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検索対象: 九回裏
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1. 九回裏

「こら ! もういつ。へんゅうてみイ」 めがね などと怒った。藤堂研は黒縁の眼鏡をかけていた。史は女学生時代の思い出として、またこん な文章を書いたこともある。 「ある日、私は母にいった。 『メガネ、買わんならんーー』 『メガネ ? なんでそんなもん、いりますのんや ? 』 母はうさんくさげに私を見ていった。 『近眼と乱視とが入りまじってるんやて』 私 . まいっ ~ 」。 『先生がメガネかけなさい、いわはったーー丨』 ク先生がいわはったクというと母は大抵のことは譲歩した。私は母に貰った五円札を握りし もちろん 裏めてメガネ屋へ行った。そうして黒いセルロイド縁の素通しのメガネを買った。勿論、私は近 回 眼でも乱視でもなかった。 九 学校へ行くと私はそのメガネをかけて歩いた。そうしてメガネの中央部を人さし指で押えて は悦に入った。それは藤堂選手がグラウンドでする癖なのである。私の慾望はエスカレートし しようどう て私はその仕草をグループの連中の前だけでなく、全校生徒の前でやってみたい衝動に駆られ

2. 九回裏

た。学校では週に一度、全校生徒が講堂に集って、一つのテーマのもとに各学年の代表が短い 演説をする時間があった。 私はク非常時日本の我らの覚悟クという演題で演説をすることになった。私は自分から進ん でその役目を引き受けたのだ。私は演説を終ると演壇を下り口の方へ歩いて行きながら、人さ し指を上げてメガネの中央を押える、あの癖をやるつもりだった。そうして実際にそれをした。 私の学年から弾けるような笑い声が上った。笑い声の中には歓声も混っていた。教頭がすっく と立った。そうして叫んだ。 『三年生、総員起立 ! 』 たちおうじよう 私の友達はゾロゾロと立った。私は演壇の下り口に立往生した。 『何がおかしい。笑った理由をいうてみなさい。一番前ーー・』 指さされた同級生が、モジモジしながら、泣きそうな顔でいった。 『小山田さんが : : : 笑わせたからです』 私は観念した。 『小山田、何をした。やってみイ』 教頭がいった。私は仕方なくそこに立ったまま、眼鏡の真中を指で押えた。 『何じゃ、それは : : : 』 教頭はヘんな顔をしていった。 まんなか

3. 九回裏

『こんな落書きをしたのは誰だリ』 クラスの者が黙っているので、教頭は更にいった。 『ふみというのは、小山田のことか。こんなことを書かれた小山田の身になってみイ』 私は途方に暮れてうなだれた。後ろの方で忍び笑いが聞えた。 『書いた者は出て来て拭きなさい。そして小山田に謝れ ! 』 私はその瞬間、大地震が来て学校が壊滅することを神に祈った。しかし地震は起らず、教頭 は声を励ましていった。 『なぜ出て来ん ! なぜ隠す ! 』 仕方なく私は出て行った。机と机との間を歩いて黒板の方へ行くとき、私はク雲を踏むよう なクという表現はまさにこれだ、と思った。私は黒板拭きを手にして落書きを消した。私は教 頭の顔を見ることが出来なかった。それは怖れというよりは、教頭に対する申しわけなさ、い や、気の毒さといったような感情だった : : : 」 何か月か前、史はそんな文章を雑誌に書いたことがある。藤堂のことをク裂股クと呼んでいた 史は、いっか「研様」と呼ぶようになっていた。友達の中に「藤堂」と呼び捨てにする者がいる

4. 九回裏

316 佐藤さんの作品については、もう五、六年も前のことだが、私にはおかしな、忘れられない記 憶がある。 「ソクラテスの妻 , という作品を「半世界」という同人雑誌から「文学界」 ( 三十八年六月号 ) へ転載したときのことである。私たち「同人雑誌評」のグループ ( 久保田正文・小松伸六・林富 士馬の三氏と私との四人 ) は、毎月の同人雑誌を半分にわけ、二組にわかれて読み ( 同じ組の二 人は同じ雑誌を読む。つまり一つの雑誌を二人が眼をとおす ) 、そして選び出した作品を持ち寄 って同じ組で相談をし、それを他の組が選んだ作品と交換した上で、もう一度集って転載作をき めるという仕組になっているのだが、「ソクラテスの妻 , は第一回の会合のとき相手の組からも らった何篇かの中の一篇だった。 家へ帰って「ソクラテスの妻」を読んでいるうちに、私は、ヤラレタ ! と田 5 った。というのは、 黒い色のワイシャツを着た男はみん それがトビキリの傑作で感心したというわけではない なロクデナシである、というようなことが書かれていたからである。 第一回の会合のとき私は偶然、黒いワイシャツを着て行った。そしてなにも知らずに、黒いワ イシャツの男はロクデナシだと書いてある雑誌をかかえて帰ってきたわけである。それがおかし かった。読みながら私はひとりで笑いだした。 第二回の会合のときには、私はこんどはワザと、また黒いワイシャツを着て行った。 『ソクラテスの妻』ね。まあまあだな。佐藤さんの作品としてそういい方でもなかろう。しか

5. 九回裏

と史は負けぬ気をふるっていった。 「そんじよそこいらのガチャ蠅とは違う。ナミの男とは違う。そこがエ工のやわ」 かっこ 「藤堂は気どり屋のエ工恰好しいや」 そういった俊子を史は本気で抓った。 一か月ほど前、私は貴女の書かれたみ相合傘クというあの落書きの随筆を雑誌で読み、大へ ん懐かしく思いました。そして長い間、私の胸の底に納めていたことを、ふと貴女に報らせた いという気持になりました。 それはあの頃、貴女より以上に私は貴女に憧れていたということなのです。丸田の茂ちゃん から私はいつも貴女の言動を聞いて知っていました ( あの随筆に書いてあることも知っていま した ) 。それで茂ちゃんに一「三度ふうちゃんに会わせてくれと頼みましたが、茂ちゃんは会 わせたいけど隣のイトコが怒るからと困ったような様子でした。よし、こうなったらひとりで、 意地でもふうちゃんに会うんだと私は四か月間、朝六時に家を出て国道電車をわざわざ上甲子 園で乗換えて通学しました。貴女の家の前も何回歩いたかしれません。しかし遂に一度も貴女 に会うことは出来なかった。一体、貴女は何時頃家を出て学校へ行っていたのですか。貴女が 三年生の二学期でした。私は大体計算をして七時頃、上甲子園で乗換えましたが、四か月頑張 あきら って遂に諦めました。 ばえ あこが がんば

6. 九回裏

市村さんは本当に後藤田さんを愛しているのかどうか、私には疑問に思われますわ。どんなこと をしてでも奥さんを追い出してみせるとか、ご主人の教育者としての立場を犠牲にさせてでも一 緒になってみせるとか : : 聞いていますと、市村さんは後藤田さんの家庭を壊すことばかり考え ているんです。結婚出来なくてもいい、結婚しなくてもいいから、とにかく奥さんと後藤田さん を引き放せばそれで満足だなどと : : : ご主人はたいへんな人に引っかかっています」 「まあ ! 」 後藤田の妻はキイキイ声で叫んだ。 「まあ、なんてろしい人なんでしよう ! 」 ・こ、を」ら 「私、世の中で曲ったことが大嫌いなんです。不正を見ると私の正義心が黙っていられなくな るんです。私、奥さまの味方をしたくなりましたの。後藤田さんが市村さんのために破滅して行 くのを見てはいられませんわ。世の中の秩序を守るためには、ひとのことだからといって、ほう っておいてはならないと思うんですのよ。私ってそんな人間なんです [ 春 「それにしても、後藤田は、まあ、なんてバカなんでしよう。教育者ともあろうものが : た後藤田の妻は君子の述懐を半分も聞かずにわめいた。 「奥さま、お教えしましよう。ご主人は辞表を出して、何もかも捨てて、市村さんと都落ちす るといっておられますよ」 「まあ ! そんな ! 恥かしいことを。主人は狂ってるんです ! 気違いだわ ! 」

7. 九回裏

角川源義 角川文庫発刊に際して 第二次世界大戦の敗北は、軍事力の敗北であった以上に、私たちの若い文化力の敗退であった。私たちの文 化が戦争に対して如何に無力であり、単なるあだ花に過ぎなかったかを、私たちは身を以て体験し痛感した。 西洋近代文化の摂取にとって、明治以後八十年の歳月は決して短かすぎたとは言えない。にもかかわらず、近 代文化の伝統を確立し、自由な批判と柔軟な良識に富む文化層として自らを形成することに私たちは失敗して 来た。そしてこれは、各層への文化の普及滲透を任務とする出版人の責任でもあった。 一九四五年以来、私たちは再び振出しに戻り、第一歩から踏み出すことを余儀なくされた。これは大きな不 幸ではあるが、反面、これまでの混沌・未熟・歪曲の中にあった我が国の文化に秩序と確たる基礎を齎すため には絶好の機会でもある。角川書店は、このような祖国の文化的危機にあたり、微力をも顧みず再建の礎石た るべき抱負と決意とをもって出発したが、ここに創立以来の念願を果すべく角川文庫を発刊する。これまで刊 行されたあらゆる全集叢書文庫類の長所と短所とを検討し、古今東西の不朽の典籍を、良心的編集のもとに、 廉価に、そして書架にふさわしい美本として、多くのひとびとに提供しようとする。しかし私たちは徒らに百 科全書的な知識のジレッタントを作ることを目的とせず、あくまで祖国の文化に秩序と再建への道を示し、こ の文庫を角川書店の栄ある事業として、今後永久に継続発展せしめ、学芸と教養との殿堂として大成せんこと を期したい。多くの読書子の愛情ある忠言と支持とによって、この希望と抱負とを完遂せしめられんことを願 一九四九年五月三日

8. 九回裏

はんじようき 「連れ込みホテル繁昌記」と書いた。 翌朝、俊子から電話がかかって来た。 「やっと今、主人が出て行ったんで、電話にとびついたんやの」 いきなり俊子はいった。 「主人ときたら、早う出て行けばええと思うてる時に限ってグズグズしてからに : 俊子は朝から興奮していた。俊子の興奮はあるいは昨夜からずっと続いていたのかもしれない。 「ふう公」 俊子は急に改まった声を出した。 「私、あれからいろいろ考えたんやけど、ところどころ腑に落ちんことがあるのよ。昨夜はな にしろ興奮してしもうて、夢中やったけど : : : 」 俊子はいった。 「あれから私、こんなこと、思い出したんよ。あの頃、ふう公があんまり純情やったから、私、 マルポンにいうたことがあるの。ふう公があんなに藤堂のこと好きゃねんから、あんた、何とか お兄さんに頼んでふう公のために一肌脱いであげなさいよ、いうて : : : そうしたらマルポン、こ ういうたのよ。私もそう思うんやけど、藤堂にその気がないからどうも出来へんねん。藤堂はあ んな不良、キライやいうてるねん : : : って」 俊子はいった。 ひとはだ

9. 九回裏

つの心、 「じゃあ、ご主人が女の人とホテルから出て来たら ? 」 静子はたたみ込んだ。 「それでも町子さん、平気 ? 」 「だってこの頃はホテルで仕事の打ち合わせなんかするし、食事をすることもあればパーティ の招待だってあるし : ・ 「そんなパーティなんかやるようないいホテルじゃないのよ。二流のホテル」 静子は町子の方へ身を乗り出した。 「この間、夜遅く、主人がアジアホテルでご主人を見かけたっていうのよ。女の人と一緒だっ たらしいんだけど、その時、私、何となしにハッとしたわ。怖ろしいものね。よその且那さんの ことでも私はそんな時にハッとする習慣がついてしまってるのよ。そのことに気がついて、私、 町子さんならどうだろう、と思ったの 「アジアホテルってどんなホテルか知らないけれど : : : でも主人は出版関係の仕事で女の編集 者とか女子学生とか、いろいろと女友達が多いのよ」 「信用してるのね。たいしたものだわ」 静子はちょっとアテが外れたような、口惜しそうな表情になっていった。 「私だったら今頃、もう大騒ぎよ」 町子はそんな静子を見てゆったりと笑ってみせた。

10. 九回裏

れがユーモアになる。ペーソスもないわけではないが、カラリとしている。登場人物はどんなャ ツでも、つまるところは悪人ではない。おそらく、これらはみな佐藤さんの人柄からにじみ出る ものであろう。〉 そのあと私は同じ月 ( 十月号 ) の雑誌に発表された佐藤さんの三つの小説、「かなしきへル。フ」 ( 「小説セプン」 ) 、「ひとりぼっちのダンディ」 ( 「小説現代」 ) 、「おばはん、寝まホ」 ( 「小説宝石」 ) のそれそれに触れたあと、最後の小説について、 ・ユーモア小説というよりは、これはエロティック・ナンセンス小説といった方がよい そして、それとしてなかなかの快作である。とにかく、おもしろい。 「大時代ねえ。なんで地獄へ落ちるのよ。たかがイッパッやったぐらいで : : : 」 というシノブのせりふには、私は思わず吹きだした。そういえば佐藤さんは「イツ。ハッ、とい うこの勇ましい言葉がお好きのようで、「戦いすんで日が暮れて , の中にも、 「モトも取らないで、金を出すバカがどこにいるの。そんな根性だから倒産するのよ。ィッパ ツもやらないで三万も貸すなんて : : : 」 と「私ーが夫にどなりつけるところがあった。愉快である。御健闘を祈る ! 》 と結んでいる。 『九回裏』の諸作は、私が右の文章を書いてから一年乃至一年半あまり後に書かれたものであ