178 「ムカシムカシ : 「やったア ! いえたね ! そうだよ : ・」 浩介の声が嬉しそうに尻上がりになった。すると高くはり上げた信子の声が聞こえてき こ 0 「あら、いえたのね ! むかしむかしっていえたのね : : : 」 足音と一緒に声が近づいてきた。 「おはようございます。とうとういいましたよ」 「おはよう。さすが浩ちゃんだわ。やつばり気持ちが優しいと九官鳥にも通じるんだわ : むかしむかし : : : 」 信子はいったが九官鳥は黙っている。 「むかしむかし : : : 」 信子はいってみて、やつばりあたしじやダメだわ、浩ちゃんでなきや、という。その声 うる に潤んだような艶があった。 「ムカシムカシ : 俄かに九官鳥はしゃべりはじめた。 「ムカシムカシ : : : ムカシムカシ : : : 力アカアカア」 「カアカアはいいんだよ」 にわ うれ つや
さんたん あの惨澹たる日からの疲れと心労がつもって、今日は身体に錘をつけられたようである。 時計を見ると十一時近いが、べッドから出る気がしない。窓の下で九官鳥が何やら叫んで いる。来た当座はさよなら、おとうさん、おかあさん、などといろいろしゃべっていたの に、この頃は烏と猫の鳴き真似のほかはしゃべらなくなったと美保がいっていたのを思い 出した。この家では誰も九官鳥の相手をしてやらないためかもしれない。 謙一はその九官鳥に親しみと同情の気持ちを抱いている。しかしだからといって、九官 鳥に近づいて話しかけたことはないのである。 「むかしむかし : : : 」 突然、声が聞こえた。 「むかし、むかし : : : 」 九官鳥は叫んでいた声を止めた。 「む・か・し、む・か・し : : : 」 声は向かいの浩介である。浩介がよく九官鳥の水浴びをさせに来てくれると美保がいっ 妻 ていたことを謙一は思い出した。美保の声はしない。吉見の声も聞こえないところを見る せ あと、二人ともいないらしい。誰もいない家へ来て勝手に九官鳥に言葉を教えている浩介は、 やはり変わった青年といえるかもしれない。 と、突然、九官鳥が叫んだ。 おもり
で聞き耳を立てた。何といってやろうか、と考えていると脱衣室の戸が開いて信子の声が いった。 「あら、人っていらっしやるの : : : 」 それから「ただいま」といった。それだけだった。「すみません」でもなければ「遅く なりました」でもなかった。そのまま廊下へ出て行った気配である。着替えに行ったのだ ろうと思って丈太郎は待った。夕飯の支度も風呂の心配もせずに遊んできたのだから、背 中くらい流しにくるだろうと思っていた。 しかし信子の足音は消えたままである。丈太郎はのぼせそうになったので、とりあえず 洗い場へ出た。 「おい」 と呼んでみた。 「おい、信子・ : : ・」 丈太郎は呼んだ。二度目はやや癇癖に声を高くしたが、返事はない。間を置いて戸の向 こうで声がした。 「呼びました ? 」 へんに静かな声である。 「背中ーー」 かんべき
信子と美保は顔を見合わせて、おかしそうに笑った。 「一旦緩急だなんて、そんなことがないように私たちは一所懸命、考えているんじゃあり ません ? おじいちゃま」 美保は明るい声でそういい、信子は、 「おじいさんの一旦緩急はもう、耳タコよ」 といった。 「来るこないの問題じゃない。わしは人間としての心構えをいっておるのだ : : : 」 そういいつつ丈太郎は、いっそ、こいつら愚昧の徒を覚醒させるために「一旦緩急」が 来ればいいとすら思ったのであった。 しかし今、ここには初夏の平和なタ暮れがきている。セーラー服の女子高生、大を連れ た奥さん、自転車の豆腐屋。だが子供の姿はどこにもない。 子供はいったいどこへ行ったんだ。どこにいるんだ : 丈太郎は思った。かっては町の夕方に子供はっきものだった。どこの路地町角にも子供 のかん高い声が響いていた。そして子供たちの声が静かになった時、町の一日は終わった ものである。だが今は何という静かなタ暮れだろう。子供の声も、名を呼ぶ母親の声もな 門の脇の葉桜の上を一筋のタ焼け雲が流れている。それを見ていると、突然、道の向こ わき ぐまい かくせい
をかけている声が廊下から聞こえてくる。 「ほんと・ : たのしかったわア : 高い声がそんなことをいっている。丈太郎は戸棚から小皿と箸を出した。 「吉見のクラスでは九官鳥を飼ってるんだってな」 「そうだよ」 いなりずしを頬ばりながら、吉見は気のない調子で答えた。 「今度の先生が飼っちゃいけないっていったんだって ? 」 「そうだよ」 「で、どうなんだい、吉見は ? 」 「なにが ? 」 「吉見は九官鳥が好きかい ? 」 「うーん、どうかなあ : : : 」 「嫌いか ? 」 「嫌いじゃないけど : : : 面白いからね」 「先生はどうして反対なんだろう ? 」 「うるさいからだろ。先生より九官鳥の声の方が大きいんだよ、それでコンプレックスを 感じているんだって、加納がいってたよ」 かのう
二人は声を揃えて笑った。信子の笑い声は特に高い。 「いい ? むかし、むかし、おじいさんと : : : 」 改めて浩介がいった。 「むかしむかし、おじいさんと : : : 」 今度は二人、声を合わせた。九官鳥はカアカアカアといって沈黙した。 「桃太郎のお話がおしまいまで出来たら、たいへんなものねえ」 「ぼくが以前飼ってたのは、桃がドンプ一フというところまでいえたんだけど」 「まあ、たいしたものだわ : : : 」 信子の声は弾んでいる。 「あ、そうだ、メロンあるのよ、食べない ? 」 「ぼく、大好きです。メロン」 「そうだろうと思ってとっといたの。待ってらっしゃい」 おもや 軽い足音が母家の方へ走って行った。 妻 おふくろは若返ったなあ、と謙一は思った。気持ちの持ち方でこうも違うものか。「お せ あ母さんはこれからは自分のために楽しく生きることにしたんですって」といっか美保がい っていた。 何にしても母が楽しそうにしていることは、謙一には喜ばしいことである。それにして 179
234 と向こう向きになった。 「ケチでいうんじゃありません ! お父さんは照夫ちゃんがこれ以上太らないようにと、 毎朝、一所懸命ジョギングさせてるんでしよう ? 照夫ちゃんも痩せたい一心で、辛いの を頑張ってるんでしよう ? それなのにあんなに食べさせるなんて : : : 食べさせる方も食 べさせる方なら、食べる方も食べる方だわ。いったい二人とも何を考えてるのか、それを 知りたいわ。教えて下さい。説明して : : : 」 丈太郎は目を閉じて何もいわない。 「わたし、いったでしよう ? 運動させたらよけいお腹が空いて食べるようになるって。 その通りになってるじゃありませんか。今にあの子はもっと太ってしまうから」 信子は反応を待つように言葉を切ったが、丈太郎はまるで死んだようにビクともしない。 「いやねえ。プが悪くなると死んだふり : : : 」 いらだ 信子の声は苛立って、だんだん高くなる。 「痛いんだよ」 消え人るような声だった。 「大声を出さんでくれ、腰に響く」 「なんですよ、声が腰に響くなんて、聞いたことないわ。頭痛ならともかく」 信子は邪慳に足元の扇風機を消した。 じやけん
ぬともっかぬ目で一揖してから奥まったポックス席へ案内した。 「ここのママです」 白石はお絞りを使いながら紹介する。 「ようこそ : : : 」 あいきよう ママは六十五キロはゆうにあろうと思える太い胴を巧みによじって愛嬌よく挨拶をする。 「さて、ご婦人がたは何がいいですかね」 「そうねえ、あたし、じゃあ : : : プランデーいただいていいかしら : 、この前、熱海で いただいたの、とてもおいしかったから」 と春江。 「黒ビールあるかしら。いつも嫁がおいしいっていってるの : : : 」 いつもと違って信子よりも先に妙がいった。 「春江さんがいったように、今夜は命の洗濯と決めたわ ! 」 その声は既に酔いが出ていてへんに若々しい。女学校時代、学年対抗リレーでアンカー として逆転勝ちした時の顔になっている。 気がつくといっか十一時を廻っていた。「ねえ、もうそろそろ : : : 」「もう、こんな時間 : 」という信子の声は、その都度はしゃいだ春江の笑い声や、横山のダミ声のジョーク いちゅう
「純とはそういうことなんだ」 「でもぼく、アタマ悪いからね」 「誰がそんなことをいうんだ。アタマが良いとか悪いとか、誰が決めるんだ。アタマがよ くても人間が濁ってる奴はダメだ。大切なのは心だよ」 「そうですか」 頼りない声で照夫はいった。 「でも心って何ですか ? 」 心とは何か ? 思わず絶句した丈太郎の耳に、信子の電話の声が聞こえてきた。 「今日は出られないの : : : うううん、主人がね・ : ・ : 腰が痛いって寝てるのよ : : : 動けない ことはないと思うけど、大袈裟なのよう。子供相手にお相撲とったの、年寄りの冷や水も いいところ」 愉快そうに高い笑い声が上がる。相手はあの女、春江にちがいないと思った時、 うらや 「春江さんからいろいろ聞いたわ。お幸せそうで : : : ほんと、羨ましいわア」 しんそこ 心底、羨ましがっている声である。先方は長々としゃべっているらしい。やがて信子が いった。 「お昼ごろ ? いいわよ。その代わりおかまい出来ないわよ。え ? おすし ? そうねえ、 おおげさ
時ニ及ンデ当ニ勉励スペシ 歳月ハ人ヲ待タズ : いいか。書くだけでなく、こうして声に出して読んでみる。そうすると陶淵明の精神が だんだんわかってくる。さあ、大きな声で最初から読んでごらん」 「盛年重ネテ来タラズ 一日 : : : 再ビ : : : 再ビ : : : 晨 : : : ナリ難シ」 「うん、そうだ、その調子」 「及ンデ : : : 及ンデ時ニ」 「そうじゃない、時ニ及ンデ、だ」 「時ニ及ンデ : : : 当勉ニ励ム : : : 」 「そうじゃないだろう。もう一度、よく考えて : : : 」 信子の高い声がいった。 「そうねえ : : : でもお邪魔なんじゃないの ? お目当てはあなたよ。わたしたちはダシよ 方 び 女思わず丈太郎は耳を傾けた。 熟 「マージャンで負かしたからそのお詫びのご馳走なんでしよう ? そこへわたしが行くの ハ力なことい はおかしいわ。だってわたしはマージャンしてないんだもの : : : そんな : マサ ちそう