金森は千加に顔を向けた。 「千加が訊きたいというなら別だけど、千加は訊ぎたくないといったよね ? 千加は俯いたまま黙って肯いた。 「訊きたくないというんです、千加は。そうだよね ? 千加」 黙って肯いた千加から、金森は笑い顔を謙一に向けた。謙一はぐっと詰まった。 「大庭さん、これはぼくと千加の、二人の間のことなんで、二人で話し合って決めたこと なんですから : : : 」 優位に立ったという意識が金森をへんにゆったりと構えさせている。 「それとも千加。君、何か大庭さんに頼んだの ? 」 「いいえ」 千加は目を伏せたまま、自信なげに答えた。謙一は衝動に駆られてここまで来たことを 後悔した。 千加は金森を愛しているのだ。金森の前に出ると、魔法をかけられたように金森の思う 惑ままになってしまう。 謙一は自分の滑稽な立場を改めて認識した。呆然として坐っていた。それから気をとり 不 直していった。 「君が結婚する相手は村田という人妻だろう。君はセールスに行ってその人妻と関係を持 こつけい
千加は漸く納得してメモを書いた。それを金森の机の上に置いて、謙一の後をついてき 「秋だなあ、夜になると肌寒いね」 「はい」 「君、寒くない ? 」 「大丈夫です」 千加は並ぶと謙一の肩ほどの背丈しかない。それが謙一にはいじらしい。「天作」に入 って小座敷に向き合った。お絞りで手を拭きながら、改めて千加をながめた。 「どうしたの ? 」 千加の苦悩が謙一に思いがけぬひと時を与えてくれた。それを思うと謙一の千加を見る おもは 目に、思わず面映ゆい徴笑が浮かぶのである。 「すみません。へんなこといい出して : : : 」 つぐ 運ばれた天ぶらに視線をやったまま、千加は考え込むように口を噤んだ。 : どうしたの ? 考えてないで 「金森のことなんだろう ? 大体、察しはついてるけど : いえばいい」 不 優しく水を向けてやる。千加は漸くいった。 「あたし、男の人の気持ち、わからなくて。金森さんに何か悪いことをしたんじゃないか ようや
まいとしても、いっか気がつくと千加を見ているのである。 「代理課長。金森にいわれるんですか ? もしそうだったら、ぼくの名前は出さないで下 さいよ」 「当然だよ」 しさいき 関根に仔細を訊くのは、社の信用のためばかりではなかった。千加の元気がないことが 謙一は気にかかるのである。 「池田君、きれいな色だね。そのカーディガン、とてもいいよ」 謙一は千加に声をかけた。川口課長は軽口をいうのがうまいが、謙一は冗談の下手な真 とん 面目一方の人間である。若い女子社員にも必要がない限りは話しかけたことが殆どない。 千加は意外そうに謙一をふり返り、 「そうですか ? ありがとうございます」 と作り笑いした。 ゅううつ 謙一は千加の憂鬱の原因を知っている。だから千加の笑顔を健気だと思わずにはいられ ない。 謙一はよくショウル 1 ムの車を見にくる、中井という老夫婦のことを話題にすることを 不 思いついた。彼らは来ると必ず千加に話しかける。 「中井さんは池田君のこと、気に人っておられるらしいね。孫の嫁さんにでもしたいと思 なかい けなげ
いつもと変わりのない我が家だった。 まがせいじ つぼ 玄関の靴箱の上、紛い青磁の壺の小菊は、さっき謙一が出かけた時と変わらぬ白と黄を 惑重ね合わせている。 居間の壁のシャガールの複製。つけっ放しのテレビ。テープルの上の灰皿には、謙一が 不 出かける前と同じ格好に吸い殻が人っている。九官鳥の籠は赤いバスタオルを掛けられて、 部屋の隅に鎮まっている。 かっていることに謙一は気がついた。 「この道だと駅へ行くのに遠くなるな」 千加は何もいわない。謙一は立ち止まってあたりを見廻した。千加も止まった。 「そうか : : こっちへ行けば近道だな」 謙一が歩くと千加も歩き出した。ふと謙一は立ち止まった。 「ここから南ロは近いよ」 そういおうとして、ふり返った。千加の悲しげな、怯えたような小さな顔が目の前にあ っこ。 気がつくと謙一は千加を抱き寄せていた。千加は抵抗しなかった。唇が合った。 おび
315 不惑 「池田君ーー」 謙一は千加を呼んだ。強い声だった。謙一が目の前に立つまで、千加は謙一に気がっか なかったからである。千加は顔を上げて謙一を見た。少しの間、夢でも見ているように謙 一を眺めていて、それから、 「課長さん : : : 」 といった。さっき電話で「じゃあ行ってらっしゃい」といった謙一が、今、目の前に立 っている。そのことに驚くよりも、現実感がない、といった目の色だった。 「君にいいたいことがあって来たんだよ」 謙一は立ったまま、千加を見下ろした。 「金森に会ってはいけない。すぐ帰りなさい」 謙一は手をさし出した。 「さあ、立ちなさい。家まで送ってあげるから」 千加の、いつも花びらのようだと謙一が思う小さな唇が薄く開いている。 「どうしてですか ? 」 漸く千加はいった。 「君はもう金森と会ってはいけない。今までは君の恋愛に口を挟む権利はないと思って黙 っていたけれど、君はまだ若い。将来のある人だ。そのことを考えてぼくは走ってきたん
た冷気に包まれて、パジャマのままゆっくり一服吸った。 オレはまるで、高校生みたいに胸を膨らませている : : : たかが一回の道端のキスく らいで : そう自嘲する後から、あの時の千加の頭髪の甘いかぐわしさを懐かしんでいた。それは 謙一のポロシャツに徴かに染みているはずである。 「君の弱みにつけ込んだわけじゃないよ。なぜかこうなってしまったんだ・ : ごめんよ、 許して下さい」 りちぎ そんなことを口走ったのは謙一の律儀さだったかもしれない。そういって千加の身体を 押し戻そうとしたその力に逆らって、千加は謙一の胸に齧りつき、幼子がイヤイヤをする ように頭を左右に動かしていた。そのイヤイヤは千加の幼いコケットリーだった。それを たぎ 思うと謙一の血は今になって滾ってくるのである。 しかしだからといって、千加を縛っていた金森の鎖が、あれで断ち切れたというわけで おぼ わらすが はないだろう。溺れる者が藁に縋るように謙一の胸に縋った : : : そして金森から受けた傷 の痛みを紛らせようとした : そう考えた方がいいのだ、と謙一は思う。あれほど金森に執着していた千加が、ふとし た風に葉裏を返す野草のように、謙一に心を寄せるわけがないのである。しかしそれがわ かっていても、少なくとも千加の傷を癒やす存在であり得たということに、謙一は喜びを おさなご
本当をいうと彼は妻に仕事をしてもらいたくない。社会批判も結構だが、家の中ももう 少し片づけてもらいたい。社から帰るやいなや、待ち構えていたようにしゃべり立てるの は我慢するとしても、その意見に同意を強要する時の、あの迫力を弱めてほしい。 この頃、謙一は耐えていることを意識するようになった。今まで彼は耐えると意識せず に耐えていた。人はみな、謙一を優しい人だという。家族も友人もみなそういう。千加も そういった。そういわれることに満足を感じていたのはいっ頃までだったろう ? この頃 謙一は優しい人といわれるたびに、欠点を突かれたと感じるようになっている。 昼の食堂で謙一は千加に会った。 かたくらまゆみ 千加は同じショウルームレディの片倉真弓と並んで、手造り弁当を開いていた。昼にな っても千加の瞼の腫れは引いていない。泣き腫らした瞼で千加は、真弓と玉子焼きと煮豆 を交換していた。 「今日のはお母さんが作ったからおいしいよ」 といっている。 「わ、いいんだ。うちなんか、ほか弁買ったほうがおいしいよ、だもん : : : 」 「いつもは自分で作るんだけど、今朝は朝寝坊しちゃったの : : : 」 娘が男のために泣いているとは知らないで、千加の母は娘のために弁当を詰めたのか。 「作ってくれるのはいいけどさ。短大まで出してやった娘のために、いつまでお弁当作ら
ても支払いがなければ、契約不履行として車は処分される。 もた 大田が帰って行くと、謙一は気が抜けたように椅子の背に凭れた。かぶっていた波の下 ようや から、漸く波間に顔を出したような気持ちだった。しかしこれで万事が解決したというわ けではない。五日後の支払いを神に祈って待たなければならないのである。 千加が袋に人ったアイスモナカを持ってきてさし出した。 「課長さん、食べません ? 」 千加は時々、代理課長の代理を抜かして、課長さんと呼びかける。その時は千加の気分 がリラックスしている時だ。 「ありがとう」 謙一はアイスモナカを受け取って千加を見た。 「ありがとう。君のおかげだよ。よくやったね」 「あたし、もう、怖くて : : : 」 千加はアイスモナカの袋を破りながら、 せきね 妻「関根さんはなかなか来てくれないし、あの人は出てくるし、もうどうしようかと思って あもう目の前、まっ白になって : : : 」 そういってアイスモナカを口に運ぶ。あどけなさの残っているぶつくりした上唇を小さ な舌が可愛らしくなめた。
333 不惑 の金森が犯した女を、なんでオレが抱きたいなどと思うんだ : 最後の深呼吸の時、どういう油断か、ばったり千加と目が合ってしまった。千加はその 時を待っていたように、につこり笑った。 慌てて謙一は目を逸らした。千加の大胆さに一瞬たじろぎながら、悪い気持ちではなか った。人目については困るじゃないか、と思いながら嬉しいのである。 営業マン達が出て行った後、謙一の机の前に千加が立った。 : これ」 「昨日はありがとうございました。あのう : 菓子箱らしい包みを机の上に置いた。 「この前、おいしかったっておっしやったから : : : 」 「そんな君 : : : いけないよ、こんなことは」 はばか 謙一は思わず周りを憚った。 「課長さん、もうあの人のことはすっかり消えました。蜃気楼みたいに : : : 」 千加の笑顔は謙一との新しい関係を受け容れることを伝えようとしているようだ。 「そう : : : それはよかった : : : 」 とりあえず当たりさわりのない返事をしながら、謙一は目に見えない強い手が、背中を 押すのを感じていた。 ( 下巻に続く ) しんきろう
314 美保はそれには答えず、 「すてきよ、ほんと、すてき。ヘアーサロンへ行ってきたの ? シャープなタンタンヘア ねえ。赤いプルゾンによく合ってる」 「ありがとう。雨の間ぐずぐずしてたら伸びちゃってサ工ない感じになったから、サイド を上まで刈り上げてみたんです。この秋のねらいめスタイルなんだ」 「下の赤い横縞がまたいいわ」 「赤いプルゾンに白いシャツだとスポーツ大会になるし、黒だとハ きな 縞の白いところは、ホワイトじゃなく生成りなんです」 ふいに謙一は立ち上がっていった。 「ちょっと出かけてくる」 謙一は時計を見い見い新宿へ向かった。・ハ ーナードホテルへ行って千加と会う だが千加と会ってどうするつもりなのか、そこから後のことは考えがまとまっていない。 とにかく千加と会う 。そのことだけが謙一の頭を占めていた。 謙一は・ハーナードホテルのロビーへ人って行った。すぐ千加を見つけた。千加はピンク がよく似合う。よく似合うその色のワン。ヒースを着て、ロビーの一番奥のソフアに浅く腰 おおまた をかけてぼんやりしている。謙一は大股に近づいて行った。 ードになるし、この横