「校長と九官鳥は関係なかろう」 いい捨てて丈太郎は上をみながら少し歩いた。 「困ったな」 と呟いた。信子は後をつけてきて、 「吉見はどういうかしら。泣くでしようか」 「泣かんだろ、あの子はどうだっていいんだよ、九官鳥には飽きてるんだ」 「でも美保さんがねえ : : : 」 「美保さんだって、鳥に対する愛情があるとは思えんよ」 「でもあんなに忙しい思いをして、頑張って引き受けてきたんですもの」 「いや、むしろサ・ハサ・ハするだろう。合理主義者だからね、あれは」 「そうかしら・ : ・ : 」 そういいながら丈太郎は立ち去りかねてそのへんをうろうろ歩く。その後を信子がつい て行く 「おばさん、これを捜してるんですか ? 」 声の方 ( 顔を上げると、向かいの弟息子が九官鳥を手にして、二階の窓から見下ろして いた。 「あっ、いたわ : : : お父さん、いましたよ、いましたよ : : : 」
104 になるしかないんだわ。そんな中でお父さんと見合いして、一回会っただけで一か月後に 結婚して、これで少しはらくが出来るかと思ったら : : : 」 「そうめんがのびるよ」 丈太郎はいったが、信子は箸も取らずにつづけた。 「これで少しはらくが出来ると思ったら : : : お父さんは学校や生徒のことばかり。憶えて えんどう いますか。わたしがつわりで苦しんでいるのに、遠藤とかいう青・ハナたらした子供を連れ てきたこと : : : 」 じゅうきち 「遠藤重吉か・ : どうしてるだろうなあ : : : 」 「どうしてるだろうなあじゃありませんよ。ハラ減らしてるから何でもいい食べさせてや れって。わたしが死ぬ思いで福島県まで買い出しに行って警察の監視をかいくぐってやっ との思いで持って帰ってきたお米ですよ、それでおむすびを作らせられた時の口惜しさっ たら : : : 今でも夢に見るわ。しかもその時、わたしは妊娠したばかりで栄養をとらなくち ゃならなかったんです。それなのにあの遠藤って子、いったい幾つ、おむすび食べたと思 います ? : : : 」 「あれはオレがオレの分をやったんだ」 「お父さんの分だけじゃありません ! わたしの分もです ! 」 「いいじゃないか、今になってなにも四十年も前のにぎり飯の話で興奮しなくても : : : 」 くや
れからお母さんたちが集まるんですの」 「それはご苦労だな」 「忙しいのにたまりませんわ。今日で四回目なんですのよ」 「もう三回も集会を持ったのかね」 「そうなんですのよう」 まゆ 美保は手人れの行き届いたなだらかな眉を寄せた。 「そんなに何回も集まって、何を討議しているんだね」 「一回目、二回目の頃は勉強も大事だけれど情操も大事じゃないか、鳥を飼うことで優し さや思いやりや細心さが養われるのはいいことだという意見と、先生のおっしやることに 従った方がいいという意見が対立していましたの。けれども、やはり勉強の方が大切じゃ ないか。教える先生が気が散って身が人らないということでは、いい授業が出来ないだろ うから、先生の意見を尊重した方がいいといい出す人が増えてきてるんです。じゃあやめ るとして、九官鳥をどうするか、生き物ですもの、捨てるってわけにはいきませんでしょ う。子供の心を傷つけないためにはどうすればいいか、今日は多分そのことについての話 し合いになると思います : : : ほんとに九官鳥一羽でこんなに忙しい思いをするなんて おおまた 美保が駆け出さんばかりの大股で出かけて行くのを丈太郎は門の前に立って見送りなが
妙の裸は気の毒なほど痩せている。カランの前で丹念に首筋を洗っている背中は黄ばん だ和紙を張ったようで、ひとつひとつの背骨が浮き出ているのが痛ましいようである。女 学校時代は小柄だが走るのが早くて運動会の人気者だった。卒業して間もなく海軍軍人と 結婚したが、半年後に夫は南方で戦死した。南方とだけで、それがどこなのかわからない ままである。 夫の忘れがたみの一人息子を抱えて、どんな思いで敗戦後の苦労を凌いできたか。妙の 骨ばって薄く縮んだ身体にはその苦労が詰まっている。栄養失調で母乳が出なかった苦労。 おもゆを作るにも米はなく、配給のミルクでは足りない、白湯に砂糖を溶かして飲ませれ ば下痢をする。頼みにする親も夫もなく、相談相手も慰めてくれる人もいない二十年を死 ぬ思いで働き通し、やっと息子を高校へ行かせた。卒業後息子は百貨店に職を得、今では 仕人部課長にまで昇進した。 それなのに、そんな思いをして育てた息子に、今どんなあしらいを受けているか。 こもり しり 「わたしは子守兼掃除婦なのよ。体のいい女中よ。息子ときたらョメのお尻に敷かれつば なし。ョメの肩をねえ、揉むのよう、息子が : : : 」 ふる 妙の声は細く鋭く上がって行って、高い天井で慄えた。 「わたしはピップエレキ。ハンを貼ってるというのにイ : : : 」 「あたしたちの年代は皆、苦労してるわよ。苦労してなかった人なんて、一人もいないわ からだ や てい しの
「お父さんが行かなければ帰りますよ」 「帰ればいいが、あれはバカ正直だからなあ」 「わたしに行けっていうの ? 」 信子は起き出す気配がない。その時、表の方から声が聞こえてきた。 「先生 ! : : : 大庭先生 : : : 」 「照夫だ ! おい、行ってやれ」 「なにも来なくても、家へ帰ればいいのにねえ : : : 」 わきばら 信子は不精たらしく身体を起こした。ポリポリと脇腹を掻く。ついこの間まではガーゼ の寝巻きを着ていたのに、この頃は米袋から首を出したようなものを着て寝ている。それ は紺地に黄色と桃色の玉が飛んでいる模様である。のろのろ立ち上がるとあてつけがまし くアクビをした。 「チェッ、サーカスのピエロじゃあるまいし、なんだ、それは」 「ネグリジェというものよ。腰は痛くてもロだけは達者ね」 の 信子は階段を降りて行った。 ら い 「ごめんなさいね。先生は腰が痛くなって動けないの」 老 照夫の声は聞こえない。暫くすると信子は上がってきて、手早く自分の寝床を片付け雨 戸を開けはじめた。 しばら
をかけてきた。 「その節は失礼いたしました。今日はまたわたくしまでお招きいただきまして有り難うご ざいます・ : : ・」 「まあまあ、固苦しい挨拶はなしにして」 「さあ、どうぞお掛け下さい」 と白石が右横の椅子を指した。 「まあ、信子さん、遅いと思ったら、すっかりおめかししてきたのねえ : : : 」 早速、春江がからかうようにいった。 「五つは若く見えるわよ、信子さん」 「やつばり日本女性は和服がいいですなあ」 と横山も改めて信子を見る。春江はギョッとするような真紅のワンピースを着て、口紅 の色をそれに合わせている。妙は、と見るとこの前の熱海行きとは違って、レースをあし らった黒いシルクのワンピースの胸に。ハールのネックレスを垂らして、せいいつばいのお 方 びしゃれをしている。 女「よく出てこられたわね、お妙さん」 熟 「丁度よかったのよ、息子たちは子供を連れて福岡へ行ってるの。嫁の妺の結婚式で。明 日帰ってくるわ」 あいさっ
「心配してるの ? 」 千加は悪びれず、 「はい」 うなず と肯いて、真剣な目で謙一を見つめた。 「クビにはならないさ。。へナルティを科せられる程度だろう」 「。へナルティって、高いんでしようか ? 」 それよりも大変なのはこっちだよ、といいたかった。賞罰委員会で減俸にされることは 覚悟している。しかし問題は減俸なんぞではなかった。この記録によって今後、管理職者 として・ハッドマークをつけられてしまうことが怖いのである。 ふさ 謙一の胸を塞いでいるのは、金森のトラブルだけではない。一週間前から部下の大川が 会社を辞めたいといい出している。その問題も謙一の胸の底にコントラ・ハスの重苦しい響 きを流しているのである。 まったく、平和な時間はつづかないものだ。営業マンたちがべテランはべテランなりに、 妻 一年生は一年生なりに調子よく車を売り、全体のリズムが出ていたのはつい先月のことだ。 たちま あそれが突然現れた暗雲のように大川が辞めたいといい出したと思うと忽ち強風が吹き出し あらし たいふう し て、嵐になるのか、颱風は逸れるのか、温帯低気圧になって消えるのか、皆目わからない。 わからないが、思いつく限りの手は打っておかなければならない。交通事故で入院して おおかわ
じろぎもせずに眠っている。 「おい : 丈太郎はこれで四度目の声をかけた。 「信子、おい : 毎朝五時半に丈太郎は照夫と角のタ・ハコ屋の前で待ち合わせることにしている。腰痛で 出られなくなったことを、昨夜のうちに連絡しておけばよかったのだが、信子に腰を揉ま せているうちについ眠り込んでしまった。 もう六時だから、照夫は来ているにちがいない。起きようとするが、寝返りもままなら ぬ痛さである。昨夜、信子が力を籠めて揉みすぎたのだ。 「おい、信子、起きろ」 いくら低血圧だからといっても、無理に起こさなければ照夫が可哀そうである。 「なんですよう」 寝返りをうちながら信子がいった。 「また痛いの ? 」 「痛いことは痛い。しかしそれよりも照夫のことだ」 「照夫ちゃんがどうかして ? 」 「連絡するのを忘れたから、待ってるだろう。三十分も過ぎてるんだ」
「君はだいたい、そそっかしいよ、急ぐ時は慌てちゃ駄目だ」 千加が電話の番号を拑している。暫く受話器を耳に当てていて、何もいわずに置いた。 「池田くん、ご苦労さま。もう帰っていいよ。君のお手柄は所長によく話しておくから 「はい、ありがとうございます」 千加は奥へ引っ込んで帰り支度をして出て来た。また電話をかけている。出ないとみえ て受話器を置き、そのまま立っている。 「まだ帰ってないの ? 金森は」 関根がからかうようにいった。 「残念だねえ、彼のためにこんなにチカが頑張ったのにねえ」 「よけいなお世話よ」 あご 千加は顎をしやくっていい、謙一の方を向いて「お先に失礼します」と出て行った。謙 一は机の上に置いたままにしていたアイスモナカを手に取った。もうぐんなりとやわらか くなっている。袋を破りながら、 あ「そうか、そういうことなのか」 し といった。 「そうなんです。そういうことなんです : : : 」
すると信子はいった。 ・明るくて愛らし 「可愛くていいじゃないの、根拠なんてないんですよ、ルーチャンー くて、何となく気持ちがいいでしよう ? 根拠は何だなんて、お父さんはすぐそういうこ とをいうからダメなのよ。フィーリングなの、フィーリング : : : 」 丈太郎は、おとなげないと思いつつもいわずにはいられない。 「大庭家の九官鳥だぞ ! それを何だと思ってるんだ ! 」 「あのね、おばさん : : : 」 テラスから浩介の声が聞こえてきた。水を流す音が止まって、九官鳥の水浴びは終わっ すいみつとう たのである。これから信子がさっき運んでいった水蜜桃を二人で食べるのだ。丈太郎は何 となくいまいましい気持ちである。丈太郎の前にも確かに水蜜桃は置いてある。皮を剥く ためのナイフにフォーク、濡れタオルも添えてある。 しかし落ち度なく調えてあるそのことが、丈太郎にはいまいましい。このいまいましさ の をどういえばいいのか。いまいましさの底には漠然と不安のようなものが沈んでいる。そ いの不安の正体は何なのか、丈太郎にはわからない。動物が異変を感じて全身の毛を立てる 老 ように、浩介がくると丈太郎は耳をそばだてるのである。 跚「おばさん、ぼく かわい