妙 - みる会図書館


検索対象: 凪の光景 上
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1. 凪の光景 上

妙の顔に少し赤味がさした。 あき 「呆れた : : : そんなに仲よくなったの : : : 」 「ことわる ? 」 「そうねえ : : : 初島へ行ってもたいして面白くないかもしれないわねえ」 「初島やめて、 >O< 美術館へ行って帰るってテもあるわよ」 「美術館、疲れないかしら : : : 」 どうやら妙はマージャンに気を惹かれているらしい。 「じゃあ、お妙さんだけ戻る ? 」 「人数が足りないんでしよう ? そうしてほしいんでしよう ? 春江さんは」 信子は受話器に向かっていった。 「お妙さんは戻るっていってるわ。わたしはぶらぶらしてから帰ります : : : 」 電話を切ると信子は妙を見た。 「じゃあ、ここで別れましようか 「あなた、どうするの ? 」 「わたし、美術館へ行くわ 「そう ? 悪いわねえ。大丈夫 ? 一人で : : : 」 そういわれると信子は惨めな気持ちになるのである。車で美術館へ向かいながら思った。

2. 凪の光景 上

じゃないの」 「お妙さんは結婚したいのね ? 」 「そうなの。あたしのいうことなんか耳に人らないのよ。横山さんのために味噌汁を作っ たり、納豆をかきまぜたりしたいんですってさ」 「好きになっちゃったのね ? 」 「そうなのよ。お妙さんは若い時にご主人と死別してるでしよう。だから男に対してまだ ィリュージョンがあるんだわ。男がどんなにずるくてエゴイストか、知らないのよ」 「でも横山さんは金持ちなんだろうから、悪くないんじゃないの ? 結婚しても。今より 悪くなるってことはないんじゃない ? 」 「・ハカねえ、あなたも単純ねえ : : : 」 いらだ ゆが 春江は苛立って歪めたロに、スプーンに山盛りのシャーベットを人れた。 「いいこと ? お妙さんは結婚するつもりでいるけど、いざとなったら、結婚出来るかど うかわからないと思うわ。息子たちが何というか。だって結婚したらお妙さんに財産の相 続権が生じるのよ。あたしの考えではね、お妙さんは横山さんの家へ人るけど、立場は内 妻。そして働かされて看病させられて、横山さんが死んだら涙金もらってサヨナ一フ。その 時、またノコノコ息子のところへ帰って行けると思う ? 孫が大きくなってしまったら、 息子夫婦にはもうお妙さんは無用の人ですよ : : : 」

3. 凪の光景 上

に消されてしまうのである。妙は妙でさっきからカラオケのマイクを握って放さない。 「男はあなたヒロシ」 と妙が歌えば横山が、 「女はきみさュウコ」 と歌う。それから声を揃えて、 「せッつなさが胸にくるせめてはしご酒ェ」 いったい妙はどうしてこんなに演歌をよく知っているのだろう。気のきいた冗談もいえ ず、歌も歌えず、それほど飲めもしない信子は唖然として、歌いつつ左右に腰を揺らせて いる妙を眺めるばかりである。 「どうしました ? 楽しくありませんか ? 」 白石が気がついて話しかけてきた。 「とても楽しいですわ。でも : : : 」 「でも ? 」 方 翔「そろそろ失礼しなくては」 女「ご主人が心配ですか ? 」 熟 「きっと怒ってるだろうと思うと落ちつきませんの」 「ご主人はいつも奥さんにそばにいてほしいんですね ? 」

4. 凪の光景 上

「そうか : : : そうねえ : ・・ : そういうことも考えておかなくちゃねえ : : : 」 す 「そう思うでしよう ? あなただってわかるでしょ ? ところがお妙さんはいくらロを酸 つばくしていってもわからないの。あたしはカレを信じるわ、っていうのよう : : : 」 春江は吐き出すようにいった。 「カレっていうのよう。だいたいあの男、カレって顔だと思う ? 」 信子は黙りこんでシャーベットを食べた。信子の頭には、春江のいった「家政婦兼看護 婦」とか「結婚」「内妻」「相続権」などという一一一口葉よりも、「セックスつきの茶飲み友達」 という一言から受けたショックがまだ尾を引いているのである。 お妙さんは横山さんと「デキちゃった」とも春江はいった。お妙さんが六十四歳という 年齢を省みずして横山さんと「セックスをした」ということが、信子にはどうしても信じ られない。いったいいつ、どこで、どんなきっかけで、それをしたのだろう ? お妙さん はどんな気持ちで、横山さんの前に身体を横たえたのだろう ? 信子はお妙さんの黄ばんだ、薄い裸を知っている。ア。ハラ骨が浮き出ていて、そこに垂 の れ下がった乳房は、空気の抜けた風船さながらであった。 いあの身体を、お妙さんは平気で横山さんに見せたのだろうか ? 横山さんを失望させるかもしれないという心配は持たなかったのだろうか ? 失望させることが怖くなかったのだろうか ?

5. 凪の光景 上

さないだけで」 「一緒にいたところで寂しいんです。夫婦なんて ! 」 ぜりふ 酔いがそんな言葉を掘り起こしたのか。我ながら名台詞だと信子は思った。 春江と同じタクシーで漸く信子は帰途についた。もう十二時近いが、六本木の街はまる ひし で宵のロのようである。何の目的で来ているのか若者たちが犇めき合うように路上を埋め、 車は動きがとれぬほどにつながっている。妙は同じ方面へ帰る横山が送ることになり、白 石はもう一軒どこかへ寄るといって雑踏の中に消えて行った。 「面白かったわねえ、あーあ」 たんのう 春江は座席の背もたれに後頭部を乗せて、すっかり堪能したという声を出した。 「信子さん、気がついた ? あの二人 : 「二人って ? 」 「横山さんとお妙さん」 「横山さんとお妙さんがどうかして ? 」 方 び 「横山さん、アタックするんじゃないの、お妙さんに」 翔 女「まさか ! 」 とんきよう 熟 思わず頓狂に叫んだ。 「まさかってあなた、鈍感ねえ。あたしはピーンときたわよ」 よい

6. 凪の光景 上

翌日、信子と妙は朝早く起きてゆっくり温泉に人った後、熱海見物に出た。「お宮の松」 を見たいという妙につき合って、まず「お宮の松」から見物を始めることにした。前夜、 遅く戻って来た春江は、「お宮の松 ? そんなもの見たってしようがないじゃないのよう ・ : 」といって布団を頭からかぶってしまったので、午前中の観光は信子と妙の二人です ることにしたのである。 「お宮の松」は海岸の砂浜にでもあるのかと思っていたが、街の真ん中、幾何学的に造形 された敷石の中に立っていた。その南側は駐車場で、その先は車道。海は車道の下にある。 あしげ つりがね 「お宮の松」の横の方の台座の上には吊鐘マントをまとった貫一がお宮を足蹴にしている 像がある。その足元に一円玉や五円玉が散らばっているのは何のまじないだろうか。 にしきがうら 信子と妙はそこから錦ヶ浦方面に向かった。錦ヶ浦の手前に熱海城という観光名所があ る。タクシーの運転手に勧められて車を降りた。そこには芝居の書き割りみたいな城が建 っていて、観光客が盛んにカメラを向けている。城の本丸の他に浮世絵館、ラジウム温泉 などがあり、それら三か所の共通券が八百五十円である。 件「浮世絵館だって。見てみない ? 」 の 妙がいった。 ほくさい 幸「いいわねえ。わたし、北斎が見たいわ」 いいながら入り口を通った。中は薄暗い。壁に並んでいる絵に照明が当たっている。信

7. 凪の光景 上

あふ そういって一息にビールを飲み乾すと、春江の大きな目から突然、どっと涙が溢れた。 「あたしはね : : : あたしは、人の目にはどう見えてるか知らないけど、ほんとうに我慢し たのよ。弱音を吐くのがいやな性分だから、里へ行っても愚痴なんかこぼしたことなかっ たけど : : : 」 と涙を拭く。妙はつられて涙声になり、 「わかるわ、わかる。春江さんはそういう人よ」 「勇気があるわ。やつばり偉いわ。春江さんは学校の頃から優秀だったもの」 「なにごとにも全力を尽くす人だったものねえ」 信子と妙は今更のように感心し合う。春江は十五室ある賃貸用マンションを夫から強引 きまま に奪い取って離婚し、気儘な老後を楽しむ身となったのである。春江は手拭いで顔をひと 撫ですると、感傷をふり切るようにいった。 「さあ、今夜は何もかも忘れて。ハーツとやろうよ、ね ? お酒飲んでウサ晴らしするの 件間もなくタ食の膳が並んだ。ただ坐っているだけで目の前に食事が出てくる幸福を、信 の子と妙は噛みしめる。 幸「もうこれだけで十分、幸せ」 と妙がいえば、

8. 凪の光景 上

でもそれが間違いだったってこと、カレに教えられたの。老人だから老人らしく枯れて行 こうなんて、大間違いよ。性に定年はない、性のエネルギーが事業や芸術を産んだ、って カレはいうのよ。だから死ぬまで、よ、死ぬまで性の楽しみを失わないようにするべきだ 「そうなの」 「気のない返事ねえ」 「でもそんなことは横山さんが絶倫だからいえることよ。いくら枯れ木になるなといわれ ても、現に枯れ木なんだもの。枯れ木に花は咲かないわ」 「ダメ、そんなこといってちゃあ。セックスは大事なことよ。それを忘れたら身も心も硬 直してしまうわよう」 結局のところ妙は、相談というよりものろけをいいに来たのだった。 「信子さん、ご主人にハツ。ハをかけて回春を図るべきだわ。子供さんはみんな一人前、蓄 えも出来て悠々自適なんでしよう。これからセックスを楽しまなかったら何を楽しむの」 ハス停のべンチに坐り、・ハスを二台もやり過ごして妙のおしゃべりを聞いた。妙と春江 と三人で熱海へ行ったのは晩春の頃だった。あれから五か月と経っていないのにこの変わ りようー 男のカってそんなに強いものなのか ? 横目で見る妙の頬は、心なしかふつくらしてそ

9. 凪の光景 上

ばかすが薄くなり、帰りがけに塗り直した口紅が生々しく光っている。 「人の運命って面白いものねえ、あの時、熱海へ行かなかったら、今のこんな幸せはきて ないんだものねえ。あの時、迷ったのよ。孫はいるし、お金はないし : : : はじめはやめよ うと思ってたんだけど、時間ギリギリになって、突然行く気になったの。あれは神さまの お指図だったんだわ。ひどい格好だったでしよう ? 普段着のまま、髪はさんばらで」 「そうねえ。あの頃から見たら、まるで別人ね。今のお妙さん」 「カレのおかげよ、フフ」 「二度目の青春ってわけね」 : 。だって塚野との結婚は見合いだし、 「二度目じゃないわ。はじめて青春がきたのよう : それこそときめきも何もなくて結婚したんだもの。その第一の理由っていうのが、農家だ から食べるのには困らないっていうこと。親にもお米やなんか送ってやれるってこと。塚 野は塚野で田畑耕す人手がほしかったのよ」 塚野の戦死の報が人った時、妙は妊娠していた。塚野家は妙を塚野の弟と娶そうとした の ので、妙は塚野家を出たのだった。 。里の父が い「あの時、出たりせずに義弟と一緒になってたら、と何べん思ったことか : 死んだ後はほんとうに苦労したのよ。食うや食わずって時もあったの。でも今になってみ ると、それでよかった。苦労のし甲斐があったと思うのよ。人生って、ちゃんと帳尻が合 めあわ ちょうしり

10. 凪の光景 上

つま せりふ 色の白い、抓んだような鼻の・ハーテンはキザな台詞を平気でいう。間もなく三角のグラ スが信子と妙の前に置かれた。桃色の液体の中にさくらん、ほが浮いている。 「じゃあ乾杯」 春江がグラスを上げた。 「信子さんの門出を祝って : : : 」 「門出 ? なんの門出 ? 」 しつこく 「家庭の桎梏から脱出して、自分自身のための人生を生きるーーーその門出」 「乾杯 ! 」 「夢の唇」というカクテルの、妙に甘ったるく安物の香水のような匂いがするのを、信子 は薬を飲む時の要領で飲み乾した。 「さあ信子さん。お妙さんも今夜は妻でも母でもおばあちゃんでもない一人の女にかえっ て楽しむのよ。いつもの日常は捨てましよう」 ビールの下地もあって、春江の声にはもう酔いが出ている。 件「お元気ですねえ」 一のと隣の席から男の声がかかった。 幸「ええ、今夜はあたしたち、ごきげんなの」 待っていたように春江は応じる。