出し - みる会図書館


検索対象: 凪の光景 上
102件見つかりました。

1. 凪の光景 上

男はわかるが女はわからない。それを女に理解させるのは困難だ。 「てんぶら食べなさい。冷めるとうまくないよ」 仕方なく謙一はそういった。 翌朝、千加は謙一の机の前に立って、 「昨夜はすみませんでしたー と頭を下げた。 「あの、これ、お礼です」 菓子箱をさし出した。千加の家は深川不動に近い和菓子屋で、昨夜、謙一がタクシーで 送って行った時は、間口一間ばかりの古風なガ一フス障子に、栗むし羊羮のビラが貼られて いた。 「ありがとう。こんな心配しなくていいのに」 謙一は千加に笑いかけた。 「大丈夫 ? 元気出た ? 」 「はい、なんとか : : : 元気出します」 そういう千加の左の瞼は、あれからまた泣いたのだろうか、赤くぶつくり腫れている。 かす それを見ると一瞬金森への嫉妬めいた感情が胸を掠った。 ゅうべ しっと ふかがわふどう しようじ ようかん

2. 凪の光景 上

。それに引きかえ今の若い奴ども、ありやいったい何だ。やつらに向学心があるの かい。やつらは何のために大学へ行くのか、訊いてみろ。就職のためだと答えるだろう 「それがいけませんか ? 」 信子は立ち上がりながら小声でいった。 「時代がちがうわ : 「えつ、何といった ? もういつ。へんいってみろ」 「時代がねえ : : : ちがいますよ、戦争に負けたばかりのあの時と今とを比較するなんて 。あのね工、年寄りはなぜ若い人に敬遠されるかというと、過去のことに捉われてい るからですってよ」 こんな時、今までは何もいわずに丈太郎の演説を聞いていたものだった。時代がちがう のだ、そんなことをいってもしようがない、と思いながら、決して口には出さなかった。 出してもしようがないと思っていた。人生の盛りを過ぎた老いた夫が、いいたいことをい う、それを聞いてあげるのが妻の務めだと思っていたからである。 だがこれからは思ったことは心にしまわず、ロに出すことにしたのである。信子は冷や かつおぶし そうめんのだしをとるための鰹節を削りながらいっていた。 。この二人がお父さんの唯一の勲章なんだから : : : 」 「何かというと溝ロと佐田 やっ とら

3. 凪の光景 上

ても支払いがなければ、契約不履行として車は処分される。 もた 大田が帰って行くと、謙一は気が抜けたように椅子の背に凭れた。かぶっていた波の下 ようや から、漸く波間に顔を出したような気持ちだった。しかしこれで万事が解決したというわ けではない。五日後の支払いを神に祈って待たなければならないのである。 千加が袋に人ったアイスモナカを持ってきてさし出した。 「課長さん、食べません ? 」 千加は時々、代理課長の代理を抜かして、課長さんと呼びかける。その時は千加の気分 がリラックスしている時だ。 「ありがとう」 謙一はアイスモナカを受け取って千加を見た。 「ありがとう。君のおかげだよ。よくやったね」 「あたし、もう、怖くて : : : 」 千加はアイスモナカの袋を破りながら、 せきね 妻「関根さんはなかなか来てくれないし、あの人は出てくるし、もうどうしようかと思って あもう目の前、まっ白になって : : : 」 そういってアイスモナカを口に運ぶ。あどけなさの残っているぶつくりした上唇を小さ な舌が可愛らしくなめた。

4. 凪の光景 上

美保がいった。遅い夜食をすませて、ぼんやりテレビに目をやっていた時である。美保 の声はいつもより低い。へんに静かに低い声を出す時は、美保が何か欲求不満に陥ってい る時である。 「何をいっても上の空。うん、うんって、人の話なんか聞いてないんだから」 「そんなことないよ、聞いてるよ」 「そう ? ほんと ? じゃあいってちょうだい。今、あたしがいったこと」 「吉見の塾のことだろう ? 」 といいはしたが、委しいことはわからなかった。謙一はその時、帰りの電車の中で関根 はんすう がいった言葉を反芻していたからである。 「とにかく今の女の子っていうのは、スキーやテニスと同じようにセックスを考えている んですよ。皆がスキーに行くからあたしも行く。皆がテニスをするから自分もしたい。皆 が恋人を持ってるから自分も持ちたい。皆セックスを知ってるから、自分もしたい : だいたいその程度のことで男とやるんですよ。だから男の方もらくですよね。昔はたいへ 惑んだったんでしよう ? 一度やったら結婚しなくちゃならなくなるんだから、絶対、娘に は手を出すな、なんてうちの伯父は真顔でいうんですよ。娘の意識が変わってることがわ きむすめ 不 からないんです。昔は生娘でなくなった女は一目でわかったっていうんですが、今は例え ば池田千加。彼女が男を知ってるとはどうしても見えませんよね ? そこなんだな、あの たと

5. 凪の光景 上

210 丈太郎が母家へ戻ると、座敷に小松原の照夫が太い腿を揃えて坐っていた。 「おう、君か : : : 」 その日が照夫に書道を教える日であったことを丈太郎は思い出した。 「こんにちはって何べんもいったんだけど : : : 」 「そうか、すまなかったな」 うわそら 丈太郎は上の空でいった。 「さて : : : では、やるか」 すずり 照夫は風呂敷を解いて硯と筆筒を取り出し、宿題の習字をさし出した。それをいつもの きまりで音読した。 「心頭ヲ滅却スレ・ハ火モマタ涼シイ : : : 」 「涼シイじゃないだろう。涼シ、だ。この前も同じところを間違っただろう : : : 」 「うん : : : いや、ハイ」 「意味はわかってるね ? 」 「無念無想になれば、火の中でも熱くない : 「そうだ、その前の句に『安褝必ズシモ山水ヲ須イズ』とある。安らかに坐禅をするため には静かな場所がいいとは限らない。雑念をなくしさえすれば、どんな場所でもいい、火 の中でも熱くないという意味だ」

6. 凪の光景 上

315 不惑 「池田君ーー」 謙一は千加を呼んだ。強い声だった。謙一が目の前に立つまで、千加は謙一に気がっか なかったからである。千加は顔を上げて謙一を見た。少しの間、夢でも見ているように謙 一を眺めていて、それから、 「課長さん : : : 」 といった。さっき電話で「じゃあ行ってらっしゃい」といった謙一が、今、目の前に立 っている。そのことに驚くよりも、現実感がない、といった目の色だった。 「君にいいたいことがあって来たんだよ」 謙一は立ったまま、千加を見下ろした。 「金森に会ってはいけない。すぐ帰りなさい」 謙一は手をさし出した。 「さあ、立ちなさい。家まで送ってあげるから」 千加の、いつも花びらのようだと謙一が思う小さな唇が薄く開いている。 「どうしてですか ? 」 漸く千加はいった。 「君はもう金森と会ってはいけない。今までは君の恋愛に口を挟む権利はないと思って黙 っていたけれど、君はまだ若い。将来のある人だ。そのことを考えてぼくは走ってきたん

7. 凪の光景 上

まゆ 見ると色白童顔の額から眉のあたりが、晴れやかに開いている。 「どうにか一台、漕ぎつけそうです。二、三日うちに確答が出ることになりました」 大川はレポートをさし出しながらいった。 「そうか、それはよかったなあ」 謙一は心からの気持ちを籠めていい、にこにこ顔で大川を見る。 「ガゼルを勧めているんですが、多分、いけると思います」 「すごいな、がんばったね。やるじゃないか、君 : : : 」 「ツィてたんです。今日は最後にトビコミで行った家で、株で儲けた金を何に使おうか、 車にしようか、ヨーロツ。ハへ行こうかと考えてたところだったんです」 「すごいな。こういうことがあるから面白いんだよね、この仕事は。だからやめられな ふとももつね 「夢じゃないかと、思わず太腿を抓りました」 必要以上の大声で笑うのも、謙一の仕事のひとつである。この笑い声が部下の疲れを癒 やすことを、謙一は経験して知っている。 「じゃあ、お先に失礼します」 「お疲れさん : : : 」 大川は帰って行った。休んだことについて、小一一一口らしい小一一一口をいわなかったことが、い

8. 凪の光景 上

さないだけで」 「一緒にいたところで寂しいんです。夫婦なんて ! 」 ぜりふ 酔いがそんな言葉を掘り起こしたのか。我ながら名台詞だと信子は思った。 春江と同じタクシーで漸く信子は帰途についた。もう十二時近いが、六本木の街はまる ひし で宵のロのようである。何の目的で来ているのか若者たちが犇めき合うように路上を埋め、 車は動きがとれぬほどにつながっている。妙は同じ方面へ帰る横山が送ることになり、白 石はもう一軒どこかへ寄るといって雑踏の中に消えて行った。 「面白かったわねえ、あーあ」 たんのう 春江は座席の背もたれに後頭部を乗せて、すっかり堪能したという声を出した。 「信子さん、気がついた ? あの二人 : 「二人って ? 」 「横山さんとお妙さん」 「横山さんとお妙さんがどうかして ? 」 方 び 「横山さん、アタックするんじゃないの、お妙さんに」 翔 女「まさか ! 」 とんきよう 熟 思わず頓狂に叫んだ。 「まさかってあなた、鈍感ねえ。あたしはピーンときたわよ」 よい

9. 凪の光景 上

140 のノラクラ浪人が女とキスをしておったなんぞと、ウレしがってしゃべりちらしおって、 しかもだ : : : 」 「なにを興奮してるんですか、お父さん : : : 」 わざとらしく落ちつき払った信子の声が、庭の暗がりでいうのが聞こえた。 「妻が十二時に帰って来たことをいちいち怒ってたら、謙一なんかどうなるの。ねえ ? 」 とりあえず謙一は、丈太郎と信子を居間へ通した。 「お父さん、もう遅いんですからあまり大声を出さないで下さいよ。近所迷惑だから」 企業の中堅管理職らしい落ちついた声音でいった。 「いったい何があったんですか ? 」 「謙一、よく聞いてくれ。冷静に正しい判断を下してくれ。なにも無理にオレの味方をし ろとはいわんよ。オレだって息子のお前に夫婦喧嘩の裁定を頼むことの恥を知っておるつ もりだ。しかし今夜という今夜はもう我慢出来ん。信子は狂ったとしか思えんのだ : : : 」 おおげさ 「狂っただなんて。どうしてお父さんはそう大袈裟なの。いえね、お父さんはね、謙一。 母さんが楽しくしてるとイヤなのよ。なにもむつかしいことじゃないの。それだけなの」 「この・ハ力が ! 」 喚きかけた丈太郎を謙一は制した。 「いったい何があったんです ? 」 わめ

10. 凪の光景 上

114 「海へ行ったんじゃないんです。ビューティサロンで灼いたんです。ノーラー灯で : : : 」 「ソーラー灯 ? 」 「ええ、紫外線です。一時間くらい灼くと、こんなふうに色がつくんです。ぼく、生まれ つき色が白いでしよう。夏になるとそれが目立ってイヤなの。でも海で灼くと皮が剥けた りまだらになったりしてキレイに灼けないから : : : 」 「じゃあ顔だけじゃなくて、肩や胸もそのソーラー灯で ? 」 「身体の両面灼き。三日おきに一時間やってもらって、五回行ったんです。間があくと折 角灼いた前のが褪めてしまうんでちょっと厄介なんだけど : : : 」 「お高いんでしょ ? お値段」 「会員になれば一時間一一千円だけど、フリーだと四千円。会員になるには三万円払うのね。 でもぼくは三万円払わないで会員なみにしてもらってるの」 「先生の懇意なの ? 」 「懇意っていうのかな ? なんていうんだろ、なぜだか知らないけど、ぼくのこと気に人 ってるみたいなんです、その先生」 信子と浩介の話し声が聞こえたのか、一一階から美保が降りてきてテラスに顔を出した。 「あら浩介さん、いらっしゃい。誰かと思ったら : : : 」 「こんにちは」 からだ