はんじようき 「連れ込みホテル繁昌記」と書いた。 翌朝、俊子から電話がかかって来た。 「やっと今、主人が出て行ったんで、電話にとびついたんやの」 いきなり俊子はいった。 「主人ときたら、早う出て行けばええと思うてる時に限ってグズグズしてからに : 俊子は朝から興奮していた。俊子の興奮はあるいは昨夜からずっと続いていたのかもしれない。 「ふう公」 俊子は急に改まった声を出した。 「私、あれからいろいろ考えたんやけど、ところどころ腑に落ちんことがあるのよ。昨夜はな にしろ興奮してしもうて、夢中やったけど : : : 」 俊子はいった。 「あれから私、こんなこと、思い出したんよ。あの頃、ふう公があんまり純情やったから、私、 マルポンにいうたことがあるの。ふう公があんなに藤堂のこと好きゃねんから、あんた、何とか お兄さんに頼んでふう公のために一肌脱いであげなさいよ、いうて : : : そうしたらマルポン、こ ういうたのよ。私もそう思うんやけど、藤堂にその気がないからどうも出来へんねん。藤堂はあ んな不良、キライやいうてるねん : : : って」 俊子はいった。 ひとはだ
俊子は三十年前と同じ声で叫んだ。 「ほんまア ? 」 おみこし 俊子の驚いた声は史を満足させた。史は浮き立った。お祭が始まって、これから御神輿を担ぐ 子供のようにわくわくして笑った。 「何というて来たと思う ? おトシ」 「ーーわからん : ・ 俊子はいった。 「じらさんと、ふう公、早う教えてよ : 史は藤堂の手紙の一部を読み上げた。読みながら昔、藤堂から来たという仮構のラブレターを 作っては、よく俊子に読んで聞かせたことを思い出した。 「ーーーああ、ふうちゃん、ふうちゃん、ぼくの愛するふうちゃんよ ! くず ぼくはふうちゃんをカミ屑のように思っているように見えているかもしれないが、本当はふう かえ ちゃんが好きで好きでたまらない。あんまり好きで好きでたまらないから、却ってカミ屑のよう に思っているという風なそぶりをしてしまうんだョ 「今度のはホンマもんやろねフ 俊子も同じことを思い出したとみえてそういった。 しようこ 「ホンマや、ホンマ。その証拠に文章は私のほど名文やないね」
「そやかて、神聖藤堂研やもん : : : 」 「神様みたいなもん ? 」 「そゃ。神様や」 と史は真面目に肯いた。 茶の間の柱時計が六時を打った。 「お迎えが来ました」 と家政婦がいった。これから連れ込みホテルの探訪に出かけなければならなかったことが、遠 よみがえ くの方から蘇る昔の記憶のように思い出されて来た。 その夜、探訪から帰って来ると、史はすぐ大阪にいる俊子に電話をかけた。俊子には大学生の びとりむすこ 一人息子と嫁に行った娘とがいる。夫は有名商事会社の営業部長で女学校を卒業して直ぐに結婚 した俊子は何の波風もない平坦な三十年の道を歩いて来たのだ。 「相沢でございますー 俊子は低い、落ち着いた中年の声で出て来た。 「おトシ ? 」
史はいった。 「私。ふう公 : 「あっ、ふう公・・・・・・元気イ ? 」 かんだか たちま 俊子の声は忽ち変化した。俊子は史と話すとき、生の声より必ず甲高くなる。それは少女時 代からそうで、今も変らない。 「おトシがびつくり仰天して、ひっくり返るようなことが突発した」 史はいった。 「それで長距離電話の料金モノともせず、電話をかけたんやわ」 「へーえ。なに ? 教えて、教えてー 俊子は忽ち女学生時代そのままのオッチョコチョイの調子を出していった。史は俊子と電話で 話をするたびに昔、長年共に舞台に立った漫才コンビのような気がすることがある。 「あのね、 ・ : あのね」 裏史はそういってエ ~ へ : : : と笑った。 回「何よ、勿体ぶって : : : 早ういいなさいよ」 九史はいった。 「藤堂研からね、手紙が来た : : : 」 「ひえーっー もったい
俊子は溜息と一緒にい 0 た。丸田茂子は = 一年前にで死んだのだ。俊子も史も茂子が中学生 と小学生の男の子を残して死んだということを人伝てに聞いただけだった。 「ああ、ふう公、歳月が流れたんやねえ : : : 」 俊子はしみじみといった。 「お互いに長いこと、生きて来たんやねえ : ・ 「マルポンが死ぬとはねえ」 史はいった。 「死ぬとはねえ」 俊子が受けていった。 「ナゾを握ったまま、マルポンは不帰の客となった : : : 」 史はまた紙芝居屋の声色でいった。そのときふいに史の顔を涙が転げ落ちた。三十年経ったの だ。それそれがそれそれの人生を生きた。戦争を経てここまで来た。そうしてすべては過ぎ去っ 裏たのだ。もう再びもどって来はしない。 回甲東中学五年桜組藤堂研ーー 九史は思い出した。過ぎて来た遠い野末のたそがれの中の灯のように、その名は瞬いていた。史 の中に埋もれ死んでいたものが、今、蘇り、立ち上ってくるのを史は感じた。彼は XO+O と胸 そでひじ に書いたユニホームを着、濃紺のアンダーシャツの袖を肘までまくり上げてバットを振っていた。 またた
史が藤堂の手紙を読み終えると、俊子は、 「ふうーん」 ためいき と感じ入ったような声と一緒に深い溜息をついた。 「世の中、変ったなア : ・ 俊子はいった。 「天下の藤堂研もオチメの兆ありやね」 「何をいうかー 史は浮き立って怒ってみせた。 「彼は五十歳にして真実に目覚めたのよ」 「真実に目覚めたはよかった : : : 」 俊子は笑いこけた。 「しかし、ふう公、逆転ホームランやね」 「九回裏で ? 」 回史はいった。 九 「ホームラン打っても、九回裏じゃあしようがないよ」 史は電話を切った。そのロにさっきの笑いがまだ残っているのを意識した。史はその笑いを消 した。電話のある大机の上には原稿用紙が広がったままになっていた。史はその原稿用紙の上に
「そんなこと聞くと、藤堂の手紙はますますおかしいと思えてくるわー 俊子はいった。 「その後、藤堂はさアちゃんとどうなってるの ? 」 「知らん・ : : ・」 「さアちゃんは幾つ ? 」 「五十でしよ、藤堂と同い年やったから。 「五十 ? へえーエ、もう五十 ? あのイケズの女の子が」 「あんただって四十六よ。オッチョコチョイの女の子が : : : 部長夫人になってるー 俊子と史は暫く黙った。 「なんやしらん、がつくり来るねえ。こんな話してると : : : 」 俊子は気が抜けたような声を出した。 「藤堂はほんまにふう公に会わせてくれとマルポンにいうたのか、あんな不良は嫌いやという たのは本当か、なぜマルポンはさアちゃんの機嫌ばっかり取ってたんか : : : マルポンに聞きたい こといつばいあるわねえ : : : 」 「すべてのナゾはマルポンが握ってる ! 」 史はいった。史はそれを紙芝居屋の声色でいった。 「聞きたいねえ、マルポンに : こわいろ
「いてはる、いてはる」 電車が甲東中学の上にさしかかると、俊子はそういって騷いだ。俊子のほかにいつも二、三の クラスメート、 がいた。みんなはまるで自分のことのように興奮して、窓ガラスに顔を重ね口々に 何やら叫ぶのだった。駅が間近なために甲東中学の上あたりから電車はスビードを落す。電車が 校庭の上を通り過ぎる間、史は瞬きをするのも惜しいような気持で、藤堂の姿を見つめた。史の 一日はそのひと時のためにあるかのようだった。そしてその時が過ぎると、もう史の一日は終っ てしまったような気がした。 しかし史のそれほどの努力にも拘らず、藤堂研は史を無視していた。史は一度、雨の日に駅の 。フラットフォームで藤堂研とばったり出会い、興奮のあまりやにわに駆け出して、階段から転げ 落ちたことがある。 「藤堂、笑うとったよ」 と俊子がいった。史は腰の痛みを我慢して立ち上りながら、それでも藤堂の注意を引くことが 裏出来たのを嬉しく思うのだった。 回 「さすがのふう公も藤堂にかかったらチリアクタやね」 九と史のグループの連中はいっていた。 「ハナもひっかけん、という顔してるわ」 「そこがエ工のんがわからんか ! 」 かかわ
「誰がそんなことをいったんだ。ひどいこというなあ、ぼくはね、あんまりさアちゃんがみす ぼらしいのでそうしてやっただけですよ。さアちゃんばかりじゃないよ。あの姉の方にだって小 遣いをやったよ。あの姉妹ばかりじゃない。昔の友達は戦後、皆困ってた。ぼくはいわばアプク ゼニのようなものを取っていた。だから、友達の中で困っている人間は、ずいぶん面倒をみた よ 阿川がもどって来たので史はロをつぐんだ。 いいですなあ : 阿川は、席について自分のコツ。フにビールを注ぎながらャケクソのように頭をふった。 「美しい話だ : : : そばで見ていても気持がいい : そうして、さあ、もっと聞きましよう、と居直った具合に、藤堂と史を見た。しかし、藤堂も 史も暫くの間、黙ったままだった。 丸田茂子は藤堂研を愛していたのだ 史は思った。二人のイトコが怖かったのではない。藤堂研を愛していたのだ。俊子が躍起にな って不審がっていた点がそれで解明出来る。史は電話でそのことを俊子にいう場面を想像した。 ひやア : : : そう ? ・ 俊子は女学生時代の例の調子で叫ぶだろう。そうしていう。 あんた、ふう公、マルポンにポロ負けやねエー
れがわかっていながら、史は俊子を誘ってそのあたりをさまよわずにはいられなかったのだ。そ うして藤堂の姿を求めてさまよっていること自体に、史の幸福感があるのだった。 「藤堂はふう公のこと、知ってるのんやろか」 ある時俊子はいった。 「さあ : ・ わからへん : : : 」 「知らんやろうねえ。いつも野球場の外野か電車の窓から見てるだけやもん、知ってるわけな いわね」 「うん、そうや。知らんやろう」 「ふう公、それでもかまへんの ? 」 「うん、かまへん」 「ほんまに : : ほ・ん・ま・にかまへんの ? 」 「うん、かまへん」 裏「藤堂とっき合いたいと思わへんのん ? 」 回 、「うん、思わへん : : ・・」 九「結婚したいとも ? 」 「思わへんよ。勿論 ! 」 史は力をこめて叫ぶようにいった。