顔 - みる会図書館


検索対象: 凪の光景 上
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1. 凪の光景 上

暫く鳴いていたと思うと突然、その声が叫んだ。 「お・は・よう ! おとうさん ! 」 「なんだい ? 」 丈太郎は茶の間から顔を出し、 「九官鳥か」 といって庭へ下りて行った。謙一の居間に珍しく早起きをした。ハジャマ姿の謙一が立っ ていて、サイドテープルの上の鳥籠を覗いている。 「こんなものを引き受けてきたんですよ、美保は : : : 」 不服そうにいった。 「例の九官鳥かい、吉見のクラスで飼ってた : : : 」 「そうですよ」 丈太郎の声を聞いて、台所から美保が出てきた。 「おはようございます、お父さま。昨日あれから、何時間かかったと思います ? あ、そ うそう、吉見がすっかりご馳走になって : : : 気になってたんですけど、話がまとまらなく て帰るに帰れず : : : 申しわけありませんでした。で、結局、こういうことになってしまい ましたのよ : : : 」 「君は何でも出しやばるからなあ」 しばら

2. 凪の光景 上

「どうしたの ? 何を考えてるの ? 」 キッチンからコーヒーを運んできた春江がいった。 「あたしのいったこと、もっともだと思うでしょ ? 」 「あ、ええ、それはそう思うけど : : : 」 「けど ? 何なの ? 深刻な顔して」 「いえね、わたし : : : お妙さんは大胆だなあと思って、感心してたの。だってわたしには とってもそんな勇気ないもの」 「勇気 ? 男と寝るのにそんなもの必要ないわ」 「春江さんは若々しいしきれいだからいいのよ。でもわたしみたいに老け込んでしまうと、 この年になってはじめての人とナニするなんて、恥ずかしくて : : : 恥ずかしいっていうよ り申しわけなくて、おつばいだってフナフナだし、お腹はシワシワだし : : : 」 春江は笑い出した。 「信子さんらしいわねえ。でもそんなこと問題じゃなくなるのよ、その時になれば、欲望 がすべてをかき消してくれるわ。それがセックスの素晴らしいところじゃないの」 「そうかしら : : : でも若い時ならともかく」 「六十になっても七十になっても同じよ」 「夫とならアイコだからいいけど、そうでない人には悪いわ。厚かましいと思うわ」

3. 凪の光景 上

という涼しい声が追い越して行った。 錦ヶ浦を下って街へ出ると、妙と信子は手頃な大衆食堂を選んで人った。お絞りを使い 渋茶を飲む。幕の内弁当を注文し、改めて顔を見合わせて苦笑した。 「それにしても驚いたわねえ : : : 」 「ひどいもんねえ : : : 」 「信子さんの歩き方ったら、ものすごい勢いだったわよ」 「だってあんなもの、しげしげ見てられないでしよう ! 警察はどうして取り締まらない のかしら」 「でも肝腎のところには金色の丸い紙が貼ってあったじゃない」 「あら、貼ってないのもあったわよう」 「見てられないなんていって信子さん、ちゃーんと見てるんじゃないの」 「見るつもりじゃないのに勝手に目に人ってきちゃったのよう : : : 」 件信子と妙の気分はだんだん十代の女学生に還って行くようである。 の「でもいい経験だったじゃない ? 」 幸「そういえば、そうねえ : ・・ : 」 「今はあんなものに驚いているようではダメなのよ」

4. 凪の光景 上

覚えずにはいられない。 母屋の縁側の雨戸が開いた。ワイシャツの上に謙一の古セーターを着た丈太郎が庭へ降 りて、両手を広げて深呼吸をはじめた。それから謙一に気がついていった。 「なんだ、謙一か、早いな」 「お早うございます」 謙一はテ一フスへ出て行った。 「朝は冷えるようになりましたね」 「うん、これが気持ちいいんだ。こういう冷たさの中で心身を引き締めて一日を始めるの がいいんだ」 「お父さん : : : 」 突然、謙一は衝動に駆られていっていた。 「ぼくは昨日、はじめて部下を殴りました」 丈太郎はジロリと謙一を見た。 惑「それで珍しく元気な顔をしてるんだな。この頃のお前は風邪ひきのロバみたいな面にな っていたぞ」 不 いつもよりも三十分も早く謙一は社へ出て行った。部下たちはまだ掃除を始めずに、タ はよ

5. 凪の光景 上

かす 信子の顔がゆるんで徴かな笑いが漂ったが、丈太郎にはその笑いは嘲笑のように思え たのである。 「旅行がしたくなったのよ。季節はいいし、定額貯金の満期も来るし : : : 」 「しかし、なぜだ : : : 」 結婚してから今までに旅行をしたいなどと一度も口にしたことのなかった信子が、 藪から棒にどうしたんだ、と丈太郎はいいたい。 : 、 力なぜか彼はいわなかった。 「なぜっていわれても : : : 旅行をしたくなったのよ。わたしが旅行をしたくなったらおか しいですか ? 」 暫く信子を眺めていた後で、漸く丈太郎はいった。 「で、どこへ行くんだ ? 」 「温泉へ行きたいと思ってるんだけど」 「温泉 ? そんなところへ行ったってしようがないだろう。ばあさんが一人で」 そういってから気がついた。 「あの女と一緒に行くのか ? 」 「あの女だなんて、春江さんといって下さいな」 「春江さんに誘われたのか ? 」 「誘われたんじゃないの、わたしが誘ったのよ。あと、塚野さんと勝沼さんも誘ってる ゃぶ しばら つかの かっぬま ちょうしよう

6. 凪の光景 上

「並んで読むために来ているのか ! 」 驚いて声が大きくなった。 「わからん ! なぜ遊ばないんだ : : : 」 「だから、ああして遊んでいるんですよ」 それ以来、丈太郎は何もいわない。 丈太郎はたった一人の内孫である吉見が可愛いのか可愛くないのか、自分でもよくわか しか らない。可愛いからもどかしく思うのか、謙一や康二にしたように叱ったり怒鳴ったり出 来ないから可愛くないのか。 丈太郎は吉見を叱ったことがない。叱りたいにも叱られるようなことを吉見はしない。 それが丈太郎には面白くないのである。 「世話になるね」 といって、丈太郎は吉見の後ろから「リビング」へ人って行った。美保が台所との境の のぞ 白い玉のれんから顔を覗かせて、 件「どうぞ、おじいちゃま、ダイニングへ」 の「ダイニング」というのはこの家では台所の流しの前のことである。四人掛けのテープル ちやわんはし 幸 に二人分の茶碗と箸が用意されている。 ハン・ハーグにしましたのよ」 「お口に合うかしら : かわい

7. 凪の光景 上

美保は気さくな笑いを浮かべていった。 「ばあさんは今日から生活の意識改革をすることにしたんだそうだよ」 「意識改革 ? 」 美保は面白そうに目を瞠った。 「そうおっしやったんですか ? お母さま」 「そうだ」 美保はまた面白そうに笑った。 「まったく、いい年をして : 「ええ、さっき : : : ちょっと : : : 」 「化粧も見たか ? 」 うなず 肯いて笑った。それから、 「じゃあ、支度が出来ましたら吉見をよこしますから」 件そういって大柄な身体を機敏に動かして、大股に花壇を廻っていった。 そうざい 一の謙一夫婦の家がこの庭隅に建ってから十年になる。信子は惣菜を届けたり、孫の吉見に 幸 菓子を持って行くなどして、毎日のように顔を出しているが、丈太郎は滅多に行かない。 「お父さま、たまには遊びにいらして下さいな」 からだ みは 。あのいでたちを見たかね」

8. 凪の光景 上

・ハハ、そっくりだ : : : 」 房にそっくりだ : 男はふらふらと歩いてきて、謙一の前に立ち止まった。 「オレの女房も昔はきれいだったですよ、だが今は見るかげもない : : : ひどいもんだ、年 中怒ってるからね : : : 」 そういってまたふらふらと歩いて行く。謙一は目を閉じた。その後ろ姿を見たくなかっ た。彼が抱えている鬱屈の重たさがわかるような気がしていた。 「帰ったよオ」 といって謙一は玄関を人って行った。「帰ったよ」ではなく「よオ」と声を高めて勢い かげ をつける。いつもの謙一の抑揚である。今日もその抑揚に翳はないつもりである。たとえ 職場でどんなことがあろうとも、家では顔に出してはならないということが、いっからか この家の不文律になっている。それは家族への思いやり、エチケットであると美保はいう。 「親しき中にも礼儀ありというけど、夫婦、親子、共同生活者だからこそ、守らなければ ならないルールってものがあるのよね」 せ あ美保は常々そういっている。その意見に謙一も異議はない。 し 「お帰りなさい、お疲れさま」 「吉見は ? 」 161

9. 凪の光景 上

眦「よしんばぼくがアドヴァイスしたって、君はその通りに出来ないだろうからねえ」 謙一は千加をつき放した。 「とにかくこんな時間にそんな所にいてはいけない。家へ帰りなさい : を、ようぼう 返事はなく、すすり泣きが聞こえている。兇暴な気持ちに駆られて謙一は衝動的に受話 器を下ろした。 呆然と寝室へ戻った。 「どうしたの ? だあれ ? 」 美保は謙一のべッドに人っている。毛布の縁から大きな目を向けてきた。 「池田千加って、うちのショウルームレデイだ。金森ってやっと恋愛中だったんだけど、 金森がほかの女と結婚することになったらしい」 「それで電話をかけてきたの ? こんな時間に」 「うん」 「甘ったれね」 「そうだ」 謙一は憤怒を籠めていった。 翌朝、顔を合わせると千加は、「昨夜はすみませんでした」と謙一に謝った。一日働い はたち て、「お疲れさま、お先に」と帰って行く姿は、二十の娘らしく快活である。 ぼうぜん

10. 凪の光景 上

の。わたしもそう思うの。何もかも合うのよう」 「アッチって ? 」 「いやねえ、わからないの ? 」 その時、そんな話はやめろといわんばかりに、便所の中で放屁一発、高らかに響いた。 「やあ、いらっしゃい」 丈太郎はなに喰わぬ顔で座敷に姿を現した。 「あら、はじめまして、塚野でございます。奥さまにはいつもいろいろお世話になってお ります。今日はまた、お加減がお悪くていらっしゃいますのに厚かましくお邪魔いたしま してー くだくだしい妙の挨拶を、や、や、と尊大に受けるのは、長い校長生活で身についたも のである。丈太郎はおもむろに妙を観察した。 「で、お腰の方はいかがでいらっしゃいます ? 」 「やっとこうして立てるようになりました。もう大丈夫です。ではごゆっくり」 見るだけ見ると二階へ引き揚げた。 きつね なんだ、あんな女か、と思う。狐に化かされたような気持ちである。あんなしなびた女 が「アッチが合う」とは恐れ人った。臆面もないとはああいう女のことをいう。戦死をし 椴うひ