時間 - みる会図書館


検索対象: 凪の光景 上
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1. 凪の光景 上

172 こいそ 山藤秋子との電話を切ると、美保は小磯ルリ子の電話番号を捜した。小磯ルリ子は昔、 女性誌の編集部で机を並べた間柄だが、今は新鋭のエッセイストとして「著名人」の仲間 人りをしている。美保はダイヤルを廻すと、 「あ、ルリ子先生 ? 」 と呼びかけた。「著名人」になったルリ子には、昔のように「ルリ」と呼び捨てに出来 ない。昔の編集長がうつかり「小磯君」と呼んで機嫌を損じたという話を聞いているのだ。 「お願いがあるんだけど : : : お忙しいことは承知の上、どうしても先生のお名前が必要な 親しさ半分、敬意半分という声を美保は心がけた。 「コメント ? 電話でよかったら今でもいいけど。この頃むやみに忙しくて、会う時間は とれないのよ」 「ほんとはお目にかかりたいけど、遠慮しておくわ」 美保は迎合するようにいった。 「あのね、こういうことなの。今の専業主婦は皆、何となくあせってるのね。欲求不満っ ていうのかしら、何となくつまんないと思ってるのね。でもどうしたらいいのかわからな い。それで妻として母としての時間以外に、女としての時間を持とう、というテーマを設 定したのよ」

2. 凪の光景 上

「じゃあ今夜はゆっくり出来ますね ? 」 と横山がいったのは、既に妙の家庭の事情を知っているからであろう。 「いやあ、この前の熱海は楽しかったですなあ。女の人をコテンコテンにやつつけるのは いくらマージャンでも気がひけるんですが、春江さんのように強い女性だとその点、気ら くに勝てるからいいですよ」 横山は春江を姓で呼ばずに名で呼んでいる。数時間マージャンを楽しんだ仲間同士の馴 染んだ雰囲気が、四人の間に流れているのを信子を感じた。 「お二人は楽しかったでしようけど、あたしはちっとも。帰りの新幹線の中なんか、元気 なのは信子さんだけ : : : 」 春江がオー ーに受けた。 「信子さんはお土産山のように買ってたけど、あたしはなんにも買わず。財布の中はタク シー代だけしかないんですもの」 「ですからね、今日は罪ほろぼしと思って覚悟してきたんですから、どうかお手やわらか と横山がいえば、 「女性の怨みを買ったままにしておくといいことありませんからね」 と白石が受けた。 に」

3. 凪の光景 上

170 「実はこういうことなんです。日本の主婦は長い間、妻として母としてのみ生きてきまし たでしよう ? しかし考えてみれば妻として母として生きただけで、女としての生活はな かったのじゃないか。それをこれからどうとり戻せばいいか。先生のご意見を伺わせてい ただきたいんですの」 「なんですって ? 妻として母としてじゃなく女として生きるたって、あんた、女だから 妻になったり母になったりしたんじゃないの ? 」 とどろ 山藤の大声は受話器の中に轟いた。山藤は腹を立てたのだ。しかし美保はたじろがずに 相手には見えない笑顔を作った。 「なにいってるのよ、あんた。相変わらず女性誌は愚にもっかぬことをいって日を送って るのねえ」 山藤秋子はすぐに興奮するので有名な作家で、同時に保守派の長老的立場を守っている ことでも知られている。山藤から談話を取ることを怖がる編集者は多いが、美保はむしろ ラクな方だと思っている。ちょっと刺激すればすぐに怒って、ダーツと走り出すエリマキ トカゲのように、興奮させれば何も質問しなくてもどんどんしゃべってくれるからである。 「女としての時間って何なの ? ヌカミソかき廻すのは女としての時間じゃなくて、妻と しての時間なの ? 料理は何の時間 ? 自分のための時間じゃないというの ? でも自分 も食べるんでしょ ? ーゲンセールで奮闘するのはどう ? 母としてなの ? 女として

4. 凪の光景 上

なの ? 夫とのセックスは ? それは妻としてで、浮気のセックスは女として ? 」 美保は困ったように笑い声を上げる。この笑い声を聞くと山藤秋子はいっそう調子が出 てくることを知っているからである。 「つまらないレトリックを使ってあなたたちが女を煽動するものだから、女は皆浮足立っ てるわ。家事をまるで悪徳みたいに思ってる。家の外に何かあると思ってる。たいしたも のがあるわけじゃないのに」 「すみません。多分そういって叱られるだろうと思ってました : : : 」 あお 美保はさりげなく、煽るための合いの手を投げ込む。 「あたしは昔、子供たちがまだ小さかった頃、古服を再生することに熱中したものだわ。 それだってクリエイテイプな時間ですよ。母親としての喜びもあるし、子供もまた母親の 手になったものを着て嬉しいし、でも何よりもものを作り出す充実感があったわ。おやっ そうざい だってお惣菜だって、あるものを工夫して新しいものを作るーーそれを今の若い主婦はく だらないことだと思ってるのよ。彼女たちが楽しいと思う生活は、家事の合間にテニスを せしたり食べ歩きをしたり、とにかく遊ぶことなのよ。外へ出ることなのよ : : : 」 あ山藤秋子がそんなことに充実感を持ったのは、貧乏だったからだ、それだけのことだ : そう思いながら美保はメモをとっている。山藤のコメントはもう読者にアピールする 力はない。しかし、そのコメントは誌面に・ハラエティをもたせるために必要なのである。 171 せんどう

5. 凪の光景 上

がない。教え子たちの面倒もよく見た。 。お互いに人 しかし本当はそれが不服だったのだと、なぜ今になっていい出すのだ : 生の終章に人った今になって : : : 昔の文句をいわれても、取り返すすべのない今になって 丈太郎には忍従を妻に強いた憶えは毛頭ないのである。丈太郎のすることやいうことに 対して、妻は逆らったことがなかった。妻は丈太郎のいう通りにした。妻がいう通りにし ているから、それでいいのだと思っていただけだ。更にいうなら、妻とはそういうものだ と思っていた。妻にとってもそれが自然なのだと思って疑わなかったのである。 「ーーーそれならなぜそういわなかったんだ : : : 」 信子はガラスの器の中のそうめんがのびるのにもかまわず、箸を取ろうとせずにいった。 「わたしは今になって目覚めたんですわ。美保さんを見ているうちに、気がついたんです よ。なんてノビノビ生きてるんだろう、同じ女なのに、と思ったの。もっと仕事をつづけ たいから子供は一人で産むのをやめておくなんて、わたしには夢のようなことをこともな 方 翔げに実行してる。謙一のお友達じゃなく、自分の仕事の仲間を呼んでお酒を飲んだり、マ の ージャンしたりしてます。そんなことだって、わたしたちには夢のようなことよ。女学校 女 熟 時代の懐かしいクラスメイトに会いたいと思っても、お互いに主人のいる時間は遠慮する とか、いちいち主人の許しを得て出かけるとか : : : 美保さんがごく普通にしていることで

6. 凪の光景 上

114 「海へ行ったんじゃないんです。ビューティサロンで灼いたんです。ノーラー灯で : : : 」 「ソーラー灯 ? 」 「ええ、紫外線です。一時間くらい灼くと、こんなふうに色がつくんです。ぼく、生まれ つき色が白いでしよう。夏になるとそれが目立ってイヤなの。でも海で灼くと皮が剥けた りまだらになったりしてキレイに灼けないから : : : 」 「じゃあ顔だけじゃなくて、肩や胸もそのソーラー灯で ? 」 「身体の両面灼き。三日おきに一時間やってもらって、五回行ったんです。間があくと折 角灼いた前のが褪めてしまうんでちょっと厄介なんだけど : : : 」 「お高いんでしょ ? お値段」 「会員になれば一時間一一千円だけど、フリーだと四千円。会員になるには三万円払うのね。 でもぼくは三万円払わないで会員なみにしてもらってるの」 「先生の懇意なの ? 」 「懇意っていうのかな ? なんていうんだろ、なぜだか知らないけど、ぼくのこと気に人 ってるみたいなんです、その先生」 信子と浩介の話し声が聞こえたのか、一一階から美保が降りてきてテラスに顔を出した。 「あら浩介さん、いらっしゃい。誰かと思ったら : : : 」 「こんにちは」 からだ

7. 凪の光景 上

だが謙一は父に向かってそれを強硬にいい出せないでいる。彼にはいっても無駄である ことがわかっているのだ。百年近くも生きてきたこの桜の命と自動車とどっちが大切だ、 せりふ という父の台詞まで謙一にはわかっているのである。 「親父が生きているうちは駄目だ」 はず 謙一はそういって・ハスと地下鉄を乗り継いで、一時間余りかかって東京都の東の外れの 町へ出勤している。謙一は争いを好まぬ穏やかな人柄の努力家である。大庭丈太郎の幸福 の要はそういう長男を持ったことだと人はいう。 丈太郎は毎朝六時頃に目を醒ます。それは教師をしていた頃からの習慣で、十二年前に 定年退職した後も変わらない。起床時間を六時と決めたわけではないが、その時間になる と自然に目が醒めてしまう。目が醒めるともう一刻も寝床に人ってはいられない。 丈太郎は欄間から漂ってくる薄ぼんやりした明かりの中で、左側の布団の信子を見る。 以前はそこで、 「おい」 と声をかけたものだ。それでも反応がない時は、 件 の「いつまで寝てるんだ : : : 」 幸声を大きくした。 だがこの頃は何もいわずに黙って起き、顔を洗って散歩に出る。好きで散歩をするわけ おやじ かなめ らんま ふとん

8. 凪の光景 上

眦「よしんばぼくがアドヴァイスしたって、君はその通りに出来ないだろうからねえ」 謙一は千加をつき放した。 「とにかくこんな時間にそんな所にいてはいけない。家へ帰りなさい : を、ようぼう 返事はなく、すすり泣きが聞こえている。兇暴な気持ちに駆られて謙一は衝動的に受話 器を下ろした。 呆然と寝室へ戻った。 「どうしたの ? だあれ ? 」 美保は謙一のべッドに人っている。毛布の縁から大きな目を向けてきた。 「池田千加って、うちのショウルームレデイだ。金森ってやっと恋愛中だったんだけど、 金森がほかの女と結婚することになったらしい」 「それで電話をかけてきたの ? こんな時間に」 「うん」 「甘ったれね」 「そうだ」 謙一は憤怒を籠めていった。 翌朝、顔を合わせると千加は、「昨夜はすみませんでした」と謙一に謝った。一日働い はたち て、「お疲れさま、お先に」と帰って行く姿は、二十の娘らしく快活である。 ぼうぜん

9. 凪の光景 上

九官鳥のように信子はぎごちなくいい返し、そのままそそくさとくぐり戸の中へ人った。 脚がガクガクした。慌ただしく草履を脱ぎ、無我夢中で廊下を歩いて茶の間へ行った。 「ただいま : : : 」 つぐ お父さん、今、表の道で : : : といいかけて口を噤んだ。明るい電灯の真下に庭を向 いて端座している丈太郎の首は、まるで腹話術の人形みたいにぎごちなく、ギ・ギ・ギ、 と音でも立てそうに信子の方を向いたからである。 「何時だと思ってるんだ ! 」 しやが 何時間も沈黙したまま怒りを醸成させていた証拠のように声が嗄れている。そういうと 丈太郎の顔は再び庭の方を向いた。 「すみません。あっという間にこんな時間になってしまって : : : 電話かければよかったん だけど、つい話が弾んで中座出来なくて。ご心配かけました」 「心配なんかしとらん ! 」 庭を向いたまま、吐き出すようにいった。 方 はあさんが酒飲んで、夜の夜中に千鳥足で帰って 翔「立場をわきまえろといっているんだ。、、 女くるとはなんというざまだ ! 」 熟 「いけませんか ? 」 つい、抗弁の声になったが、思い返して「すみませんでした」といった。今は神妙に謝 ぞうり

10. 凪の光景 上

「そういったけどダメなんだ : : : 」 「どうして ? 」 「今頃、漢詩を習ったって何の役にも立たないって。そんな時間があれば数学か英語をや った方がいいって」 「英語もときどき、みてもらってるんでしよう ? ここで」 「でも、先生の英語は発音が古いからダメだって。実際に役に立っ英語でなければダメだ って姉ちゃんまでいう : : : 」 「それはそうかもしれないわ。うちの先生のは確かに古いでしようね。お母さんがおっし やることはもっともだわ。だから照夫ちゃん、うちの先生に悪いと思ったりすることは少 しもないのよ。ここのうちのことは心配しないで、お母さんのおっしやる通りにしなさい。 やめるのならうちはそれでもいいのよ」 「でも : : : 」 照夫は言葉が見つからずにいい淀んだ。 の 「でも ? 何なの ? 」 い「ぼくは : : : 来たい : 老 「来たいの ? まあ、ここへ ? 」 信じかねるといわんばかりの目を、信子は照夫から丈太郎へ向けた。