104 になるしかないんだわ。そんな中でお父さんと見合いして、一回会っただけで一か月後に 結婚して、これで少しはらくが出来るかと思ったら : : : 」 「そうめんがのびるよ」 丈太郎はいったが、信子は箸も取らずにつづけた。 「これで少しはらくが出来ると思ったら : : : お父さんは学校や生徒のことばかり。憶えて えんどう いますか。わたしがつわりで苦しんでいるのに、遠藤とかいう青・ハナたらした子供を連れ てきたこと : : : 」 じゅうきち 「遠藤重吉か・ : どうしてるだろうなあ : : : 」 「どうしてるだろうなあじゃありませんよ。ハラ減らしてるから何でもいい食べさせてや れって。わたしが死ぬ思いで福島県まで買い出しに行って警察の監視をかいくぐってやっ との思いで持って帰ってきたお米ですよ、それでおむすびを作らせられた時の口惜しさっ たら : : : 今でも夢に見るわ。しかもその時、わたしは妊娠したばかりで栄養をとらなくち ゃならなかったんです。それなのにあの遠藤って子、いったい幾つ、おむすび食べたと思 います ? : : : 」 「あれはオレがオレの分をやったんだ」 「お父さんの分だけじゃありません ! わたしの分もです ! 」 「いいじゃないか、今になってなにも四十年も前のにぎり飯の話で興奮しなくても : : : 」 くや
白い。ハンツの腰のところに、何のつもりか太い鎖を垂らしている。下腹部の膨らみはまだ 目立たない。信子はそれだけ観察してから、階段の下で照夫を呼んだ。 「照夫ちゃん : : : 照夫ちゃん : : : お姉さんがみえたわよ、照夫ちゃん : : : 」 返事がないので階段を上がって行った。 「照夫ちゃん : : : 」 ふすま 座敷へ人ると、照夫は襖にびったりはりつくように立って、肩の間に首をすくめている。 「何しに来たんだ、照夫の姉は」 「そんなこと知りませんよ。帰りが遅いので心配して様子を見に来たんじゃないんですか。 また何か、うちで食べさせてるんじゃないかと思って : : : 」 「何も食べてはおらん。照夫はオレの腰を揉んでくれてるんだ : : : 」 丈太郎には答えず、信子は照夫に向かってへんに優しげな声でいった。 「照夫ちゃん、もうお帰んなさい ? ね ? 」 照夫は襖に額をくつつけて動かない。 「照夫、照夫 : : : 」 玄関でエミが呼んでいる。 「照夫ったら照夫っ ! なにしてるのよっ ! 出ていらっしゃいっ ! 」 階段を上がってくる足音がして、
いね、内田先生は厳しいのよ。給食を残さずにきれいに食べないと、昼休みに外へ出して もらえないのよ。だから好き嫌いの激しい子供なんか、午後の授業が始まってるのに、ま だ食べてるんですって。泣きながら。そんなふうだから、子供が脅迫状を書くんだわ。書 いた方も悪いかもしれないけど、書かれた方も反省するべきよ。教育熱心なんでしようけ いったん ど、一旦こうと決めたら頑固なのよ。ゆとりってものがないのよ。九官鳥の時でもそうで しよう ? おかげでうちで引き受ける羽目になったりして : : : それでねえ、内田先生は加 納さんにこういったんですって。主謀者はわかっていますが、あえて名指しはしません。 自発的に謝りにくるようにしたいって。それでねえ、始末書を持ってくるようにつていっ たんですって : : : 」 電話が鳴った。美保はす早く立って受話器を取った。 「はい、大庭でございます。あーらご無沙汰しております。いつも町子ちゃんには吉見が 仲よくしていただいて : : : ええ、ええ、お聞きになりました ? あたくしも同感ですわ いしゆく : そうですとも。決して悪い先生じゃないんですけどねえ : : : でも子供が萎縮していく と困りますから。もっとノビノビさせてやらないと : : : 」 今頃、千加はどうしているだろう ? 謙一は思った。唇を放した後、謙一の胸に顔を埋めにきた千加の、切なげな仕草を思い 出していた。
しかしそれは楽しい思い出ではない。春の休日、二人で江戸川堤まで行って野草を摘ん だのも、食糧の足しにするためだった。楽しいピクニックとはほど遠い思い出だ。 結婚してすぐに妊娠し、翌年謙一が生まれた。長男の出生を喜ぶよりもおしめや母乳不 足の心配に追われた。その頃信子は慢性的な栄養失調だった。教師という立場上、丈太郎 やみ は闇物資を買うことを禁じたからである。 「あの人は禁じているだけですましていられたけど、わたしはそうですかといってじっと しているわけにいかないでしよう。内緒で着物と交換した小麦粉と油で野草のてんぶらを 作って出すと、黙って食べるのよ。この油はどうして手に入れた、とはいわないの。闇で 手に人れたと聞いたら食べるわけにいかなくなるでしよう。ずるいのよ、あの人は」 そういうと美保は困ったように笑うだけだが、そんな時春江は「男はみなそうよ ! 」と 吐き出すようにいう。何といっても身内よりも友達だ、と思うのはそんな時だ。 びより おな 空は穏やかな薄曇り。あるかなきかの優しい風が頬を撫で、絶好の旅行日和である。昼 前、信子は東京駅のプラットホームで春江と落ち合った。春江は若草色のスーツに白い帽 件子をかぶって、夫がいるのといないのとではこうも違うかと思える颯爽とした熟女ぶりで のある。歩き方からして違う。信子を見つけてつかっかと大股に寄ってきて、 幸「勝沼さんはやつばりダメ」 挨拶ぬきで女学生のようにいった。いつもながらの念を人れた化粧が今日は特に眩しい。 あいさっ さっそう まぶ
「食堂でおひる食べてるのよ。お宮の松見て、錦ヶ浦と熱海城を見て : : : これから船で初 島に行こうってことになったんだけど、一緒に行かない ? 」 「初島 ? そんなところへ行ったってしようがないわよう。それよか、マージャンしませ んかって。あの人たちが」 「あの人たちって ? 」 「昨夜の彼らよ 「昨夜の彼ら ? ーーあの人たち、まだいるの ? 」 「帰るつもりだったんだけど、延ばしたんだって」 フフフと春江は笑った。 「ねえ、戻っていらっしゃいよ。さっきから待ってるんだから」 「そんなこといったって、わたし、マージャンのやり方、知らないわ」 「知らない ? お妙さんは ? 」 ちょっと待って、といって信子は妙を呼んだ。 件「春江さんがマージャンしようっていってるの、あなたマージャン出来る ? の「上がりかたくらいは知ってるけど : : : でも三人で ? 」 幸 「昨夜の人たちとよ」 「まあ : : : 」 ゅうべ
も女というやつは、ちょっとしたきっかけでカメレオンのように変身出来るものらしい。 その柔軟性に謙一は驚嘆せずにはいられない。 やがて「お待ちどおさま」という声がして、皿にスプーンが当たる音が聞こえてきた。 「おいしいなあ : : : 丁度よく熟れてますね」 「おいしい ? よかった・ : : ・」 。。、ンヤマ それを聞いて謙一はべッドから出た。急にメロンが食べたくなったのである みなぎ のまま階段を降りて行くと、庭いつばいに漲っている快晴の夏の光が疲れた目に眩しい。 しげ テラスの上に繁ったぶどうの葉かげに、信子と浩介が並んで腰をかけている後ろ姿が見え た。信子は緑と白の見馴れぬ大きな花柄の、ムームーのようなものを着ている。 「やあ」 謙一は二人の後ろ姿に声をかけた。 「おはよう」 信子はふり返って、 「いたの」 意外そうにいった。 「誰もいないのかと思ったわ」 「二人とも出かけたのかな」 まぶ
二人は声を揃えて笑った。信子の笑い声は特に高い。 「いい ? むかし、むかし、おじいさんと : : : 」 改めて浩介がいった。 「むかしむかし、おじいさんと : : : 」 今度は二人、声を合わせた。九官鳥はカアカアカアといって沈黙した。 「桃太郎のお話がおしまいまで出来たら、たいへんなものねえ」 「ぼくが以前飼ってたのは、桃がドンプ一フというところまでいえたんだけど」 「まあ、たいしたものだわ : : : 」 信子の声は弾んでいる。 「あ、そうだ、メロンあるのよ、食べない ? 」 「ぼく、大好きです。メロン」 「そうだろうと思ってとっといたの。待ってらっしゃい」 おもや 軽い足音が母家の方へ走って行った。 妻 おふくろは若返ったなあ、と謙一は思った。気持ちの持ち方でこうも違うものか。「お せ あ母さんはこれからは自分のために楽しく生きることにしたんですって」といっか美保がい っていた。 何にしても母が楽しそうにしていることは、謙一には喜ばしいことである。それにして 179
「べーコンを人れたやっか ? 」 「そう。だってパパの目の下、隈が出来てるわ。ゅうべは何をあがったの ? 」 「ゆうべか : : : 」 ほとん 考えてみれば、昨夜の酒宴では殆ど何も食べなかった。 「忘れたよ、食ったもののことなんか、いちいち憶えてないよ : : : 」 「お酒だけ飲んで ? 」 「うん、まあそうだ」 「ダメよ、。ハ。ハ。自分で自分の健康管理をしなくちゃ。好きでもないお酒をどうして飲む の ? 」 「どうしてって、わかるだろ。それくらい、君だって社会に出て働いていればー 美保は外人のように肩をすくめて手を広げた。 「だから日本の男はダメなんだわ。仕事のために飲みたくもないお酒を無理に飲む 外国人が聞いたらキョトンとするでしようね。お酒は好きで飲むものよ。他人に強制する せものでもされるものでもないわ。こういうことを聞くと、ほんとうに日本人って発想が貧 あしいなあって思うわ」 「君が思うのは勝手だけど、ぼくはとにかく、そういう社会に身をおいてるんだよ」 「だからしようがない ? 」
326 美保がキッチンからナイフと柿を持って出てきた。 「お帰んなさい、どこへ行ってらしたの ? 」 「新宿」 それ以上は美保は訊かない。美保はそういう女だ。 「お食事は ? 」 「まだだ。だがあとでいい : とにかく疲れた・ 疲れたといったのは、美保のおしゃべりを封じるためだった。今しがた謙一の上に起こ ったことを、誰にも邪魔されずにゆっくり考えたかったのである。しかし美保はかまわず に、柿を剥きながらしゃべり出した。 「ねえ、。ハ。ハ。さっきまで加納君のお母さんがいらしてたんだけど、吉見のクラスで先生 に脅迫状を出したんですって」 「脅迫状 ? 何なの、それは ? 」 「マジじゃないのよね、子供たちは。でも内田先生はそう思わないで、加納君のお母さん が呼び出されたのよ」 「どういう脅迫状なんだ ? 」 「『給食を無理やり食べさせるのをやめなければお前の秘密をバラすぞ、怪人五十面相よ り』っていうの : : : 新聞やチラシの活字を切って貼ってあるんだけど、その秘密の密が、
から台所にあった日本酒をガプ飲みしたらよけい辛くなっちゃって : : : 」 「どこにいるの ? 君の家なの ? 」 「ここですか ? お不動さまの近く・ 。家では電話できないから」 「いったい何があったの ? 」 「金森さんに会ったんです、今夜 : : : 」 「えつ、彼、連絡してきたの ? 」 「ええ」 「で ? 何ていってた ? 」 「あの人、結婚するんです : : : 課長さん : : : あたしをホテルへ誘っといて、あの人、そん なことをいったんです : : : 」 「君はいったい : 謙一は絶句した。胸を突き上げる怒りを抑えるためだった。その怒りは金森よりも千加 への方が強かった。 まるで気まぐれな飼い主に呼ばれた大のように、いそいそと走って行って菓子を貰って、 あごけ 喜んで食べているところを、顎を蹴り上げられたのか。 あの時に金森と村田という人妻との関係を千加に告げてしまえばよかった。そうしたら 千加は今、こんな侮辱を受けることはなかったのだ。謙一は後悔した。