先生 - みる会図書館


検索対象: 九回裏
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1. 九回裏

ところでその朝、応接間に上りこんでいたのは田所由紀という十六歳の少女だった。由紀は久 の愛読者だといい、はるばる広島から久を尋ねて上京して来たのだ。 「一週間前にお母さんが亡くなったんだそうですよ。母一人子一人だったんですって。可哀想 に原爆症で : : : 一人ぼっちになったので先生を頼って来たんですよー はす 少女は高校一年を終えて、この春二年に進級する筈だったが、母が死んだので、高校を中退す ることにしたのだ、と工藤は説明した。 「先生がクジュニア季節クでしておられる身の上相談をずーっと読んでいて、それで出て来た んだといっています」 久の身の上相談の回答は激越すぎるといって屡編集部から書き直しを要求されていた。普 通ならばなだめたり慰めたりするところを、久はすぐに突進したり破壊したりすることを勧めて しまう。 「積極的に生きなさい。積極的に生きれば必ず道は開けます。人生は突進力です。自信です」 それが久の身の上相談を一貫して流れる思想だったのである。 久は応接室へ入って行った。入口に一番近いソフアに、少女は背中を向けてうずくまっていた。 いや、正確には向うを向いて腰かけていた、と書くべきだろうが、久がうずくまっていると感じ たのは、その背中の幅が並以上に広く厚ぼったく丸まっていたからであったろう。 「お待たせしました。どういうご用 ? しばし要

2. 九回裏

といった。 「あっ 久は驚いて、 「まあ、偶然 ? と叫んだ。ク微笑は風に乗ってクとは三年前に久が書いた少女小説の題名である。その中には 田所由紀という名の十七歳の美少女が出て来る。 「あの小説読んだときから、先生のファンになったんじやけど、何か自分のことが書かれとる ような気がしてしもうて : 由紀はいった。 「うちの組に大塚君いう男の子がいたんじやけど、大塚君は男子の委員でうちが女子の委員で、 いつも一番を竸争しおうたんです。大塚君は二年に進級したけえど、うちは学校をやめにゃあな らんことになったんです。赤松先生ちゅう先生が担任で、えろううちを贔屓にしてくれて、つづ けて学校へ行かせてやりたいというて、色々心配してくれたんじやけど、おえんかったんです。 せんべっ こけえ出てくる時も赤松先生と大塚君が駅イ送りイ来てくれて、赤松先生からは餞別もろうたし、 大塚君はこれをくれたんじゃ」 えり 由紀はセーターの衿もとをずらして金色の。ヘンダントを見せた。 「中にや大塚君の写真が入っとるんじゃ」 ひいき

3. 九回裏

214 「先生は興信所に調査を依頼したのは自分のワイフだとは知らないものだから、どこからかの 調査だと思って、観念したのよ。遅かれ早かれこのことは世間に洩れる日が来る。それなら自分 の方から堂々とすべてを明るみに出して、教育界を引退しようと決心したの、教育界から身を引 けば、何をしてもいい。もうこの後は人間としての幸福を追うだけだって : : : そういってくれた のよー 「あなた、興信所の調査依頼は奥さんが出したんだっていわなかったの ? 「いわなかったのよ。だって、先生は教育関係者だと思い込んで、そのために、こういう決心 をしたんですもの。私、いわないわ」 「じゃあ、どうなるのよ、生活は ? 君子は思わず詰るようにいった。 「地方の町へ行って、学習塾でも開くかなあっていってたわ。都落ちよ」 「じゃあ、家族はどうなるのよ。子供は ! 」 「仕方ないわ。先生は家を出るんですもの : ・ 君子は叫んだ。 「じゃあ、父としての責任はどうするのよ。夫としての責任、社会人としての責任を放棄して 逃げるの ! 」 「仕方ないわ」

4. 九回裏

晩春の午後の空気が真綿のように君子を包囲するのを感じた。夏の酷暑や冬の厳しい寒さの中 けだる でのひとりぼっちよりも、この春の懶いやわらかな光の中の孤独こそ耐え難いものなのだ。 ひさおみ あっけ 君子は電話帳を繰った。教頭の名前は後藤田久臣という。その名は呆気ないほど早く見つかっ た。呆気ないほど早く見つかったことで、君子の衝動を推し進めるものがあった。君子はダイア ルを廻した。 「後藤田でございます」 かん高い元気のいい声がいった。 「後藤田先生の奥さまでいらっしゃいますか」 君子はいった。 「後藤田先生は京都へご出張とか伺いましたが、奥さま、ご存知でいらっしゃいますか。先生 と同行していらっしやるご婦人のことを : : : 」 相手は一瞬、ためらった後で、 「それはどういう意味でございましよう ? ・ といった。その声は最初の声より少し高く上ずった。 「あら、ご存知ないんでございますか、奥さま」 君子はいった。 「市村華子さんという女性のことを :

5. 九回裏

どうか帰してやって下さい。 上条久先生様 田所由紀は田所由紀という名ではなかったのだ。彼女は田中くめ子という。広島生れではなく、 岡山の人間だ。原爆症で死んだ筈の母親は健在で、交通事故で死んだという父親は漁師で海へ出 ている。十六歳の高校生ではなく、まだ中学生だったのだ。 「よくもまあ、よくもまあ : : : 」 工藤はそういったきり絶句した。 「私は : : : もらい泣きまでして : : : じゃああれは全部、ウソだったんですか ! 」 久は呆気にとられて、暫し三十万円の損失を忘れた。 「じゃあ、あれもウソだったんですか。待合室でテレビ見たら婦長に叱られたという話」 円 千工藤はいった。 万「赤松先生が来たという話も。大塚君も : : : 」 三工藤は重ねていった。 「タクシーの運転手が先生を知ってたという話も : : : 」 工藤は急激に怒りがこみ上げて来た顔つきになった。 田中クラ拝

6. 九回裏

たのだという 赤松先生は春休みを利用して上京して来たのだが、上京の目的の中には由紀に会うことも加わ っていた。赤松先生は由紀にこんな話を持って来たのだ。広島に七十八になる資産家の老婆がい むすこ る。老婆には三人の息子がいたが、三人とも戦争で死んでしまい、そのうちに老夫とも死に別れ て今では大きな家に一人で暮している。もしこの老婆の面倒を見てくれる女の子がいれば、条件 として高校と大学を卒業させてやるという話である。 「それはいい話じゃないの。願ってもない条件だわー とびつくような思いで久はいった。 「何といっても広島は生れ故郷だわ。お友達もいるし、赤松先生もいらっしやるんだし、故郷 で暮すのが一番よ」 「それがいいわ、それがいいわ」 工藤も身を乗り出した。 「由紀さん、あんた、運が開けて来たわよ。今まで苦労したけど、これからきっといいことが あるわよ」 まゆ 由紀は眉までかぶさっているおかつばの下から小さな目で久を眺め、 「ええじやろうか」 といった。

7. 九回裏

し新年号に大熊将吉の小説を掲載出来るということになれば、グラビアの失敗ぐらいは微々たる ものである。 「いやあ、思いがけないところにチャンスというものはあるものだねえ : : : 」 関は今度は正面から友平を見ていった。 こっちはイロゴト顧問として裏をかいた : 「田島がもっともらしくお茶をたててる間に、 や、こいつはケッサクだよ、アッハッハッハア : : : それにしても新年号が楽しみだー しんじゅく 友平が新宿のバーで田島に会ったのは、十一月号が出て間もなくである。 「野間さん ? いっそやはどうも , 田島はカウンターの向う端から、いかにもやり手のジャーナリストらしくなめらかな声で簡単 物いさっ に挨拶すると、 「大熊夫人がカンカンですよ、野間さんー と笑いを含んだ声を出した。 は 「大熊先生の、ほら、アンミッ屋の娘、おたくのグラビアで使ったでしよう ? 夫人は先生と にら ぎげん 湯野間さんとが結託したと睨んでおられたんですがね、ご機嫌ななめでね」 「そんな : ・ : とんだヌレギヌですよ。ぼくはただ、先生から紹介されたので、グラビアに出て もらっただけで : : : 」 「いいじゃないですか、ぼくにまでそんなに隠さなくたって :

8. 九回裏

邦子が玄関を入ると母はいそいそと迎え・に出て来た。 「大曾根先生はどんなお方やった ? 「なんやしらん、大分、イメージと違うたー 邦子の声からは力が抜けた。邦子は今まで図書館に勤めながら、地味にコッコッと歴史小説を やまとじ 書いて来た女である。図書館と自分の家のほかは、大和路や京都の史跡を歩く以外に出歩いたこ とがなく、つき合う人間もいない 「ああ、うち、もう、ようやって行かんわ , 邦子は茶の・間に坐るなり思わす嘆息した。 「うちらみたいな田舎者の世間知らす、色んな人と互角に渡り合うて世の中渡って行くなんて、 とても出来へん : 母は眉をひそめてほうじ茶をいれかけていた手を止めた。 「どないしたんや ? 何ぞ、大曾根先生にいわれたんか ? 」 「何もいわれへんけど : : : 」 邦子は絶句した。この真面目一徹の母にどうしてブップ島の初夜権の話などいえよう。あんた たず は失神したことがあるか、と大曾根先生に訊ねられたといったら、母はどんなにびつくり仰天す はす ることだろう。しかも邦子はものの弾みとはいえ、処女でないようなことをいってしまった。あ の言葉があのまま、記事になって出たら、母は何というだろう。図書館の連中も何と思うだろう。

9. 九回裏

「大学の先生らしいんですがねー 「まあ、大学の先生 ! 」 「何だか、ぼくもよくわからないんですがね。ご亭主が浮気でもしてるんじゃないのかな。よ くあるケースなんですー 犬飼はおしゃべりらしく赤い唇をなめた。 「で、彼女も負けずに浮気してるってわけですか ? 「それが、そうじゃあないんですね。つまりゼスチュアなんです。浮気のゼスチュア : : : 」 「女の人って可哀想なものですね。憂さ晴らしをするといっても、男みたいにそうザラにチャ ンスが転がっているわけじゃないんですねー 「だからぼくみたいな者を相手にしなければならないんですよ 犬飼は笑った。 「美容師をしていると色んな女の人に会います。しかしどの女性も形こそ変われ、それそれに 三可愛らしく、あわれなものですね」 「ゼスチュアじゃなくて、そのうちに冗談からコマが出た、というようなことになるんじゃな くて ? 」 つの心、

10. 九回裏

加 1 重たい春 君子は追及するようにいった。 「ご存知ないんでございますか ? 何もフ 「いえ、名前だけはちらと : : : 」 相手の上ずった声は心細げに低くなった。 「後藤田は市村さんと一緒に京都へ参ったんでしようか」 「先生は今朝、何時にお出かけになりました ? 」 「朝の九時半の新幹線に乗ると申しまして。京都での会議が二時からあるとかで : : : 」 「ははあ、それはちょっと怪しいですね」 君子は落ち着き払った声を出した。 「会議は明日の二時からあるんです。今日は金曜日でしよう。何もありませんよ」 「まあ : : : 本当でしようか」 「で、先生はいっ帰るとおっしゃいましたか ? 」 「月曜日の夜に。明日は大阪で別の会議があるといってましたけど」 「ほ、ほ、ほ、ほ」 と君子は笑った。 「色々と会議があってお忙しいですわね」 「では後藤田は市村さんとずっと一緒なんでしようかー