ちゃん - みる会図書館


検索対象: 凪の光景 上
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1. 凪の光景 上

浩介がいった。 「今、ぼく、とっても困ってて : : : どうしたらいいのかわからなくて : : : 何も手につかな 「どうしたの ? 何かあったのね ? どんなこと ? 」 信子の声は優しい。浩介はためらっているのか、少し黙っていてから、いった。 「ぼくのガールフレンドね : : : 妊娠しちゃったんです : : : 」 「なんですって ! まあ : : : 浩ちゃん、あなた : : : 」 そういったまま信子の言葉はつづかない。 「おばさん、知らないかしら : : : 弟がここへ習字を習いに来てるんだけど、小松原の照夫 って子 : : : 」 「小松原照夫ちゃん ! 来てるわよ。小松原質店の : : : 」 「あの子の姉なの。ぼくと同じ予備校へ行ってるんだけど : : : 」 少しの間沈黙が落ちた。ナイフが皿に当たる音がしたところを見ると、水蜜桃を切って いるのであろう。 「それ、間違いじゃないの ? 確かなの ? 」 おがた 「先週病院へ行ったら三か月の終わり近くだっていわれて : 。坂下の小形って婦人科病 院。ついて来てくれってエミがいうもんだからぼく、行ったんです。そうしたらあすこ、

2. 凪の光景 上

「そういったけどダメなんだ : : : 」 「どうして ? 」 「今頃、漢詩を習ったって何の役にも立たないって。そんな時間があれば数学か英語をや った方がいいって」 「英語もときどき、みてもらってるんでしよう ? ここで」 「でも、先生の英語は発音が古いからダメだって。実際に役に立っ英語でなければダメだ って姉ちゃんまでいう : : : 」 「それはそうかもしれないわ。うちの先生のは確かに古いでしようね。お母さんがおっし やることはもっともだわ。だから照夫ちゃん、うちの先生に悪いと思ったりすることは少 しもないのよ。ここのうちのことは心配しないで、お母さんのおっしやる通りにしなさい。 やめるのならうちはそれでもいいのよ」 「でも : : : 」 照夫は言葉が見つからずにいい淀んだ。 の 「でも ? 何なの ? 」 い「ぼくは : : : 来たい : 老 「来たいの ? まあ、ここへ ? 」 信じかねるといわんばかりの目を、信子は照夫から丈太郎へ向けた。

3. 凪の光景 上

「困ったなア」 浩介は救いを求めるように信子を見た。 「どうしてこんなことになっちゃったのかしら、おばさん : : : 」 信子は敵を見るような鋭い目を丈太郎に向けた。 ゃぶ 「お父さん、もういいじゃありませんか。しつこいわ。藪から棒に人の話に割り込んでき て、勝手に興奮して、いったい何が気に人らないのー 「何もかもだ。だいたい男が一口に出しかけたことを、怒られるからやめるとは何だ、 小娘のすることだ」 「浩ちゃん、いっておしまいなさい。おじさんはしつこいんだから、いった方がいいわ」 「でも : : : 大丈夫かな」 「大丈夫。おばさんがついてるわ」 浩介は丈太郎の顔から視線を外したまま、 「ぼくはただ、エミの妊娠は、ぼく一人の責任かどうかわからないと思ってるものだから : だから : : : 考えてみると男はソンだなアと : : : 自分のタネだという証拠がない限り 「そ、それが、男のいうことか ! 」 丈太郎は我知らず拳をふり上げていた。 こぶし

4. 凪の光景 上

白い。ハンツの腰のところに、何のつもりか太い鎖を垂らしている。下腹部の膨らみはまだ 目立たない。信子はそれだけ観察してから、階段の下で照夫を呼んだ。 「照夫ちゃん : : : 照夫ちゃん : : : お姉さんがみえたわよ、照夫ちゃん : : : 」 返事がないので階段を上がって行った。 「照夫ちゃん : : : 」 ふすま 座敷へ人ると、照夫は襖にびったりはりつくように立って、肩の間に首をすくめている。 「何しに来たんだ、照夫の姉は」 「そんなこと知りませんよ。帰りが遅いので心配して様子を見に来たんじゃないんですか。 また何か、うちで食べさせてるんじゃないかと思って : : : 」 「何も食べてはおらん。照夫はオレの腰を揉んでくれてるんだ : : : 」 丈太郎には答えず、信子は照夫に向かってへんに優しげな声でいった。 「照夫ちゃん、もうお帰んなさい ? ね ? 」 照夫は襖に額をくつつけて動かない。 「照夫、照夫 : : : 」 玄関でエミが呼んでいる。 「照夫ったら照夫っ ! なにしてるのよっ ! 出ていらっしゃいっ ! 」 階段を上がってくる足音がして、

5. 凪の光景 上

「うちの人 ? 誰だね ? 」 「お母さんだと思うんだけど : : : お母さんがおじいさんに行って下さいっていったら、お じいさんが怒り出して : : : 」 「何だね、いったい ? 」 「ぼくがここで、いろいろ食べてることがわかって : : : それで : : : お母さんがものすごく けんか 怒って : : : おじいさんと喧嘩に : ・・ : 」 信子が横合いからロを出した。 「前よか太ったんでしょ ? 照夫ちゃん。それでお母さんが怒ってらっしやるんでし よ ? 」 「うん : : : いや、はあ。たった二キロなのに」 「二キロ太ったの ! そうらごらんなさい」 信子は勝ち誇るように丈太郎に顔を向けた。 「いわないこっちゃないでしよう。小松原さんじや有り難迷惑を通り越して、怒っていら のつしやるのよ。ねえ、そうでしよう ? 照夫ちゃん。叱られたのね ? 」 うつむ い照夫は膝に腕を突っぱって、苦しそうに太い首を俯けている。 老 「先生がいけないのよ。照夫ちゃんに食べさせたのは先生なんだから。いいわ、お母さん がいらしたらわたしがよくいうわ。照夫ちゃんを叱らないで下さい、うちが悪いんですっ

6. 凪の光景 上

という涼しい声が追い越して行った。 錦ヶ浦を下って街へ出ると、妙と信子は手頃な大衆食堂を選んで人った。お絞りを使い 渋茶を飲む。幕の内弁当を注文し、改めて顔を見合わせて苦笑した。 「それにしても驚いたわねえ : : : 」 「ひどいもんねえ : : : 」 「信子さんの歩き方ったら、ものすごい勢いだったわよ」 「だってあんなもの、しげしげ見てられないでしよう ! 警察はどうして取り締まらない のかしら」 「でも肝腎のところには金色の丸い紙が貼ってあったじゃない」 「あら、貼ってないのもあったわよう」 「見てられないなんていって信子さん、ちゃーんと見てるんじゃないの」 「見るつもりじゃないのに勝手に目に人ってきちゃったのよう : : : 」 件信子と妙の気分はだんだん十代の女学生に還って行くようである。 の「でもいい経験だったじゃない ? 」 幸「そういえば、そうねえ : ・・ : 」 「今はあんなものに驚いているようではダメなのよ」

7. 凪の光景 上

女の先生なんだけど、サ・ハサ・ハした人で、おろしたいんならおろしたげるけど、最初の妊 娠で中絶したら、その後不妊になる確率が高い、っていうんですね。一生、子供を持てな いかもしれないけど、それは覚悟しといてね、なんて、軽く威されちゃって」 「威しじゃない、本当のことよ、それは」 「でも、本当のことだとしても、しようがないでしよう ? おろすしか : : : 」 「で、そういうことにしたの ? 」 「ええ、でもお金がなくて : : : 」 少しの沈黙の後で、信子の低い声がいった。 「で、いくらくらいかかるの ? 手術には」 「十万円くらい」 「まあ ! そんなに : : : 」 。それがばあさんのところへくるんで 「月々、札幌から生活費を送ってくるんだけど : す。ばあさんはぼけかけてるから兄貴に送ってくれればいいんだけど」 「何とかおばあさんにお願い出来ないの ? 」 い「ばあさんはぼけてるくせに、どういうわけか金のことになると俄然、アタマしつかりす おぼ るんです。小遣いの前借りしたことなんかもよく憶えてて、友達が来てマージャンした時 のラーメン代なんかも、ちゃんと取るんだから : : : 」 おど

8. 凪の光景 上

230 「そう」 「昨夜も飯食ったばかりなのに、さあ、そろそろ夕飯にしようかね、なんて。あれは確実 に脳軟化の徴候だな」 信子は上の空で聞いている。十万円の金のことをいうかいうまいか。頭の中がそのこと でいつばいになっている。春江はいった。 恋じゃないのなら、なにもお節介やくことないわ : 恋なら十万でも二十万でも出しておやりなさいよ : そうだわ。恋なんかじゃないんだから、なにもわたしがお節介やくことはないのだ。そ んなことをすると春江に誤解される : そう思いながら信子は、 「浩ちゃん、どうなったの ? あのお金のこと : : : 」 といっていた。 「わたしね、浩ちゃんが困っているのなら、何とかしてあげたいと思っているんだけど いったい自分は何をいうつもりなのか。何とかしてあげたいと思っているけれど・ 「都合が出来なくて」というつもりか。「ねえ、受け取ってくれる ? 」というつもりか : 「あ、あのことね」

9. 凪の光景 上

178 「ムカシムカシ : 「やったア ! いえたね ! そうだよ : ・」 浩介の声が嬉しそうに尻上がりになった。すると高くはり上げた信子の声が聞こえてき こ 0 「あら、いえたのね ! むかしむかしっていえたのね : : : 」 足音と一緒に声が近づいてきた。 「おはようございます。とうとういいましたよ」 「おはよう。さすが浩ちゃんだわ。やつばり気持ちが優しいと九官鳥にも通じるんだわ : むかしむかし : : : 」 信子はいったが九官鳥は黙っている。 「むかしむかし : : : 」 信子はいってみて、やつばりあたしじやダメだわ、浩ちゃんでなきや、という。その声 うる に潤んだような艶があった。 「ムカシムカシ : 俄かに九官鳥はしゃべりはじめた。 「ムカシムカシ : : : ムカシムカシ : : : 力アカアカア」 「カアカアはいいんだよ」 にわ うれ つや

10. 凪の光景 上

信子は大声でいった。 こ・つ 「まあ、生ロちゃん、ありがとう : : : ああよかったわ : : : 」 浩介は「今、行きます」といって窓から姿を消すと、間もなく九官鳥を抱えて玄関から 出てきた。 「ありがと、ありがと、ああよかった。吉見の九官鳥なの、おじいさんが逃がしてしまっ 「ぼくが寝てたらいきなり人ってきたんですよ。窓を開けといたのがよかったんです」 浩介は白と黒の横縞の。ハジャマを着ている。 「あら寝てたの、浩ちゃん、もうおひるよ」 「ゆうべ徹夜したもんだから」 丈太郎が口を出した。 「勉強かね ? 」 「いえ、マージャン」 方 び 明るくいった。 の「まだ友達が一人寝てるんです。あとは帰ったけど」 熟 あの女か ? いっかの ? というように丈太郎は二階の窓に目をやる。