と返事があって、やがて伸代夫人が、紅茶を持って入って来た。 「野間君が困った問題を起してね」 大熊氏は伸代夫人にいった。 「ええ、今、伺いましたわ。あちらで : : : 襖越しに聞えましたのー 夫人は友平を見ていった。 「野間さんはその方と結婚なさるべきですわ : 「えっ 「妊娠までしているのですもの、当然じゃありませんか」 夫人の声は高まった。 なこ・つゞ J 「僭越ですけど私たちでお仲人くらいさせていただくわ、ねえ、あなた」 「はあ : : : ありがとうございますが : ・ : ・しかし : : : 」 友平の顔に汗が吹き出た。 「わ、わたくしには妻が : 「まっ、なんですって ! 」 「妻が : : : そのう・ : : ・目下妊娠中で : ・ : ・」 「まあ ! せんえっ
伸代夫人は友平と大熊氏をかわるがわる見た。伸代夫人の顔は変化した。伸代夫人はものわか りのいい顔をしているが、本当は男女の不倫の関係を人一倍憎む人である。 「奥さんと外の女を同時に妊娠させたの ! 男の人というものは : : : まあ ! 伸代夫人の顔はこわばった。 「いったいどうする気なんですよ、野間さん、そんな無責任なことをして : : : 」 詰めよる伸代夫人の前に友平はじっとうなだれて耐えた。友平が耐えているものは、今、彼が 置かれているその立場の理不尽に対してである。この世の中は強いものが勝ち、弱いものはトコ トン負けるのだ、と、友平の父が昔いっていたことが今、ふいに思い出された。友平の父もきっ とその時、弱い立場であるが故に、男として耐え難きを耐え忍ばなければならなかったのだろう。 「そんな風にいうもんじゃないよ、伸代」 さすがに大熊氏は困惑顔で夫人をたしなめたが、その困惑顔の下に、これで襲いくる危難から あんど 身をかわすことが出来たという安堵の色が、隠すべくもなく滲み出ていたのである。 夜更けて友平は大熊邸を辞去した。門を出ればいっか秋は深まって、中空にさしかかった月が 湯芝居のカキワリのようにく 0 きり見える。冷たい夜気の中で躬慄いをして、友平は汗を拭いた。 茶 「野間さんの奥さんがこのことを知ったら : : : 可哀想にどうなさるでしよう : : : 」 伸代夫人の声がまだ耳に残っていた。
「田島さんと大木戸さんが今、お稽古中です」 「お稽古日 ? 」 「はい。お茶の」 家政婦はにつこりした。 「およろしければご案内しますが : : : 」 「お願いしますー ふくさ 茶室へ行くと丁度、大木戸が武骨な手つきで、伸代夫人から袱紗さばきを習っているところだ 「大木戸さん、そう固くならないで : : : しゃちこばらないで : : : 」 夫人は大木戸に向っていうと、友平を見てにつこりした。 「野間さんもお稽古なさるの ? 」 「はい。お願いします : : : 」 は夫人は今日は上機嫌だった。夫人は端坐し、ふいにおごそかな声でいった。 日勿 「茶の湯とは、ただ湯をわかし茶をたてて飲むばかりなることと知るべし」 の りキ一ゅうこじ 「利休居士のお歌ですな」 待っていたように田島がいった。 「そうでございます。この歌にこめられておりますところのお茶の心、茶道の哲学ーーそれは
側を向いていう。はじめのうち友平はそれを関の女性的な性格からくる意地悪だと思っていたが、 この頃ではそれは関の気の弱さのせいかもしれないと思うようになった。野間友平は心の優しい 青年なのである。優しいばかりではない。多分に人のいいところもある。 小説プリンスは、大熊氏が小説を書かなくなってから売れ行きを落しはじめた。大熊氏は当代 流行作家の三本の指に数えられる一人で、大熊氏の名前があれば、間違いなく三割は売れ行きが 伸びる。殊に大熊氏の描く女体とその情事のこと細かな描写は、性読本として青年層に広く読ま れているのである。 その大熊氏は文学上の理由で当分の間、過作を控えると宣言したのだ。その宣言は伸代夫人の 忠告によるものだといわれていたが、いや、忠告などではない、命令なのだ、と暗に大熊家にお ける伸代夫人の権力を諷する者もいたのである。 過作を控えている大熊氏は小説海流にだけは引きつづき執筆していた。なぜ小説海流にだけ書 くのか。それは小説海流の田島研が大熊夫人のお気に入りのためである。大熊夫人はもと小学校 きようべん はで教鞭を取っていたこともあり、貞淑で控え目な良妻として出入りの者から尊敬されていたが、 その貞淑で控え目な日常の底で、大熊氏に対して隠然たる勢力を持っていた。大熊夫妻には子供 の がないが、それは新婚当時、大熊氏が夫人に移した性病のせいだといわれている。 「子供さえいればねえ : : : あなたが一人二人、女を作ったって、私、かまいません」 大熊氏は浮気がバレるたびに夫人からしみじみそういわれると一言もなくうなだれるのであっ ふう
そうは 友平はセッ子を連れて掻爬手術につきそうために山田産婦人科へ行った。友平はまた大熊氏に 頼まれたのだ。山田産婦人科医は関編集長の隣家である。さして大きくない住宅街の中の開業医 で、若い看護婦と夫人の二人が手伝っている。 「関さんのご紹介でいらっしゃいますから、出来るだけ、お安くさせていただきますわ」 たた セッ子が手術室へ行ったあと、山田夫人は待合室に出てくると顔いつばいに愛想笑いを湛えて、 呉服屋のようなことをいった。 「何もご心配はいりませんのよ。まあ、心配してそんなに緊張なさって : : : いい旦那さまねえ、 ホントに奥さまを愛していらっしやるんだわ : 山田夫人は親切そうな女だが、おしゃべりなのが欠点である。 「いっ結婚なさって ? 」 「はあ、三か月ほど前です : : : 」 「まあ、新婚ホャホャねえ。三か月じゃあ、赤ちゃんが生れると邪魔ですわねえ。もう少し楽 しまなくちゃあ : : : ホントよ、ホント、オホホホ」 日曜日なので山田医院は本日休診の札を出している。しかし待合室には三人ばかりの女がいて、 山田夫人と友平の会話を聞いている。 「この方たちもお仲間ですから大丈夫よ、ねえ ? 」 山田夫人は三人の女の方を見て笑いかけた。
またこの人生にも通じるところがあるように思われます」 「はあ」 大木戸と友平は声を揃えていった。 そら 「お二方にも是非、この歌を諳んじていただきたく思いますー 夫人は改まっていった。 「茶の湯とは , 大木戸と友平は声を揃えていった。 「茶の湯とはー 「ただ湯をわかし茶をたてて」 「ただ湯をわかし茶をたてて」 うつ 友平は虚ろな顔を夫人に向けて大木戸と声を合わせた。一切が夢の中のような気がした。ここ はどこなのか ? 俺はここで何をしているのか ? そう思いつつ友平はいった。 「飲むばかりなることと知るべし」
172 といった。 「コーラが飲みたいのよう、コーラ」 セッ子は我儘な調子でいった。友平は黙って病室を出、階段を下りて玄関へ出た。靴をはいて いると山田夫人が出て来ていった。 「あら、山科さん、お帰り ? 「いえ、コーラを買いに」 「コーラを ? 奥さんがお飲みになるの ? 」 「はあ・ : ・ : 」 「まあ、お優しいことねえ」 山田夫人はわざとらしく目を丸くした。 「行っていらっしゃい。そこの角を曲って三軒目に酒屋がありますわ」 「そうですか、では行って来ます」 ひるす 友平は日曜日の午過ぎの、明るい静かな秋の中を歩いて行った。角を曲り、酒屋の前を通り過 ぎてどんどん歩いて行った。 「よオ、野間君じゃないかー 声をかけられてふり向くと、小学生の男の子を連れた関が、日曜日の父親らしくプルーのカー ディガンを着て立っていた。 わがまま
し新年号に大熊将吉の小説を掲載出来るということになれば、グラビアの失敗ぐらいは微々たる ものである。 「いやあ、思いがけないところにチャンスというものはあるものだねえ : : : 」 関は今度は正面から友平を見ていった。 こっちはイロゴト顧問として裏をかいた : 「田島がもっともらしくお茶をたててる間に、 や、こいつはケッサクだよ、アッハッハッハア : : : それにしても新年号が楽しみだー しんじゅく 友平が新宿のバーで田島に会ったのは、十一月号が出て間もなくである。 「野間さん ? いっそやはどうも , 田島はカウンターの向う端から、いかにもやり手のジャーナリストらしくなめらかな声で簡単 物いさっ に挨拶すると、 「大熊夫人がカンカンですよ、野間さんー と笑いを含んだ声を出した。 は 「大熊先生の、ほら、アンミッ屋の娘、おたくのグラビアで使ったでしよう ? 夫人は先生と にら ぎげん 湯野間さんとが結託したと睨んでおられたんですがね、ご機嫌ななめでね」 「そんな : ・ : とんだヌレギヌですよ。ぼくはただ、先生から紹介されたので、グラビアに出て もらっただけで : : : 」 「いいじゃないですか、ぼくにまでそんなに隠さなくたって :
「はあ : : : 」 「そう思いませんか、多田さん」 「はあ : : : そういうものかもしれませんね」 「そういうものかもしれませんですて、そんなノンキなもんやないですよ。酋長というものは、 君、全能の神に近い存在ですからな。インボの酋長なんて、そんなもの、土人には考えられんー 「はあ、そうでございますか」 「婚礼の前の晩はぼくは眠れなんだですね。女郎買いに行って立たなんだというのとは違いま す。こっちはゼニ損したらすむだけや、しかしプップ島の方は日本人の名誉がかかっとる。ここ だけの話ですがな、多田さん、ぼくはこの年になって、処女というもんを一人も知らんのですー 「はあ」 「ぼくは初婚やったが、女房は再婚でね。ぼくは処女というものにはついにお手合せ願えなん だです」 「あなた ! 」 夫人の声が響いた。鉄太郎はヨタヨタと立ち上り、ちょっと失礼といって、料理を運んで来た 女中と夫人の肩につかま 0 て 2 立 0 て行 0 た。鉄太郎は糖尿病の外に、坐骨神経痛も病んでい るのである。 鉄太郎が出て行くと、部屋の中はシンとなった。速記者は鉛筆を置いて手を膝に載せた。邦子 ほか
「不感症の女にはしばしば淫乱がおるというが、大館美千代はそのテゃないかとぼくは思うん 「あなた」 と夫人の静かな声がまたいった。鉄太郎はそれにはかまわず、 ずうたい 「あの大館美千代が、あのウワバミみたいな図体で失神するかね。考えただけでもものすごい 光景ではないかね、そう思わんですか ? 」 「あなた ! 」 夫人の声は高くなった。肥った中年女の速記者は、表情を変えずにせっせと鉛筆を走らせてい る。鉄太郎はまた小芋を転がした。テープルの上を転がるのを追いかけ、思いきったように握り 箸にして真上から突き刺すと、平気でそれを口の中に入れた。鉄太郎はいった。 「ぼくはね、多田さん、三年前に南洋のブップ島という所へ行ってね、そこの長代理を三日 やりましたよ」 「はあ、さようでございますか、ブツ。フ島といいますと、どのへんでございましよう」 邦子はほっとしていった。これで不感症や失神の話題は終ったのだ。これから、話は本題に入 るのだろう。 「そのブップ島というのは実にええ所でしてねー 鉄太郎は邦子の質問には答えずに身体を乗り出した。 からだ しゅうちょうだいり