食べる - みる会図書館


検索対象: 凪の光景 上
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1. 凪の光景 上

「小松原さんの方はどうなの ? お家の人、誰も気がついてないの ? 」 「そろそろッワリみたいなのが始まってるんだけど、胃炎だと思ってるのね。灯台もと暗 しっていうのか、意外と気がっかないもんなんですね」 「そりやそうねえ。予備校で一所懸命勉強してる人がそんなふしだらしてるなんて : 想像がっかないのも無理はないわ」 「ふしだら ? そうかな。これはいけないことですか ? 」 「だって責任をとれないことがわかっててするのはふしだらでしよう」 「ちょっと抵抗があるなあ、これは単にミスティクでしょ ? 」 丈太郎の全身は燃え上がっている。。へチャベチャという音は、果汁をしたたらせながら 水蜜桃を食べている音にちがいない。 いったいそれは、桃を食いながら話すことか ! 一喝してやりたい衝動を丈太郎は怺えた。こういうことを他人に相談する時は、「まこ キ、ようく とにお恥ずかしいことですが」と恐懼していうのが常識というものである。それをまるで、 スリか置き引きに遭遇した時かなんぞのようにいいおって : 「兄貴に頼もうかと思ったんだけど、うちの兄貴は独特のキャ一フクターでね、自分でした ことは自分で責任とれよ、ってアッサリいうだけだと思うから : : : かといってばあさんに 話をしたら札幌へつつ抜けだし : : : 」 いっかっ こら

2. 凪の光景 上

すると信子はいった。 ・明るくて愛らし 「可愛くていいじゃないの、根拠なんてないんですよ、ルーチャンー くて、何となく気持ちがいいでしよう ? 根拠は何だなんて、お父さんはすぐそういうこ とをいうからダメなのよ。フィーリングなの、フィーリング : : : 」 丈太郎は、おとなげないと思いつつもいわずにはいられない。 「大庭家の九官鳥だぞ ! それを何だと思ってるんだ ! 」 「あのね、おばさん : : : 」 テラスから浩介の声が聞こえてきた。水を流す音が止まって、九官鳥の水浴びは終わっ すいみつとう たのである。これから信子がさっき運んでいった水蜜桃を二人で食べるのだ。丈太郎は何 となくいまいましい気持ちである。丈太郎の前にも確かに水蜜桃は置いてある。皮を剥く ためのナイフにフォーク、濡れタオルも添えてある。 しかし落ち度なく調えてあるそのことが、丈太郎にはいまいましい。このいまいましさ の をどういえばいいのか。いまいましさの底には漠然と不安のようなものが沈んでいる。そ いの不安の正体は何なのか、丈太郎にはわからない。動物が異変を感じて全身の毛を立てる 老 ように、浩介がくると丈太郎は耳をそばだてるのである。 跚「おばさん、ぼく かわい

3. 凪の光景 上

「幸せ : : : 」 そう呟いてゆっくり両足を伸ばした。 「そう ? 幸せ ? 」 思いがけなく返事があって、春江が流し場から浴槽に人ってきた。 「でも簡単ねえ、これだけでもう幸せ ? 」 そういって手拭いで顔をひと撫でした。 「そんなこというけど、これから部屋へ戻ったら、間もなくタ飯でしよう。何もしなくて もお膳が出てくるのよ。食べたあとはそのままにしておけばいい。お皿を洗うこともない。 坐ってお茶を飲んでれば布団を敷いてくれる : 。わたし、人に布団を敷いてもらったこ となんて、お産の時だけ」 「だから簡単すぎるっていうのよ。そんなことで幸せだなんて、あたし、丈太郎さんが憎 らしくなってくるわ。個人的にどうこうってわけじゃないのよ。日本の男への憎しみよ。 彼らはいったい何を根拠に女をないがしろにしてきたか。なぜ自分を女よりも偉いと思え 件るのか : : : 」 の突然流し場のカランの前から細いがへんに強い妙の声が響いた。 なお 幸「でも四十代の男は決してそうじゃないのよ。今は女の方が偉いのよ。だから尚のこと、 引ハラが立つのよう : : : 」 ふとん

4. 凪の光景 上

美保はいうが、あんな所には一時間といられないよ、と遠慮もなくいってきた。 「お前のところはまるで電気屋か家具屋の倉庫だ」 ひさし 縁側もない、茶の間もない、庇もない、白い弁当箱のような家である。「リビングーと 称する部屋の壁面は、テレビ、ステレオ、ビデオデッキ、台所からはみ出てきた冷蔵庫、 食器棚、サイドボードで占められている。その他に椅子、長椅子、テープル、サイドテー プル、マガジンラック、キモノを着た電話、美保の仕事上の必要でファクシミリというも のもある。 そんなところでどうしてくつろげるのか。どうしてものを考えられるのか。 くず 飯は台所の流しの前で食べる。後ろの流しには野菜屑や汚れたザルや鍋が重なっている。 魚や肉を焼いた匂いが漂っている。それを「ダイニングキッチン」というのだそうだ。 「まるで飯場だな、あすこは」 丈太郎は信子によくそういったものだ。しかし彼は今日はそこで食事をしなければなら ないのだった。 ね枝 柱時計が寝呆けたような、もの寂しい音色で六つ鳴った。夕暮れの孤独が身に染む音で ある。数えてみればこの時計を買ったのはこの古家を買い取ったときだから、もう三十五 年になる。物を大事にする信子が丹精して今日までもたせてきたものだ。 カチンコチン はんば

5. 凪の光景 上

「すてきな。ハンツね」 「これですか ? アメリカへ行ってきた奴に貰ったんです。サイケデリックでしよ」 「タンクトップを黒にするなんて、おしゃれねえ、浩介さん」 そろ 「ありがとう。ぼくタンクトップに凝ってんですよ。ワードロープとして揃えてるってい ーリシャス、ロ夕、 うより、友達に南の島専門に写真撮ってるのがいて、モ ハリ、フィジ ーなんかのものを買ってきてくれるもんで。スーベニールとして観光地の名前が人ったも のじゃなくて、現地の人が着るようなシンプルなものを狙ってるんだけど」 「すてきよ、ねえ、そのうち、写真撮らせて下さいな。男の子のおしゃれ特集を今、考え てるの」 「いいですよ、ぼくメガネも凝ってるんだ。目はいい方だけど気分を変えるためにわりか し数持ってるんです」 丈太郎は憤然として座敷の真ん中に坐っていた。彼の耳には聞くに耐えない会話が人っ てくる。 方 翔「あら、浩介さん、。ハックしてるの ? だからそんなに肌がきれいなのねえ」 女と美保の声。 「。ハックしてる時って食べることもしゃべることも出来ないでしよう、顔が突っぱって。 だからそんな時に勉強することにしてるんだ」 ねら

6. 凪の光景 上

なくしらーっとして目を逸らすだけである。水浴びをさせてもらった九官鳥が勢いづいて 餌をついばむのを信子を眺めた。 「溝ロ、佐田 : : : 実にいい青年だったなあ。オレがはじめて教師になった時の受け持ちの 子供だよ。溝ロは今でも年賀状をよこす。たいしたものだ。千一銀行の副頭取だぞ。佐田 は毎朝新聞の営業局長だ。一一人とも偉くなった。戦後間もなく、溝口がピーナッ売りして た時、連れて来てすいとんを食べさせてやったことがあるだろう。その時にいってやった んだ。これからの日本をよくするのも悪くするのも君らの力だ。今の日本は荒れ果てては いるが新しい土だ。君らはこれを耕して種を蒔いて育てることが出来るんだ、ってな。そ んな抽象的なことしかいえないオレは恥ずかしかったが、後になって溝ロはいったよ。あ の時、先生のいったことは漠然としていたけれど、ぼくはずいぶん勇気づけられました、 希望が持てたってな : : : 」 信子は丈太郎の感慨を打ち切るようにいった。 び「おひる、どうします ? おそうめんでいいかしら ? 」 の丈太郎はそれには答えず、 熟「やつばりあの時代の青年はちがうな。人の言葉の奥にあるものに感応する力を持ってい 的た。なぜ持てたか ? 彼らは生きることにひたむきだったからだよ : : : 苦しんでいたから

7. 凪の光景 上

7 、カ ? ・ 俺を何だと思ってる ! すぐに飯を炊け , しかし立ち上がった丈太郎は、そのまま何もいわずに茶の間を出て庭へ下りた。なぜ俺 は怒らないんだ ? どう考えても信子の方が悪い。勝手に温泉で遊んできて、留守番の夫 の夕食にいなりずしとかんびよう巻を買ってきた。疲れて帰った後、夕飯の支度をしたく ないといって、だ。 ものう 懶い薄暮の中、三日信子が留守をした庭は荒れている。丈太郎は庭に立って謙一の居間 に目をやった。吉見の姿は見えない。居間にはもう灯がついていて、その下で電話に向か って美保がしきりにしゃべっている。丈太郎は引き寄せられるようにその方へ近づき、気 がついて踏み止まった。 「美保さん、聞いてくれ。ばあさんはいなりずしを買ってきて、夕飯代わりに食べろとい うんだよ。勝手に散々遊んできてだ : : : 」 我にもあらずそういおうとした自分を、丈太郎は恥じた。 丈太郎が庭から見ているのに気がついて、電話を終えた美保がテラス ( 出てきた。 ちそう 「さっきはご馳走さまでした。お母さまのお土産」 「温泉土産なんてろくなものじゃないだろう」 とど

8. 凪の光景 上

「そうか : : : そうねえ : ・・ : そういうことも考えておかなくちゃねえ : : : 」 す 「そう思うでしよう ? あなただってわかるでしょ ? ところがお妙さんはいくらロを酸 つばくしていってもわからないの。あたしはカレを信じるわ、っていうのよう : : : 」 春江は吐き出すようにいった。 「カレっていうのよう。だいたいあの男、カレって顔だと思う ? 」 信子は黙りこんでシャーベットを食べた。信子の頭には、春江のいった「家政婦兼看護 婦」とか「結婚」「内妻」「相続権」などという一一一口葉よりも、「セックスつきの茶飲み友達」 という一言から受けたショックがまだ尾を引いているのである。 お妙さんは横山さんと「デキちゃった」とも春江はいった。お妙さんが六十四歳という 年齢を省みずして横山さんと「セックスをした」ということが、信子にはどうしても信じ られない。いったいいつ、どこで、どんなきっかけで、それをしたのだろう ? お妙さん はどんな気持ちで、横山さんの前に身体を横たえたのだろう ? 信子はお妙さんの黄ばんだ、薄い裸を知っている。ア。ハラ骨が浮き出ていて、そこに垂 の れ下がった乳房は、空気の抜けた風船さながらであった。 いあの身体を、お妙さんは平気で横山さんに見せたのだろうか ? 横山さんを失望させるかもしれないという心配は持たなかったのだろうか ? 失望させることが怖くなかったのだろうか ?

9. 凪の光景 上

なの ? 夫とのセックスは ? それは妻としてで、浮気のセックスは女として ? 」 美保は困ったように笑い声を上げる。この笑い声を聞くと山藤秋子はいっそう調子が出 てくることを知っているからである。 「つまらないレトリックを使ってあなたたちが女を煽動するものだから、女は皆浮足立っ てるわ。家事をまるで悪徳みたいに思ってる。家の外に何かあると思ってる。たいしたも のがあるわけじゃないのに」 「すみません。多分そういって叱られるだろうと思ってました : : : 」 あお 美保はさりげなく、煽るための合いの手を投げ込む。 「あたしは昔、子供たちがまだ小さかった頃、古服を再生することに熱中したものだわ。 それだってクリエイテイプな時間ですよ。母親としての喜びもあるし、子供もまた母親の 手になったものを着て嬉しいし、でも何よりもものを作り出す充実感があったわ。おやっ そうざい だってお惣菜だって、あるものを工夫して新しいものを作るーーそれを今の若い主婦はく だらないことだと思ってるのよ。彼女たちが楽しいと思う生活は、家事の合間にテニスを せしたり食べ歩きをしたり、とにかく遊ぶことなのよ。外へ出ることなのよ : : : 」 あ山藤秋子がそんなことに充実感を持ったのは、貧乏だったからだ、それだけのことだ : そう思いながら美保はメモをとっている。山藤のコメントはもう読者にアピールする 力はない。しかし、そのコメントは誌面に・ハラエティをもたせるために必要なのである。 171 せんどう

10. 凪の光景 上

170 「実はこういうことなんです。日本の主婦は長い間、妻として母としてのみ生きてきまし たでしよう ? しかし考えてみれば妻として母として生きただけで、女としての生活はな かったのじゃないか。それをこれからどうとり戻せばいいか。先生のご意見を伺わせてい ただきたいんですの」 「なんですって ? 妻として母としてじゃなく女として生きるたって、あんた、女だから 妻になったり母になったりしたんじゃないの ? 」 とどろ 山藤の大声は受話器の中に轟いた。山藤は腹を立てたのだ。しかし美保はたじろがずに 相手には見えない笑顔を作った。 「なにいってるのよ、あんた。相変わらず女性誌は愚にもっかぬことをいって日を送って るのねえ」 山藤秋子はすぐに興奮するので有名な作家で、同時に保守派の長老的立場を守っている ことでも知られている。山藤から談話を取ることを怖がる編集者は多いが、美保はむしろ ラクな方だと思っている。ちょっと刺激すればすぐに怒って、ダーツと走り出すエリマキ トカゲのように、興奮させれば何も質問しなくてもどんどんしゃべってくれるからである。 「女としての時間って何なの ? ヌカミソかき廻すのは女としての時間じゃなくて、妻と しての時間なの ? 料理は何の時間 ? 自分のための時間じゃないというの ? でも自分 も食べるんでしょ ? ーゲンセールで奮闘するのはどう ? 母としてなの ? 女として