さま、ご主人は教育界で名のあるお方なのですから、自重なさいませんと : : : そ れで私、老婆心までにちょっとご忠告を : : : 」 君子は電話を切った。君子は立ち上って部屋を出ると、近くのスーパーマーケットへ出かけて 行った。君子は急に空腹を感じ、朝から何も食べていなかったことに気がついたのである。 ーマーケットの前には、形ばかりの児童公園というのがある。君子はマーケットでドー ナツを三個買って公園の中へ入って行った。公園といっても砂場とスチール製のすべり台と、ト
つの心、 波はいった。 「ご主人、いらっしやる ? 」 「まだ帰りませんのよ」 のんぎ 町子は暢気な声でいった。 : あら、もうこんな時間。眠ってたものだから、どうも失礼しました」 「何時かしら ? : 「ご主人は ? 「三井書房の仕事だと思うんですけどね。まだ帰りませんの。お急ぎの御用ですの ? 」 「ええ、実は簡単なものなんですけどドイツ語の翻訳をお願いしたいと思って。仕事の上で急 に必要になったものですからね , そういってから波は、ふと思い出したようにいった。 「三井書房の仕事って、本当なの ? 」 「さあ : : : どうですか」 町子は面倒くさそうにいう。 「またこの間の、ワイシャツに口紅つけてた人と一緒じゃないの ? 」 「そうかしら」 町子はいった。 「あるいはそうかもしれませんわね」
女はいった。 「テクニックも下手ですし : : : せめて、あのう : ・ : 私を可哀想だと思って : ・ : ・自分を悪いと思 って : : : 何とか : : : テクニックでも研究してくれればいいんですけれど : : : そんな気持もないん 「私の聞いているのはセックスのことじゃなく、人間的にですよ、ご主人にいい所があるのか ないのか : : : 」 「ありません」 女ははっきりいった。 「あなた、ずいぶん簡単におっしやるけど、今のあなたはセックスのことばっかりで頭がいっ ばいになっていて、人間としてのご主人のいい所に気がっかないんじゃありませんか」 「さあ : : : 」 女は首をかしげた。 「ないと思いますけど : : : 」 「そう、そんなら別れなさいよ。別れた方がいいでしよう」 史は思わず声を荒らげた。 「あなたの頭はペニスの大小でいつばいになってる。そんな奥さんと一緒にいても、旦那さん の方も不幸ですよ」 へた