子のすごいところは : : : 」 「ほらほら、また聞いてない : : いくらごま化してもあたしにはわかるのよ、 美保の声に気がついた。 「あ、ごめん、つい仕事のことを考えてたんだ」 「仕事仕事。日本の男は働き過ぎですってよ。いったいなぜ、日本の中年男はこんなに仕 まいぼっ 事に埋没するんだろう ? 出世欲 ? 忠誠心 ? それとも惰性 ? ほかに楽しいことがな いから ? 」 謙一は両手を上げてアクビをした。 「さて、寝るか : : : 」 「吉見の塾のこと、どうすればいいの ? 」 「どうすればって、いつも君が一人で考えて決めてるんじゃないの。今の塾は吉見に向い ているんだろ ? 」 「だから、さっきからいってるじゃないの。易しい計算問題をさせればいつも百点だから、 子供に自信がつく。それはいいんだけど、そればっかりじゃ、計算力は身につくかもしれ ないけれど、思考力がっかないのよ。応用問題になると駄目なの」 「しかし吉見は喜んで行っているんだろ ? ならいいじゃないか」 謙一は二階の寝室へ上がって行った。美保は追いかけてきて、謙一がもぐりこんだべッ やさ
「夏は辛いよね、汗の塩がズボンから吹き出す。梅雨どきも辛い。片手に鞄、片手に傘を 持って歩くだろ。下町はいくらでもサポれる所があるんだ。その誘惑を振り切って歩かな くちゃならない。門前払い喰ってもニコニコして、又行かなくちゃならない。辛抱辛抱だ よ。自分に勝てなきやこの仕事はつづけられない」 「はあ、なるほどね」 「君、他人事みたいにいうなよ」 「すみません。けどぼくはそれほどこの仕事、辛いとは思っていないんです。適当にコー ヒーも飲むし」 「鞄を駅のコインロッカーに人れて。ハチンコをやってたことがあったね、君」 「あ、あの時は驚いたなあ。。ハチンコ屋の表を課長が通りかかるなんてなあ : : : 」 関根は酔いの出た顔を両手でこすった。 「でもあの時、課長は怒らなかったですね ! 」 あき 「呆れてしまって怒る気力が消えたんだよ」 いや、気力を失ったのではなかった。謙一は部下を怒らなければならない時にいつもう まく怒れない。新人が寒さの中、暑さの中、人り切れないほどのカタログを詰めた鞄を提 げて歩いて行く姿を思うと何もいえなくなる。決められた地区をしらみつぶしに当たる。 どんな路地も見逃がさず、ア。ハートは一部屋ずつ廻る。何度も何度も廻る。いっ当たるか かばん かさ
そういって、何とかこの場を丸く早く収める言葉はないかと探した。 「どっちも悪くないんだよ、お父さんもお母さんも」 「勿論ですよ、だからさっきからあたしもそういってます。大事なのは思いやり、理解 「要するにたいした問題じゃないんだ。お父さんはお母さんが外出したきり、なかなか帰 ってこないので心配になってきた。心配するのは当然だよね。なにしろ今まで家にばかり いた人なんだから。心配しているうちに腹が立ってくる。その腹立ちが頂点に達した時に お母さんが帰ってきた : : タイミングが悪かったんだ。お父さんは心配すると腹が立って くる人なんだよ。お母さん、そうでしよう ? 」 信子はそれには答えず、 「でも謙一は美保さんが夜中を過ぎて帰って来ても怒ったことはないわ」 「それはぼくはお父さんのように心配しないからですよ。美保とお母さんとは違う。美保 は外で仕事をしている女ですよ」 「仕事 ! 」 あ信子の声は高くなり過ぎて裏返った。 「わたしだって仕事を持ちたかったわ。何も好き好んでお父さんに養ってもらう身になっ たんじゃないわ : : : 」
そういってやりたいと思いながら、謙一は、 「どうしたの ? 」 といっていた。 「一人で考えてないで、話してくれない ? 」 「すみません : : : ご心配かけて」 金森は恐縮したように頭を下げた。 「実はこの頃 : : : いろんな点で、行き詰まりを感じてまして : : : 」 「仕事の面で ? ー 「それもあります。大田の件で課長にも代理課長にもご迷惑をかけましたし : : : 」 「あれはもう解決したからいいんだよ」 「はあ、しかし、ぼくとしては : : : ぼくの中には傷となって残っていますし : : : そんなこ んなで、やつばりぼくは営業の仕事には向かないということがわかってきましたし : : : こ のへんで心機一転、出直そうという気になったんですが」 金森は神妙に目を伏せてコ 1 ヒーをかき混ぜている。その指に黒い石の指輪をさしてい る。それはついこの間まではなかったものだ。 「単刀直人に訊くけど、君は : : : 失礼だけど女性問題で困っていることがあるんじゃない の ? 」
174 「それはそうと、あなたの方はどう ? 」 美保の返事を待たずにルリ子はいった。 「あたし、別れたのよ、カレと」 「カレと別れたって : : : どの人 ? 」 かじわら 「いやだね、梶原よ」 「あ、イ一フストレーターの : 。そうだったの、結婚してらしたの」 「試験結婚よ。でもダメなの、三日つづけてカップラーメン食べさせたらムクレたんで、 めんどくさくなって別れちゃった」 「まあ簡単ねえ」 「女の仕事に理解をもってるつもりだ、なんてきいたふうなこといって、たった五か月で 馬脚を出したのよ。とにかく、あたしの稼ぎをアテにしてるとしか思えない生活なの。も っとも一緒になる前から仕事はそう沢山なかったけど。暇があっても勉強しないんだもの。 あたし、怠け者ってきらいなのよ」 でも怠け者だから稼ぎのいいあなたと一緒になったんじゃないの : : : と昔ならいえ たが、今は出かけた一一一一口葉を押し止める。 「ところであなたの方はどう ? うまくいってる ? 」 「そうねえ、なんとかごま化して、リズムを崩さないようにしてるわ」 と」
まゆ 見ると色白童顔の額から眉のあたりが、晴れやかに開いている。 「どうにか一台、漕ぎつけそうです。二、三日うちに確答が出ることになりました」 大川はレポートをさし出しながらいった。 「そうか、それはよかったなあ」 謙一は心からの気持ちを籠めていい、にこにこ顔で大川を見る。 「ガゼルを勧めているんですが、多分、いけると思います」 「すごいな、がんばったね。やるじゃないか、君 : : : 」 「ツィてたんです。今日は最後にトビコミで行った家で、株で儲けた金を何に使おうか、 車にしようか、ヨーロツ。ハへ行こうかと考えてたところだったんです」 「すごいな。こういうことがあるから面白いんだよね、この仕事は。だからやめられな ふとももつね 「夢じゃないかと、思わず太腿を抓りました」 必要以上の大声で笑うのも、謙一の仕事のひとつである。この笑い声が部下の疲れを癒 やすことを、謙一は経験して知っている。 「じゃあ、お先に失礼します」 「お疲れさん : : : 」 大川は帰って行った。休んだことについて、小一一一口らしい小一一一口をいわなかったことが、い
「ぼく ? : : : わかんないや」 「わかんないってことないだろう。考えたことないのかい」 「どうせ、どこかのサラリーマンだろ」 テレビの画面で怪鳥が爆発し、吉見は「ヤッタア」と叫んだ。 謙一と吉見が前後して出かけてしまうと、美保は机に向かった。美保の書きもの机は寝 なんど ふるたんす 室の隣の納戸にある。従って机のまわりは積み上げた本や雑誌のほかに、古簟笥や家族の 冬物をしまったダンポールや石油ストープ、靴の箱、古レコードなどが取り囲んでいる。 しかし美保はそんな中で仕事をすることがひどく気に人っているのである。それはいか にも現代を精いつばい生きている女の部屋らしく、「個性的」だと思うからである。 美保は机に向かうとメガネをかけ、ノートを広げた。これから美保がとりかかる仕事は、 秋に創刊号を出す予定の新しい女性誌から受けた特集である。 「妻、母、女」 とノートには書いてある。 「妻であり母である以外に、女として生きるには ? 」 それが美保に与えられたテーマである。そのテーマで各界を代表する女性に意見を訊く。 「最低、七人はほしいね」
「美人なの ? その人は」 「いやあ、美人じゃない : : : とぼくなんかは思うんですがねえ。しかし金森はそう思って たでく るのかもしれませんねえ。蓼喰う虫も好きずきですから」 と関根の返事はいつも一言多い。 「年上って、幾つなの ? 」 「四十になるかならぬか : : : 若造りするから見当がっかないんですよ、この頃の主婦は。 とにかく三十代ではないでしようね。三十代じゃまだ、浮気する暇がないです。子育てで 忙しい。亭主にもまだ飽きてないですしね」 「向こうは浮気のつもりなの ? 本気じゃないんだろうね ? 」 「さあ ? どうですか。そこんところはむつかしいですねえ。金森の方は浮気です。いや、 仕事と考えてるのかもしれないですね。しかし夫人の方は : : : 。女って浮気のつもりが本 気になったりしますからね」 「しかしそういう仕事のし方は困るな。うちの信用にかかわるからね」 こずえ ショウルームのガラス壁の外、プラタナスの梢の上に広がっている空は珍しく青く澄ん にじ で、秋の気配を滲ませている。池田千加は今日は花を綴じ合わせたような、細い毛糸のき れいなピンクのカーディガンを着てきた。ピンクは千加によく似合う。しかし新しいカー ディガンに白い新しいスカートを穿いていても、今日の千加は元気がない。謙一の目は見
がない。教え子たちの面倒もよく見た。 。お互いに人 しかし本当はそれが不服だったのだと、なぜ今になっていい出すのだ : 生の終章に人った今になって : : : 昔の文句をいわれても、取り返すすべのない今になって 丈太郎には忍従を妻に強いた憶えは毛頭ないのである。丈太郎のすることやいうことに 対して、妻は逆らったことがなかった。妻は丈太郎のいう通りにした。妻がいう通りにし ているから、それでいいのだと思っていただけだ。更にいうなら、妻とはそういうものだ と思っていた。妻にとってもそれが自然なのだと思って疑わなかったのである。 「ーーーそれならなぜそういわなかったんだ : : : 」 信子はガラスの器の中のそうめんがのびるのにもかまわず、箸を取ろうとせずにいった。 「わたしは今になって目覚めたんですわ。美保さんを見ているうちに、気がついたんです よ。なんてノビノビ生きてるんだろう、同じ女なのに、と思ったの。もっと仕事をつづけ たいから子供は一人で産むのをやめておくなんて、わたしには夢のようなことをこともな 方 翔げに実行してる。謙一のお友達じゃなく、自分の仕事の仲間を呼んでお酒を飲んだり、マ の ージャンしたりしてます。そんなことだって、わたしたちには夢のようなことよ。女学校 女 熟 時代の懐かしいクラスメイトに会いたいと思っても、お互いに主人のいる時間は遠慮する とか、いちいち主人の許しを得て出かけるとか : : : 美保さんがごく普通にしていることで
とを」 という鬨の声を上げてゲンコツを宙に突き出すことで終わる。これも先々代の藤本所長 以来の習慣である。 たてしな 今日明日と営業所では蓼科高原での招待ゴルフコンべを催すことになっている。ヒカリ 製菓は年に五十台以上は必ず買ってくれる一番の得意先である。その総務部の車購人担当 社員を部長以下十人ばかり招待し、会社からは管理職とべテランセールスマン五、六人が 出ることに決まっているのだ。謙一も今日の夕刻から始まる酒宴に間に合うように、四時 前には社を出なければならないのである。 おっくう 彼はそのことを楽しみにも億劫にもしていない。これも自分に与えられた仕事である。 かわぐち 課長の川口はどんなに忙しくても、どんなにヘ・ハっていても、ゴルフと聞くと奮い立っ方 だが、謙一はこれも仕事の一環だと思うと、何もかも忘れて奮い立っというわけにはいか ない。慢性的な疲労が謙一の中に淀んでいて、それを穏やかなもの腰が包んでいる。 学生時代、彼はテニスの選手だった。 「テニスほど孤独なスポーツはない。たった一人で戦わなければならんのだからな。野球 妻 なんてあんなものはしようがないよ。だいたい攻めるのと守るのとかわりばんこにやって やっ ある。味方が攻めてる時はべンチに坐って野次っている。ミスしたって、ほかの奴がよくや れば勝つ。負けたら監督のせいにすればいいんだからな」 その時丈太郎はそういってテニスをやることを奨励した。 ふる ふじもと