有作に対して何かいうとき、この頃、久の口調はなぜか演説口調になるのだった。それは有作 が金の無心をいい出すのを防止しようという本能から出たものかもしれない。有作は久から金を 貰おうとする時は、きまって明るいニコニコ顔になる。不断は久の話など上の空で聞き流してい あいづち るのに、その時だけは熱心に相槌を打ち大しておかしくもないことにカラカラと笑ったりする。 久はその時の有作の魂胆を呑み込んでいた。それでニコニコしたりカラカラ笑ったりさせないた めに、久は殊更な演説口調になるのだった。 「いやはや、今日はマイツちまってねー ら′カカ 久の演説が終ると、チャンスを窺っていたように有作はいった。 「社長と一緒に信用金庫の人間を招待したんだがね . 「勘定の時に金が足りなかったっていうんでしよ。信用金庫の男が大酒飲みで : : : お銚子追加 するたびに気が滅入って行ったっていうんでしょ 「その通りだよ。さすがは作家だ、よくわかるねえ」 「作家でなくてもわかりますよ。あなたと一緒に二十年暮してりや」 久はいった。 「いっとくけど、その勘定は私は知りませんよ。私が飲み食いしたわけじゃないんだから。う だんす ちにいったいいくらお金があるのか、銀行の通帳を見てごらんなさい。洋服簟笥の中の二番目の 小引出しに通帳があるわ」 ちょうし
ところでその朝、応接間に上りこんでいたのは田所由紀という十六歳の少女だった。由紀は久 の愛読者だといい、はるばる広島から久を尋ねて上京して来たのだ。 「一週間前にお母さんが亡くなったんだそうですよ。母一人子一人だったんですって。可哀想 に原爆症で : : : 一人ぼっちになったので先生を頼って来たんですよー はす 少女は高校一年を終えて、この春二年に進級する筈だったが、母が死んだので、高校を中退す ることにしたのだ、と工藤は説明した。 「先生がクジュニア季節クでしておられる身の上相談をずーっと読んでいて、それで出て来た んだといっています」 久の身の上相談の回答は激越すぎるといって屡編集部から書き直しを要求されていた。普 通ならばなだめたり慰めたりするところを、久はすぐに突進したり破壊したりすることを勧めて しまう。 「積極的に生きなさい。積極的に生きれば必ず道は開けます。人生は突進力です。自信です」 それが久の身の上相談を一貫して流れる思想だったのである。 久は応接室へ入って行った。入口に一番近いソフアに、少女は背中を向けてうずくまっていた。 いや、正確には向うを向いて腰かけていた、と書くべきだろうが、久がうずくまっていると感じ たのは、その背中の幅が並以上に広く厚ぼったく丸まっていたからであったろう。 「お待たせしました。どういうご用 ? しばし要
なべ といった。有作はニコニコしている。そのニコニコ顔をわざと無視して久はスキヤキ鍋に肉を 入れた。 「由紀さんが帰ることになったのよ」 久はその理由を有作に話した。この家では何ごとも久の一存によってとり決められる。居候を 置くことも帰すことも、有作とは関係なく行なわれるのだ。 「そうか、それはよかった」 有作はニコニコ顔でいった。 「ところでまた一つ、困ったことが起きてね」 ねぎ 久は鍋に葱を入れながら、 「さあさ、由紀さん、肉を取りなさい」 といった。 「あなたは今日の主賓なんだから : ・ 「そうよ、そうよ、さあ、どんどん取って」 工藤が久に代って鍋の中へ肉や野菜を入れながらいった。 「広島へ帰ったら頑張って倖せになるのよ。困ったことがあったら手紙でいって来なさい。こ この先生は困難と戦う人には援助を惜しまない方よ。することもせずに依頼心ばかり起す人には 厳しいの、わかって ? 」
も思わないのかね ? 俺に気の毒だと思わないのかね ? 」 その言葉を彼女はおそらく忘れていないだろう。もしかしたらその言葉が彼女の今日の成功の 基になったのかもしれない。有作が社長について行くのはそのためだった。女の財詈 ( 馬倒に耐え るための助つ人として有作が必要なのだ。有作はその女を知っていた。有作は人が好いので知ら れている。いっか女が、 「上条さんってホントにいい人ねえ」 といった言葉を社長は覚えていて、今回の大阪行きはそれが唯一の頼りとなっているのだった。 有作が大阪へ行った日の朝、久は洋服簟笥の小引出しを開けた。もう二、三日で月が代わる。 月末の諸経費のために銀行から若干の金を下ろす必要があったのだ。小引出しを開けて久は小さ く「あ ! 」と叫んだ。小引出しに入っている筈の銀行の普通預金の通帳がなくなっている。その 下の小引出しに入れてあった古財布の中から、印鑑もなくなっていた。 「工藤さん、工藤さん ! 千久は工藤を呼んだ。工藤を呼びながら、久は銀行へ電話をかけた。 万 「こちらは上条久といいますが、ちょっと調べていただけませんか。上条久の普通預金が払い 十 三戻されていませんか。通帳がないんです。盗難にかかったらしいんです」 工藤が電話のそば〈来て、眉をひそめた。 「ないんですか ! やられた ? 」
にわ けんかごし 久は俄かに喧嘩腰になっていった。 「あんなポンクラ社長に金を貸すより、こういう可哀想な女の子の面倒みる方がどれだけ意義 があるかー とにかく原爆遺児なんですよ。ポンクラのために自分で苦労を招いてる人間とは違 うのよ。何も悪いことしてないのに、こんな目に遇ってる。国の責任です。われわれ、大人の責 任よ」 「とにかく、五千円ほど貸してくれないか」 有作はいった。 「今日もまた、方々、飛び廻らなくちゃならないんだー 久は有作に向って一万円札をほうり投げた。 「私はこれから意義のあることしかしないことにしたんですからね。ドプに金捨てるようなこ とはこれつきりにしますよー 有作が出かけてしまうと、久は腹立ちまぎれにコーヒーを三杯飲んだ。台所のテープルでは由 千紀がまだ飯を食っていた。有作と久の応酬を由紀は聞いていた筈だが、その小さな目の浅黒い四 万角い顔には何の表情も現れてはいなかった。 「田所由紀ーーー いい名前ね。小説のヒロインのようだわ」 ほおば 久は気を変えるようにいった。すると由紀は黙々と飯を頬張りながら、 っ微笑は風に乗ってクの田所由紀」 おとな
ある朝、上条久が二階の寝室から起きて来ると、階段下の応接室に誰かが坐っていた。それは 漸く春めいて来た三月の中旬過ぎのことである。 あるじ 上条家では主婦の久はたいてい十時過ぎに起きる。主の有作は八時に起きて会社へ行き、小学 つかさど 生の好子は七時半に起きて学校へ行く。この家の家政を司っているのは家政婦の工藤で、応接間 に客を上げて坐らせているのも工藤の裁量なのであった。 久は十数年前から少女小説を書き、世間には名を知られてはいないが、少女小説界では流行作 家として名が通っていた。久の書く少女小説は、不遇な少女と恵まれた少年、あるいはその逆の 組合せの間に意地悪やお人よしや不良などが交錯して、やがてハツ。ヒーエンドになる、という筋 だが、十年一日のごとく久はその同じ。ハターンのくり返しを飽きもせずに書いて来たのだ。同じ 。ハターンをくり返しても久が少女小説界から飽きられないのは、丁度、小学校の校長が十年間変 りくっ らず同じ訓辞を入学式でくり返しても通用するのと同じ理窟であった。少女者は年々新しく登 場し、古い少女読者は少女を卒業して出て行ってしまう。 好きだ 「 x 子の気持、ホントによくわかります。 x 子はホントは x 助を好きなんでしよう ? から却ってあんな憎まれ口をいうんでしよう ? x 子は何だかとても私に似ているように思うん ようや かえ ひさ くどう
110 「なんで、そんな必要のないウソまでいうんでしよう。タクシーの運転手が先生を知ってたな んて、必要のないウソじゃありませんか , 久は黙って工藤から目を逸らした。いや、必要のないウソではない。そのウソが久にもたらし たカは案外、大きかったことを久は思った。 工藤はふと思いついたように自分の部屋に駆け込んで行ったが、間もなくしょんぼりと出て来 「。ヘンダント、やられました」 「えっ ? 。ヘンダント ? 」 かばん 「若い頃の思い出がある。ヘンダントなんで、どこへ行くにも鞄のポケットに入れていたんで 工藤の顔は思い出のためか、羞恥のためか、あるいは憤怒のためか、急に真赤になった。 「あの子は首にかけてました」 「そうよ。そうして私にいったわ。大塚君に貰ったって : : : 」 久と工藤は沈黙した。 「どこへ行ったんでしよう、あの子」 暫くして工藤はいった。 「家へは帰らないわね。またどこかへ行って、同じようなことをいってるんじゃないかしら しゅうち まっか
104 由紀はポツリといった。 食事がすむと由紀は帰る支度をした。久は財布から千円出して由紀に渡した。 「少いけど、お弁当代よ。あなたはよくお腹の空く人だからー 「すいません。いただきます」 由紀が当然のように金を受け取ると久の胸は急に重苦しくなった。その千円が久には急に惜し いように思われたのだ。一瞬、この三日の間に由紀が食べ尽した冷蔵庫の中の食糧や菓子の分量 ーレオレこの三日間にこの家のために何をしただろう。そうして久は、 が頭をかすめた。由記ま、つこ、 久に金を出させたものは、待合室の空いている時にしかテレビを見られなかったといった由紀の 言葉であることに気がついた。 由紀が帰ってから三日経った。その三日の間に有作の会社は最後の危機に落ち込んだ。有作は 社長と共に大阪へ走った。大阪には昔、社長の愛人であった女がレストラン経営に成功している のだった。社長は遂に決心してその女の所へ金を借りに行くことにしたのだ。五年前、その愛人 と別れるとき、社長は冷酷なやり口をした。その愛人は社長より五歳も年上だった。社長はその ことをハッキリ彼女にいった。 おれ 「もう一「三年経ったら俺は五十だ。そうしたら君は五十五になる。そのことについて君は何
工藤はいった。 「誰です ! あの子 ? それとも・ : ・ : 旦那さん ? 電話口に別の声が出て来ていった。 「三十万、払い戻されています。日付は三月二十三日になっております」 「どんな人間が行ったか、わかりませんか ? 男か、女か、年の頃とか : : : 」 「早速調べましてお返事いたします」 電話は切れた。久と工藤は顔を見合わせた。 「三十万、出されてるわー 「八百六十円残ってるだけよ」 「警察に届けますか ? 」 工藤はいった。そういって久の顔をじっと見たのは、万一、その犯人が有作だった場合のこと を考えた方がよい、という意味だった。そのとき、電話が鳴った。銀行からだった。 「丁度、受けつけた者が覚えておりまして、おかつばにした大きな女の子だったというんです が : : : 東京には珍しい田舎風の女の子だったので、印象に残ったんだそうです」 電話を切ると久は警察〈電話をかけた。間もなく二人の刑事がやって来た。久は説明した。刑 事の一人は手帳を出した。 「で、その女の子の住所は ? 」
その夜、有作は帰って来なかった。有作は社長と一緒にある金貸しに融資を頼むために箱根へ 出かけて泊ったのだ。その日会う約東だった金貸しは約束を反古にして芸者を連れて箱根へ行っ た。それを知った社長と有作は直ちに後を追ったのである。 有作は翌日の朝、帰って来た。丁度、久が起きて朝食のトーストを焼いているときだった。有 作は一文なしになって、タクシー代も払えなかった。社長と二人の箱根での宿泊費を有作は払わ ふすま 三されたのだ。有作は人さし指の爪を黒ずませていた。芸者が怒って、カまかせに閉めた襖に指を 挾んだのだと有作はいった。社長と有作は死にもの狂いで金貸しに喰い下ったのだ。それで金貸 しは芸者と寝ることが出来なかった。目的は不首尾に終った。今月末には会社はつぶれるかもし はさ 工藤は叫んだ。 「タクシーの運ちゃんに知られるなんて一流ですよ。流行作家ですよ、先生ー 「ホントだとしたらその運ちゃん、なかなか見どころがあるわ」 久は半ばふざけていったが、悪い気持ではなかった。 「ありますとも、ありますとも。とにかくたいしたもんですよ」 久は少女を見た。少女のおかつばの下で紫がかった霜やけの指が顔を隠している。その太い指 のぞ と指の間から小さな赤い目が久に向ってキョロリと覗いていた。