た。学校では週に一度、全校生徒が講堂に集って、一つのテーマのもとに各学年の代表が短い 演説をする時間があった。 私はク非常時日本の我らの覚悟クという演題で演説をすることになった。私は自分から進ん でその役目を引き受けたのだ。私は演説を終ると演壇を下り口の方へ歩いて行きながら、人さ し指を上げてメガネの中央を押える、あの癖をやるつもりだった。そうして実際にそれをした。 私の学年から弾けるような笑い声が上った。笑い声の中には歓声も混っていた。教頭がすっく と立った。そうして叫んだ。 『三年生、総員起立 ! 』 たちおうじよう 私の友達はゾロゾロと立った。私は演壇の下り口に立往生した。 『何がおかしい。笑った理由をいうてみなさい。一番前ーー・』 指さされた同級生が、モジモジしながら、泣きそうな顔でいった。 『小山田さんが : : : 笑わせたからです』 私は観念した。 『小山田、何をした。やってみイ』 教頭がいった。私は仕方なくそこに立ったまま、眼鏡の真中を指で押えた。 『何じゃ、それは : : : 』 教頭はヘんな顔をしていった。 まんなか
史はいった。 「私。ふう公 : 「あっ、ふう公・・・・・・元気イ ? 」 かんだか たちま 俊子の声は忽ち変化した。俊子は史と話すとき、生の声より必ず甲高くなる。それは少女時 代からそうで、今も変らない。 「おトシがびつくり仰天して、ひっくり返るようなことが突発した」 史はいった。 「それで長距離電話の料金モノともせず、電話をかけたんやわ」 「へーえ。なに ? 教えて、教えてー 俊子は忽ち女学生時代そのままのオッチョコチョイの調子を出していった。史は俊子と電話で 話をするたびに昔、長年共に舞台に立った漫才コンビのような気がすることがある。 「あのね、 ・ : あのね」 裏史はそういってエ ~ へ : : : と笑った。 回「何よ、勿体ぶって : : : 早ういいなさいよ」 九史はいった。 「藤堂研からね、手紙が来た : : : 」 「ひえーっー もったい
村安はそういうとエレベーターに向って先に立って歩き出した。 「彼女、堂々たる貫禄やそ。そのつもりでやれよ」 「もう会場に来てるかな」 「来てるやろ、展示のしかたがなかなか、うるさいんや」 豊作は微かに心臓の鼓動が早まるのを感じた。彼はエレベーターの中の小鏡に自分の顔を写し、 口を引き締めてきっとした表情を作ってみた。 ゃあ、しばらく : 彼は心の中で最初に友江にいうべき言葉を呟いてみた。 ぼくのこと、覚えて下さってましたか : 彼は鏡の中の自分に向ってニンマリと笑いかけた。そうしてその笑いがあまり、しまりがなさ すぎると思って急いで顔を引き締めたとき、エレベーターは止った。 「柴田友江による新作発表ー 鏡エレベーターを出た所に、大きな立札が立っていた。小机が用意されており、来会者の署名簿 眼が置かれてある。 老 「あれがただの展示会と違うとこや。つまり柴田友江の染物は芸術やというわけやな」 と村安はいった。 豊作は村安についてまだ客の来ていない会場を一巡した。染物の一つ一つに「摂津のあけぼ かす せつつ
翌日、由紀が何時に起きたのか誰も知らない。とにかく由紀が早起きをしたことだけは確かだ った。工藤はいつも六時半に起きる。工藤が起きたときは由紀はもう起きていて、台所の流しに は朝飯を食べた食器が置いてあった。 早起きはするが、由紀は働かないでプラブラしていた。プラブラしては食べてばかりいる。工 藤は次第に無口になって行った。工藤は腹に据えかねてイライラしているのだが、それを口に出 していえないものが工藤の中にあるのだった。とにかく由紀は原爆遺児なのだ。何の罪もないの に苦労している。工藤ばかりでない、久の中にもそんな意識があって、由紀が昼食の後、炬燵に 千横になって、大口を開けて三時間昼寝をしているのを見て見ぬふりをした。 万由紀は昼寝から醒めるとむくむくと起き上って、寝過ぎてむくんだ顔を久と工藤の間に割り込 三ませた。丁度、三時過ぎで、久はお茶を飲みに書斎から下りて来たところだった。炬燵の上には 工藤の故郷から送って来たというリンゴに砂糖をまぶした干菓子が箱のまま出ていた。由紀は寝 呆けた顔で工藤がおあがりというまでそれをじっと眺め、それからゆっくり手を出して一つつま 人の気配に久はふり返った。台所の薄くらがりにのっそりと由紀が立っていて、 なかす 「すいません。お腹が空いて : : : 眠れないんです」 といった。 こたっ
そのことを承知していて、この手紙を書いたのだ。そう思うと史は更に呆然とした。 それは全く、呆然としかいいようのない状態だった。嬉しいというのでもなければ悲しいとい うのでもない。未来映画の中のタイムマシンというもので過去に向う人間は、時間の逆行の中で このようにただ呆然とうつけているのにちがいない。 甲東中学五年桜組藤堂研ーー 史はもう一度封筒から手紙を出して、最後のその一行を見た。タイムマシンは今、その上に止 っている。それは昭和十四年の秋だ。甲東中学は夏の全国中等学校野球大会で準決勝で敗れ、そ の日以来、史は藤堂の姿を見ることが出来なくなったのだ。夏休みが終って二学期が来たが、甲 東中学の校庭には野球の練習をする藤堂の姿はもうなかった。藤堂は再び中学生として野球場の マウンドに立っことはなくなったのだ。 いわしぐも しかし学校の帰り、史は俊子と二人で何となく野球場のあたりをうろうろした。秋の鰯雲が野 かす 球場の上を斜めに海の方へと流れていて、野球場の壁にからまった蔦が秋風の中で微かに動いて 「秋ゃねえ」 さび 「うん、淋しいねえ」 二人はそんなことをいい合い、球場の冷たい壁にもたれていつまでもぼんやりと佇んでいたり ほとん した。進学勉強をはじめた藤堂は、もうそのへんに姿を現すことは殆どないといえた。しかしそ たたず
9 九回裏 史は道端に立ってタクシーを探しながら、ぶつぶっと毒づく。 「いったい、誰のために、作家らしくなくなっているのか、考えたことがあるのか ! 」 史が毒づくのは、早く怒りを燃焼させてしまわねばならぬからだった。仕事にとりかかる前に、 燃え尽してしまわねばならぬ。そのため史は道端で寝そべっているクリーニング屋の大を蹴飛ば した。 わいしよう こ出演した。相談者は二十八歳の人妻で、夫の性器が矮小で 史はテレビ局へ行き、身の上相談ー 性的満足が不十分であるために離婚したい、といった。 「小さいっていうけど、ほかの人のとくらべてみたことがあるんですか ? 」 と史は聞いた。見学の主婦たちから失笑が洩れている。 「小さいって、どれくらい ? 」 「子供のより少し大きい程度です」 相手はいった。 「男の人の親指くらい : 「はあ、そうですか。男の親指ねえ : : : 」 史は投げやりにいった。 「あなたのご主人はほかにいいところないんですか ? 」 「ええ、ないんです」
の遠い夜中に、静子が別の人間のような声で電話をかけて来たことがあったのを思い出した。出 張から帰る予定だった哲夫が帰って来なかった夜だ。そのとき、町子は目を覚ました敬太郎にい った言葉を覚えている。 「どうしてご亭主のことがあんなに心配なのかしら。帰らなきや帰らないで、ラクでいいじゃ ないの。明日の朝は早起きしなくていいんだから : : : 」 これまで町子はいつもそう思って来たのだ。それが突然、 帰らなきや帰らないでラクでいい そう思えなくなった。何もかもが違ってしまった。町子の中にいた敬太郎が別の人間になってし まったように、町子も別の女になってしまった。 みずみす 町子は起きてカーテンを開けた。団地はまだ眠っている。一筋の瑞々しい春の光が、互いに影 を投げかけ合いながら眠っている団地をまだらに照らしている。それは見馴れた光景であるのに、 今朝の町子には見知らぬ町へ来たような、よそよそしい新しさが感じられる。 町子は電話の前に立った。アジアホテルの番号を廻した。昨夜、一晩中、町子は何度かその番 号を廻しかけては中止した。それを中止したのは多分、それまで町子が掲げて来た女の誇りのた めだったろう。だが町子は今、その誇りを捨てた。やっと朝が来たが、この朝はまた夜に向かっ て、 ( 敬太郎が帰って来るあてのない時間に向かって ) 延々とつづくのだという思いが、衝動的に 町子を電話の前に立たせたのだった。 「寺田敬太郎さんをお願いします」 みな
理的だって」 「私、聞いたのよ。じゃあなたはあなたで楽しんでいるの、って : : : そうしたら町子さんはオ ホホホって笑ったわ。そしてご想像に任せますわっていったのよー 「聞いてるの ? 敬太郎さん」 「あなたは私とのことで町子さんに申しわけないと思ってるかもしれないけど、町子さんは結 構、楽しんでるのよ。そんなこと、何とも思っちゃいないのよ」 「あなたったら、こんなこと聞いても腹が立たないのー 「町子さんなんかに遠慮することなんかないのよ。今、大声でいってごらんなさいよ。波さん、 今夜、アジアホテルへ行こうよ、って : : : ねえ、なぜいえないの、意気地なしね」 「えーと、今夜はちょっと都合が悪いんで : : : 明後日じゃいけませんか」 「何よ、そのいい方 : : : 」 「明後日の七時に、アジアホテルのロビーでお待ちしています。お話はその時に」
じって坐っていなくてはならないのか。これもク仕事クの一つなのか。愛社精神か、義務感か、 出世欲か、生きるためか : 「山科さん : : : お待たせしました。今終りました」 看護婦が入って来ていった。 「山科さん : : : 山科さん : : : 奥さんが終られましたよ」 二度いわれて友平は、今日は自分が山科友平になっていることを思い出した。 「今、病室の方へ移られましたから、ご案内します」 : どうも : 「はあ : : : いろいろと : 友平は看護婦の後ろから二階へ上って行った。上ったところの病室のべッドに、セッ子が丸い 顔で気持よさそうに眠っていた。友平は呆然とその傍に立った。それから思い出して廊下の電話 で大熊氏を呼び出した。 「先生ですか、野間です」 「ああ、野間君、どうだった」 「無事、今、終りました」 「そうか、ありがとう、安心したよ」 「で、原稿の方は : : ・こ 「ああ、二、三日うちに取りかかるよ」
と君子は猫撫で声でいった。 「奥さまでいらっしゃいますか。沢山部長は : : : 」 いいかけた言葉を沢山の妻は遮った。 「どちらさまか存じませんが、沢山のことでおせつかいをやいて下さらなくても、私どもはち ゃんと話し合って解決しております。今後はどうか余計なご心配はいただきませんよう」 電話は向うから切れた。君子は夢中でダイアルを廻した。 「もしもし」 君子の声を聞くなり沢山の妻の声は沢山に代った。 「もしもし、私は沢山ですが、あなたはいったい」 君子はガチャリと受話器を置いた。胸が高鳴っていた。電話の向うにしつかり手を組んで外敵 を防ごうとしている沢山夫婦の姿があった。はじめて来たとき、沢山が妻の気の強さや粗雑な神 経についてこぼしていた愚痴の一つ一つを君子は覚えていた。その時の話では沢山の方ばかりで はす なく、妻の方も沢山を愛していない筈だったのだ。 「魚井さん、いらっしやる ? 」 ドアの外で華子の声がした。華子は今日は二日間の休暇を取って教頭と旅行に出るのだといっ ていた。教頭は全国高校教頭会議があって京都へ行く。二人はそれを利用して京の晩春を楽しむ ことになっているのだ。ドアを開けると明るいレースの半コートを着た華子が立っていた。 ねこな さえぎ