139 じめた。 ところがどうだろう、またしても分離してくるのである。 「おかしいなア」 といいながら、また更に新しく作りはじめた。だが、また分離する。 「いったいこれは : : : 」 と私は分離したマヨネーズの三つのポールを前に考え込んだ。何か忘れたことがあるに ちがいない。洋ガラシ、卵黄、塩、砂糖 : : : とひとつひとっ確認する。私は四十年前から マヨネーズ作りの名人とうたわれてきた身だ。一月前にも作ったばかりである。いっこい、 佃力いけないのカ ? 私は慌てて四十五年前から大事にしている料理「の巻」を開いた。ついに頭がポケた かと心細くなったのである。しかし何度読み直しても間違ってはいない。原因はどうして もわからない。 思 と ついに私は娘を呼んだ。娘は分離した三つのポールの中を見て、 夢「なにやってんのよう ! 」 伊の電動攪拌機を出してくると、新しく玉子 鬼の首でも取ったようにえらそうにしし を割って作りはじめた。 ところがまた分離ー と
する。そしてそれと並行して悪霊に取り憑かれた主人公が、次第に狂気に陥って行くので ある。 「うーん、これは傑作だ、これは面白い映画だねん 北さんはそういって観ながら時々、質問する。 「あれはユーレイですか ? あれはいっ死んだ人です ? 」 「ですからね、この管理人の前の管理人の幽霊なんですよ。前の管理人も妻子を殺して自 殺してるのよ」 と説明する。 「ああ、そうですか。なるほど、なるほど : そういって画面に目を凝らすうちに北さんは突殀、 「アイしています」 訊き直したが黙っている。画面はやがて狂った管理人が斧を持って我が子を追っかけ廻 すシーンになった。観る者みなが息を呑むシ 1 ンだ。 と、北さんはいっこ。 「アイしてます : : : 」 。これは怖いねえ : おの まわ
蟷螂の斧 今から十五年、いやもっと前のことになるだろう。ある事情から私が東奔西走して働き まくらねばならなかった頃のことである。・ほんやり空を見て過す時間など、一年のうち、 数えるほどしかなかった、そんなある年の初夏の夕暮、珍らしく私は窓辺に寄って・ほーっ と空を眺めていた。 美しい初夏の夕暮にもかかわらず、その時、気持よく・ほんやりしている私の頭にふと、 そういえば、あのお金、貰ったかしらんフ という誠に情けない想念が宿った。「あのお金」というのは、その前年の秋、電通から 頼まれて、ある建設会社のモデル ( ウスの前で広告写真におさまるという、やくたいもな のい仕事の報酬である。やくたいもない仕事であるから忘れていたが、仕事は仕事である。 りよこうかばん 蟷しかも気が進まないのを無理に頼み込まれ、仕方なく大阪取材旅行の帰りに重い旅行鞄を 引きずって立ち寄った名古屋での撮影だった。単衣物を着ていた憶えがあるから、秋とい っても九月末か十月のかかりのことだ。それが今は五月である。早速調べてみると報酬を 受け取った形跡がない。 233 とうろ , つおの もら
192 いでいる」。 たん 更に東京新聞は、気管切開をして、のどに詰る痰を取り除くためのチ、しフを取りつけ、 ふともも 太腿からの点滴をつづけていること、医師団は心肺への負担を考慮し、先月 ( 三月 ) はじ めに強心剤の量を減らして他の薬に替えたことも報じていた。 私が抱いた「いやア」な気持は実はこの報道を見た時から始っていたのである。 数年前から、私は現代の死と生について考えるようになっている。それはいい替えるな ら、「現代医学の進歩」というものについてである。 医学の進歩によって我々は病苦を癒され、長命を得、死を遠くへ押しやることが出来る ようになった。二十年前ならどう手を尽しても死んでしまったに違いない人間が、今は生 き永らえている。これは何といってもおめでたいことだ。 しかしめでたいめでたいと喜んでいるうちに、困ったことが起きてきた。今にそうなる きゅう んじゃないかと私は心配していたのだが、その心配が杞憂ではなくなってきた。というの は病人の苦痛や絶望を無視して、とにもかくにも「命を永らえさせる」ということに医師 の目的が置かれてきたことだ。たとえいかなる状態にあろうとも「命を永らえる」という ことはめでたいことであると頭から決め込まれている。身体中点滴の管に取り巻かれ、酸 素テントの中でただ呼吸しているだけの存在であっても、だ。昔はなかったそういう生命
士が株の売買益二億円の申告を怠ったとしてマスコミに登場したのはつい先週のことであ る。それは五十八年から六十年の三年間の調査で判明したことであるから、もしかしたら それ以前の申告漏れもあるかもしれない。 一方、この私といえば、五十九年度に朝日放送なる放送局から四千円の謝礼を貰い、源 泉徴収税を一割引かれて三千六百円の収入を「申告漏れ」したとの問い合せを今、税務署 から受けているところである。 何年か前までは、漫画に出てくる泥棒は豆絞りの手拭いで頬つかぶりをし、地下足袋を 履いて背中に大きな風呂敷包みを背負っていたものだ。私はあの泥棒が懐かしい。 盗みに入る前は家のまわりで脱糞する。そうしておけば家の者は目が醒めないというジ ンクスがあると聞いたことがある ( また緊張のあまり便意を催すのだという説もある ) 。 犬に呎えられ、シッシッといいながらお尻をまくって脱糞し、月が雲間に入るのを見届け て軒下に忍び寄る。一か八か、のるかそるかの瀬戸際を通って雨戸を外し、無事 ( ? ) 大 風呂敷包みを背負って出てきたドロボウ。あのドロボウさんが私は懐かしい。 夢 135 だつぶん てぬぐ ほお
I 夢かと思えば 「なに ? 」 ちやわん 「あのネ、実はあのママが割ったお茶碗ネ、アレ、前にわたしが割ったの、叱られると思 ってポンドでくつつけといたの : : : 」 「なにイツ : と私はゲンコツをふり上げ、忽ち親心はケシ飛んだのであった。 たちま しか
たんのう 十年ほど前に、私は胆嚢に石があって、疲れると必ず胆嚢炎を起こして苦しんでいた。 いろいろ手だてを尽したが、手術をするほかに方法はないと専門病院でいわれるようにな り、ためらっているうちに、それまで嫌いだった大根おろしとトマトがやたらに食べたく なって来た。そのほかはご飯も肉も魚も何も食べたくない。来る日も来る日も大根おろし とトマトばかり食べている。中毒になったように食べて、気がついたら痛みが起らなくな っていた。 察するにこれは、私のうちなる自然治癒力が働いて、私にトマトと大根おろしを食べさ せたのだと私は思う。身体に悪いものは「食べてはいけない」といわれる前に「食べたく なくなる」 。本来、動物はそのようにして健康を保って来たのではなかったか。 「そうじゃ、その通り。犬を見てみい、猫を見なさい。あれらは腹具合が悪いと青草を食 って直しおる。あれと同じじゃよ」 なんだか私は犬猫ナミという感じだが、それにしても、薬よ、注射よ、医者よ、手術よ、 え と他人に頼っているうちに、本来持っていた自然治癒力が磨滅して来て、現代人は長命だ が病弱になって行くのではないか ? 何かというと病院に走る。そのため病院はいつもお祭りみたいに人が集っていて、漸く まわ 診察の順番が廻って来た時はヘトへトになり、下っていた血圧も上るという有さま。それ に気がっかず、なに血圧が二〇〇 ! たいへんだー と心配してよけい血圧が上る ちゅりよく ようや
聞くとおそらくこういうだろう。 「それは電通だけじゃありませんよー その通りである。私のようにいつも机の前にいて、実務の世界からは遠くにいる者で 今の企業が目ざしている効率主義のとばっちりを受けることが間々ある。 身近な例を挙けると、例えば娯楽雑誌、週刊誌などの誌面作りのお粗末さである。殊一 女性向ぎの雑誌が原稿よりもインタビューを好むのは読者のニーズかもしれないが、し、 し不可解なのは、そのインタビー記事を作成するに当って、取材者と書き手とが別のー であることだ。更に不可解なのが、取材者と一緒に編集者がついて来ることで、つまり、 一人の人間の考えを記事にするためには、聞く人、書く人、つき添い人、カメラマンの E 人の人間が必要なのである。 何年か前までは、編集者が一人で来て、話を聞き、原稿を書いた。中には写真まで撮 ( て行った人もいる。だから話す方も、ゆっくりじっくり話し、その間に互いに相手への の解度が深まり、「仕事上の関係」から「人間同士の関係」へと開けていったものだ。 蟷ところが今は取材者にいくらじっくり話をしても無駄である。記事を書くのは彼では 従って、彼には「更によく理解しよう , という気がない。もしその記事の評判がよノ あいまい ても、誰の手柄になるのか、書き手か、聞き手か、成果が曖昧な仕事に情熱をもてるわ」 がないのである。そこで取材者は取材を「いい加減にやつつける」ようになる。それが一 245
1 しよ、つ - フ . 「その通りです : : : 」 「だからね、この次の土曜日にこういってごらんなさい。この頃、子供にお金がかかって、 今までのようにホテル代を出せなくなったって。だからこの次はあなた出してよって。そ の時の彼の顔をよく見るのよ。そして何というか。彼の出かたを見て、別れるかつづける かを決めればいいじゃないの : 「はア・ 「わかった ? それによって彼のキモチがはっきりわかるでしよう ? そうしたらフンギリがつく。 そうしてみます、といって彼女はカなく電話を切ったが、その一週間後にかけてきた。 「もしもし、この前お電話した者ですけど」 「ああ、あなたね ! どうでした ? いいましたか ? 」 私はのり出した。実はこの結末を、楽しみに待っていたのだ。 「土曜日にホテルへ行ったんでしょ ? 「行きました」 と弱々しい声。 : いったの ? お金のこと : : : 」
106 半ばャケクソでそういって庭へ出た。 ご苦労さま。これ賞金」 さし出せば、目の前の若者、急にモジモジして、 「カネはいらねえ」 「いらない ? どうして ? ほら、取って」 「いらね」 次の若者も手を引っ込める。ああ愛すべき若者たち ! ( だからといって、金を引っ込め たのでは女がすたる。 ) おやじ 結局、大団扇振って先導を務めた親爺さんが受け取った。 「みんなでイッパイやりなさいね」 ワッショイワッショイと若者たちは帰って行ったのである。 翌日、世話役に聞いたところによると、若者たちは十万円を町の老人ホームに寄附した というではないか 「センセ工に東栄の漁師の意気を見せたからそれでいいんだっていってね」 やってくれるじゃないか、東栄の若者たち ! 日本の若者もまだ捨てたもんじゃない。 希望が湧いてきた。