テラス - みる会図書館


検索対象: 凪の光景 上
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1. 凪の光景 上

「なにいってるのよ、ちゃんと目を醒ましてよう」 たた と軽く頬を叩かれた。 「何だよう、いったい : 漸く言葉になった。 「お父さん、ものすごい声。ほっといていいの ? 」 そういった時、窓の下で丈太郎の大声が叫ぶのが聞こえた。 「おい、謙一、ちょっと起きてくれ ! 」 美保はす早く部屋着を着て、紐を結びながら部屋を出て行った。こういう時の身ごなし は美保は実にす早い。謙一はべッドの上に上半身を起こして、両手で顔をこすった。 父が母を怒鳴る声は、子供の頃からしばしば聞いているから謙一は驚かない。しかし夫 婦喧嘩の尻を父母から持ち込まれたことはかって一度もないことである。 「どうなさったの、お父さま」 テラスのガラス戸を開ける音がして、美保がいっている。 妻 「どうもこうも話にならん。オレのいい分が正しいか正しくないか、謙一に判定してもら せ あいたいんだ。謙一は寝てるのか」 謙一は。ハジャマのまま、階下へ降りていった。 「おう、謙一、聞いてくれ。ばあさんは酒を飲んで夜中に帰ってきて謝りもせず、向かい しり ひも

2. 凪の光景 上

「吉見、おいで。柿を取るぞ : : : 」 美保が九官鳥の籠を出しにテラスへ出てきていった。 「吉見、ほら、。ハ。ハが柿を取るよって」 すると、返事の代わりのように、はり上げた吉見の歌声が聞こえてきた。 「あーなたアのたアめなアら どオこまアでもオ っーういてゆけるウ わアたアしイ : : : 」 「何だい、あれは」 丈太郎がふり返った。 「テレビゲームですのよ」 美保がテラスからいった。 「あの歌を歌わないと先へ進めないんですの」 「先へ進めない ? 何がだ ? 」 「宝の地図を手に人れるために、あの歌を三回、歌うんです」 「そんな妙なファミコンがあるの ? 」 「コントローラーにマイクがついていて、そこに口をつけて歌わなければいけないの。声 かご

3. 凪の光景 上

「うん、何だ ? 「さっき教えたろ。書けても読めなきやしようがないんだよ」 「晨ナリ難シ、だ。晨はあしたと読む。若い時代は二度とこない。それは一日のうちに朝 がもう一度戻ってこないのと同じである : : : そういう意味だ。わかったね ? 」 「うん」 照夫の頼りない返事にかまわず、丈太郎は大声でテラスのおしゃべりに対抗した。 「時ニ及ンデ当ニ勉励スペシ。歳月ハ人ヲ待タズ : : : わかるかね ? 」 「わかんねえ : : : 」 「わかんねえって君、この前教えただろう ? 」 照夫は首を縮めて頭をかいた。 「むつかしくて : : : なにいってるんだか、何べん聞いても、アタマこんがらがって : : : 」 方 電話が鳴っている。 女しかしテラスにはまた高い楽しそうな笑い声が上がっていて、信子が電話に出る気配が 熟 ない。 丈太郎は電話を黙殺していった。 アシタ マサ

4. 凪の光景 上

116 と浩介の声。笑い声がテラスに流れる。それに合わせるように九官鳥は「カアカアカ ア」と鳴く。 こまつばら てるお 丈太郎の前には、机を挟んで小松原質店の孫の照夫が大きな身体を縮めるように正坐し りようへい ごがたき て、半紙に「一日難再晨」と書いている。照夫の祖父に当たる小松原良平は丈太郎の碁敵 である。孫の照夫がどうも落ちつきがないので、集中力を養わせるためにといって丈太郎 の所へ書道を習いによこしているのだ。 きれい 「よろしい、君はなかなか形のいい字を書く。うまいよ。しかし字というものは綺麗に、 格好よく書けばいいというものではないんだ。そういうものではないということを知るの が書道なんだ : : : 」 丈太郎はテラスの笑い声に抵抗するように大声を出した。 「ではひとっ元気よく、大きな声で、今書いたところを読んでごらん」 照夫は中学一年だが一メートル七〇に近い身長で、その上太っている。盛り上がった肩 の間で太い首を右左にかしげながら、とぎれとぎれに読んだ。 「盛年、重ネテ来タラズ : 「うん、それから ? 」

5. 凪の光景 上

313 不惑 「なんかお言づてあります ? 」 「月給の残り、出てるからいつでも取りに来なさいって」 「わかりました」 千加が電話を切る気配を感じると、つい「もしもし」と呼び止めてしまった。 「はい ? 」 と戻られると言葉が見つからない。 「どこで会うの ? 」 「・ハーナードホテルのロビーです。ご馳走してくれるんですって」 「そう、じゃあ行ってらっしゃい」 自分に逆らうように言っていた。謙一はソフアに戻って紅茶を飲んだ。重苦しいものが 胸に残っている。 「暫く静かだったのにね、あの子」 美保は柿を剥いている。ふとその手を止めて立ち上がった。 「あら、浩ちゃん。今日はまたすてき ! テラスで赤いスウェードのジャン。ハーを着た浩介が笑っている。 「こんにちは。ルーチャンどうしてます ? 雨がつづいたもんで暫く来なかったんだけ ど」 ちそう

6. 凪の光景 上

浩介は賛意を求めるように信子を見た。 「浩介さんは浩介さんなりに苦しんでるのよ、それがわからないの、お父さん : : : 」 「苦しんでる ? 笑わせるな、君が苦しんでるのは金がないことだけだろう。しかし娘さ んの方は : : : 」 「おじさん : : : 」 浩介は丈太郎に向き直った。 「エミはべつに苦しんでません。ただ困ってるけど : : : 今の女の子はおじさんが思ってる よかずっとタフなんだけどなア : : : それにホントいうと、妊娠のこと、ぼく一人の責任か どうかわかんないと思ってるんです。だから : : : こんなこといったらまた怒られるかもし れないけど : : : 」 浩介はいいかけて丈太郎を見、 「やつばしいうのやめときます」 といった。 の 丈太郎はそこにあった女物のつつかけを履いてテラスへ近づいた。 ら い 「いってみろ、いいかけてやめるなんて男のすることじゃないぞ」 老 「だって、また、おじさん怒るでしよ」 「怒るかもしれん。しかしいわねばいわんで怒るぞ」

7. 凪の光景 上

が見つかった。 「いいものがあったぞ、照夫、ハムだ。これを。ハンに添えて食べればいい」 不器用な手つきで丈太郎はハムを切った。昼食に。ハンを食べたから残りがどこかにある 筈だ。戸棚を開けたり閉めたりしていると、いきなり信子の声がした 「お父さん、何をしてるんですよ : : : 」 げんか 信子の頬はテラスで直射日光に当たっていたためか、それとも夫婦喧嘩の余燼か、赧く 染まっている。白目が泣いたように光って、目の縁が赤い。 「。ハンはどこだ : : : あったろう、昼の残りが」 「。ハンをどうするの ? もうお腹が空いたんですか ? 」 「照夫が腹を減らしてるんだよ」 まないた 信子は俎板の上のハムを見た。 「まっ、新しいのを切ったんですか ! 古いのがあったのに : : : 」 「。ハンを出してくれ。それから牛乳と」 : 。ハンはここですよ」 「どうしたというのよ、いったい : じやけん い邪慳に冷凍庫を開けた。 「そんな所に人れてるのか」 「そうですよ」 お なか ふら よじん あか

8. 凪の光景 上

「いっそ、ご両親に謝ったら ? 」 「そんなこと ! おばさん ! それが出来るくらいなら、おばさんに相談しないよう 急に甘ったれる口調になった。 「困ったわねえ : : : とりあえずお金が必要ってわけなのね」 「四か月に人ってしまうと手術の方も簡単じゃなくなるから、そうしたら高くなるし 突然、丈太郎は濡れ縁に走り出ていた。 ハカモノ ! 」 「問題は金なのか ! え ? 金のことだけなのか ! そろ テラスの信子と浩介が、揃ってあんぐり口をあけてこっちを見ている。浩介は前髪をひ しつぼ つか と掴みほど、チャボの尻尾のように撥ね上げた髪型をして、いったい何ごとが起きたのか、 見当もっかぬという顔つきである。丈太郎は濡れ縁に立ちはだかったまま、大声を出した。 「何だい、君は ! それでも男か、しつかりしろ ! 」 「何がですか ? 」 ら い と浩介はいった。 老 「とぼけるんじゃない ! 何がですかとは何だ ! 君は勉学中の身だ、そんな時に女を妊 娠させて平気なのか ! 」

9. 凪の光景 上

妻 あオレの人生の目標 ? 謙一は父のいなくなったテラスに足を降ろして、じっとしていた。 よく考えろ、と父はいった。だが考えたところで、何も生まれてきはしないのである。 「やめろ。そんな・ハ力な真似はするな。たかが二百万だろう。クョクョするな、オレが出 してやる」 「お父さん : : : 」 「うちにいくら金があるかオレは知らんが、ばあさんにいえば都合するだろう」 「お父さん、問題はそんなことじゃないんですよ。金を埋めればいいというものじゃない んだ。教師が学級費を使い込んだのとはわけがちがうんです」 謙一は父に訴えたことを後悔した。 「このミスは記録に残るんですよ、ぼくの将来にかかわることなんだ」 「そんなことで将来が決まってたまるか。オレはお前をそんな小心者に育てた覚えはない 「お父さん、お父さんはね、サラリーマンの実態を知らなさすぎますよ : : : 」 「お前はいったい、何を目ざして生きてるんだ。お前の人生の目標は何なんだ、いってみ ぞ」 ろ」

10. 凪の光景 上

も女というやつは、ちょっとしたきっかけでカメレオンのように変身出来るものらしい。 その柔軟性に謙一は驚嘆せずにはいられない。 やがて「お待ちどおさま」という声がして、皿にスプーンが当たる音が聞こえてきた。 「おいしいなあ : : : 丁度よく熟れてますね」 「おいしい ? よかった・ : : ・」 。。、ンヤマ それを聞いて謙一はべッドから出た。急にメロンが食べたくなったのである みなぎ のまま階段を降りて行くと、庭いつばいに漲っている快晴の夏の光が疲れた目に眩しい。 しげ テラスの上に繁ったぶどうの葉かげに、信子と浩介が並んで腰をかけている後ろ姿が見え た。信子は緑と白の見馴れぬ大きな花柄の、ムームーのようなものを着ている。 「やあ」 謙一は二人の後ろ姿に声をかけた。 「おはよう」 信子はふり返って、 「いたの」 意外そうにいった。 「誰もいないのかと思ったわ」 「二人とも出かけたのかな」 まぶ